不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和19年12月-常会メモに見る戦時下の生活 ②

2015年02月28日 04時43分44秒 | Weblog
 昭和19年(1944)12月、社町常会の徹底事項に関する手書きのメモのつづきを紹介します。戦時下の地域生活の一端を知る貴重な資料です。戦局が一層厳しくなり、米の生産や徴用についての記述が見られます。「本年平年作というは対内宣伝」というメモ書きや「女子挺身隊」、「十七才の男子」などの言葉からも、そうした状況が伝わってきます。

(昨日のつづき)

一、酒米割当
  
  社町割当 六一五〇石  (備考)(昨年割当 九二九二石)

一、供出米

  責任生産制ノ再是正ノ止ムナキニ至ル

  本年作柄ヲ平年作トイウフハ対内宣伝=(台湾 要塞化 朝鮮モ不作)

  社町面積五三五町三反(反当二石一斗トスレバ実収二二四一石三斗ナリ)供出米ヲ除ケバ一千七八百石残米 要保有米四千七百石ニ対シ約三千石ノ不足トナル

三十五郡中 九郡-責任 十四郡-減免 三郡-報国供出
最不作 津名郡ハ六割減
加東郡ハ十二月十四日協定(割当)


◎イ 攻撃 → 防御 → 決戦ノ段階ニ入ル

   女子挺身隊ト徴用 (農業要員ノ再検討)

◎△ 十七才ノ男子(自大正十五年十二月二日至昭和二年十二月一日出生) 数ヘ年ノ十八才

   十二月二十日迄ニ届出ノ事 = 用紙ハ役場ニ有リ 印鑑持参 本籍地役場ヘ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和19年12月-常会メモに見る戦時下の生活 ①

2015年02月27日 06時41分41秒 | Weblog
 昭和19年(1944)12月、戦局が厳しさを増す12月の社町常会の徹底事項などが綴じられた当時の文書綴につづいて、手書きのメモが綴じられています。几帳面な字で書き込まれており、チェックも入れられています。戦時下の生活の一端が伝わる貴重な資料です。ドラム缶の手伝いの項で、5人の要請があったところを3人にねぎり、2人を福田村にふる、などのメモもあり、当時の息づかいまで伝わってくるようです。



一、鶉野出役賃金ノ件
一、皇大神宮大麻ノ件
一、月掛官吏転出入ノ件
一、銀供出ノ回覧版配布
一、生姜代ノ件 一匁十四銭 一匁八銭

   綿供出=社町ハ加東郡第二位
   白金ノ供出=成績良好

一、銀ノ供出 割当 社町 十三観百八十匁(一戸約十匁ノ割当) 社区割当目標約六貫匁
  社町=二十三日午前九時 地方事務所ノ会議室ヘ
  布ノ袋ニ入レ 記名シテ提出 (婦人会ノ協力)赤十字社徽章、キセル、カンザシ、メタル

一、松根油

  社町割当  松根五千貫 十二月 一千貫
              一月  二千貫
              二月  二千貫

        松根ノ報告-十二月十五日迠

一、供出薪

  社町割当  四三六〇把 = 実施 一月中ニ三草山、伐採ノ事

一、ドラム鑵ノ手傳

  社駅行 = 社町駅ヘ毎日五人宛ヲ依頼シ来ル = 三人位ニネギル(二人ヲ福田村ヘフリ向ケル)

                               つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和19年-防空徹底事項

2015年02月25日 04時19分45秒 | Weblog
 戦局が厳しさを増していた昭和19年(1944)の12月、社町(現加東市社地域)、常会徹底事項(このブログで紹介)に続いて、「防空徹底事項」が社町役場、社町警防団名で出されています。敵の空襲に備えて防空体制の徹底が示されています。
 余白には、「十二日迠ニバケツに記名」、「社町=二十三日午前九時地方事務所ノ会議室ヘ布ノ袋ニ入レテ提出」など鉛筆書きのメモが書き込まれています。防火訓練や銀の供出についての口頭の指示をメモしたものでしょう。当時の常会出席者の隆かな記録です。

                        
                     社町役場
                     社町警防団
各位殿

        防 空 徹 底 事 項

一、燈火管制ニ付テ

1、空襲情勢緊迫セル今日未ダ準備管制不十分ナル家庭アリ
2、速カニ用具ヲ整備シ管制ニ万全ヲ期セラレタシ
3、常時準備管制下ニ有ルヲ考慮シ一層強化徹底ヲ計ラレ度

ニ、防空壕ノ設置

1、防空壕ノ不完備ノ個所ハ緊急ナル情勢下急速ナル整備ヲ期スル事
2、常ニ点検ヲナシ完全ナル使用ナシ得ル如ク注意スベシ
3、未設置ノ場合ハ早急ニ作成セラレ度

三、天窓調査ノ件

1、各ハ隣保単位ニ付キ天窓ヲ有スル家庭ヲ調査氏名ヲ報告セラレ度

四、警鐘台作成負担金ノ件

五、防空訓練実施ノ件

1、十二月十五日以降二十五日迠ニ於テ訓練実施ノ予定
  ニ周知セシメラレ度
                             
                            以上

註 爾今防空本部ヨリ言責ヲ受ケザル様特ニ申添フ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和19年-佐保神社で応召兵の奉告祭

2015年02月24日 03時47分20秒 | Weblog
 昭和19年(1944)11月、大東亜戦争の戦局は厳しくなていましたが、そうしたなか、社町(現加東市社地域)では、応召兵と現役兵の奉告祭が佐保神社で行われています。その通知が当時の社町の文書綴に綴じられています。
 現役兵9名、応召兵3名。現役兵の中には身近な方の氏名もありました。戦後生まれの私達にはこうした軍隊経験、戦時下での生活経験は全くありませんが、戦後の同じ時代を生きていた親の世代が体験していた時代を今はこうした文書などを通して知ることができます。



 昭和十九年十一月二十一日
                社町役場
  区長
各 学校長 殿
  団体長

  応召兵並現役兵奉告祭挙行ノ件

来ル十一月二十九日午前八時ヨリ佐保神社前ニ於テ左記応召並現役兵ノ奉告祭ヲ挙行可致候条御多忙中ニ候ヘ共御参列相成度此段及通知候也
 尚部内一般ヘモ御示達相煩度

   記

現 松本小弥彌太(社) 山本俊郎(社) 浦上直喜(社) 黒崎春男(社)
  芹生允男(社) 南 進(社) 友原修次(山国) 依藤宗藤(上中)
  長谷川三治(上中)

応 出井新六(山国) 時本 隆(山国) 伊澤大蔵(野村)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和19年-決戦下の入営歓送心得

2015年02月23日 04時54分48秒 | Weblog
 昭和19年(1944)の9月、戦局が厳しくなるなか、出征兵士が増え、その見送り等を簡素なものとすることを徹底するよう大政翼賛会支部長名で通知されています。この通知は、当時の社(現加東市社)の文書綴に綴じられていたものですが、なかなか徹底されていなかったということでしょう。神姫バスの停留所が大熊、依藤の2ヶ所とされています。バスの停留所でも歓送が行われていたんですね。また、テレビなどでも赤襷や国旗を掛けている光景を見ることがありますが、これんも禁止されたんですね。



 社翼第二三号
  昭和十九年九月十六日
      大政翼賛会社町支部長  合田常蔵

各部落会長 
各隣保組長 殿

  決戦下入営団(応召)者ノ歓送等ニ関スル件

標記ノ件ニ関シテハ本年四月常会徹底事項ニ挿入シ通牒致置候處未ダ自覚徹底セザル向多分ニ有之現選挙区ノ段階ニ於テハ入営団(応召)者ノ飛躍的増加ノ現勢ニ鑑ミ之ガ強化徹底ハ生産増強ト重要物資ノ輸送上寄与スル所甚大ナリト思料セラレ候条左記歓送心得ニ付一段ノ実践方御配意相成度重テ通牒候也

         記

◎決戦時入営団(応召)者歓送心得

決戦時ニ於ケル入営団応召者ノ歓送ハ簡素精神的ニ行フコトヲ本旨トシ生産ヲ妨ゲ輸送ヲ妨害シ防諜上利敵行為ニナラザル様左ノ如ク行フモノトス

(一)町村等ニ於ケル歓送ハ、町内会又ハ隣保等ノ地域每ニ神社、学校等ニ於テ厳粛裡ニ行フコトトシ停車場・停留場ノ構内外ハ絶対ニ歓送場トセザルコト 注◎停留場トハ社区内神姫発車場・大熊停留所・依藤停留所ヲ指ス

(二)一般歓送者ハ町村ニ於ケル歓送場ニ於テ見送ルモノトシ停車場停留所ヘハ赴カザルモノトス

(三)入営・団応召者ニ対スル家族知己ノ附添ヒハ絶対ニ禁止ス

(四)入営・団(応召)者ニシテ赤襷或ハ国旗ヲ肩ニ掛クルコトハ之ヲ禁止ス

(五)国旗以外ノ旗幟及提灯等ヲ立テザルコト

(六)多数入営・団(応召)者アルタル場合ハ事及乗車駅ヲ指定スベキニ付之ヲ厳守スルコト
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和17年-防空燈火管制の徹底

2015年02月22日 05時00分47秒 | Weblog
 昭和17年(1942)の7月、大規模な防空訓練が行われたようですが、その結果について、社町長と警防団長名で各区長に対して、徹底を図るようにという趣旨の通知が出されています。防空警戒令発令下の燈火管制を怠った者があったようで、今後は法の適用もあるとの方針を伝えてその徹底を指示しています。
 


 昭和十七年七月五日
          社 町 長  合田常蔵
          社警防団長  藤本綱吉

各区長 殿

   防空下令下ニ於ケル燈火管制ニ関スル件

一昨日午後七時突如警戒管制発令相成帝国本土全般ニワタリ燈火ノ管制ヲ令セラレ国民一致協力国土防衛ノ万全ヲ期シツツ有之候本町ニ於テモ各位ノ御尽力ニ依リ燈火ノ管制ハ行ワレツツアルモ一昨又ハ昨日ノ管制ノ現状ヲ見ルニ感心出来ザルノ状況ニ在リ特ニ警察署長巡視ノ意見ヲ聞ニ防空訓練ニオトルノ感アルヤニ聞キ及ビ真防空ノ感ナキヤトノ意見ナリ今夕後管制不履行ノ者ニ対シ防空法ノ適用ヲ厳ニ行フトノ由貴職ニ於テ隣保世話係ヲ至急集メ右ノ事情ヲ説明セラレ充分世話係ニ於テ実施セシムル様示達相成度候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の夕景-夕焼けの関電タワー

2015年02月21日 04時37分08秒 | Weblog
 私の好きな加東市の夕焼けスポットの一つ、みのりJAの駐車場から見る夕焼けは雄大です。この駐車場に立つと、加東市社の市街を眼下に望み、その向こうに青野原が地平線となって広がっています。
 嬉野台地の西端、駐車場は標高80メートルぐらいでしょうか。加古川の東には、河岸段丘が段をなしています。社の市街地もその段丘の上に成り立っており、さらにその上位段丘が嬉野台地です。県立社高校あたりで標高90メートルぐらいで、さらにその東の高位段丘は120メートルぐらいになっています。
 西は青野原台地が地平線となって北から南へと広角度に視界が広がっています。その地平線にアクセントのようにさらに加西市と姫路方面の山が突き出しています。手前には社の市街のランドマーク、関電タワーが一人立っています。
 まばゆい光を出して、夕日が地平線に消える瞬間をとらえました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枯れ草に埋もれた道標-加東市栄枝

2015年02月20日 06時06分53秒 | Weblog
             

 加東市の中央部の嬉野台地を東西に貫いて東条と社を結ぶ県道の東条側、栄枝地区から嬉野台地の東端依藤野へ続く急な長い上り坂へ入る交差点に道標が立っています。枯れ草に埋もれるように立つ背の低い道標でした。
 いつも車で通っているのですが、これまで気が付きませんでした。手前に石灯籠の石材が重ねて置かれていました。その奧に道標が立っています。
 正面には「右 やしろ・・」「左 三木・・」と刻まれているのが読めます。側面には「四国」の文字も読めました。あとで『東条の道標巡覧記』で調べてみると、天保14年(1843)の建立だと知りました。車で通過するとき、一瞬目にとまったのですが、通り過ぎ、坂の上まで走って折り返してもう一度下ってきて車を止めて調べました。じっくり調べる時間がなかったので、次回はもっとよくみたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和15年-社町社区役員報告 ③

2015年02月19日 04時35分22秒 | Weblog
 今日は、昭和15年(1940)11月、社町社区長から社町長に提出された部落役員報告の残りの部分を紹介します。こうして当時の組長、隣保長の名前を打ち込んでいると、あの戦争の時代に、父を含め、地元の先輩にあたる人々が確かに生きて、活躍しておられたんだなという確かな思いがでてきます。


第十組長  臼井芳太郎
 第一隣保代表 近藤熊太郎  第二隣保代表 堀 良雄

第十一組長 田中辰蔵
 第一隣保代表 安本正男  第二隣保代表 津本正吉

第十二組長 泰井久次郎
 第一隣保代表 門脇栄治  第二隣保代表 松本與七郎  第三隣保代表 肥田信司

第十三組長 阿江辰五郎
 第一隣保代表 高橋公治  第二隣保代表 藤原鶴松  第三隣保代表 藤本貞次郎
 第四隣保〃〃 大西重治

第十四組長 西村久夫
 第一隣保代表 関本源次郎  第二隣保代表 上月幸次  第三隣保代表 衣川計次
 第四隣保〃〃 山本勇夫

第十五組長 松本清太郎
 第一隣保代表 臼井誠四郎  第二隣保代表 山本政友

第十六組長 肥田仙治
 第一隣保代表 時本武一  第二隣保代表 牛居實次  第三〃〃 増田政一

第十七組長 依藤金作
 第一隣保代表 堀本 巌  世話係 神戸幸次  第二〃〃 吉田寅松

第十八組長 土肥音次郎
 第一隣保代表 服部常次  第二隣保代表 西山□一  第三隣保〃 岸本武二

第十九組長 高瀬林之助
 第一隣保代表 上月音次郎





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和15年-社町社区役員報告 ②

2015年02月18日 05時41分18秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和15年(1940)11月、社町社区長から社町長に提出された部落役員報告のつづきを紹介します。役員一覧に続き、隣保の組長、隣保代表の氏名が記されています。
 懐かしい人の名前もあります。中には現在役員などをしておられる方の祖父にあたる方もあり、世代を継いで地域社会のために尽くしておられることがわかります。

  隣 保

第一組長  臼井源次
 第一隣保代表 神第一隣保代表 神戸栄太郎  第二隣保代表 神戸幸一  第三〃〃 中尾甚之助  第四〃〃 藤野佐七郎

第二組長  三木徳次
 第一隣保代表 新見弥右衛門  第二隣保代表 吉澤信太郎  第三〃〃 芹生半三郎第四〃〃 寺本貫次

第三組長  小寺廣吉
 第一隣保代表 末廣千之助  第二隣保代表 守谷正己  第三〃〃 伊藤勝次

第四組長  林佐二郎
 第一隣保代表 上月一治  第二隣保代表 藤原清真  第三〃〃 板谷清之助

第五組長  岸野重吉
 第一隣保代表 上月政雄  第二隣保代表 臼井清二  第三〃〃 福田忠四郎

第六組長  加古栄太郎
 第一隣保代表 藤原一雄  第二隣保代表 藤本利一  第三〃〃 石井喜平

第七組長  肥田耕治
 第一隣保代表 菅井繁治  第二隣保代表 定松孫太郎  第三〃〃 村上逸次  第四〃〃 内藤喜久次

第八組長  松原信次
 第一隣保代表 吹澤健吉  第二隣保代表 中島吉夫  第三〃〃 内橋重太郎  第四〃〃 磯貝喜一郎

第九組長  村上 勝
 第一隣保代表 黒崎喜一  第二隣保代表 大橋佐太郎  第三〃〃 増田栄太郎  第四〃〃 肥田徳一

                              つづく


 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和15年-社町社区役員報告

2015年02月17日 05時07分00秒 | Weblog
 昭和15年(1940)の11月29日付の日付で、社町社区長から社町長に宛てた部落役員報告が当時の社文書綴に綴じられています。大東亜戦争開戦のほぼ一年前に当たり、今から75年前の社区(現在の加東市社)の役員組織や人名がわかります。青年部長の藤本豊治はわが父です。30歳ぐらいだったはずです。

(表紙)
 自昭和十七年一月
 至 〃十九年拾月

  常會協議事項綴

      社常會長


 昭和十五年十一月二十九日
               社町社区長 宮野太吉

 社町長
     大橋實次 殿

 會役員報告ノ件

當区會役員左記ノ通リ決定致候条此段報告候也

     左記

 會長     宮野太吉
 副會長    末永仙太郎
 総務部長   区長兼任(宮野太吉)
 幹事     三木徳次 臼井伊太郎 肥田仙治
 会計     神崎寿景
 勧業部長   藤本弥三郎  副部長 臼井伊太郎
 衛生部長
 軍事後援部長 阿江信太郎
 警防部長   臼井泰一郎
 青年部長   藤本豊治
 婦人部長   黒石寿乃

     隣保
                つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下滝野の阿弥陀堂-春のご開帳

2015年02月16日 05時20分57秒 | Weblog
 久しぶりに日差しが戻った2月15日の午後、加東市下滝野の神結酒造の蔵出しまつりをのぞいてみようと公民館に車を置いて旧道を歩いていると、阿弥陀堂へお参りしている人が見えました。「そうだ、今日は春のご開帳の日か」と思い出し、堂に上がらせていただきました。
 堂には地区の役員さんやお年寄りが居られました。今日は「春の涅槃図のご開帳の日」で、堂内には大きな涅槃の図の掛け軸が披露されていました。中央に横たわったお釈迦様、それを悲しみの表情で見る弟子や人々、動物などが細かく描かれています。年代は分からないそうですが、古いもののようです(写真)。
 お堂は、享保年間(18世紀前半)の将軍吉宗の頃に建てられたものだそうです。堂内には、正面に阿弥陀如来仏、脇に、役行者、不動明王、弘法大師像が安置されていました。
 阿弥陀堂は加東四国八十八ヶ所霊場の第三番霊場でもあります。一番は光明寺、二番は上滝野の薬師庵で、三番が阿弥陀堂、次の四番は北野の東光寺になっています。

 阿弥陀堂で地域の伝統文化を守り続ける地域の方々の厚い信仰心と温かな人情を感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上久米東光寺の大日如来祭り-火渡りも

2015年02月15日 06時07分42秒 | Weblog

                



                

 2月11日(水)、加東市上久米の東光寺では伝統の祭り、「大日ったん」とよばれて人々が親しんできた大日如来祭りが行われました。今年は日が差す穏やかな天気でしたが、時折り強い風が吹くなか、多くの人々がお参りし、祭りの行事が次々に進められ、午後2時頃には寺の前の田圃で護摩焚き、火渡りの行が行われました。私もこれで9年目になると思いますが、火渡りの行をさせていただいています。おかげさまで風邪を引くこともなく元気な日々を送らせてもらっています。ただ、今回初めて火渡りで一瞬ですが、足の裏に熱い!という感覚を感じました。よく火がいこっていました。
 以下、この歴史ブログで紹介してきた、大日ったんの由来などを参考のために再掲します。


 「大日ったん」については、社町時代の「広報やしろ」第10号(昭和35年3月5日発行)で次のように紹介されています。

 「郷土の探究」(8)
 社町にも北播三大祭の一つとかぞえられるものに、上久米にある東光寺の恒例祭とされている「大日如来祭」がある。
 昔から牛馬の守り仏として有名で毎年二月二十八日には播州一円の農家が参拝し、境内せましと思わせる。この日北播一帯の青年有志大相撲が展開されるとともに参道に列をなす植木をはじめ農機具などの多くの露店は、まさに社町のなかでの最大の祭りでもあり、北播三大祭の一つでもある。

 今はこのようなかつての賑わいがありませんが、地区の古老から、この田圃のすぐ下(南)には、米田村役場、小学校、駐在所などがあったことや参道には露店が立ち並び、参詣の人並みが続いたようすを教えていただきました。
 祭りの次第は次のとおりです。

東光寺大日法会
一、午後一時
   大般若経転読
一、午後二時
   大護摩
一、午後三時
   餅配り

日照山東光寺 護摩供養次第
一、法螺 三声
一、山伏問答
一、法弓作法
一、法剣作法
一、法斧作法
一、願文
一、点火
一、導師作法
一、古札供養
一、火生三昧(火渡り) 以上

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河高八幡神社厄除祭りと銭まき

2015年02月14日 05時51分42秒 | Weblog
           

           

 2月11日(水)、建国記念の日の佳き日、穏やかな天気の下、加東市河高地区の八幡神社で恒例の厄除け祭りが行われました。八幡神社は県立播磨中央公園の中に位置しており、多くの人が参拝しました。神社境内では、地元河高地区の皆さんがうどんやおでん、温泉たまごなどの接待をされており、参拝者を温かく迎えておられました。
 八幡神社の拝殿からさらに坂道を上っていくと、山頂の大岩のある場所で恒例の厄年にあたる人たちによる銭まきの行事が行われていました。法被を着た地区の子供達が参拝者がまく銭(硬貨)や菓子、餅などを拾います。今年は例年になく人出が多く賑わっていたように思いました。地域によって大切に継承されている伝統行事です。
 八幡神社とこの銭まき行事についてこれまでこの歴史ブログで紹介してきた話を再掲します。


 河高八幡神社は、今から約470年前の天文4年の創立とされており、「厄除けの霊験頗る顕著」なお宮さんとして知られています。厄除けのお祭りが毎年1月19日に行われ、この日には旧加東郡や加西、多可郡から多くの人が参詣し賑わってきました。近年は2月11日に行われています。
 この厄除祭では、地元出身の成功者や厄年の人たちが神社のある山の頂の祠のある大岩の前でお金(硬貨)や菓子、餅などをまき、それを子どもたちが拾うという行事が行われることでも知られています。神社本殿から山頂へと整備された道をのぼると、巨岩の前の広場には法被姿の子どもたちが群れています。そこへ袋やお盆にお餅などを持った人たちが現れ、巨岩の上の祠にそれをお供え、拝んだあと、子どもの方に向かって硬貨やお菓子をまきます。子どもたちは歓声をあげながらそれを拾って用意した自分の袋に入れていきます。周囲では子どもの親御さんや家族がその光景を微笑みながらみています。
 戦後の一時期、女の子も参加したようですが、今は地区の男の子だけが参加できることになっています。この祭りを「奇祭」とよび、子どもがお金を拾うという行為を好ましくないなどという観点から一部の批判があったことは確かで、かつて毎年新聞でそのようなコメントが付けられていました。しかし、このお祭りは厄除けの祭り、伝統文化、地域社会などの観点から見るとそのような表面的な見方だけの批判は的はずれといわざるを得ません。子ども達は拾ったお金を特別なお金として大切に使い方を考えたと聞くきました。また、拾っている姿を見ていると、年長の者が年少の者に配慮しながら拾っている姿もありました。成功した人が地域に感謝の気持ちを示すというこうした姿勢をこの子ども達がまた継承していき、地域の維持発展につながることになると思います。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民精神総動員兵庫県実施要綱-⑫

2015年02月13日 06時26分48秒 | Weblog
 昭和12年(1937)の国民精神総動員運動の兵庫県実施要綱のつづきを今日も紹介します。今日紹介する部分がこの要綱の最後です。
 六、「実施ノ順序」の「第三期」(10月20日以降)の項、「事変ト実践」です。


第三期(十月二十日以降)

  事 変 ト 実 践

 県ニ於テ行フモノ

1、出征軍人家族慰問及戦病没者墓参

2、県主催、慰霊祭

3、本県出征将兵ニ慰問状、慰問品発送

4、銃後活動美談集印刷配布

5、県下出征勇士殊勲集ノ刊行

6、映画斑ノ派遣


 市町村其ノ他ニ於テ行フモノ

1、市町村、、各学校、銀行、会社、工場等ノ職場每ニ既定実行事項ノ徹底ヲ期スルコト
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする