ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

冬の東条湖

2011年01月31日 05時27分35秒 | Weblog
 30日(日)、寒波のために凍えるように冷たく、しかし、乾いて透明な空気の中、加東市内を車で走っていると、冬の日射しに山や湖の景色が輝いていました。
 東条湖畔の道路から青い湖面が見えます。アクア東条の駐車場に車を停めて、堰堤の方に向けてシャッターを押しました。水位はだいぶ下がっています。ケーブルテレビでは、加東市の水道の水源であるダムの貯水率が40%に下がっているので節水を呼びかけています。60余年前の終戦直後に食糧増産のために建設されたこの鴨川ダム。関西の秘境、東条湖は観光地として栄えてきました。湖上をすべる白鳥の遊覧船はそのシンボルでした。夏にはこの湖面に大きな花火が美しく開きます。今、冬の日に湖面が光っていました。
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吉井の里を救った竜神岩

2011年01月30日 04時56分56秒 | Weblog
 加東市立東条西小学校の西方の山裾に住吉神社があります。神社に通じる車一台がやっと通れる細い道を進み、石鳥居の前まで来ると、その前に大きな岩がありました。さざれ石のような岩に見えます。何だろうと後ろに回ると、石板にこの岩にまつわる話が刻まれていました。次の通りです。

竜神岩(雨乞い岩)
今から約二百年前わが吉井村が大かんばつにあい、危急存亡のとき嶽の下の竜神岩に赤牛の生首を供へ村あげて雨乞いの大祈願をしたところ霊験あらたかに現われ恵みの大雨沛然として吉井の里に降り来り生きとし生けるものみな生気を取り戻しその秋は大豊作となり村は救われたのである。その後幾星霜、歳ふるに従い、この岩の存在も村人より忘れ去られようとし、時、たまたま東条川の大改修にあたり今一度往時をしのび偉大な神恩に感謝すべく村人相はかり、この岩を鎮守の地に移し安置したのである。

  昭和六十二 丁卯之春 岸本格 文

なるほど、この岩は吉井の里の大かんばつを救った雨乞いの岩だったのです。昭和62年(1987)から約200年前のことですから、江戸時代も後半、松平定信が寛政の改革を進めていた頃ということになります。それにしても赤牛の生首をお供えしたんですね。 
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加東市の赤穂藩領地

2011年01月28日 06時30分49秒 | Weblog
 「刃傷松の廊下」のせりふの一節に「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」とありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)の他に、加西郡8920石(33ヶ村)、そして加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
 加東郡の領地のうち、現加東市域に23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩ととても強い結び付きがあるということです。加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村にのぼります。このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました。
 加東市家原の観音寺に赤穂義士の墓碑が建てられたのもこうした浅野家の領地だったという経緯があります。
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加東市の赤穂義士の遺蹟

2011年01月27日 06時16分14秒 | Weblog
 内海定治郎著『真説赤穂義士録』(昭和8年12月1日発行)の中に、播州地方の赤穂義士の遺蹟に関する記述があります。現在の姫路市、加西市、明石市にある寺などとともに加東市の4ヶ所の遺蹟が紹介されています。この歴史ブログでも何度も紹介してきましたが、あらためて、この本に紹介された遺蹟を紹介します。


◇観音寺 加東郡社町家原字赤岸にある。臨済宗妙心寺派に属し湯谷山と号す。家原浅野家の香花寺である。弘化四年二月善龍院の僧明範が浅野内匠頭および家臣四十七士のために石碑を建てた。その碑は嘉永元年11月に成ったが、浅野中務少輔は薦誠碑を建てた。

◇善龍院 加東郡社町字坊の前にあつて真言宗に属し慶安二年の創立で弁恵僧都の開基である。宝永年間に家原浅野家の菩提寺となつた。弘化四年二月当時の僧明範は内匠頭長矩及四十七士の石碑を観音寺境内に建てた。

◇家原浅野家陣屋跡 加東郡社町にある維新後浅野氏東京に移り住むや全く廃墟となり今は邸跡悉く田畑となつて居る。

◇穂積赤穂浅野家の陣屋跡 加東郡穂積村にある。元禄四年から赤穂城主浅野内匠頭の臣吉田忠左衛門がここに出張して郡代として此地を治めて居たが同十四年浅野家断絶後はその地廃墟となつた。

◇聖神池 加東郡加茂村多井田にある。元禄十四年忠左衛門此の地方を支配し聖神池の普請検閲の際殿中の凶変の報に接し検閲を了せず倉皇として赤穂に赴いたと伝えられて居る。

この本に紹介されているのは以上ですが、この他にも状が池(社)、与五郎橋(新町)など義士との縁が伝えられている遺蹟があります。また、光明寺の遍照院にある小野寺十内の使った鎖帷子(くさりかたびら)と槍もあります。

 今年は加東市市制5周年を記念して、全国義士サミットが加東市で開催と聞いています。私たち住民自身がこうした地域の義士遺蹟をもっとよく知らなければと思います。
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中島池跡-今は高岡地区のグラウンドに

2011年01月26日 05時09分25秒 | Weblog
 加東市高岡地区は、加古川西岸の青野原台地に広がっている集落です。地区を東西に走る国道372号から北へ少し入った田圃の中に広いグラウンドがあります。バックネットもある広いグラウンド、ゲートボール場には2面のコートが整備されています。
 先日、このゲートボール場で行われた大会で、高岡の方から昔の話を聞かせてもらいました。このグラウンドは元は中島池という大きな池だった、と。高岡といえば、台地で水が得にくいために、井戸を掘って「ハネツルベ」という揚水方法で水を汲み上げて田圃に水を入れたという苦労話がつきもの。加西からの用水路(天下溝)から、また、池掛かりの田もあれば、ハネツルベで水を汲むところもあったということでした。また、糀屋ダムからの用水が来るようになり、そうした苦労も解消されたのです。
 グラウンドの入口に石柱が建てられており「中島池跡」と刻まれていました。その石柱にはそうした高岡における水にからんだ歴史の一端がこめられているように感じました。
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善龍院の初庚申-360年の伝統

2011年01月22日 05時45分09秒 | Weblog
 21日(金)、加東市社の市街地にある善龍院の庚申堂で360年の伝統をもつ初庚申祭が行われました。
 善龍院は、涌羅野山慈眼寺善龍院の寺号をもつ真言宗のお寺です。赤穂の浅野氏の分家である家原浅野氏の菩提所として代々の領主の位牌が納められていることや、初庚申(年始の庚申日)には多くの人々が参詣し、庚申寺として知られています。
 庚申とは、「庚(かのえ)申(さる)」十干十二支の組み合わせで60日に一度めぐってきます。庚申堂の本尊の青面金剛大明王(しょうめんこんごうぞう)、すなわち庚申さまは、開運、厄除け、五穀豊穣、無病の守り本尊として昔からをしんじられています。
 午後、庚申堂にお参りし、「庚申お猿」をいただきました。布でつくられた猿のお守りですが、災難を去る(猿)ということで、このお守りをいただき、翌年奉納すると、ご利益があり念願がかなうといわれています。また住職から善龍院の由緒、歴史を詳しくうかがうこともできました。お参りしたあと、よもぎ団子とこんぶ茶のお接待を受けました。
 
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山国の観音堂

2011年01月21日 06時06分24秒 | Weblog
 加東市のほぼ中央に標高120メートルぐらいの嬉野台地が広がり、社と東条をつなぐ道路がその中央を東西に走っています。その道路から、山国へ抜ける旧道を車で走り、標高100メートルの面へと下っていくと、眼の前に、北から西に向けて広々とした風景が広がります。中国山地の山並み、平坦な青野ヶ原台地、そして平野と高台から望む風景は広大で、心もぱあーと広がります。
 池や田圃が広がる台地は西に向かってゆるやかに下っていくと、お堂が見えてきます。周囲はグラウンドになっていて夏には盆踊りが盛大に行われますが、冬には北西から吹いてくる冷たく乾いた風に吹きさらされます。ふと見ると、お堂の脇に単車が置いてありました。お堂の中から鐘の音が聞こえます。どなたかがお堂の中で経をあげておられるのでしょう。山国の観音堂。夏には心地よい涼風がお堂を吹き抜けていましたが、今日は戸も閉じられたままでした。
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坂合神社 佐保大明神-扁額から

2011年01月20日 05時56分44秒 | Weblog
 加東市社の街は、佐保神社の門前町として形成されてきたといわれています。また、西国巡礼の宿場町としても栄え、江戸時代には北播磨でも有数の町場として発展していました。
 さて、その佐保神社の本殿に掲げられている扁額が建物の外からちらっと見えたのでシャッターを押しました。扁額には、「坂合神社 佐保大明神」(写真)と書かれています。この扁額は調べてみると、「寛政十一年十一月大門村蓬莱宗兵衛寄付」「神祇道管領卜部朝臣良連(筆者)」(『佐保神社誌』)とありました。西暦1799年のことですから、約210年経っているんですね。
 ところで、「坂合神社」についてですが、同神社誌によれば、社号ははじめ、境之神と称し、これを二字に改めて坂合神社(さかあい)といへり、と記述されていて、賀茂郡坂合神社、その後に佐加穂、さらに佐保に改めたという説があるということです。佐保神社という名は、鎌倉時代により以前ともする説もあるようです。また、「坂合」という名は、土地の形状すなわち、佐保神社は小高い丘にあり、北、南、西からの坂が合う地であるというところから由来しているという説もあるようです。他にもあるようですが、ちらっと見えた扁額の字から佐保神社の社名の由来を少し調べてみました。 
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景色が変わった-小さな祠が見える

2011年01月19日 05時36分26秒 | Weblog
 中国自動車道滝野社インターの近く、旧175号線を走っていると、車の窓から見える景色がしばらく前から変わっています。道沿いの田圃の中にあった小さな杜が伐採され、見通しがよくなっています。木が2本ほど残されていますが、小さい頃から見慣れた杜がなくなり、向こうの景色が見えるようになっています。
 その伐採された杜の中にぽつねんと小さな石の祠がありました。丸裸にされたような感じで立っている祠が通る度に目にとまります。あの藪の中に何があるんだろう、という「謎」の部分がある日突然明らかになってしまったわけですから驚きました。まさに「神棚の扉を開けてみると・・・」の心境です。もちろん、この祠に何が祀られているのか知りませんが、とにかく景色が劇的に変わったことは確かです。
 
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佐保神社の石燈籠

2011年01月18日 04時59分42秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の境内には多くの石燈籠があります。その中で一番古いものとされているのが、本殿と拝殿の間の両脇にある一対の石燈籠です。鎌倉時代のもとの伝えられているということですが、余りの古さに圧倒されてしまいます。
 佐保神社は鎌倉時代には朝廷や幕府の崇敬も厚く、源頼朝の妻で尼将軍として知られる北条政子によって社殿や鳥居が建立されたと伝えられています。そんな古い時代からの歴史をこの石燈籠は今に伝えているんだと思うとただただ立ち止まって見入るばかりです。先日は西側の燈籠を紹介しましたが、今日は東側のものを紹介します。
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藤田のとんど

2011年01月15日 05時57分47秒 | Weblog
 14日(金)、加東市藤田地区ではとんどが行われました。何日も前から田圃の中に大きなとんどが作られていたので楽しみにしていました。神戸から加東へ帰る途中でも各所でとんどの炎や煙が見えました。また、すれ違う車の中には荷台一杯に竹を積んだトラックもありました。ああ、とんどの竹だなと思いながら、多くの地域でとんどの伝統行事が行われていることをあらためて実感しました。
 藤田地区のとんどは市内各所のとんどの中でも大きさでは一番ではないでしょうか。地区の皆さん総出で田の中に大きなとんどを組み、そばの道、軒先では臨時の席を設け、ぜんざいや蜜柑の接待も行われます。昔は各隣保で行ったりしていたそうですが、地区の役員会、老人会、婦人会、子ども会など総出でとんど祭りを行うようになって今年で31回目だということでした。
 午後6時半、区長さんの合図で点火。一気に炎が駆け上り、バチバチという音とともに大とんどが炎に包まれました。火の粉が真っ暗な空に舞い上がります。遙か天空には月が光っています。「わあー」という歓声が上がり、しばらくするとボンという竹の破裂する爆音も響きわたります。夢中でカメラのシャッターを押しました。
 やがて、炎がまわって意外に早くとんどが崩れました。よく乾燥していたのでしょう。火が小さくなった頃を見計らって、子ども達が竹の先に書き初めをつけて炎にかざし始めます。「火が付いたら振ってみい」という大人の声がとびます。書き初めが火の玉のようになって空に舞い上がります。お父さんやお母さんに手伝ってもらいながら、次々と書き初めをかざしていきます。やがて、火がもっと小さくなると、とんどの火で餅を焼く人も出てきました。灰をもって帰る人もあると聞きました。火を囲みながら、そんな昔のことを話したり、子どもや孫の話題が出たり、何とも和やかな時間が過ぎていきました。
 とんどという伝統行事をこのように地域ぐるみで取り組んで来られた地区の皆さんの心意気が伝わってきました。
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佐保神社-天明の石燈籠

2011年01月14日 06時36分14秒 | Weblog
 年の始めには、氏神様の佐保神社(加東市社)にお参りする機会が多く、先日も社えびすの餅まきのようすを紹介しました。
 今日は佐保神社の本殿の垣の内側にある石燈籠(写真)を紹介します。御神燈と深々と刻まれたこの石燈籠の建立は天明6年(1786)です。天明の時代といえば、浅間山の噴火や飢饉、田沼意次などが浮かんできます。この天明年間の石燈籠は市内の神社でもよく見かけます。200年余り前に建立寄贈されたこの石燈籠。これからもこの場所で世の移り変わりを静かに見ていくんでしょうね。
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繁盛祈って-社のえべっさん

2011年01月11日 05時42分35秒 | Weblog
 9,10日の2日にわたって市内の各神社でえびす祭が行われました。加東市社の佐保神社でも、境内の恵美須神社には多くの人が福をもとめて参拝しました。
 この恵美須神社は享保年間に山氏神社の鳥居前から移転された(『佐保神社誌』)とあります。社殿の脇では、巫女さんが参拝者に御神酒を接待してくれます。人々は蛭子命(御祭神)の御札(紙札、木札)を買い、店に並んだ吉兆や福飴を買って、福引きを楽しみます。時折り、「大当たり~」の景気よく大きな声が境内に響きます。長引く円高・デフレ不況による閉塞感を吹き飛ばして「跳ね」飛び出そうという願いがこめられているようでした。
 10日午後には、恒例の餅まきが行われ、佐保神社拝殿からまかれる餅に多くの人が手を伸ばして拾っていました。若いお父さんが子どものために一生懸命拾っている姿が印象的でした。私は恵美須講の講員で、同じ組の人と当番の仕事をしました。妻と交代しながら飾り付けや御祭事、御札づくりなどをやります。何年かに一度回ってくるのですが、講員は減る一方です。
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冬の朝の大師堂

2011年01月08日 06時05分58秒 | Weblog
 年末年始は全国的に大雪などで荒れました。播州の平野部でも雪が降りましたが、加東市社では、予想されたほどではなく、うっすらと白くなる程度でした。それでも気温はぐんと下がり、空気も凍るようでした。
 正月2日の早朝、お寺へ年賀に出かけます。7時30分頃、持寶院(加東市社)へ出かけました。除夜の鐘を撞きにきて正月が明け、2日の朝、こうして年賀にまた出かけます。熱いお茶をいただきながら話をして境内に出ると、大師堂の屋根に白い雪が残っています。そこに輝かしい朝日が差して光っていました。大正時代の末に建造された大師殿。堂内には日本一木像大師像が安置されています。ぴんとはりつめた冬の朝の大師堂に思わず手を合わせました。
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冬の田と三草山遠望

2011年01月06日 05時46分14秒 | Weblog
 新しく開通した国道372号の社バイパスを走り、社サイエンスパーク(工業団地)辺りまで来ると、視界が大きく広がります。
 冬の田圃は茶色く広がり、その向こうに国道175号、さらに加東市社の市街地の建物が光っています。そして、さらに視界の遠くに連なる山並み、それが三草山です。源平合戦の古戦場として知られる三草山ですが、その山頂からは播磨平野の広々とした風景を望むことができますが、その逆の景色もまた広々として心も大きくなってゆったりします。
 敗走する平家を追って、義経率いる源氏の兵がこの辺りも馳駆したことでしょう。現在では炊飯器やコンピュータ関係の先端産業の工場が集まり、原野はきれいに区画された圃場となり、国道が東西南北に交差しています。しばらく車を止めて三草山を遠くに望みながらそんなことを思ってしまいました。
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