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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和18年-リンゴ配給も3戸に1個の割り

2016年08月31日 05時36分51秒 | Weblog
 今日も戦時中の配給について紹介を続けます。
 当時の社町社区(現加東市社)の配給関係書類の中にリンゴの配給に関する通知がありました。3戸に1個の割合で配給となっており、食糧事情の厳しさがわかります。



 昭和十八年五月二十四日

                 社 町 役 場

社区長殿

  林檎配給ノ件

左記ノ通リ林檎配給割宛タルニ付此段及通牒候也
 追而 三戸ニ付一個 強

  記

一、林檎  二五三個

一、配給所 南配給所
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昭和18年-足袋の配給

2016年08月30日 06時00分56秒 | Weblog
             

 再び戦時中の配給について紹介します。
 昭和18年(1943)、長引く戦争で物資不足でさまざまな物資が配給になっていました。当時の社町社区(現加東市社)の配給関係書類綴の中に、足袋の購入補助券の配当に関する書類が綴じられています。
 配当数を見ると、当時の社区の戸数558戸に対して、白足袋は半分、紺足袋は3分の1以下になっています。ちなみに当時の人口は2362名でした。


 昭和十八年七月十七日
                 社 町 役 場
社区長 殿

  足袋購入補助券送付ニ関スル件

標記ノ件当局ト協議ノ上配給ノ円滑ヲ図ルタメ発行スルコトニ決定左記ノ通リ配当候条各戸ニ亘ラザルモ適正ニ必需ニ応ジ配分相成度此段及通知候也

  記

一、白足袋  二五九足分

一、紺足袋  一六五足分
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忠魂碑の朝

2016年08月29日 05時49分30秒 | Weblog
 

 28日(日)、ちょうど東の空に日が昇る頃に歩きはじめ、市街を抜けて明治館の広場に着いたには、朝日の濃い光が忠魂碑を照らしていました。

 久しぶりの朝のウォーキングです。忠魂碑の脇の英霊尊名碑には、日露戦争で戦没された郷土出身兵の名前も刻まれています。ロシアからの帰国の際、飛行機の窓から眼下に遼東半島の先近く、朝の旅順港をはっきりと見ることができました。広瀬中佐の旅順港封鎖作戦、二〇三高地の激戦、乃木将軍、東郷元帥、ステッセル・・・そんなことを機中で思い浮かべていました。
            

 それにしても、朝の光は濃いように感じます。明治館の西には林があり、その高い梢にいたアオサギの姿は今はありません。今朝はハトがグーグッググーと鳴いていました。
 
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佐保の夏まつり・加東市夏のおどり-ステラパークで

2016年08月28日 05時36分51秒 | Weblog
 7日ぶりの投稿になってしまいました。


 27日(土)、県立嬉野台生涯教育センターで「第37回未来をひらく少年会議」が開催され、北播磨、東播磨の中学、高校の代表ら約120人が参加して、ネット利用のルールづくりをテーマに講演を聴き、その後グループ討議を行いました。この会議には、隣接の兵庫教育大学の学生やこころ豊かな人づくり500人委員会の現役、OB会員らがサポーターとして加わりました。生涯教育センター玄関ホールでは、戦中の学徒錬成場時代や公民研修所時代の歴史を伝える貴重な写真や資料が展示されていますが、戦争の時代、戦後の時代社会の変化の中で、若者が生き方や社会のあり方について語り合いを行ってきました。今回はネット社会におけるルールづくりという、まさに私達が生きているネット社会での生き方をさぐるものでした。



 

 夕方5時から、加東市役所隣接のステラ・パークで、社地域づくり協議会の第8回「夏のフェスティバルinやしろ」2016が行われ、涼しい風が吹くなか、多くの人が社中学のブラスバンド演奏や、フラダンスキッズダンス、伝の助踊り、景品たっぷりのビンゴ・ゲームで楽しみました。
 そして、午後7時からは、加東夏の踊りが始まりました。パークの中央に汲まれたやぐらの回りに各地域や職場の踊り連が輪をつくり、播州音頭や加東よしよし音頭などを踊りました。午後8時には社中央公園に花火が打ち上げられました。住宅街の中での花火は規制のために大きな打ち上げ花火は上げられませんが、花火師の工夫で連続して打ち上げられる花火は高台ということもあり、迫力と美しさで十分楽しむことができました。
 そのあとも、ゆく夏を惜しむように市民総踊りが続きました。
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昭和18年-家庭用海苔の配給

2016年08月20日 05時45分56秒 | Weblog
 昭和18年(1943)6月、家庭用海苔の配当が行われています。
 当時の社町社区(現加東市社)の配給関係書類綴に綴じられている通知によれば、海苔は、人口割、一人一枚強の割合で各地区に配当されています。価格は10枚で39銭。配給所で一日限りの配給となっています。通知文は次の通りです。(当時の社町は現在の加東市立社小学校区にあたります)


 昭和十八年六月九日

            社 町 役 場
各区長 殿

 家庭用海苔左記ノ通リ配当候条適正ニ配給相成度此段及通牒候也

     記

一、配当ハ人口割トシ 一人一枚強ナリ

二、配給所ハ 社南配給所

三、期日及価格  期日 六月十二日限、値ハ十枚ニ付三十九銭

四、各区ノ割当数量左ノ如シ(十枚単位トス)

 社 二六四〇枚  山国 七七〇枚  松尾 二五〇枚  出水 三三〇枚
 田中 二二〇枚  鳥居 一九〇枚  貝原 一七〇枚  野村 三九〇枚
 西垂水 一六〇枚  窪田 五〇〇枚  家原 四〇〇枚  上中 四五〇枚
 梶原 二四〇枚  喜田 二一〇枚
 
 
 
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山国観音堂前で初盆供養の盆踊りと花火

2016年08月19日 05時51分09秒 | Weblog
 

 

 東の空に満月が光り、涼しい風が吹き渡る18日(木)の夜、加東市山国の観音堂の前の広場で初盆供養の伝統の盆踊り大会が行われました。

 会場では、地区役員さんをはじめ、老人会、女性会、子供会、消防団など地区の皆さんが総出で、駐車場の案内、司会進行をはじめ、恒例のおでん、ポップコーンなどの接待を行っておられました。
 まず、子供会の太鼓が披露されました。そして踊りが始まると、やくらの上や堂の前で子供たちが順番に太鼓や鉦をたたいて踊りを盛り上げました。そして、踊りのはじめは「山国ふれあい音頭」。山国地区の自然や歴史、産業、そして人々の願いが謳い込まれた音頭で、生カラオケでさらに盛り上がりました。今年も兵庫教育大学に留学している外国人学生が参加して踊りの輪に加わりました。

 午後8時50分、みんなが待ちわびた花火が打ち上げられ、夜空に開きました。山国は標高約100メートルの高台にあり、遠くからもこの花火が見えます。花火のあとも踊りが続きました。
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昭和18年-石鹸の定期的配給も困難に

2016年08月18日 04時05分03秒 | Weblog
 戦時中の配給について紹介していますが、昭和18年(1943)の5月、石鹸の定期的配給も困難になりつつあったことが、当時の社町(現加東市社)の配給関係文書綴の中に綴じられた通知文からわかります。
 戦時中、物資不足が続くなか、石鹸も例外ではありませんでした。昭和17年には石鹸が配給になっていたことを示す文書をこのブログで紹介したことがありますが、18年5月には、状況が悪化し、各月の定期的配給が困難になっていました。
 下の通知文に各毎の戸数、浴用石鹸割当、粉末石鹸割当一覧表が添付されていました。


 昭和十八年五月七日

           社町長  合 田 常 蔵

各部落会長 殿

  昭和十八年度第一回家庭用石鹸配給ノ件

昭和十八年度第一回(自一月至三月)分家庭用石鹸左記ノ通リ割当有之候条基準ニ依リ隣保配給相成度候猶目下ノ油脂状況ヨリシテ隔月定期的配給困難ナルニ付キ一般ニ此ノ旨伝達相成度

 割当基本(浴用石鹸)一戸当リ一個宛(予備一割)
 割当基本(粉末石鹸)六戸当リ一袋宛


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昭和18年末-正月用糯(餅)取粉の配給

2016年08月17日 05時45分04秒 | Weblog
 昭和18年(1943)の年末、正月用の餅をつくるために必要な餅取り粉の配当の通知が当時の地区文書に綴じられていました。
 糯(もち)取粉の字が使われていますが、戦中で物資が不足するなか、正月を迎える準備に不可欠の餅つきに必要な餅取り粉も配給だったことがわかります。
 一人当たり3匁(3.75グラム)となっています。小さい頃、12月30日の早朝に母親の実家で餅つきをするので、餅箱を持って行っていたこと、搗きたての餅を一口サイズにちぎって大根おろしにつけて食べた味を今もよく覚えています。


 昭和十八年十二月二十四日
                  社 町 役 場
 社区長殿

     正月用糯取粉配当ノ件

左記ノ通リ配当シタルニ付及通知候也

     記

一、配当量    六貫七〇〇匁
一、基 礎    配給米受給人口
         配給糯米配当者一人ニ付三匁位   
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昭和18年-蚊帳一張を抽籤で配当

2016年08月16日 04時03分52秒 | Weblog
 昭和18年(1943)秋、社町役場からさまざまな物資の購入券の配当に関する通知が各区長に対して出されています。
 10月7日付の通知には、家庭用海苔、食酢、綿縫糸、足袋など10種類の物資購入券配当に関する通知が一度に出されていました。
 その中に蚊帳(かや)の購入券配当に関する件がありました。蚊帳は小さい頃の夏の思い出の中にあります。その蚊帳の配当が難しいため、抽籤を行ったという通知でした。当たりは第八組と記入されていました。八組は今の加東市社の中田町(なかたまち)の町内会で当時の組長さんの姓が書かれていました。


八、蚊帳購入券ニ関スル件

  蚊帳購入割当申越候条配給困難ナルニ付当方ニ置テ抽籤ノ結果左ノ通リ配当スルニ付キ最モ必要者ニ配当セラレ度

 蚊帳 壱張

    当リ   第八組(内橋  
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昭和18年-8月分の菓子配給

2016年08月15日 05時37分40秒 | Weblog
 今日も戦中の配給について紹介します。昭和18年(1943)、73年前の夏、物資や食糧が不足するなか、お菓子も配給となっていました。
 キャラメル、ボーロなどのお菓子が配給となり、年齢や戸数を基礎にして配給されていました。当時の地区文書綴にある通知を紹介します。


 昭和十八年八月十二日

             社 町 役 場

社区長 殿

 菓子配給ノ件

八月分菓子左記ノ通リ配分候ニ付適正ニ配給相成度

 記

一、二十二銭券(キャラメル)一二二八枚  三才ヨリ十才迠ノ子供人口ニ対シ

一、三十銭券(普通菓子)二二九枚  戸数ニ対シ

一、三十銭券(ボーロ券)三一二枚 戸数ニ対シ
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昭和18年末の菓子や牛肉の配当

2016年08月14日 06時32分53秒 | Weblog
    

 今から73年前の昭和18年(1943)の年末、わが国は大東亜戦争の2周年、それ以前の支那事変から続く戦争の下、国民生活は物資不足が続いていました。
 このブログでは地元社町(現加東市社)の物資配給関係書類に綴じられた配給通知などから当時の生活を紹介してきましたが、今日は牛肉と菓子の購入券の配当に関する通知を紹介します。今では、肉もお菓子もあり余るほど店の棚に並んでいますが、戦中では人口や子供の数、戸数などをもとに購入券が配当されていました。お年寄りなからそうした当時の生活のようすを聞くことができるのもお盆の時です。
 

 昭和十二年十二月六日
                  社町役場
社区長 殿

 牛肉配当ノ件

標記ノ件左記ノ通り及配当候也

 記

一、配当量  拾貫八百匁
一、基礎   人口


 昭和十八年十二年六日
                  社町役場
社区長 殿

 菓子配当ノ件

左記ノ通り配当候条及通知候也

 記

一、配当量  六〇〇枚
一、基礎   戸数

    十二月十一日ヨリ
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ショウリョウバッタ-お盆のラジオ体操で

2016年08月13日 05時44分07秒 | Weblog
 12日(金)の朝、ラジオ体操が行われている地区集会所前の広場で子供達とラジオを聞きながら、体操が始まるのを待っていると、「バッタや」という子供の声が。
 近づいてみると、たしかにバッタがいました。草と見分けがつかないような緑色の細長い体で、顔も長く、その先に触覚が伸びています。ショウリョウバッタだったと思いましたが、家で名前の由来を調べてみると、お盆の精霊流しにちなんで、その頃に出てくることから付いたと書いてありました。なるほど、それでショウリョウ=精霊かと。
 子供達がバッタやセミ、アリなどに興味をもって追いかけたり、じっと見たりする姿を見ると少しうれしくなります。
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平成28年夏-建立90年目の忠魂碑

2016年08月12日 05時32分21秒 | Weblog
 平成28年(2016)、大東亜戦争の終戦から71年目の夏。加東市社の明治館前の広場に建つ忠魂碑の掃除をしてきました。

 去年は終戦70年の節目の年にあたり、この碑の前で遺族会社支部による慰霊祭が行われましたが、今年は静かな夏を迎えています。

 この忠魂碑は、今から90年前の大正15年3月(1926)に建立されました。そして、両側の英霊尊名碑は、63年前の昭和28年(1953)に建立されたものです。
 英霊尊名碑には、明治10年の西南戦役から大東亜戦争まで、故郷(旧社町、現加東市立社小学校区域)から出征し、戦陣に散った英霊の尊名が刻まれています。その数は、240柱余りにのぼっています。ちなみに、各戦役の数は以下の通りです。西南戦役(4)、日清戦争(5)、日露戦争(7)、日独戦役(第一次大戦(2)、満支事変(31)、大東亜戦争(195)。私の母方の叔父2人の名もあります。
 昇る朝日に照らされ、中央の碑に刻まれた「忠魂碑」の文字がくっきりと見えます。揮毫は陸軍大将の川村景明です。

 

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夏の朝-ラジオ体操会場横の農会倉庫

2016年08月11日 03時51分35秒 | Weblog
 写真の建物は朝の地区ラジオ体操の会場横の農会倉庫です。古くなって今は使用されていませんが、かつては、この倉庫の中の畳敷きの部屋で溝普請のあとの落ち着きをしたり、倉庫内には地区子供会の樽神輿を置かせてもらったりしていました。
 当時のことを思い出すと、今は亡き懐かしい人々の笑顔や姿がよみがえってきます。今年の夏もこの倉庫の横の公民館前で子供達とラジオ体操をしています。子供は数人。ずいぶん少なくなりました。
 板はところどころ剥がれて、内側の土壁が見えています。壁にはり付けられた防火看板も文字の色が褪せてしまって、ただの白い看板に見えます。
 身近なところにこのような思い出多い建物があり、ふるさとの懐かしい風景と思い出を構成しています。今はそうした古くなった建物、空き家が撤去されていくのを見ます。この倉庫もやがてそうした運命を辿るでしょうが、平成28年夏の姿を記憶しておきましょう。
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夏の庭にヒヨドリが

2016年08月10日 05時01分44秒 | Weblog
 連日猛暑が続いています。お地蔵さんまで日除けのすだれを掛けてもらっていますが、庭もカラカラに乾いています。2本のナンキンハゼが日陰をつくってくれていますが、その枝には毎日、ガラ(アブラゼミ)がとまってジージーと鳴いては飛び回っています。

 ふと外をみると、枝に鳥がとまっていました。目の前を飛ぶガラをねらっているかのようで、しばらく静かにして見ていました。

 家内によると、ぶどうやハゼの実を食べているそうです。セミを食べないかなあと期待していましたが、やがて飛び去っていきました。しばらくして、今度はもう一羽と一緒に飛んできましたが、カメラが間に合いませんでした。
 ヒヨドリかなあと思うのですが・・・。
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