昭和20年(1945)8月15日の終戦の日の直前の7月末に、社町長から社区長宛てに出された勤労奉仕等の割当に関する通知が、当時の社区の「参考綴」の中に綴じられています。
海軍の鶉野飛行場(現加西市)への勤労作業には、社区の各組から毎日数人ずつが出役として割り当てられています。現在、鶉野飛行場跡は加西市が整備を行いつつありますが、73年前には、本土決戦に備え、特攻部隊が訓練し、国民が勤労作業に出ていたことが伝わってきます。割当表には社区八組(現在の中田町町内会)の割当が書かれており、八月八日橘部隊六名、七月三十一日鏑部隊七名、勝札一〇枚一〇〇円となっています。組長欄には、父の藤本豊治の名前と押印がありました。また、通知の欄外には「女でもよい」と朱書きされていました。
こうした記録は戦争末期の地方部の状況を知る貴重な資料だといえます。通知文は次の通りです。写真はその割当一覧表です。
昭和二十年七月二十七日
社 町 長
社 区 長 殿
出役割当ノ件通知
人出不足の今日各方面ニ勤労御協力を御願ひ申上げ殊に今回は草採中とて定めし御困りのことととは万々察し上候へ共御高承の通り愈々本土決戦を控へ該工事の竣成は全く寸時を争ふ緊急工事に有之候ニ付何卒戦局の推移御賢察の上、万障御繰合せ速に活動、一段の御協力相煩し度懇願願申上候
尚ほ蚊帳、勝札をも併せて割当候条宜敷御願申上候也
記
橘部隊 壱一〇人 七月三十一日ヨリ八月十日迄 午後七時従前通り法華口下車指定場所に集合
鏑部隊 三九人 七月三十一日 午前七時集合 高岡廠舎ノ裏門前
三九人 八月一日
三四人 八月二日
蚊帳 八月一日迠ニ御都合被下度御願申上候
勝札 一、九一〇円 勝札は後日農業会経済部ヨリ持参致スヘク候ニ付宜敷御依頼申上候
◎大阪被服廠支庁滝野工場行は後日に致し候ニ付御了承被下度申添候
海軍の鶉野飛行場(現加西市)への勤労作業には、社区の各組から毎日数人ずつが出役として割り当てられています。現在、鶉野飛行場跡は加西市が整備を行いつつありますが、73年前には、本土決戦に備え、特攻部隊が訓練し、国民が勤労作業に出ていたことが伝わってきます。割当表には社区八組(現在の中田町町内会)の割当が書かれており、八月八日橘部隊六名、七月三十一日鏑部隊七名、勝札一〇枚一〇〇円となっています。組長欄には、父の藤本豊治の名前と押印がありました。また、通知の欄外には「女でもよい」と朱書きされていました。
こうした記録は戦争末期の地方部の状況を知る貴重な資料だといえます。通知文は次の通りです。写真はその割当一覧表です。
昭和二十年七月二十七日
社 町 長
社 区 長 殿
出役割当ノ件通知
人出不足の今日各方面ニ勤労御協力を御願ひ申上げ殊に今回は草採中とて定めし御困りのことととは万々察し上候へ共御高承の通り愈々本土決戦を控へ該工事の竣成は全く寸時を争ふ緊急工事に有之候ニ付何卒戦局の推移御賢察の上、万障御繰合せ速に活動、一段の御協力相煩し度懇願願申上候
尚ほ蚊帳、勝札をも併せて割当候条宜敷御願申上候也
記
橘部隊 壱一〇人 七月三十一日ヨリ八月十日迄 午後七時従前通り法華口下車指定場所に集合
鏑部隊 三九人 七月三十一日 午前七時集合 高岡廠舎ノ裏門前
三九人 八月一日
三四人 八月二日
蚊帳 八月一日迠ニ御都合被下度御願申上候
勝札 一、九一〇円 勝札は後日農業会経済部ヨリ持参致スヘク候ニ付宜敷御依頼申上候
◎大阪被服廠支庁滝野工場行は後日に致し候ニ付御了承被下度申添候