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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

講和記念の国旗掲揚柱石柱

2008年04月30日 06時46分11秒 | Weblog
 4月28日は昭和27年(1952)、サンフランシスコ講和条約が発効し、7年にわたる連合国の占領が終わって、日本が独立主権を回復した日です。
 早朝、加東市立社小学校の校門前を歩いていて、一本の石柱が目に入ってきました。その石柱は国旗掲揚柱の基礎で「講和記念」と深々と刻まれています。
 今は校門を入って左手、体育館南側の植え込みの中に立っていますが、元は運動場の東の一段高くなっていた国旗掲揚台に立っていたものだと思います。
 私は28年の生まれですから、占領体験はありませんが、講和成立により、晴れて独立主権を回復し、堂々と日の丸の旗を掲揚できるようになったときの感激は大きかったんだろうなと思います。
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昭和5年-社小学校部落少年団実習地

2008年04月29日 08時14分23秒 | Weblog
 昭和5年(1930)の社区雑書綴に「少年団実習地の設置について」の文書が綴じられています。当時は農村は貧窮に苦しんでいた時代で、小学生も家に帰れば農作業をしていたと聞いていますが、この文書には、各ごとに実習田を設けて児童が農作物を栽培するという試みが行われていたことがわかります。
 今の八十歳代の方はこうした経験をお持ちなのだろうと思います。


少年団実習地の設置について
 昭和五年四月十一日  
        社尋常高等小学校

◎趣旨と標準概要

趣旨=本年の教育勅語下賜四十周年を祈念し、郷土に即したる教育の立場より少年団実習地を設置せしめ、労働の尊重、愛郷心、協同心の涵養をなし、併せて農村生活に於ける経済観念の養成に資せんとす

標準=1.少年団実習地は尋常小学校第三学年以上の児童の共同実習地として経営すべきものとす
   2.面積は凡そ一アール(一畝歩)を標準とし其の設定校章は幹部児童に於て為すものとす
   3.幹部児童は其の一ヶ年内に於ける作付順序を立案し教師の検閲を経て実施するものとす
   4.各部には必ず実習日誌を備付くるものとす
   5.一作を終れば其の収支調査を明確になし学校に報告するものとす
   6.収益の処分につきては協議により最も正当と思はる方法を講ずるものとす
   7.実習地には左の標識を建て其の所在を明かにするものとす

       ○○少年団実習地


◎経営上の諸注意

一 最初は面積を小にし自信を得て漸次拡張するもよし
   但し最大限度を決定するには左の点を考慮すること
 ・家業の手伝上大なる支障を来さない範囲
 ・日課の復習上大なる支障を来さない範囲
 ・勤労作業の度を過ごさない範囲

二 作業は能率増進、労費節約を旨とし、なるべく短時間に完了するやう力む
 ・徒らに回数の多きは不可
 ・徒らに長時間に亘るは不可

三 共同作業といつても毎回全員が集合する必要なし 次の点は寛大に取扱ふものとす
 ・身体上の故障ある場合
 ・止むを得ない家事用のある場合

四 学年の高下、年齢の長幼により作業の程度を考慮すること

五 新たな試みをなさんとする場合は必ず予め教師に協議すること
 ・種苗又肥料等仕入のため一時金銭を徴集せんとする場合
 ・特別の設備をなさんとする場合

六 幹部生徒は全経営に向かって十分手腕を発揮すべし
   但し其の考慮点を次の三項におくこと
 ・心の準備・・・軽挙を慎むこと
 ・統整・・・・・全員の一致をはかること
 ・覚悟・・・・・忍耐と寛恕の修養

少年団実習地設置状況

 設定    部      賃料
四月十八日 社部(東)  麦九升
〃 二一日 社部(中)  米一斗
〃 二二日 出水部    無料
〃 二三日 梶原部    二円 五月十二日無料トナル
〃 二三日 山国部(上) 無料
〃 二四日 野村部    無料
〃 二五日 鳥居部    無料
〃 二五日 家原部    無料
〃 二七日 松尾部    無料
〃 二九日 山国部(下) 無料
〃 二九日 野村部(小部野) 一斗五升
〃 二九日 田中部    無料
五月四日  家原部(赤岸)無料
〃 四日  上中部    一斗五升
〃 五日  喜田部    一斗八升
〃 八日  窪田部    無料
〃 一二日 社部(上)  交渉中
      貝原部    交渉中
      西垂水部   上級生(高等生)ナキタメ考慮中
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昭和5年-元郡公会堂で軍事映画上映

2008年04月28日 07時16分13秒 | Weblog
 加東市社の市街地の南端に明治館があります。この建物は元社町公会堂として親しまれてきましたが、元は明治末に加東郡公会堂として建てられた歴史的建造物です。
 さて、この元公会堂で映画上映が開催されるという昭和5年(1930)5月23日付の通知(在郷軍人会か)があります。「活動写真」という表現が昭和初期の雰囲気を伝えてくれます。


昭和五年五月二十三日
            社町分会長   上月安治

 軍事映画活動写真会通知(無料)

突然デハ御座マスガ今晩左記ノ要領デ軍事活動写真ヲ開催致シマスカラ御多忙中デハ御座マスガ繰合セ打連レラレ御出下サル様御案内申上マス
二伸 貴部内一般ニモ御伝声被下サイ御願ヒ申上マス

     左記

日時 本日五月二十三日 午後八時ヨリ開始拾時半終了
場所 社町元郡公会堂内
映画 福山四十一聯隊所蔵品 旅順ノ乃木将軍ト陸軍 二巻  御大典一巻
   御大礼観兵式二巻  軍犬全三巻

四十一聯隊ヨリ将校一名下士二名ノ派遣サレル筈
  
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伊勢参りの宿の名が-佐保神社

2008年04月27日 06時52分59秒 | Weblog
 あっという間に桜が去って新緑がまぶしい季節になりました。朝の光の中、佐保神社の楼門脇の大石燈籠を見上げると、玉垣に刻まれた字に目が止まりました。
 この大きな石燈籠は、平成18年7月1日のこの歴史ブログで紹介しましたが、伊勢参りの佐保講の寄進で建立されたもので、日本五大石燈籠に数えられる立派な燈籠です。
 その燈籠の玉垣には、それぞれ寄進者の名が刻まれています。大阪、伊賀、京都など、社から伊勢までの道中に利用した定宿の地名と宿屋の主人の名前が読み取れます(写真)。
 以前のブログでは石燈籠の写真を掲載しましたが、今日は玉垣を紹介します。静かに一本一本辿っていくと、社から遠く離れた地を旅した佐保講の人々のうきうきした気持ちが伝わってくるような楽しい気分になってきました。
 
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家は國の礎-昭和13年国民精神総動員②

2008年04月26日 06時55分10秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和13年(1938)に出された国民精神総動員のビラの内容を掲載します。


六  婚礼葬儀その他の家庭的行事は質素厳粛に行ひませう。
 各家庭で出費の多いのは婚礼と葬儀とであります。故にこの際は婚礼の支度の如きも、持合せの衣類と式服その他最小限度の必要品とに止め披露の会も出来るだけ質素にし、葬儀も亦同一に趣旨で質素厳粛に行ひませう。
 その他の家庭内祝祭仏事催し事も、祖先に対する報恩感謝の本旨に戻らぬやう、また出産誕生長寿等の祝や雛祭端午祭等も、華美虚飾に流れない様に質素に行ひませう。

七  朝寝夜更しの悪風を改め、時間の活用に努めませう。
 在来の不規則な習慣を改め、生活振りを一新して、日々の時間を仕事、休息、修養等に適当に割り当て、これを空費しないやうにし、殊に朝寝夜更しの悪風を矯めて、時間を出来るだけ有効に活用するやうに致しませう。

八  金物、毛織物、木綿物、紙、燃料等を節約し、廃物及死蔵物の利用を図りませう。
 海外からの輸入に仰ぐか、又は軍需品として必要な羊毛、綿花、紙、皮革、石油、石炭並に金、白金、銅鉄、ニッケル、錫等の消費を出来るだけ節約して、国産品並に代用品を愛用し、且つ古着、古金物、ボロ、古新聞等の廃物は、これを捨てないで必ず売払ふやうにし、また稀にしか用ひない、衣類器物装飾品等を死蔵してゐる家庭では、この際これを整理して、社会に活用させるやうに致しませう。

九  火災その他の災害防止に努め、且つ空襲に備えませう。
 我が國民が年々火災、風水害から受ける損害は、実に莫大な額に達して居りますから各家庭では常に之が防止に意を用ひて、出来るだけその被害の軽減を図り国防資源の愛護に努めませう。殊に我が国の建物は敵機空襲の際非常に棄権でありますから、各家庭では、常に夫れ夫れ自家防護に必要な整備を整へ、且つ家庭防火防毒に関する操作を練習して一家の保護、国土の防衛に備へませう。

十  児童の訓練と栄養とに注意し、心も体も丈夫に育てませう。
 児童は心身発達の最も盛んな時期にありますから、常に清く、正しく、健やかに成育するやうに訓練すると共に之が栄養に留意し、また間食や買喰ひなどせぬやう家庭に於て、害にならぬものを適当に与へ、第二国民の心身が健全な発達をなすやう努めませう。

十一 徒歩を励行し毎日体操その他の運動を行ひ、心身の鍛練に努めませう。
 現下の重大時局に鑑み生産の増大と国防の強化とに資し、併せて堅忍持久の精神を涵養する為め都鄙を通じ徒歩を励行し、毎日、ラヂオ体操その他適当な運動を行ひ心身の健全を図ることに努めませう。

十二 禁酒又は節酒を励行し未成年の禁酒禁煙を堅く守りませう。
 家庭の飲食物中、酒類のやうに高価で贅沢なものは、恐らく他にあるまいと思ひます。また飲酒は一般に度を過ごし易く、健康上家計上その他に種々の悪影響がありますから、未だ飲酒の習慣に染まぬ人は絶対にこれを用ひないやうにし、既にこれを飲用してゐる人も、この際は出来るだけ、その量を節するやうにし、殊に未成年者の飲酒、喫煙は法律上禁止されてゐますからこれを厳守さすやうに致しませう。

十三 常に隣近所と相親しみ互に扶け合ひませう。
 我が國には古来、隣保相扶ける美風がありましたが、近時漸くその風が廃れ、都市に於てその傾向が甚だしいやうであります。併しか様な美風は今後も出来るだけ維持し、特にこの非常時局に際してお互に近隣相親しみ相扶け合つて、空襲火災その他の変災の場合には協力して防衛に当る風を盛にしませう。

 以上は決して消極的な緊縮運動ではありません。今後生活上にたとひ如何なる困難が加はつて来ても剛健なる気風と雄大な気魄とを以て堅忍不抜何処までも時艱を克服して行く積極的な努力を意味するものであります。そして時局の進むにつれて更に各家庭に於て為さねばならぬ事項が出来ましたならば又直ちにそれを実践要目の中に加へて実行して行く事と致しませう。

  昭和十三年七月一日

     国民精神総動員中央連盟
             ( 社 町 )

 既往はとがめず 今日から始めませう
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家は國の礎-昭和13年国民精神総動員①

2008年04月25日 06時45分40秒 | Weblog
 70年前の昭和13年(1938)、国民精神総動員中央聯盟(社町)が出した、「家は國の礎」と題した家庭実践要目の印刷物が手元にあります。
 このビラについては、この歴史ブログの平成18年9月22日付で概要を紹介しましたが、今回は内容を詳しく掲載します。
 前年の昭和12年に北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し戦争が始まりましたが、そのような中、近衛内閣は国民精神総動員実施要綱を定め、挙国一致をめざして国民運動を開始しました。さらに翌13年には国家総動員法を公布して戦争の長期化に備えました。
 このビラはそうした状況の下で国民に示された実践項目で、3つの綱領と13の実践要目から成っています。


家庭報国三綱領

 第一 健全なる家風の作興
 第二 適正なる生活の実行
 第三 皇民としての子女の養育

実践十三要目

一  毎朝 皇大神宮を拝し、皇室の御安泰をお祈り致しませう。

二  祝祭日には国旗を正しく掲げませう。
 国旗は我が国民精神を表はしたものでありますから。祝祭日には必ずこれを掲げ又これを掲げる場合には定つた方式に従ひ、国旗の尊厳を保つことに努めませう。

三  毎日神仏を礼拝し又長幼の礼を正しくし家族の和合に努めませう。
 神仏を崇め祖先を敬ふことは日本国民古来の美風で、我が国体の尊厳が保たれる所以でありますから、各家庭では毎日一人残らず神仏及び祖先を礼拝致しませう。また我が國では「家」が国家の本であって、国家の富強は家庭の円満に基づくものでありますから、各家庭では長幼の礼を正しくし、親子、夫婦、兄弟相協力して一過の和合繁栄に努めませう。

四  予算生活現金買天引貯金を励行し又進んで国債に応じませう。
 家計の予算を立て収入の内から必ず若干を天引してこれを貯蓄し、その残額の範囲内で生活することに致しませう。それには在来の掛買を廃めて現金買とし、家計簿の記入を励行し、又進んで国債に応募するやうに致しませう。

五  服装は質素簡単を旨とし、髪容は徒らに外来の風を模倣することを避けませ   う。
 服装は質素な地質、簡単な構造で、動作の自由を妨げないものを選び、且つこの際は成るべく新調を見合せ、持合はせ衣類の色揚改造等に依つて、間に合はせるやうにし、また仕事着としては、男子は在来の筒袖股引、又は質素な洋服、婦人は和服の上に、割烹着モンペーの類を着るか、又は簡単な洋服を用ひるやうに致しませう。又髪容などについても徒らに、外来の異様な風を真似ることを避けませう。

  つづく(残りの項目は以下の通りです)


六  婚礼葬儀その他の家庭的行事は質素厳粛に行ひませう。
七  朝寝夜更しの悪風を改め、時間の活用に努めませう。
八  金物、毛織物、木綿物、紙、燃料等を節約し、廃物及死蔵物の利用を図りま   せう。
九  火災その他の災害防止に努め、且つ空襲に備えませう。
十  児童の訓練と栄養とに注意し、心も体も丈夫に育てませう。
十一 徒歩を励行し毎日体操その他の運動を行ひ、心身の鍛練に努めませう。
十二 禁酒又は節酒を励行し未成年の禁酒禁煙を堅く守りませう。
十三 常に隣近所と相親しみ互に扶け合ひませう。

  昭和十三年七月一日

     国民精神総動員中央連盟
       ( 社 町 )
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やまつつじ

2008年04月24日 05時45分49秒 | Weblog
 今日は加東の歴史再発見ではなく、自然再発見の話題を一つ。
新緑がまぶしい加東市嬉野台地。その柔らかな緑の中に紫に近い濃いピンク色のつつじの花が満開になっています。
 このつつじは、「コバノミツバツツジ」という名前です。2週間前に県立やしろの森公園のつつじ祭に行ったとき、ボランティアグループの方から「ヤマツツジ」と「コバノミツバツツジ」のちがいを教えていただき、それまで私が「ヤマツツジ」と思っていたのは「コバノミツバツツジ」だったことを知りました。
 「ヤマツツジ」は松の木の根元などに生えて、背が低く、オレンジに近い色の花をつけます。かつては嬉野の松林にひろく分布していたそうですが、今は余り見かけなくなったということでした。
 「コバノミツバツツジ」は2,3メートルにも高くなり、濃いピンク色の花をつけますが、その葉が小さな3枚なので「コバノミツバ」すなわち「小(さな)葉の3つ葉」と呼ぶそうです。
 先日、嬉野を東条に向かって走っていると、ふとオレンジ色の小さな花が目に飛び込んできました。思わず通り過ぎた車をバックさせてその花を確かめると、「ヤマツツジ」でした。確かに低く、オレンジ色の花をつけています。なんだか嬉しくなって写真におさめました。
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山中に日露戦役記念の石柱が・・・

2008年04月23日 04時57分59秒 | Weblog
 加東市上久米の県立やしろの森公園の散策道の脇に立っている道標をこのブログで紹介しましたが、その道標から少し離れたところにもう一本の石柱が立っています。この石柱は道標より背が高く、細い石柱です。
 石柱正面には、「日露戦役記念」側面には「明治39年10月建是」「米田村上久米村在郷軍・・・」と刻まれています。・・・は土中に埋まっていて読めませんが、軍人会と続くのでしょう。
 日露戦争の記念碑がなぜこのような嬉野の山中に立っているのでしょうか。元は違う場所に建てられてこの場所に移されたのか・・・、それともこの場所が何かいわれのある場所なのか、いろいろ疑問は湧くばかりです。
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貞守公民館の石柱

2008年04月22日 05時21分50秒 | Weblog
 加東市貞守の公民館の脇に一本の石柱が立っています。これまでに何度も公民館にはお邪魔していたのですが、今回初めてその存在に気が付きました。
 石柱には「皇太子御降誕記念」「昭和八年拾弐月弐拾参日」「貞守青年支部」と刻まれていました。
 昭和8年、皇太子御降誕といえば、今上陛下のご誕生のことであり、ご誕生をお祝いして青年団が建立したものでしょう。石柱の上部に掲揚柱をつなぎとめるボルトの穴のあとらしいものがあるので間違いないと思います。
 貞守長寿会の旅行のお見送りをした直後だったので、直接お話をうかがうことができませんでした。ただ、この石柱は見覚えがあります。
 加東市社の嬉野口の交番脇、やしろ中央公園の入口の植え込みの中に立っている石柱と同じころに建てられています。そのことについては、この歴史ブログでも平成18年9月に紹介しましたが、社青年支部が皇太子御降誕記念に建立した国旗掲揚柱だったのです。
 社の石柱には「皇太子殿下御降誕記念」、「昭和九年五月二十七日」「社支部建之」と刻んであります。

 今上陛下は昭和8年12月23日にご誕生になりました。昭和天皇にとっては、ご成婚以来4人の皇女がお生まれになったのですが、皇位を継がれる男のお子様の誕生がなかっのです。そんな中で皇太子のご誕生ということで、全国各地で喜びの声があがったそうです。社では祝賀の行事が盛大に開催されています。そのこともブログに紹介していますが、貞守ではどうだったのでしょうか。

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桜祭の清水寺で-赤松氏範の墓

2008年04月21日 06時06分21秒 | Weblog
 20日(日)、加東市平木の御嶽山清水寺で桜祭が開かれました。午後、登山道を車で登り、山門脇の駐車場へ。関係の方の話では、好天にも恵まれ、例年にくらべて参拝者も多いようだとのことでした。
 さて、この山頂駐車場の北の端、登山道を登りきった地点の脇に一本の石柱が立っています。これは「南朝忠臣赤松氏範」の墓碑の標柱です。
 標柱には、「史蹟 南朝忠臣赤松氏範父子一族憤死・・・」下部は土中に埋まっていて読めません。また、建立年は「昭和六年九月二日建立 兵・・・」兵しか見えませんが「兵庫県」と刻まれているのでしょう。
 そこから尾根沿いに林の中を少し歩くと、赤松氏範の墓にたどりつきます。石碑は新しく建てかえられていますので、歴史の古さを実感するというものではありません。
 この墓については、平成18年10月2日のこの歴史ブログで紹介しましたが、赤松氏範と清水坂の合戦について説明を再掲します。

 赤松氏範は14世紀南北朝時代の人で、播磨の豪族、赤松円心の子です。赤松円心は、はじめ南朝方についていましたが、のちに北朝の足利方につきます。兄弟4人のうち、氏範一人が南朝について忠義を尽くしました。
 足利義満が三代将軍となり、南朝の勢力はおとろえはじめました。氏範は1386年、最後の戦いに挑むべく、京の幕府を襲いましたが、幕府勢に押し返され、播磨の清水寺に立てこもりました。これを攻めたのは山名の軍勢でした。さらに山名勢が去ってからは細川勢が攻めました。
 氏範はよく戦いましたが、何せ味方は少数、幕府軍は大軍とあって、兵糧もなくなり、遂に覚悟を決めて、寺の北東の峯に一族郎党を集め、自刃をして果てたのです。これが、清水坂の合戦とよばれる戦いです。

 写真はその墓碑です。
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つつじ満開の傍らに-上久米の道標

2008年04月19日 05時58分33秒 | Weblog
加東市上久米の「県立やしろの森公園」に接する道路の歩道の脇に低い石柱2本が立っています。この歩道は公園を巡る散策道にもなっているので、足もとに少し視線を落として歩けば気がつきます。
 この石柱は道標でした。表面に刻まれた字を読んでみると、「すぐ栄枝 大深山」「久米の大日□□・・」「右 上久米村□□・・」「左 □□□□天神□」といった地名が刻まれていました。上久米村から嬉野を経て栄枝方面(中東条)に通じる道に立てられたものでしょう。「明治十九年四月・・」と刻まれているので比較的新しい道標であることがわかります。
 昔は久米の大日さんや大深山のお寺にお参りする人々の目印としてのお役を果たしたのでしょうが、今は公園を散策する人々を静かに見守っているように見えました。
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久保木橋を今に伝える親柱

2008年04月18日 06時14分41秒 | Weblog
久保木橋の親柱

 3月25日、加東市の東古瀬保育園の卒園式に出席したあと、うららかな陽気に誘われ、隣の八坂神社に参拝し、さらに田圃の中の道を南に向かって車を走らせるとその先は東条川。その道の向こう、川に落ちる手前に一本の石柱が立っているのが目に入ってきました。
 道標がそんなところにあるはずもないし、気にかかり車を降りて川に向かって歩いていくと、字が刻まれています。えっ、道標?
 石柱には「久保木はし」「昭和三十七年」と刻んでありました。ひょっとして橋の親柱、そして橋名か。こんなところに橋があったのか?
 近くにおられた方にこの石柱のお話を聞くことができました。
 石柱は刻んである通り、かつてこの東条川に架かっていた「久保木橋」の親柱のうちの一本でした。現在は少し上流に新しい橋が架かっていますが、昔はこの場所から川の中州を経て向こう岸の久保木(現:小野市久保木)に通じていたということでした。
 
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安取の道しるべ

2008年04月17日 06時32分14秒 | Weblog
 4月のはじめ、桜満開うららかな春の日差しのなかを青野原から高岡を抜けて加古川沿いの加東市河高の安取(あっとり)の集落へと車を走らせました。台地を下って、JR加古川線の踏切を過ぎると、すぐに突き当たるように分かれ道に行き当たりました。
 そこに安全ミラーやPTAの看板を脇に従えるように一本の道標が立っています。道標に挨拶なしに通り過ぎるわけにはいきません。
 少し斜めに傾いた道標には太く深く字が刻んでありました。

 左 きよみ(づ) 右 ほつけ山  
 是より 姫路七り 高砂六り
 天保十一年
 
 安取は江戸時代には、加古川の高瀬舟の舟運で大いに栄えた村で、対岸の野村と結ぶ加古川の渡しがあったところです。また、高砂への街道と京姫路への街道が交差する陸上交通の要でもありました。
 きっと多くの旅人がこの道標を目印にして巡礼や商いの旅を続けたのでしょう。
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竹藪が伐られて道標が・・・

2008年04月16日 05時30分08秒 | Weblog
 加東市の嬉野台地を社から東条に抜ける学園道路沿いには、社高校、兵庫教育大附属学校園、県立教育研修所など学校や教育施設があります。
教育研修所の西には元嬉野公民研修所の跡地があり、今は臨時の駐車場として使われています。 その南に天理教社大教会や新しい住宅地、大学宿舎などが建ち並んでおり、開発が進んで景色も変わりつつあります。
 天理教の敷地の北側は一段低くなって、水路が通っています。竹藪になっていたところで人が入り込めるような状況ではありませんでしたが、ある日水路に沿って竹が伐られて見通しがよくなっていました。
 ふとその水路脇に石柱が立っているのが目に飛び込んできました。気になって車を止めて2メートルほど下の水路脇まで降りてみました。
 やはり道標です。こんな所に道標?。道路や水路をつくる際に移されたのか?それとも元はここが道だったのか?そんなことを考えながら、道標に刻まれている字を調べてみました。
 右 下山く□□  左 上山國浄□□ と下部は土中に埋まって竹の根がからんで読めない状態でした。この地点から南の方向には山国の集落があり、方向的に右は西、左は東に当たり、下と上に向かうことになります。
 この道標が物語る嬉野(山国地)のことをもう少し調べてみたいという気持ちになりました。
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加東郡民に告ぐ!!-昭和18年「貯蓄なくして勝利なし」③宣誓

2008年04月15日 05時25分18秒 | Weblog
昭和18年(1943)の270億貯蓄総進軍運動に際して開催された加東郡北部大会で参会者の宣誓が加東郡民への回覧ビラに印刷されています。今日はこの宣誓文を掲載します。


 宣 誓

大東亜戦争ハ一滴マデ闘ハネバナラヌ大決戦デアル。米英ノ反撃益々熾烈ヲキハメ、戦局ノ情勢イヨイヨ緊迫ヲツグル秋(トキ)、我等、英魂ノ遺烈ヲツギ戦力増強ノ決意ヲ固フシ総力ヲ結集シテ決死ノ努力ヲ傾倒セザルベカラズ。
本日茲ニ二百七十億貯蓄総進軍大会ノ開催ヲセラルゝニ当リ、前線将士ノ労苦ヲ偲ビ、陣歿英霊ノ冥福ヲ祈ルト共ニ、一切ヲ捧ゲテ、ヒタスラ勤労ニ励ミ決戦生活ヘノ切換ヲ断行シ、極力消費ノ節約ニ努メ、以テ貯蓄ノ飛躍的増強ヲ図リ、誓ツテ二百七十億貯蓄ノ必成ヲ期ス

右 宣 誓 ス

 昭和十八年七月十五日

  二百七十億貯蓄総進軍 加東郡北部大会参会者一堂
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