ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

百旗墓地の風景ー昭和と令和

2023年12月31日 05時45分12秒 | Weblog
 


 昨日、このブログで昭和30年代初めの加東市社の墓地の一つ、百旗墓地の写真を紹介しました。昨日の朝、まだ霧がたちこめる中、百旗墓地にあるわが家の墓掃除に行きました。
 ブログで紹介した写真と同じ構図で写真を撮ってみようと思いましたが、変化が大きすぎて、目印になるものがありません。ただ、わが家の墓に通じるゆるい坂道の位置はそんなに変わっていません。曲がっていたのが直線になったぐらいです。木はなくなり、霧の向こうにJAみのりの本所ビル、みのりの葬祭会館の建物が浮かんでいます。
 墓の守をする人がなく、あるいはあっても遠方でできないという今の日本。墓じまいが身近になっています。墓地全体の維持管理は地区の墓地委員会がやっても、各家の墓までは触れません。墓石が倒れたままだったり、草だらけになっていたりしている墓があります。
 それでも、ああ、あの墓は誰それの墓と生前の姿が浮かんでくることもあります。この地で人生を歩み、長くも短くも生涯を終えた人の痕跡が墓となって今もその人が存在したことを伝えています。
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昭和30年代の百旗墓地?

2023年12月30日 05時51分43秒 | Weblog
 

 この写真は、昭和30年代初め頃の社地区の墓地の一つである、百旗墓地で撮られたものだと思われます。
 百旗墓地は、加東市社の市街地を見下ろす東の高い所にあり、隣の木梨地区との境を接しています。
 百旗(ひゃくはた)の地名は、源平合戦の一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦で、平氏を急襲し、逃げる平氏を追ってこの台地までやってきた源義経軍が白旗を百本立て集結の目印にしたという言い伝えからついたものだと伝えられています。百旗立(ひゃくはったい)とも呼ばれています。
 写真が撮られた当時の墓地は、木や草が茂る山のようでした。母と私、弟が墓地の道を歩いて下りてくる所を父が撮したものでしょう。この道が、わが家の墓に通じる道なら、今はコンクリートの道になっています。写真の中の母も弟も、そして、この写真を撮った父も、この百旗墓地のわが家の墓に眠っています。
 
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柿の木の枝のヒヨドリ

2023年12月29日 05時06分50秒 | Weblog
 

 28日(木)、朝の8時前、庭から例のピー、ピーヨという鳴き声が聞こえてきました。カメラを持って窓の内側で構えると、柿の木の枝にヒヨドリが止まっていました。頬の赤い色と頭の羽が立っているヒヨドリの姿でした。しばらくポーズをとって、飛び去っていきました。
 冬になると、庭の大きな柿の木は、葉が落ちて枝だけになるので、鳥たちの絶好の止まり木になります。同時に私たちにとっては、姿をとらえやすくなり、野鳥観察の季節ともいえます。特にヒヨドリは体も大きく、鳴き声もよく通るので見る機会が多くなります。私は冬の寒風を受けながら、頭の羽毛を逆立て、頬を赤くしながら周囲を見回すヒヨドリの姿が好きです。
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令和5年最後の満月がよく見えました

2023年12月28日 06時03分39秒 | Weblog

 27日(水)の夜、午後6時30分頃、すでに月は東の空にだいぶ高くまで昇っていました。
 今年最後の満月です。車で帰宅する途中、吉川、東条、嬉野と山の端に見え隠れする月を見ながら、いいお月さんだとつぶやいてしまうほどの満月でした。
 神戸からの帰りに月を見ることはよくあります。神戸市から北播磨に入ると、三木市、加東市と丘陵が続きます。冬になり、葉が落ちると、山の端の木々の枝の向こうに見え隠れする月がまた何ともいえないいい月景色になります。
 また、丘陵の間を流れる川の谷間へと下る道からは広く遠くまで続く緩やかな谷の空のぽっかり浮かぶ満月を見ることができます。
 月面探査に日本人宇宙飛行士も加わるとのニュースに胸躍ります。小さい頃に隣のお兄さんの手作り望遠鏡で初めて見た月面クレーター、青春時代に人類最初の月面着陸の映像にわくわくし、そして、今はデジカメのズームで月を見ています。長い間、月を見てきたものだと思います。
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昭和31年頃の笑顔あふれる一コマ

2023年12月27日 06時03分06秒 | Weblog

 アルバムの中に、私が小さい頃の写真がありました。同じページに貼ってある写真が昭和31年(1956)のものなので、おそらくその頃でしょう。
 写っている人物は、私、弟を抱く母、そして2人の女児の5人です。場所は当時新築されたわが家の縁側あたり。明るい日の光の中でみんな笑顔で写っています。私が3歳、弟が2歳で、可愛い盛りのころですが、この2人のお姉ちゃんの顔も見覚えがあり、遊んで貰ったり、おんぶしてもらっている写真もありますが、名前が出てきません。当時は、近所の子供がよく面倒をみてくれた、子供の時代でした。
 当時、社町役場の東隣に父が家を新築しました。今は、もうその家はなく、同じ場所に、後に建てた家に住んでいます。縁側は日当たりがよく、よく遊びました。また、真新しい板塀、その向こうに見える建物は、東の田圃をはさんだ所にあった農協関係の機関の建物です。よくその玄関で遊んだりしていました。今は北播磨建設業協会の建物があります。
 母も弟ももうこの世にはいません。2人のおねえちゃんはどうしているのでしょうか。家も景色も変わってしまいましたが、67年前に確かにあった笑顔の一コマでした。
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冬の朝の光ー電線とロウバイの葉が輝く

2023年12月26日 06時36分11秒 | Weblog
 

 ここのところ寒波に包まれ、朝は冷え込んでいます。7時が過ぎて、西側の窓から見える、関電タワーや高い建物の壁が朝日に光り始め、やがて、地上にも朝の光が射し込んできます。
 鳥たちも一番早く朝日が当たる高い電線や木の天辺に止まって鳴きはじめます。体を暖めているのでしょうか。いつもは鳥に目が向くのですが、朝日が当たって黄金色に光る電線に目がとまりました。
 隣の家のロウバイの木は、今、黄色くなった葉がいっぱいついています。花の蕾も膨らんできましたが、隣の駐車場から見たロウバイの木の黄色い葉が日の光を受けて、まるで黄金の小判の木のように輝く光景も見事です。
 冬には日本海側の地方の空には雪雲が低く垂れ、地上は雪が積もります。中国山地の南側、瀬戸内地方は、北部で雪を降らし、中国山地を越えると、乾いた冷たい風が吹きます。播磨の平野部の空は晴れ、青空が広がり、日の光が射します。生野峠を越えるとそうした気候の違いを実感します。小学校や中学校で学んだ気候区の特色の通りです。
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昭和33年夏の野球大会-嬉野野球場

2023年12月25日 05時06分40秒 | Weblog
 

 この写真には、「町議対吏員野球大会 33.8.2」と父の特徴のある字で書かれています。昭和の大合併後の新社町時代の昭和33年(1958)の夏に行われた、町会議員と役場職員の野球の試合で両チームがホームベースをはさんで整列したようすを撮したものでしょう。
 この場所は、嬉野野球場(※私の記憶ではそんな呼び方だったような)だと思われます。現在の県立教育研修所(県立社高校南)がある場所で、当時は野球場と自動車学校があったと思います。バックネットの向こうに見えるのは、五峰山光明寺の山景です。嬉野高原(当時はそう呼ばれていた)からの眺望はよく、さえぎるものがありません。松の木が生えています。
 父の姿は、右の一番手前にあります。義足の足で野球をしていたんですね。
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寒波の夜空で月と木星が光っていました

2023年12月24日 06時02分17秒 | Weblog
 

 

 この3日ほどは、強い寒波がやってきて、冷たい空気に包まれています。中国山地の南側、瀬戸内側に位置する播磨では、雪は降りませんが山地を越えてきた冷たい乾いた風が吹きます。そのため、天気はよく、南に面した大きな窓の側は温室のように暖かいのですが、外へ出ると冷たい風が肌をさします。
 さて、夜、用事で外へ出ると、夜空に月が煌々とかがやき、その近くに明るい星が一つ光っています。木星だそうです。地球と同じ太陽系の惑星、木星が地球の衛星である月に近づいて光っているのです。暗くなった夜空に光る月と木星。21,22,23日と距離を縮めて、やがて離れていきました(写真、月は23日のもの)。
 もうすぐ人類が再び月面に立つ日が来るということです。今度の計画には日本も参画しているので楽しみです。
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父の愛車 三菱シルバーピジョンスクーター

2023年12月23日 05時23分08秒 | Weblog

 昨日に続いて、父と愛車、スクーターの写真を紹介します。この写真はおそらく昭和30年代はじめのものだと思います。私が小さい頃の記憶に、父がこのスクーターに乗っていた姿があります。こうして写真を見ると、後ろのシートにも懐かしい記憶があります。
 父は片足が義足でした。そのせいでこのスクーターが便利だったのかと思いますが、当時はそんなことを思ったこともありませんでした。
 このスクーターのサイドには、「SILVER Pigeon」のマークが大きく描かれています。当時、よく売れたスクーターだったようです。ナンバーは「兵 い0300」とありました。この写真の撮影場所も不明ですが、誰かに撮してもらっていますので、父にとっては、この愛車への思いが特別だったのではないでしょうか。

 
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66年前の夏の日曜日-社町役場の裏庭で

2023年12月22日 04時46分00秒 | Weblog
 

 わが家のアルバムの中に、私が小さい頃の懐かしい写真がありました。写真の横に「役場の裏で 日曜のある日」「三二・八・一〇」と父の書き込みがありました。昭和32年(1957)といえば、今から66年前。私が4歳の時のことです。
 当時、わが家は、社町役場の東隣にありました。正確にいえば、役場の隣にわが家があった、建てたということです。今は、役場の建物はなく、社連合区の駐車場、消防会館になっています。その役場の中に庭がありました。
 当時、父は社町の助役をしていました。私と一歳下の弟は、役場の裏庭や宿直部屋によく遊びに行っていました。庭に置いてあるスクーターは父の愛車です。これに乗って遊ぶ兄弟とそれを眺める父の姿です。誰が写真を撮ったのでしょうか。
 スクーターは写真を調べてみると、三菱重工のシルバーピジョンでした。
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空に上弦の月-今年最後

2023年12月21日 04時47分31秒 | Weblog

 20日(水)、事務所から家に戻ろうと外へ出ると、もう暗くなっており、空に明るく光る月が浮かんでいました。きれいな上弦の月です。向かいの家の祖母に抱かれた孫ちゃんが、空を指さして「ちゅき」と教えてくれました。
 今年最後の上弦の月です。さっそく家に戻って庭でカメラで撮りました。ズームしてみると望遠鏡がわりになり、下の方のクレーターがくっきりと見えました。月にはクレーターがある、と知ったのは、小さい頃、隣の家のお兄さんが手作りの望遠鏡で月を見せてくれた時でした。その時に受けた強い印象が、70歳になってもクレーターを見る度に蘇ってきます。
 今、人類が再び月面をめざした動きが活発になっています。少年時代の月面着陸の感激をまた味わえるのでしょうか。
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昭和33年、社消防団日本消防協会表彰受賞、町内パレード

2023年12月20日 05時09分13秒 | Weblog
 

 この写真には、「33.12 日消受賞歓迎の夕」と父の書き込みがあります。昭和33年(1958)2月12日に行われた社消防団の日本消防協会表彰の受賞を地元社の市街で披露し歓迎するパレードのようすだと思われます。先頭に表彰状、続いて表彰旗、団員が続いています。その横をネクタイ姿で歩いているのが合併間もない当時の社町の助役だった、父藤本豊治です。
 もう一枚は、前日の2月11日に行われた東京での表彰式で表彰旗授与の写真です。「社消防団全国表彰式 日本消防協会表彰 33.2.11於東京」との書き込みがあります。
 パレードの写真には、よく見ると、神姫バスのりばの看板、読売新聞の社販売所の看板、映画の広告看板などが写っています。以前にもこのブログでこの写真を紹介したことがありますが、この場所がどこなのかどうも今もはっきりしません。

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初めての寄せ植えー加東市子連協の催しで

2023年12月18日 05時06分23秒 | Weblog
 

 17日(日)、冷たい空気に包まれた一日でした。社小学校では校内マラソン大会が開かれました。寒風に負けずに力走したことでしょう。
 私は、社公民館で行われた加東市子ども会育成連絡協議会催の寄せ植え教室に出席し、参加した親子と寄せ植えの初体験をしました。
 小林勝弘会長は挨拶の中で、「松竹梅」について、松を飾る習慣は平安時代に、竹は室町時代、そして梅は江戸時代に始まったと、日本人がこうした自然を愛でてきたことを紹介されました。
 その梅の話で思い出されるのが、「母の梅」でした。母が亡くなってもう30年余り経ちますが、生前に寄せ植え教室でつくった鉢の梅の木を私が庭に直植えしておきました。今では私の身長を超えるほど大きく成長し、毎年たくさんの花を咲かせ、実をつけてくれるようになりました。今年は、その梅を妻が果実酒につくってくれ、この12月から飲んでいます。
 今日の寄せ植えは花ですので、そのようにはなりませんが、高さや色合い等を工夫しながらなんとか鉢ができあがりました。いただいて帰り、庭に置いてみると、なかなかいいなあ、などと寄せ植え初体験に一人で悦に入っている自分がいました。
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観音寺本堂内の四十七義士の人形

2023年12月17日 05時36分17秒 | Weblog
 

 14日に行われた加東市赤穂義士祭では、観音寺本堂で追善法要が行われました。続いて、墓(墓碑)にお参りしたあと、本堂に上がり、堂内を見せていただきました。
 現在の本堂は昭和61年(1986)に再建されたものです。堂内には、御本尊の三十三体観世音菩薩が安置されています。そして、右の棚には、討ち入りの装束姿の四十七義士の人形が飾られていました。
 菩提所の墓碑の配置は、主君を仰ぎ、取り巻くように義士の墓地が配置されていますが、堂内においても、大石内蔵助、四十七義士が主君を守るように控えている感じが伝わってきました。
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子どもの頃の冬の思い出ー雪、氷、初参会、三草山・・・

2023年12月16日 04時28分20秒 | Weblog
 この頃、自分が小さかった頃のことをよく思い出します。
 今から5、60年前の昭和時代、私が小さかった頃は、この辺りでも、冬にはよく雪が降っていたように思います。そう思っているだけで、実は雪が降った記憶だけが残っていて、そう思うのかもしれませんが。窓から上体を乗り出し、空を見上げると、灰色の雪が次々と落ちてきて、口を開けて受けようとした場面などは鮮明に蘇ってきます。
 また、小学校の理科の宿題だったと思うのですが、アルミの弁当箱の内側に線を書き、その線まで水を入れて、一晩外に置いておくと、朝には、水が凍って線の上まで盛り上がっていました。先生が、水は凍ると体積が増えることを実験で確かめさせようとされたのでしょう。当時は、結構不思議に思ったものです。実は今でも原理はよく分かりません。ただ、冬になると、屋根の上の太陽熱温水設備に送る管の水を抜いておかないと、破裂して水が屋根に流れ出すことがよくあったので、水は凍ると膨張するということを体験的にはよく知っていました。
 子どもの頃、1月15日の成人の日に町内会の初参会が行われていました。私の住んでいる町内会では、集会所がなかったので、各家を持ち回りで、会場としていました。ある年に、わが家が会場となり、町内会の婦人会の皆さんが台所で、お酒を燗したり、お茶を出したりにぎやかに動きまわっていました。家の中の一番広い部屋で、総会が開かれ、行事や会計報告などが行われ、やがて、会長選出の話し合いに入ると、お酒が入っているので、お前がやれ、いやお前が、などと譲り合いが延々と続きます。朝から始めて夕方までやっていたような記憶があります。当時の父親らの世代の懐かしいおじさん達の顔と声が浮かんできます。今では、みんなあの世に逝かれてしまいました。もちろん、婦人会のおばさん達もですが、中にはまだご健在の方もおられます。
 中学生の時にわが家に番が回ってきた年は、家にいても居場所がないので、三草山に一人で登ったことがありました。今のように登山道が整備される前の話ですので、国土地理院の地形図とコンパスを手に、沢から登り、尾根筋へ出るなど、道なき道を登っていったのでした。途中、炭焼き窯のあとがあったり、雪の吹きだまりがあったりして、結構な冒険でした。
 家に帰って父親から「三草山をなめたらあかん。遭難した人もいる」と注意されたことを今も憶えています。心配して言ってくれたのだろうと思います。 
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