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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和17年-石炭配給の申込

2008年09月29日 06時06分20秒 | Weblog
 ここに「昭和16年度以降 各種報告書綴 調査資料共 社町社区」と表紙に書かれた書類綴があります。綴じられているのは配給などの各種調査資料で、裏紙や紙切れなどに書かれた氏名、数量などがほとんどです。

 そのうち、石炭の配給申込書2通紹介しましょう。



 申込書

一、石炭  参千斤

 右石炭家庭用風呂使用 壱ヶ月 弐百五十斤
  割

 右通リ申込候也

 昭和十七年七月拾日
     加東郡社町社
        阿江辰五郎

 社町役場
   町長  合田常蔵 殿


 石炭申請書

 一月に風呂だき用の石炭百五十斤使用致して
 おります故、何卒よろしくお取計ひ下さいませ

       加東郡社町社
         津吉春信 印

 社区長様


 この他に町内会、組や隣保の申込みをまとめたものが綴じられています。
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山田錦の里の道標

2008年09月28日 17時18分17秒 | Weblog
 28日(日)、東条山田錦の里探訪ウォークに参加しました。12キロのコースを想像していたよりも速いペースで歩き、ゴールの東条温泉とどろき荘に近い岡本の公民館近くの道を歩いていると、交差点の電柱の脇に一本の道標が立っているのが目に入りました。

 「右 大さか ありま 道」 「左 たんばみち」と刻んであります。この道は大坂道で昔から多くの人がこの道標を目印に旅をしたことでしょう。一緒に歩いていた東条の方も「こんなとこにあったんやなあ」と道標との出会いを喜んでおられました。歩いているとこういう楽しみがあります。今日は山田錦の豊かな実りと、多くの人々と、そしてこの道標との出会いがありました。
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昭和18年-国民学校の先生の巡回講話

2008年09月27日 19時39分17秒 | Weblog
 ここに昭和18年(1943)7月15日付、社町長から各区長宛てに出された通知があります。当時の社町は旧社町ですから今の社小学校区域にあたります。
 通知の内容は、社国民学校の校長及び他の先生が各を巡回して講話をするというものです。通知文は以下の通りですが、いったいどんな講話をしていたのでしょうか。60数年前のことですから、この講話を実際に聞かれた方もまだまだご存命の筈。ひょっとしたら講話をされた先生も居られるかもしれません。



 昭和十八年七月十五日
               社町長   合田常蔵

 各区長殿

御多用中毎々何彼と御手数相掛け謝上候
陳は今般社国民学校長及他の先生方よりなる各巡回講話会を来る十七日より始めらるゝ由承り居候
就ては御の講話当日は草取期にて御繁忙の事とは察し上候へ共婦人会員は勿論他の方々も御繰合せの上多数聴講候様特別の御配慮相煩し度
此の段御依頼申上候也

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昭和18年-戦時中の部落中堅指導者の養成

2008年09月26日 06時22分40秒 | Weblog
 昭和18年(1943)5月、加東地方事務所と社町役場の主催で、部落会中堅指導者の養成を目的とする講習会が開催されています。戦争遂行に向けて、国民組織の基盤である部落会の組織強化をめざしたものです。
 会場は社区公会堂となっています。現在、社区公会堂の建物は社市街銀座通りに残っていますが、公会堂としての役目を終え、小規模作業所として使用されています。60年余り前の戦時中にはこうした会合などに使われていたんですね。
 その通知文です。


昭和十八年五月十日

              社町長  合田常蔵

各区長殿

  部落会中堅指導者研究講習会出席方通知

大東亜決戦下国民組織ノ基底タル部落会ガ克ク時局ノ要請ニ応ヘ所期ノ効果ヲ挙ゲルト否トハ一ニ懸リ其ノ運営ノ適否如何ニアリ仍而此際其ノ中堅指導者ニ対シ之ガ運営ノ適正ナル方策ヲ把握セシメ斯会ノ充実強化ヲ図ルニ資シ其ノ目的ヲ達成セシムル為メ左記ノ通リ地方事務所役場主催ニ開催スルニ付キ参集範囲ノ者ハ全員参加スル様指達相成度此段及通知候也

           記
一、日時及場所   社町社区公会堂  五月十一日午前八時午後四時マデ
二、参集範囲    区長、副区長、部長、組長、隣保長及世話係
三、携行品     弁当持参及筆記用具
四、主催      加東郡地方事務所及社町役場


 
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昭和31年-社病院竣工式

2008年09月24日 05時06分20秒 | Weblog
 この写真は今から50年余り前の昭和31年(1956)、昭和の大合併で誕生した新社町建設のシンボルでもあった社病院の竣工式のようすを写したものです。
 社病院は、千鳥川畔に建設され、内科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、小児科、レントゲン科の6科で発足し、のちに眼科を加えて7科がそろった町立総合病院で、その充実した内容は今の医師不足で経営難に悩む自治体病院からすればうらやましい限りです。
 写真には、白衣の看護婦さんの姿がまぶしく写っています。
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昭和19年-座布団の供出

2008年09月23日 07時28分36秒 | Weblog
 昭和十七年以降「社町役場ヨリノ書類綴」(社区)の中に、昭和19年(1944)3月の日付で、座布団の供出に関する書類が綴じられています。
 金属類の供出が行われていたことは知っていましたが、昭和19年になると、座布団まで供出していたのかと驚きました。

 写真は、昭和19年3月9日付の供出座布団受領票です。社町社の1組から20組までの数量、重量、金額が記入されています。総計624枚、金額は946円50銭になっています。受領証の註によると、買収価格は一枚1円50銭。受領証の発行は兵庫県衣服商業組合です。

 
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大相撲

2008年09月22日 05時42分49秒 | Weblog
 アルバムの隅に小さな写真がありました。よく見ると、大相撲のようです。手前で見ている消防団員の背中に「社」の文字がはっきり見えますので、社で開催された大相撲の地方巡業の一こまではないかと思います。
 写真の場所を後ろの風景から探ろうと見ましたが、後方の高いところに松林が見え、その手前に倉庫のような大きな建物も見えます。しかし、どこなのか特定できません。いつのことなのか。私が生まれる前、大相撲が社に来たという話は聞いたことがあります。アルバムをめくってみると、他の写真に東京大相撲、木戸、昭和25年、埋立地などの文字がありました。同じ大相撲の写真ではないかと思います。
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河高のへんろみちの道標

2008年09月21日 06時16分21秒 | Weblog
 滝野南小学校(加東市高岡)の運動会に向かって、加東市河高の国道372号線を走っていると、JR加古川線社町駅近くの道沿いの消防ホースの格納箱の隣に道標が立っているのに気づきました。この道はもう何十年と走っているのですが、これまで道標の存在に気づかなかったのが不思議です。

 車を降りて道標を見てみると、行き先を指した手、そして、「へんろみち」「次ハ加東四国三十四番」と刻まれていました(写真)。下の方に施主の名が刻まれていますが、はっきりとは読み取れません。この道標は加東四国八十八ケ所霊場巡りの道標だとわかりました。

 加東四国八十八ヶ所は四国八十八ヶ所霊場を加東郡(旧)に写したもので、一番が光明寺(旧滝野町)で、旧加東郡(現加東市と小野市域)の寺を結び、八十八番の持宝院(旧社町)までが巡拝順路になっています。大正時代につくられたものですが、江戸時代にもあったようです。三十三番が加古川の東の貝原、そして川を渡って三十四番が河高になっています。121ヶ寺、140キロに及ぶ巡拝路。この道標は巡礼の人々の大切な目印になっていたんですね。


 
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あれは僕等の学校の・・・全校ダンス

2008年09月20日 07時11分16秒 | Weblog
 運動会シーズン真っ盛りですが、私が小学生の頃、やはり徒競走やリレーは今と同じように運動会の花形種目でした。そして、もう一つ。日の丸と校章の2本の旗を持って「あれはぼくらのがっこうの印ぞ青の校章ぞ・・・」(だったと思うのですが)の歌に合わせて旗を振って行進したり踊ったりする全校ダンスがありました。
 明けても暮れてもこのダンスの練習がありました。行進練習では横列を乱さないように歩かなければなりません。いわゆるマスゲームですが、おかげで行進はうまくできるようになっていました。
 この写真は全校ダンスのようすです。後ろに当時の木造校舎の本館(右)と理科室(左別棟)が見えます。本館の2階は和室の作法室、6年生の教室になっていたと思います。今から45年ほど前の社小学校の運動会の写真です。
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運動会シーズン-懐かしの柳も

2008年09月18日 07時03分52秒 | Weblog
 秋の運動会シーズンを迎えています。私たちが小学生だった頃は運動会は10月におこなわれていたと思いますが、近年は中学校が9月の第2週、小学校が3週目あたりになっています。
 この写真は昭和38,39年頃の社小学校の運動会です。ちょうど東京オリンピックが開催されたころです。鼓笛隊の演技が行われていますが、後ろに写っている各のテントや右後方に写っている柳の大木が懐かしく思い出されます。
 男子は白の体操服、女子はブルーマー。鼓笛の練習、旗を持っての全校体操、行進練習に明け暮れた練習の日々がよみがえってきます。
 運動場の向こうに高台が見えますが、今はその辺りに市立武道場、社保育園が建っています。
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社町青年団興国勤労作業

2008年09月17日 07時00分16秒 | Weblog
 この写真は戦前、昭和10年代前半のものだと思われます。畑の中で収穫したとうもろこしを真ん中にしての記念写真です。柱には、「社町青年団興国勤労隊第一作業場」と書かれています。
 写真に写っている団員の顔は皆精悍そのものですが、年齢差もあるようで、中には少年のような顔だちの団員も見えます。70年ほど前の写真ですから、写真中の青年も今は80から90歳代になっておられるでしょう。前列右から3人目が父です。
 
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昭和33年-消防表彰パレード

2008年09月16日 07時22分28秒 | Weblog
 この写真は昭和33年(1958)2月12日に行われた社消防団の日本消防協会表彰の受賞パレードのようすです。前日、2月11日に東京で表彰式があり、翌日、その受賞を町民に披露するパレードが行われたものです。先頭に表彰状、続いて表彰旗、団員が続いています。合併間もない社町では、前年に第一回幹部研修会が清水寺などで開催されるなど、消防体制が着々と固められつつあったときだけに、この消防協会表彰はさらに勢いをつけるものだったでしょう。
 写真には、神姫バスのりばの看板、読売新聞の社販売所の看板、映画の広告看板などが写っていますが、どこなのかよく分かりません。どなたか教えていただければありがたいのですが。
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51年前のミス県内早回り

2008年09月15日 06時58分22秒 | Weblog
 昨日は55年前のオートパレードの歓迎風景を紹介しましたが、アルバムの中にその4年後、昭和32年(1957)9月4日の日付入りの「神港新聞ミス県内早回り」の写真がありました。
 合併間もない社町の役場(現、加東市社、社連合区消防会館、駐車場のある場所)をミスが訪問し、玄関先で高瀬栄一町長(当時)らに歓迎を受けているようすです。
 ミスがかけているたすきには「県下観光地早回り競争・・」という文字が読み取れます。さすがに美人だなと思いますが、役場玄関脇でそのようすを眺める子どもも今は60歳ぐらいになっているはず。
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55年前のオートパレード歓迎

2008年09月14日 07時30分41秒 | Weblog
 この写真は今から55年前の昭和28年(1953)3月14日に、神戸新聞のオートパレードを歓迎する社町民のようすです。昭和28年といえば、私が生まれた年であり、まだ昭和の合併前ですから、旧社町の時代です。
 花束をオートバイのライダーに贈っていますが、その左に立っているのが赤松普現町長(当時)です。場所は後ろの建物のつくりから記憶をたどると、地方事務所の前だと思われます。現在は社一区コミュニティセンター、神戸新聞北播総局のある場所です。
 
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ダムから六甲を望む

2008年09月12日 06時40分30秒 | Weblog
 昨日は、渇水の東条湖の美しい夕景を紹介しましたが、振り返って、ダム(堰堤)から東を望むと澄んだ空気の向こうに遠く六甲連山が青くくっきりと見えました。
 私が立っているダムの上は標高140メートル余り。ダムの高さは40メートル余り。直下を見下ろすと平衡感覚が揺らぎます。ダムから鴨川が田園の中をくねり、東条川に流れ込こみます。川沿いには田圃が少し色づき、その向こうに低く丘陵が横たわって、六甲まで広々とした景色を見せてくれます。
 一緒に訪れた友人と、小学生の頃ボーイスカウトで飯ごう炊さんをしたのは確かこのダムサイトに近い所だったなあ、などと話しながら当時の記憶をたぐってみました。そこで気が付いたことは、二人ともほとんどここまで足を運ぶこともなく40余年の歳月が流れていたということでした。
 これから秋の澄んだ空気と紅葉の季節。ぜひこのダムからの絶景を楽しんで下さい。
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