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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

続-孝女ふさの碑建立趣旨碑文

2010年10月31日 08時37分42秒 | Weblog
 「孝女ふさ」の彰孝碑の建設趣旨を刻んだ石碑が彰孝碑の脇に建てられています。建立年も建立者も刻まれていませんが、碑文からその趣旨を読み取ることができます。桜の古木の枝の下に建てられたこの石碑。碑文は次のとおりです。

孝女ふさ彰孝碑建設について
この彰孝碑は美はしい孝乃徳を彰かにする為に建てられたもので
あるもともとこのでこの計画のあつたのを明治四十四年国定の
修身書にふさ女の事跡を公にされたそれを動機に時の郡長町
村長郡会議員郡教育会長小学校長等が發起してこの計画を
一層意義あらしめやうと郡内の篤志者や県下の各小学校から醵
金を募ることとしたそしてその醵金で曽てふさ女の所有であつ
た所謂孝行田一段六畝五歩を買収しこれを永遠維持の資にあて
其傍にこの碑を建てることになつたのである
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孝女ふさの碑-碑文

2010年10月30日 06時52分16秒 | Weblog
 加東市上三草の旧街道沿い、下三草との境に近いところに大きな石碑があります。これが、「孝女ふさの碑」として知られている彰孝碑です。

 「ふさ」は、18世紀半ば、江戸時代の人で、社村(現加東市社)に生まれ、6歳のときに上三草村(加東市上三草)に養女に行きましたが、養家は貧しく、幼い頃から子守りをしたり、奉公に出て一生懸命働きました。また、奉公のひまを見ては両親の世話をしていたのです。親への孝行ぶり、仕えた家への忠節に人々が感心し、庄屋さんを通じて殿様の耳にまで届き、異例の褒賞が下されたということです。その生き方が戦前の修身教科書に「孝行」の模範として取り上げられていました(小学校修身書巻四の第八孝行)。
 この「彰孝碑」は、大正11年(1922)に建立されたものですが、題額は戦前の大ジャーナリスト徳富猪一郎(蘇峰)の筆になるもので、この地方の名勝の一つであったようです(『新修加東郡誌』)

 この歴史ブログでは、桜の頃の碑、道徳かるた、修身教科書など、これまで何度も紹介してきましたが、今日は「彰孝碑」の碑文を紹介します。

彰孝

孝行田碑        蘇峰徳富猪一郎題額
加東郡有孝子曰房女寛政二年七月官得里生上状
褒曰房女累年對養父母致孝其賜金旌之房女父重
兵衛養為上三草村農茂兵衛女家貧幼出雇傭謹慎
無過失到處得主家之歡房女在外悲晨夕缺定省或
於夜分或於農隙即請看親主家無不憐而遣歸之劬
劬勞勞奉養僃至三十年不衰噫孝矣房女既膺襃胥
謀講置田數頃以供家資時人呼曰孝行田寔有以也
大正三年十一月間本郡人士議曰孝行田不得在其
子孫可恥也乃醵金贖回以繼孝子之志實距房女之
生六十餘年也孝也之徳之感人休哉是可以銘也銘曰
 惟人有徳 惟孝爲尊 田曰孝行 式範後昆
           君山稻葉岩吉撰
大正十一年四月    雪渓金澤雄七書


 
           
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続-嬉野台地の開発計画(大正2年)

2010年10月29日 04時59分49秒 | Weblog
 大正2年(1913)5月30日付の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に嬉野台地の開墾計画の概要という見出しの記事が掲載されています。
 記事によれば、嬉野開墾について、明治42年に県の技師に依頼をして調査した結果が次の通り報じられています。

一、嬉野の土質は粘土質にして水の浸潤極て少なきを以て用水期間95日と定め一反歩に付百五十立坪の水量を要す総反別五百八十一町とせば其水量八十七万一千七百七十立坪即ち一億八千八百三十一万二千三百二十方尺なり

一、引用水源は同郡鴨川村の内下鴨川村字森下の井堰を設け米田村の内畑村、廻り淵村に通ずる里道の交叉点より上流百間の位置に予定し上東条村の内黒谷村及米田村地内を経て嬉野原野の高地下東条社米田の三ヶ町村界線を終点とし延長八千十間の疎水溝を設くるを可とす(水源地と終点地の落差は二十四尺〇3分平均勾配二千分の一なり)

一、用水引用期は東条川河水を其下流に於て使用する期間を除き毎年九月下旬より翌年五月下旬に至る二百四十日間に引用するものとす

一、水路より引用する疎水は其灌漑季迄貯溜せんため水支線路より分水し適当の地に貯水池を築造すべく其貯溜池十七ヶ所貯水量八十七万四千三百六十七立坪七合とす

 以下略~

 この計画によれば、鴨川を水源として水路を嬉野台地の一番高い地点まで引き、灌漑期間以外の9月から翌年5月までの間に池を築いて溜めておく、というものです。嬉野台地の土質は赤土の粘土ですが、水さえ通せば良田にすることができるとしています。こうした水利システムはすでに加西郡やいなみ野台地の開発で行われてきたものであり、その経験を生かすということでもありました。
 この計画はすでに明治時代に出来ていたということになりますが、鴨川にダムが築かれて、嬉野台地に水が送られてくるのは終戦後の昭和20年代まで待たなければなりませんでした。
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上三草の善導大師道標

2010年10月28日 05時19分46秒 | Weblog
 加東市鴨川からの帰り、国道372号から馬瀬を過ぎて、旧道に入り、山口を通って、上三草の家並みが続く辺りを下っていると、右手の一画に大きな石柱が立っているのに気がつきました。また、そのすぐ側に南天の木が繁っており、よく見ると、その中に道標がありました。
 石柱には「善導大師道」と刻まれており、滝野の光明寺への参拝道を示しています。また、南天の木を手でよけて見ると、道標には「左ほっけ・・」と刻まれているのが読み取れました。
 この旧道は京街道とよばれ、京都から播磨へと抜ける街道であり、西国三十三番霊場の巡礼道でありました。各所に法華山(ほっけさん)、清水(きよみず)と刻まれた道標が建てられています。また、この旧道をもう少し下ると、大坂街道と交わる所があります。滝野へとつながっていますから、「日本一幅善導大師」光明寺への参拝道でもあったのでしょう。
 
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大正2年-嬉野開拓協議会が開かれる

2010年10月26日 04時44分39秒 | Weblog
 神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)の大正2年5月15日付(1913)に嬉野開拓協議会が開催されたという見出しの記事が掲載されています。今月23日のブログで嬉野開拓に関する記事を紹介しましたが、その後、協議会が開催され、期成同盟会が組織されたことが報じられていますので紹介します。

●嬉野開拓協議会
加東郡嬉野原野開拓第一回協議会を十二日同郡中東条村尋常高等小学校大講堂に於て開催したり当日出席者は関係町村なる社、福田、上福田、米田、下東条、中東条、鴨川の八ヶ町村長、町村会議員、大字区長惣代其他有志等百余名にして当日は山県加東郡長、本多郡書記も臨場の上先づ山県郡長より嬉野原野開拓計画に就て従来の経歴を述べ出席者一同に嬉野開拓概要書を配付し之が説明をなし次で米田村長山本友太郎氏(郡会議長)は本事業の極めて有利有望なることを説述して賛成を求め亜で前代議士西村真太郎氏は明石、美嚢、加古三郡に渉る山田川水利組合事業と嬉野開墾計画概要とを対照比較し其有利有益なる事を説明的講話をなし夫より協議会を終り山県郡長を座長に推し開拓経営準備として期成同盟会を組織する事とし会則を協議したり ~後略~

 今では豊かな田園と兵庫教育大学、生涯教育センターなど教育施設がある嬉野ですが、約100年前は広大なる原野が広がっているだけでした。その開拓計画が動き出していたんですね。
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大正15年-加東郡の合併や大師殿の話題が新聞に

2010年10月25日 08時37分33秒 | Weblog
 神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)は明治10年代に創刊された兵庫県を代表する地方新聞です。その又新(ゆうしん:略称)の大正15年(1926)1月6日付に、加東郡(今の加東市、小野市域)の話題などが報じられています。
 1つは加東郡の合併の動きに関する記事、1つは社の持寶院の大師堂建造の進捗に関する記事、さらに上福田村の忠魂碑建設の記事などです。
 写真は昭和10年代の大師殿です。

●「具体化して来た加東郡の町村合併 全権委員選定始まる」との見出しで、加東郡北部五ヶ町村の合併問題について、当時の加東郡生子郡長の斡旋で各町村の全権委員選出の運びになっている、との内容の記事。

●「大師殿立柱式」の見出しで、社町(現加東市社)の持寶院境内で建設中の加東四国霊場根本道場の大師殿の建設工事が順調に進捗し、1月中に立柱式が行われる、という内容の記事。

●「忠魂碑建設」の見出しで、上福田村の在郷軍人会が寄付を募り、三草小学校の敷地に忠魂碑を建設することになったという記事。


 この他に、社税務署、加東郡畜産組合、さらには「加東の賭博」の見出しで、加東郡内で賭博開帳で逮捕されたという記事も掲載されています。
 新聞記事は、その時代にその地方で生起した事実を生々しく伝えているので歴史を見るときには貴重な資料の一つになります。
 
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河高のコスモス

2010年10月24日 06時08分32秒 | Weblog
 23日、加東市河高を車で走っていると、コスモスが満開で日に輝いていました。加東市の花でもあるコスモス。市内各所でコスモスが咲いている風景を楽しむことができますが、まさに今を盛りに咲き乱れるという言葉がピッタリのコスモスです。思わず車を降りてシャッターを押しました。
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大正2年-嬉野開発の計画

2010年10月23日 05時05分37秒 | Weblog
 神戸又新日報の大正2年4月25日付に、嬉野台地の開墾計画が動き出したことが報じられています。

●加東郡嬉野開墾協議会
 加東郡社町外七ヶ町村所属の嬉野は県下に於ても著名の広野にし元陸軍演習地として屡々使用せられし原野なるが這般同地を郡事業として開墾すべく計画を立て是が用水の水源地を鴨川村土江の滝と称する谷川より引水するとし既に設計実測等を終りしも種々の都合上一時中止の姿となり居りしが本月廿一日関係町村の有力者四十余名米田村に集会し種々協議の末今回の米国排日問題に鑑み同地を開拓し細民の海外移住者を此地に留め新町村を形成することに決し当日山県郡長、本多郡書記も臨場の上愈々来五月五日若くは六日関係町村長、郡会議員、有志者等社町郡公会堂に於て打合会を開催することに決定せり因に同地組合町村は社、上東条、中東条、下東条、米田、福田、上鴨川の八ヶ町村なり

以上がその記事です。嬉野台地の開発計画が大正時代のはじめにあったこと、また、その水源として今の東条ダム(鴨川ダム)あたりから引くことも計画されていたということに驚きました。敗戦後、食糧難を解決するためにダムが建設され、嬉野台地に水が引かれて台地の開発が進みましたが、もっと以前から、今から約100年も前からそのような計画があったんですねえ。
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昭和30年-社町と東条町が発足

2010年10月22日 04時48分26秒 | Weblog
 神戸新聞の昭和30年(1955)3月31日付の東播版Aに「加東郡の二町仲よく発足」の見出しと地図が掲載されて、社町と東条町の発足が報じられています。
 
 二十九年度も大づめのきょう三十一日、加東郡で二つの新しい町が誕生、力強い新生第一歩を踏み出す。一つは郡北部の社、上福田、福田、米田、鴨川の五ヵ町村が結ぶ新”社町”一つは東部の上東条、中東条両村が合併して町制を布く”東条町”いずれも幾多の曲折を経ただけにその喜びと感激は一しお深いものがあり、社町では同日午前九時から町役場で開庁式を挙行、翌四月一日から三日間、旗行列、屋台、だんじり練出し、花自動車パレード、義士討入行列など多彩な祝賀プランを繰りひろげ、また東条町でも同日午前十時から小学校で開庁式、ひきつづき数々の祝賀行事に新町の門出を喜び合う。なおこれで同郡の町村合併は一段落し、合併前の十五ヵ町村から一市(小野市)三町(滝野、社、東条)になった。

 いわゆる昭和の大合併で誕生した社町と東条町の門出を伝える記事です。もう55年前のことになりました。
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大正3年陸軍大学生演習で、皇族が社町にご宿泊

2010年10月21日 05時53分53秒 | Weblog
 神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)の大正3年10月24日付に、「両殿下御見学と社町」という見出しの記事が掲載されています。
 大正3年(1914)ということは、今から96年前のことですが、陸軍大学生の演習が行われ、10月21日に篠山を出発し、午後3時には社町に到着し、陸軍大学生の朝香宮、東久邇宮の両殿下は宿舎に入られたという内容の記事です。
 東久邇宮殿下は西村真太郎氏別邸新築座敷に、朝香宮殿下は社町公会堂に、由比中将は肥田旅館に、その他教官等は町内各旅館や料亭に分宿したと報じています。
 西村真太郎は明治時代に衆議院議員を長くつとめた加東郡(現加東市、小野市域)の政治家、実業家で、社町に別邸がありました。
 演習は3日間行われたようですが、その間、帝国在郷軍人会社町分会の会員は役場に詰めきっていろいろお世話にあたったとも報じています。
 そんな歴史があったんですね。西村氏別邸も肥田旅館も今はありません。しかし、昔の新聞を読んでいると、こんな記事を発見することがあります。
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第1回総選挙-兵庫県第六区の候補者選定広告

2010年10月20日 04時45分31秒 | Weblog
 昨日、明治23年(1890)に実施された第1回衆議院議員選挙の候補者選定に関する新聞報道を紹介しました。
 今から120年前にわが国では第1回目の総選挙が行われ、全国から300人の衆議院議員が選出されました。小選挙区制で行われ、兵庫県は10区に区割りされ、2人区が2区設けられたので12人が選出されました。
 わが加東市は、第六区で、当時の郡名では加東郡(現加東市、小野市域)、加西郡(現加西市域)、多可郡(現西脇市、多可町域)の範囲が選挙区でした。昨日紹介した三郡自由同盟会はこの三郡の自由派の有志の団体です。協議の結果、近藤常三郎が予選会で候補者に選定されたという記事を紹介しましたが、実はその後、近藤が辞退したために、候補者を高瀬藤次郎に選定しています。その広告が選挙直前の23年6月末の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に掲載されています。
 第六区では、自由派から高瀬藤次郎(現加東市吉馬)、改進党から丸岡寛三郎(現多可町中区)、中立派から西村真太郎(現小野市小田)の3人が候補者として熾烈な選挙戦を展開していました。板垣退助が社村に来たのも自由派を応援するためだったのです。
 今日はその自由派の候補者選定広告を紹介します。
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社の持寶院で自由派有志懇親会-第1回総選挙に向けて

2010年10月19日 05時21分54秒 | Weblog
 神戸又新日報の明治23年5月18日付に、衆議院議員選挙に向けた県内各選挙区の動静が報じられています。第1回の総選挙はこの年の7月1日に実施されるのですが、これに向け、各選挙区では候補者選定の有志懇親会が開催されていました。
 
 記事によれば、社村(現加東市立社小学校区)の持寶院(加東市社)に、第六区(加東、加西、多可三郡、現小野市、加東市、加西市、西脇市、多可町)から41人が集まり、候補者選定等について話し合っています。この懇親会では、三郡聯合会の規約などが話し合われたが、まとまらず、翌日も協議が行われて、三郡自由同盟会とすることが決まっています。そして、候補者の予選会が行われ、高瀬藤次郎、河合半介の二人が同士打ちとなることを避けるために辞退し、近藤常三郎が選ばれたと報じています。近藤常三郎は再三再四辞退したものの最終的には受け入れたようです。

 このように第1回の総選挙に向けての有志懇親会や演説会などがこの持寶院で開かれています。以前にも紹介しましたが、この持寶院には板垣退助もやってきて演説をしています。当時の政治活動の舞台でもあったんですね。
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東実阿弥陀堂の石仏

2010年10月18日 06時25分30秒 | Weblog
 加東市東実の阿弥陀堂の脇に、石仏を彫った石が台座の上に置かれています。
 石窟の中に居られるように大きく彫り込んだ中に浮かびあがるように一体の石仏が彫られています。そして、その下の部分に2体の小さな仏が彫られています。
 このブログでも紹介した、上三草の磨崖仏と同じような配置だなと思いながら手を合わせました。どういう仏さまか、それは分かりませんが、こころが落ち着きます。
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秋空にタワーも高く-社のランドマーク

2010年10月17日 05時54分58秒 | Weblog
 日中はまだ暑い日が続いていますが、朝夕はだいぶ冷えてきました。
 夕暮れ、社の田町通りから学校道(社小学校への道)を歩いていると、家が途切れて視界が一気に広がりました。
 西の空には、雲が高くたなびき、関西電力社営業所の鉄塔が空をバックに高くそびえている景色が目に入ってきました。
 タワーは高台にある社の市街地のランドマークとして、遠くからもよく見えます。タワーが空の高さをいっそう引き立ててくれる夕景でした。
 このタワーに名前、愛称をつけてもっと身近に感じたいですね。
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旧加東郡公会堂-創建当時の門柱

2010年10月16日 05時38分43秒 | Weblog
 加東市社の市街地の南の端の辺りに明治館があります。このブログでも何度か紹介してきましたが、この建物は明治45年(1912)に加東郡公会堂として建てられたものです。
 それ以前は社村の役場があったのですが、明治45年6月に社町となり、この役場の地に郡公会堂が建設されることになり、隣接地に新庁舎が建てられました。公会堂では、郡会が開かれ、加東郡(現加東市、小野市域)の政治や文化の中心としての役割を果たしてきました。また、明治の初めには、この地に社小学校の前身である八城学校があり、瀟洒な校舎が建っていたそうです。
 現在は明治館として往時の姿をそのまま伝える貴重な歴史的建物として親しまれていますが、塀で囲まれたその前庭の隅に、2本のさほど大きくない石柱が立っています。その脇に小さな石の標識があり、「創建時の北門の石柱」と刻まれています。公会堂の建物は正面が東向きになっているので、北門は隣りの役場や佐保神社へつながる参道に面していたのでしょう。
 ひっそりとした明治館の庭の隅に静かに約100年前の創建当時の姿を伝える門柱でした。
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