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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

加東四国霊場十八番-岩屋の薬師堂

2012年06月30日 05時24分54秒 | Weblog
 田植えが終わり、山の緑と田圃の緑が日に日に濃くなっていく今日この頃です。東条川にそって県道小野藍本線の岩屋地区を走っていると、左手山際に屹立する大杉が目につきます。そして、そこに神社とお堂が見えます。このお社は八幡神社、お堂は岩屋の薬師堂で、加東四国霊場第十八番にあたります。
 境内に立って、大杉の太い幹の間から広々とした水田風景を眺めていると心が落ち着きます。薬師堂はかつて巡礼の人々で賑わったそうです。この山際には大きな岩がところどころごろんと横たわっています。ふと、岩屋の地名の由来に関係があるのだろうかと思いました。
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掎鹿寺-古寺と義経道

2012年06月29日 05時37分32秒 | Weblog
 加東市天神の一之宮神社の前の道をさらに山の方に向かって緩やかな坂道を上っていくと、掎鹿寺(はしかじ)にたどり着きます。
 掎鹿寺は、伝えられるところでは、推古帝2年(594)に聖徳太子によって創立されたとされています。聖徳太子が諸国を巡り仏教の講義を行うために当地に立ち寄られたとき、傷を負って死にそうになっていた白い鹿を救うために薬師如来に祈られたところたちどころに傷は癒え元気になって感謝しながら立ち去ったことから、薬師如来の霊威に感じて太子自ら如来像を彫って安置され、これが掎鹿寺のもとになったとされています。のちに僧行基が堂塔を修復し、山号を白鹿山、寺号を掎鹿寺として栄えました。
 また、掎鹿寺の脇から山中に通じる道は、源平合戦の三草山合戦の折りに、平氏を破った義経らが一ノ谷に向かって駆け抜けた道で「義経道」と呼ばれています。深閑とした境内、そして、古道に立つと時空を超えて古代の信仰のこころ、兵士の息づかいが聞こえてきそうです。
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天神の一之宮神社

2012年06月28日 05時30分08秒 | Weblog
 加東市天神の市街から坂道を上ったところに一之宮神社があります。この神社の祭神は素戔嗚尊で、伝えられるところによれば、素戔嗚尊が諸国を巡られてこの地、掎鹿の里に立ち寄られ休息をされたことからこれを尊んでお祀りしたとされています。
 坂道の右手に鳥居があり、階段を上って門をくぐると、正面に拝殿、社殿、そして背後に山が一直線に迫ってきます。境内には能舞台があります。
 深閑とした境内に一人佇んでいると、播磨風土記に記された掎鹿里の神様である素戔嗚尊の昔につながっているような感じに包まれました。 
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昭和45年-県立社高校地歴部研究集第1号

2012年06月27日 05時39分52秒 | Weblog
 本棚を整理していると出てきたのが、見出しの「兵庫県立社高校地歴部研究集第1号」です。昭和45年(1970)5月1日発行となっています。今から42年前のこと、ちょうど私が社高校に在籍していた時(44年入学47年卒業)のものです。顧問は吉田省三先生。部員名簿には同級生の懐かしい名前が並んでいました。私は地歴部の部員ではありませんでしたが、入っていればよかったと今頃思っています。
 この研究集は、鴨川地区の総合調査報告で、環境編、集落編、民俗編、歴史編、その他から構成され、合宿を含めて実地調査をもとに結果が詳細に報告されています。
 鴨川地区は、現在加東市の北東部に位置して、上鴨川、下鴨川、平木の3地区から成っています。平木は播州、丹波、摂津の三国の境界に位置しています。また、西国25番札所の清水寺、重要無形文化財の上鴨川住吉神社神事舞などの歴史も古く、また現在では、やしろ鴨川の郷など新しい観光地も生まれています。
 写真は、この貴重な研究集の表紙です。40年以上の歳月を経て、その貴重さをさらに増しています。
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昭和3年-社町で航空思想普及講演会

2012年06月26日 06時19分58秒 | Weblog
 昭和3年(1928)2月25日、加東郡元公会堂(現明治館)で航空思想普及講演会が開催されています。その案内通知が「昭和弐年四月 雑書綴 社町社」の中に綴じられていました。
 講師は陸軍中将の谷田繁太郎。講演と航空に関する映画となっています。会場は今の明治館で、明治45年に建てられた元加東郡(現在の加東市、小野市域)公会堂です。今年は100年にあたります。
 案内通知は次の通りです。

社通一第三六六号ノ一
 昭和三年二月二十三日
                    社 町 長

各区長
青年支部長 殿
婦人部長

 航空思想普及講演会ノ件

来ル二十五日午後七時ヨリ元郡公会堂ニ於テ陸軍中将谷田繁太郎閣下ノ航空ニ関スル講演会開催サレ候条貴部内一般ニ御伝達相成度余興トシテ航空ニ関スル活動写真映写致スヘキニ付多数聴講相成様御配意相煩シ度此段及通知候也

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昭和2年-愛国婦人会の入会チラシ

2012年06月24日 09時58分20秒 | Weblog
 「社町社 雑書綴 昭和弐年四月」の中に、愛国婦人会のチラシが綴じられています。A4判より少し大きく、「主旨書」「愛國婦人會定款」「愛國婦人會徽章佩用規則」「総裁以下役員」「本部、支部、委員部所在地」が両面に印刷されています。
 「主旨書」には、愛国婦人会の目的が次のように書かれています。

~まことや我等婦人は、自ら銃を負ひ剣を提げて、千軍萬馬の間を奔走すべきものにあらざれば、せめては同情の涙を濺ぎて、慈善の業を営み、一は出征軍人をして後顧の憂なく、以て真に国家の干城たらしめ、一は一般国民をして尚武の気を養ひ、以て固く護国の基礎たらしめんと欲す。~

 また、欄外の「注意」のところには、入会について次のように書かれています。

愛国婦人会へ入会を希望せらるゝ方は▲朝鮮本部、各支部、各委員部若くは幹事部(郡市役所内)委員区(町村役場内)へ便宜御申込相成度候

 
 
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昭和13年-農繁期託児所の設置

2012年06月23日 05時44分09秒 | Weblog
 昭和13年(1938)、農繁期の託児所設置に関する通知が社町長から各区長宛てに出されています(諸通達綴 社区事務所 自昭和13年4月至14年2月)。昭和30年代はじめ、田植えや稲刈りの農繁期には私も母親に連れられて、母の実家に一緒に泊まり込んでそこから保育園に通った覚えがあります。早乙女さんがやってきて家族総出で田植えをしました。まさに農繁期でした。
 綴られていた通知は次の通りです。

 昭和十三年六月一日
              加東郡社町長
 各区長殿

 農繁期託児所設置ニ関スル件

標記ノ件ニ関シテハ格段ノ御配意中ノコトハ被存候処挿秧繁忙期モ目捷ニ相迫リ候条農繁期託児所ノ設置ヲ図リ以テ幼児ノ保護ト出動並ニ応召軍人家遺族ノ業務ニ支障ナカラシムルノミナラズ各種作業ノ労働能率ヲ増進セシムルコトハ最モ喫緊ノ要事ト被認候ニ就テハ本年ハ特ニ其ノ筋ニ於テ開設施設ノ奨励金ヲ増額交付スルコトニ可相成見込ニ付既設託児所ノ代表者ハ固ヨリ農会、婦人会、女子青年団、寺院其ノ他ノ団体ノ協力ニ依リ普遍的ニ実現スル様特段ノ御配意相成度此段及通牒候也
 尚従来設置シタルモ其ノ後ニ於テ休止若クハ廃止シタル向ニ付テハ時局柄必ズ開設スル様御尽力相煩度
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昭和池から谷を渡り台地へ

2012年06月22日 05時41分02秒 | Weblog
 国道372号を加東市上鴨川から上三草にかけて走っていると、雨に濡れた山の緑が迫ってくるようでした。山口で旧道に入り、景色を楽しみながらゆっくりと車を走らせていると、上三草の集落に入る手前で、この歴史ブログでも紹介をしてきた磨崖仏が刻まれた大きな岩のところに出ます。車を止めてしばらく眺めていました。
 そのすぐ脇に岩の途切れたようになっているところがあり、黒々とした太い管が姿を露出させています。これは昭和池から旧滝野町の加茂地区、稲尾方面へ送水するサイフォンの一部です。昭和池は大正13年の大旱魃をきっかけにして三草山の山麓に築造された巨大なため池で、昭和3年(1928)に着工、昭和9年に完成したものです。幹線水路は嬉野から福田地区、社地区、加茂地区へと送水され、水の得にくい台地の田を潤しました。嬉野台地へは千鳥川の谷を、そして稲尾へは三草川の谷を巨大なサイフォンで渡ります。そのサイフォンが地上に露出している部分が見えたのです。
 遠く室町時代の磨崖仏、その隣に昭和池のサイフォン。数百年の時を超えて先人の思いが伝わってくるようでした。
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三草国民学校の写真

2012年06月20日 06時02分21秒 | Weblog
 台風に備えて片付けをしているところへ、友人が本と写真を持ってやってきました。家の中を整理していて出てきたもので、要るならどうぞということでした。
 写真は三草国民学校時代の記念写真で、友人の母上が若い教師だった頃のもの。すぐに見つけることができました。校舎玄関正面のようで、「兵庫縣加東郡三草國民學校」の文字がはっきりと写っています。ゲートルを巻いた先生、もんぺをはいた女子生徒の服装などから時代がうかがえます。足元を見ると、靴、下駄、わらじなどさまざまです。
 三草国民学校は今の加東市上三草のやしろ国際学習塾の地にあったもので、元は三草藩の陣屋が置かれていたところです。昭和20年前後のものと思われますが、写真に心当たりのある方がおられれればご連絡を下さい。
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関東大震災15周年記念日の通知-昭和13年社町

2012年06月19日 05時07分07秒 | Weblog
 社区事務所(現在の加東市社区域)の「諸通達綴」(昭和13年4月~14年2月)の中に、社町長から各区長宛に出された関東大震災15周年記念日に関する通達が綴じられています。
 当時の社町長は大橋實次氏。後に日本運送の社長としてわが国の運輸の発達に大きな足跡を残した方です。
 さて、関東大震災は大正12年9月1日(1923)に発生したマグニチュード7.9の大地震で、10万人以上の人が死亡、行方不明になっています。
 それから15年経った昭和13年(1938)、どのようにこの日を迎えたのかをこの通達によって知ることができます。講演、講話の他、酒無し日、一汁一菜の日として心身の鍛練を行うといったことが書かれています。また、文中の過般の水禍とは、13年7月に起きた阪神大水害のことです。本文は次の通りです。

 昭和十二年八月二十六日
               社町長  大橋實次
各区長殿

 関東大震災十五周年記念日ニ関スル件

来ル九月一日ハ関東大震災十五周年n記念日ニ相当リ候ニ就テハ大震災当時罹災地方民ガ克ク困苦欠乏ニ堪ヘ艱難ヲ克服シタル旺盛ナル意気ヲ追憶スルト共ニ事変下内外ノ現状ニ鑑ミ国家総力戦ニ対スル鞏固ナル精神ヲ振起シ他面過般ノ水禍ニ対スル復興精神ヲ作興スル為当日講演講話等を行フ外心身ノ鍛錬克己日酒なし日一汁一菜日実施等適切ナル行事ヲ実施シ十分実効ヲ挙グル様御依頼申上候也
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昭和56年-ボートの浮かぶ東条湖

2012年06月18日 04時56分06秒 | Weblog
 昭和56年(1981)に東条湖畔からダム方面を撮影した写真です。明るい光の中に豊かな水を湛えた東条湖。湖面にはボート、湖畔には観光地らしく店などが見えます。ダムの語り部だった藤原産の食堂も小さく写っているはずです。手前にはボート乗り場が見えます。この湖畔のホテルでぼたん鍋を職員会で食べたことが懐かしく思い出されます。今はそのホテルもなくなりました。
 ダムが向こう岸の真ん中に見えます。この湖の底に土井が沈んでいるんですね。当時、藤原栄さんの話を思い浮かべながらシャッターを押したことがよみがえってきました。
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昭和56年-東条ダム・東条湖を見下ろす

2012年06月16日 04時37分04秒 | Weblog
 この写真は、昭和56年(1981)の東条ダムと東条湖を見下ろす岩壁の上から撮ったものです。ダム建設のコンクリート工事足場が残っており、そこから満々と水を湛える東条湖が見下ろせました。
 当時、私は創立2年目の兵庫教育大学の附属小学校の4年生の社会科を担当していました。東条ダムと嬉野台地の開発という授業をつくるために現地調査を行っていたのですが、その時のものです。小さくて画面では見えないかもしれませんが、湖の向こう岸に白鳥号が停泊しています。
 このダム湖の湖底に沈んだ土井の由来を知ったのも湖畔で食堂を営んでおられた藤原栄さんからお話を聞いたことがきっかけでした。藤原さんにはその後、学校にも来ていただき子ども達に直接お話をしていただきました。まさにダムの語り部だったのです。
 それから30年余りの歳月が過ぎました。ダム建設と水路網の建設によって広大な土地が豊かな水田に生まれ変わりました。水路に水が流れる光景を見る度に先人の努力、苦労に思いを馳せ感謝の気持ちを忘れてはならないと思うのです。
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姫滝を下る高瀬舟

2012年06月15日 05時07分20秒 | Weblog
 この絵は、かつて加古川を上下していた高瀬舟が米俵を積み込んで加東市新町と上滝野をつなぐ滝見橋の下手にある姫滝あたりを下る風景を描いたものです。作者は故尾縣齊さん。原画はもっと広い範囲を描いてあるのですが、その一部を切り取って写したものです。
 滝野東小学校に勤務していた平成17年に、4年生の総合学習で加古川舟運について調べました。当時、学校評議員であり、郷土の歴史に詳しく、さらに日本画家でもあった尾縣さんにお願いして子ども達に高瀬舟の話をしていただきました。ちょうど新町ができて400年という節目の年で、新町の研修会館でも歴史資料の展示が行われ、子ども達と見学しました。
 尾縣さんの口癖は「子ども達が大人になっても胸を張ってふるさとのことを語れる人になってほしい」ということでした。そんな願いをもって、いつも子ども達に町の歴史、加古川の昔を語っておられたことを今も思い出します。
 
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朝光寺の鐘楼-鎌倉時代の優美な姿を伝える

2012年06月14日 06時07分30秒 | Weblog
 朝光寺(加東市畑)には、国宝の本堂のほか、重要文化財の鐘楼があります。今回の本堂の屋根葺替修理の現場説明会では、本堂を覆う工事足場に上り、普段は見ることの出来ない位置から仁王門や多宝塔、そして鐘楼を見ることができました。特に鐘楼は本堂のすぐ隣にあるため、覆いの幕を通してですが、屋根の高さからその優美な姿をみることが出来ました。
 この鐘楼は鎌倉時代末期の様式を持つとされ、昭和29年(1954)に重要文化財に指定されました。昭和31年に解体修理が行われ、現在の美しい姿が再現されました。私はこの鐘楼の屋根、袴部の曲線が何ともいえない優美さが大好きです。
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国宝朝光寺大屋根の鬼瓦-阿吽・日月

2012年06月13日 09時36分05秒 | Weblog
 加東市畑の朝光寺の国宝本堂の屋根葺き替え工事の現場説明会で見学した大屋根、仁王門を紹介してきました。今日はその大屋根の天辺に置かれていた鬼瓦、古いものを紹介します。
 この2枚の鬼瓦は境内の工事事務所の1階に他の年代毎の瓦とともに置かれていました。横たわると結構大きく見えます。顎のところにひびが入っていました。髭の穴が妙にリアルでした。役目を終えて新しい鬼瓦と交替し、ほっとしているようでもありました。
 この2枚の鬼瓦。狛犬のように阿吽の対となっています。また、額に日輪と月の印が入っています。どちらも口を開いているようですが、口の真ん中をしっかり閉じている右側が「吽」であり、額に日輪があります。これが東向きの天辺に置かれていたものです。
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