ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

大正13年の又新日報

2007年04月30日 01時08分15秒 | Weblog
(続)神戸又新日報
 
 昨日に引き続き、蔵の中から出てきた新聞について紹介します。
 大正13年(1924)7月9日付の神戸又新日報が出てきました。この年は兵庫県は大干ばつに見舞われ、6月中旬から9月上旬まで約80日間も雨が降らなかったという記録があります。
 六面には県下各地の干ばつのようすが報じられています。小見出しを挙げてみると、「稲の根元へ土瓶で注水」「宍粟郡では兇変を惧る」(雨ごいを通り越して、天変地異を心配)「雨の神へ祈願する農民の誠」(飾磨郡)など、干ばつに苦しむ農民のようすが伝わってきます。
 写真は、七面に掲載された記事の一部ですが、涼を求めて多くの人出となった海水浴場の写真と記事です。記事では気温は95度(華氏)を越えたとありますから、摂氏では35度程度でしょうか。「苦熱」という表現もみられます。


 
 
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明治の新聞が蔵の中から

2007年04月28日 20時20分14秒 | Weblog
 神戸又新日報

 久しぶりの投稿になりました。
 今日(28日)、小野高校の蜻蛉祭に出かけました。長女や長男が在籍していた数年前に来たきりだったのですが、この春に末娘が入学し、久しぶりに見学しました。校門に男子生徒が腕章をつけてきちんと挨拶をして迎えてくれる姿が以前と変わりなく、頼もしく感じられました。
 午後、私の同級生が、実家の蔵の中にあった古い物を見てくれというので出かけました。そこは、真鍮の火鉢、漆塗りの椀、皿、修身教科書、昔の農具・・・と民俗博物館のような状態でした。
 そのなかで、私を惹きつけたのは、蔵の中の長持ちの中にあったという古い一枚の新聞紙でした。
 明治45年(1912)1月10日付の「神戸又新日報」です。「又新」(ゆうしん)とよばれ、兵庫県の有力地方新聞として多くの読者をもっていました。
 この「又新」の創刊には、加東市吉馬出身の高瀬藤次郎が深く関わっていました。高瀬藤次郎は明治中期に県会議員、国会議員として活躍した人物ですが、その藤次郎ゆかりの「又新」の本物を手にすることができました。これまで、神戸市の図書館でマイクロフィルムで見たり、小野の資料館でコピーを見たことはありましたが、本物は初めてでした。
 写真はその題字の部分です。題字は水色でシンプルに字だけが印刷されています。

 
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東古瀬の道標

2007年04月17日 20時21分44秒 | Weblog
 加東市東古瀬の集落の北、田圃が広がる中を東西南北にまっすぐに走るの道路が交差する地点に石造の小さな祠と一本の道標が立っています。
 背の低い道標の四面には、「すぐ あかし みき」「すぐ やしろ たきの」「すぐ 小田 □□」などの文字が刻まれています。おそらく道路や田圃が整備され、この位置に置かれたものだと思いますが、かつては旧道に立って人々の往来の目印として重要な役割を果たしていたのでしょう。
背の低いのは、上の一部がないためでしょう。「すぐ・・・」の「す」の字の部分がありません。ちなみに「すぐ」とは「まっすぐ」の意味です。
 
 
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子午線の通過点

2007年04月14日 05時39分26秒 | Weblog
 加東市上三草、国道372号線を亀岡方向に向かって走っていると、左手に石柱が立っています。国際学習塾を左手に見ながら、正面には三草山が見える長い直線の続く途中なので、つい見過ごしてしまいそうです。
 この石柱は、国道と子午線(東経135度)が交差する地点を示しています。東経135度、すなわち日本標準時の子午線がこの地点を通過しているということなのです。明石の天文台、西脇のへそ公園(東経135度、北緯35度の交差点)を結ぶ子午線がここを通過しています。まさに日本の中心線(子午線)上に立っているのです。この地点(線上)では太陽の南中と時計の正午が日本で最も正しいということでもあります。
 しかし、道路脇で駐車スペースがないのが残念ですね。
 
 
 
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與五郎橋

2007年04月13日 06時55分19秒 | Weblog
 加東市新町を南北に走る旧道、学校下の三叉路から少し南に加古川に落ちる川があります。そこに架かっている橋の石柱に「史跡 與五郎橋」と刻んであります。

 「與五郎」とは、赤穂義士の一人神崎與五郎のことをさしています。神崎與五郎則休(かんざきよごろうのりやす)。元々は津山の人で、赤穂浅野家に召しかかえられ、禄高は五両三人扶持、役職は徒目付だったそうです。討ち入りまでは、町人の姿に身をやつし、吉良邸を見張る役目をしていました。討ち入りでは表門に配され、討ち入り後はあずけられていた水野家で切腹しました。享年38歳。

 さて、その神崎與五郎の名がなぜこの新町の橋に付いているのでしょう。故・尾縣斎さん(新町の日本画家・郷土史家)にうかがった話では、新町に駐在していた與五郎がこの橋の普請をしたということでした。新町には与五郎屋敷よばれる一画もあったとか。多井田の聖神池の普請も赤穂藩の加東郡代だった吉田忠左衛門が手がけていたことなどから、領地だったこの地方に神崎與五郎に関係のあるものがあっても不思議ではない、ということでした。

 今はこの與五郎橋を滝野東小学校へ通う子どもたちが毎日通っています。しかし、與五郎や忠臣蔵の話を知っている子どもは少ないでしょうね。私は、こんな名前の橋があることが嬉しいのです。
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桜橋

2007年04月12日 06時35分38秒 | Weblog
 加東市馬瀬の国道372号線沿いに馬瀬公民館があります。一本の桜の木が植わっており、ちょうど満開となっています。
 この桜も見事なのですが、道路をはさんで向い側にも一本の桜の木が花をつけています。ここには小さな川があり国道に橋が架かっているのですが、車で走っていると小さすぎて気づかないほどです。

 さて、この橋はこの桜にちなんで桜橋というそうです。地元の方の話によると、幕末か明治のはじめの頃、村の人が山から山桜の幼木を抜いてきて橋のたもとに植えたそうです。しばらく経った頃、村の若者が幹を途中からきってしまったのですが、そこから枝が三本に分かれて、川をまたぐように横に伸びていったそうです。
やがて幹は太くなり、大人が一抱えするほどの大木になりました。
 今は国道がついて根元はコンクリートで固められ、窮屈な場所になっています。そして、枝も一本だけが残っています。その太い幹も道路側は腐っている状態です。
 すぐ脇を車が猛スピードで走っていきます。排気ガス、震動と古木には悪い条件の場所です。この桜を守っていきたいなと思いました。


 
 
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三国の境

2007年04月10日 06時29分41秒 | Weblog
 この道標は、加東市平木の集落からさらに南に一本道を進んだところ、梅木峠にあります。道が二本に分かれていますが、ここが三国の国境なのです。
 つまり、播磨、摂津、丹波の三国の境になります。今でいうと、加東市(播磨※加東郡社町)、三田市(摂津※美嚢郡吉川町)、篠山市(丹波※旧多紀郡今田町)、の境になるのです。
 平木は加東市の東北の端に位置しており、同時に播磨国の東北の端でもあります。清水寺の麓に開けた村で、「開」(ひらき)と称していたのですが、幕末に現在の「平木」と改めたそうです。
 道標に刻まれた文字は読みにくくなっていますが、大川瀬の文字がうっすら見えます。
 
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清水寺-西坂の道しるべ

2007年04月09日 06時58分43秒 | Weblog
 200年前の道標

 加東市平木、清水寺西坂に一本の堂々とした道標が立っています。道標には、「丹波道」「右 きよみず」「左 ほつけ山」と深々と刻まれています。
 この西坂の道標は、すでにこのブログでも紹介した社の田町筋にある道標と同じもので、甲州(今の山梨県)の絹問屋、肥谷井角右衛門が建てたものです。「丹波道」の文字の下に、肥谷井角右衛門の名が刻まれています。
 この道標が建立されたのは文化5年(1808)のことですから、今から200年も前のことになります。この西坂の道標にまつわるエピソードを紹介します。田町の道標のところで一度紹介したものですが、もう一度掲載します。参考にして下さい。


 今から200年ほど前、甲州(今の山梨県)の絹問屋の肥谷井角右衛門(ひやい・かくえもん)さんが商売のために西国を巡った帰りに、社の清水寺の辺りで道に迷い、寒さと疲労のために倒れてしまいました。幸い、そこを通りがかった大名行列に助けられ一命をとりとめることができました。角右衛門さんは、この経験から、旅人のために播州の街道に10本の道標を建てました。そのうちの一本がこの道標なのです。
 昭和になって、角右衛門さんの子孫が、先祖が播磨に道標を立てたという伝承の真偽を確かめるために社に来られ、肥田文旅館(現在の商店街駐車場イベント広場にあった)に泊まりました。その話を聞いた米屋を営んでいた上月泰治郎さんは、かつて本町通りに立っていた道標がそれにあたると思いましたが、その道標は社の街の拡大と交通の発展で邪魔になり、あちこちに移されたり売られたり、また買い戻されたりして、行方が転々としていました。そして、果ては佐保神社の境内の林の中に倒されていたのでした。
 上月さんはその子孫と出会い、昭和16年に京都への街道筋にあたる田町の法蓮寺の境内に再建したのです。その後、昭和40年代に、清水寺の麓で同じ形式の道標が見つかり、これも10本のうちの一本だということが分かりました。
 法蓮寺の道標には以上のようなエピソードがあったのです。これは、今は亡き上月輝夫先生(郷土史研究家)から教えていただきました。
 
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