不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和初期の社尋常高等小学校の教育③

2011年02月23日 05時05分49秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和初期の加東郡社町立社尋常高等小学校の教育を「一覧」から紹介します。「訓育」「体育附養護」の項目に挙げられている内容を見ると、登退校時礼式、神社参拝、義士会など当時の時代性を表す項目がありますが、基本はそれほど違っていないんだなと思います。隔月で「マクリデー」があったんですね。虫下しの苦い薬ではなかったかと思いますが。


訓育

1.校訓要目徹底
2.校訓徹底日・・・毎月二回
3.登退校時礼式
4.朝礼
5,早起会と神社参拝
6.自治会
7.共同作業・・・毎月一回
8.児童訓練当番
9.容儀服装検査・・・毎月月曜日
10.部落役員制と訓話
11.職員、児童弔慰規定
12.日本少年赤十字団加盟
13.共同購買当番
14.記念日講話
15.義士会・・・義士墓展墓
16.貯金奨励・・・貯金デー

体育 附 養護

1.設備 略
2.正課、体操、競技、遊技
3.課外の運動、前項運動日
4.運動会 年一回
5.体育会 毎月一回
6.遠足及旅行 春秋二回
7.身体検査結果処理、姿勢矯正
8.マクリデー 隔月一回
9.清潔法 普通掃除毎日、大掃除毎月一回
   大清潔 毎年夏季一回
   井戸替 毎年夏季一回
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続-社尋常高等小学校の教育

2011年02月22日 05時13分10秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和初期の加東郡社町立社尋常高等小学校の教育を紹介します。
「一覧」(今でいう要覧)の中の「学校経営の実際」の項に挙げられている事柄からは、当時の学校での教師の仕事の内容が読み取れます。用語は少し違っていても内容的には今と基本的に同じようなものだったんだなと思いました。

五 学校経営の実際

一般

1、学校経営案(校長)
2.学級経営案(学級担任)
3.年中行事 毎月行事
4.環境整理
 学校・・・校風樹立、校舎、運動場清潔、整頓、設備充実
 家庭・・・家庭訪問、保護者会、展覧会
 社会・・・青年団、処女会、戸主会、婦人会
5.職員修養研究
 研究教授、近接学年研究会、同学年研究会、体育研究会、参観視察、研究発表会、音楽研究会

教授

1.時間表制定
2.教案作製
3.教授予定案週録
4.自習用書の設備
5.成績考査方針の活用
6.展覧会、成績品掲示
7.研究教授、指定、近接学年、同学年・・・月二回
8.教科担任
9.読書会
10.文集刊行
11.唱歌演奏会









コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和初期の社尋常高等小学校の教育方針

2011年02月21日 05時32分20秒 | Weblog
 ここに昭和初期のものと思われる「加東郡社町立社尋常高等小学校一覧」があります。これは現在の学校要覧にあたるもので、16頁の小冊子になっています。
 これまでにこの歴史ブログでも何度か紹介してきましたが、今日は、その中に書いてある「教育方針」を紹介します。自己の人格の向上に向けて努力する人をめざすというのは教育の変わらざる目標だと思いますが、「純美的生活」の実現といった教育方針が掲げられていることに驚きます。写真は昭和10年代の本館校舎です。

教育方針・・・・・国民的、文化的、人格主義
生活人の生涯は理想の追求でなければならない。理想は自己意識に依つて確立され培養されるもので有る。本校児童の欠陥は概括して自己意識の不鮮明なところに在る茲には文化の継承も、将創造もない、故に常に自己の理想に向つて、自己を進展せしめねばならない事を意識せしめ個人的発展の要素を充足体現せしめ、人生生活の有機的関係即ち団体的生活の真義を理解せしめ国民として、地方民として個人として自己のより良き生活境を創造して常に自己の全人格の向上発展に精進する努力実行の意志を盛んにし、人と友に生を楽しむ純美的生活を遂げしむるを以て教育の方針としたい。


                                 日進更張
     力の人を作る(生活開拓の力の養成)・・主体的見地に立つ
生活人                              執中創造   個人の団体的発展
     道の人を作る(実践人の養成)・・・・・校訓に馴致せしむ      
                                 共存共栄
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正15年-社町の評議員・参与員会協議事項

2011年02月19日 06時00分35秒 | Weblog
 旧社町(現在の加東市立社小学校区域)時代の社区の文書が綴られている『大正15年 雑書綴 社町社』の中に、評議員・参与員会の協議事項の項目を書いたメモが綴じられています。
 そこには、県立社高等女学校の負担金の件、池の埋立、病院設置案、溜池築造の件など、重要なことがらが協議されていたことがわかります。社高女は郡立から県立移管の際に小野から社へ移転新築されましたが(大正11年)、社が大きな地元負担をしており、その負担金が完結した、ということでしょう。慰労会開催の提案は賛成されています。また、新池埋立の件も通過、と書き込みがありますが、現在の関西電力社営業所の位置が埋め立て地です。カラクニ谷溜池の件とは、昭和池築造のことで、大正13年の大旱魃のあと、三草山の麓のカラクニ谷に巨大な土堰堤を築いて溜池をつくるという計画です。このような後の時代の発展の基盤となるさまざまな重要案件が協議されていたんだなとあらためて郷土の先人のまちづくりへの尽力に思いを馳せることになりました。写真は昭和池です。
 メモは次の通りです。

大正拾五年十二月九日評議員会及参与員会

 協議事項

一、女学校負担金完結報告並ニ慰労会ノ件 賛成
一、新池埋立ノ件 通過ス
一、当町ニ病院設置ノ件
一、等級原案作製ノ際ノ委員選定ノ件
一、奨励金改正ノ件
一、カラクニ谷溜池ノ件
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正15年-社の忠魂碑除幕式

2011年02月18日 06時50分03秒 | Weblog
 『大正拾五年四月 雑書綴 社町社』の中に、社の忠魂碑の除幕式の案内通知が綴じられています。
 社の忠魂碑は加東市社の市街地の南端、明治館(旧加東郡公会堂)の敷地内にありますが、その忠魂碑が建立されたのが大正15年(1926)、除幕式が行われたのが9月28日だったのです。

 式は午前10時から行われ、併せて招魂祭も執り行われ、余興として大阪から招いた筑前琵琶、浪花節も行われました。戦後の昭和28年(1953)には、忠魂碑の両側に英霊の御尊名を刻んだ碑が建てられました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪景色三草山

2011年02月16日 04時56分26秒 | Weblog
 15日(火)朝、前日の雪が朝日にまぶしく光っています。加東市の中心に広がる嬉野台地を車で走っていると、源平合戦の古戦場で知られる三草山(標高423m)が白く雪化粧をして遠望できました。
 今から827年前の寿永3年2月、源義経は一ノ谷に向かうべく、京から丹波を通り播磨へ抜ける裏道を駆け、三草山に陣を張る平資盛らに夜襲をかけました。敗れた平氏はこの嬉野にも逃げてきたことでしょう。義経はこの三草山合戦のあと、有名な一ノ谷の合戦に向かうのです。
 三草山は中国山地から播磨平野に抜ける位置に独立してそびえる山で、古戦場として、また、登山コースも人気がある加東市のシンボル的な山です。雪景色もいいですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-区長会で陪審法講演会など協議

2011年02月15日 05時16分19秒 | Weblog
 『大正拾五年四月「雑書綴」社町社』の中に、昭和2年(1927)3月5日に社町役場で開かれた区長会議の協議事項と題した文書が綴じられています。
 当時の社町は、昭和の合併前の旧社町で、現在の社小学校区にあたる区域です。家屋調査、税の申告の他、陪審法に関する講演会などが協議されたようです。
 写真は社区裁判所で、昭和10年代のものです。

区長会協議事項
          昭和二年三月五日

一、家屋調査ニ関スル件(別紙)

一、所得税、営業収益税申告ニ関スル件(別紙)

一、陪審法講演会開催ニ付出席督励ノ件
来ル本月十日午後一時ヨリ神戸地方裁判所検事正竹内佐太郎氏出張講演セラルル事ニ相成候ニ付テハ右陪審法ハ我国最初ノ制度ニシテ近ク実施ヲ見ントスルモノニ有之従ツテ之レガ理解ハ陪審法ノ実施ノ効果ニ多大ナル影響ヲ及ホスモノニ有之此際可成多数聴講相成様御配意ヲ乞フ

一、湊川神社寄付ノ件(口頭説明)

一、社町消防組演習手当、補助ノ件(口頭説明)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上久米東光寺で大日祭

2011年02月13日 05時51分41秒 | Weblog
 2月11日(金)、建国記念の日は、加東市の東西で伝統の祭りが行われました。昨日のブログで紹介したのは河高の八幡神社の厄神祭り。そして、今日は上久米の東光寺で行われた大日祭を紹介します。

大日祭は「大日さん」とよばれて昔から親しまれてきました。かつては参道に植木や露店が立ち並び多くの人出で賑わったという話をよく聞きます。今年もそんな昔の賑わいを懐かしみながら祭を楽しむ参詣の人々でした。

 社町の広報に掲載された大日さんの紹介文を今年も掲載します。

 「郷土の探究」(8)
 社町にも北播三大祭の一つとかぞえられるものに、上久米にある東光寺の恒例祭とされている「大日如来祭」がある。昔から牛馬の守り仏として有名で毎年二月二十八日には播州一円の農家が参拝し、境内せましと思わせる。この日北播一帯の青年有志大相撲が展開されるとともに参道に列をなす植木をはじめ農機具などの多くの露店は、まさに社町のなかでの最大の祭りでもあり、北播三大祭の一つでもある。

 本堂の正面には牛の草鞋がたくさん吊してありました。もう牛を飼っている農家はありませんが、往時の賑わいを伝えてくれます。祭の楽しみは寺の前の田圃で行われる護摩焚と火渡りの行事です。山伏問答から始まり、四方へ矢が放たれ結界が結ばれます。本堂で採火された火がつけられるともうもうと煙があがり、強い風にあおられて炎が燃え上がります。火が小さくなると、護摩檀が崩され、火渡りの道がこしらえられます。その頃になると、多くの参拝者が田の中に素足になって並び始めます。孫の手を引いたお祖父さん、子どもさんと一緒の若いお父さん、警備の消防団員など、山伏さんに背中に何やら指で字を書いていただいてから一気に渡ります。まだ火がところどころ出ているのですが熱くないのです。今年もこうして無事に火渡りを終えることができました。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雪の中、河高の厄神祭

2011年02月12日 05時48分26秒 | Weblog
 2月11日(金)、今日は建国記念の日。紀元節。玄関に国旗を揚げて祝います。この日、加東市河高の八幡神社で厄神祭が行われ、背後の五峰山もうっすらと雪化粧するなか、多くの人が参拝しました。
 八幡神社の脇から山の上に通じる道を登ると、頂上部分には大きな岩がむき出しになっており、その真ん中の大きな岩の上に祠が祀られています。その前の平坦な広場には結界が張られ、法被姿の数十人の子ども達がいます。これは、厄年の人や河高出身で成功した人達がふるさとへの感謝の気持ちを込めて、お金や菓子、餅などを神様にお供えしたあと、子ども達に向かって投げるのです。子ども達はそれを拾うという行事が行われています。結界の周囲には子ども達の家族や消防団の青年等が見守っています。
 さて、この河高の八幡神社の厄神祭について、これまでもこの歴史ブログで紹介してきましたが、再度紹介します。

 河高の八幡さんは、今から約470年前の戦国時代、天文4年の創立とされ、「厄除けの霊験頗る顕著」なお宮さんとして知られ、厄除けのお祭りが毎年1月19日に行われていました。この日には旧加東郡や加西、多可郡から多くの人が参詣したと聞きました。また、地区の子どもたちはこの日ばかりは学校を休んでお祭りに出たということでした。年輩の方の話では、前夜から友達と連絡を取り合い、午前3時頃から山の上に向かつたそうで、親も寝ておれなかった、ということです。戦後の一時期、男女平等ということで、女の子も参加したようですが、今は地区の男の子だけが参加できることになっています。この祭りを「奇祭」とよび、子どもがお金を拾うという行為を好ましくないなどという観点から一部の批判があったことは確かで、毎年新聞でそのようなコメントが付けられていました。しかし、このお祭りは厄除けの祭り、伝統文化、地域社会などの観点から見るとそのような表面的な見方だけの批判は的はずれといわざるを得ません。子ども達は拾ったお金を特別なお金として大切に使い方を考えたと聞くきました。また、拾っている姿を見ていると、年長の者が年少の者に配慮しながら拾っている姿もありました。成功した人が地域に感謝の気持ちを示すというこうした姿勢をこの子ども達がまた継承していき、地域の維持発展につながることになると思います。こうした思いも実際に祭りを直に見てはじめてもつことができるものです。

 子ども達に聞いてみると、昨夜10時過ぎからここに居るという子もいました。また、知り合いの河高出身の女性が娘さんの厄除けということで来られていました。神社の境内では、河高地区の皆さんが温泉たまご、うどん、そば、おでんなどの店を出して賑わいづくりをしておられ、身も心も温まりました。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和9年-健康博覧会入場券

2011年02月11日 06時12分29秒 | Weblog
 「昭和八年四月 雑書綴 社町社区長」には当時の通知などの文書が綴じられています。その中に茶封筒が挟んであり、中に健康博覧会の入場券が数枚入っていました。
 タテ7センチ、ヨコ9.5センチの小さな入場券(写真)には次のように印刷されています。昭和9年(1934)年の始めの3日間、郡公会堂(現加東市明治館)で開催されています。夜10時まで開催とあり、当時はこの時間帯でも人が街中へ出ていたんでしょうか。
 
 輝く健康博覧会  

特別会員権(一葉一名限)
(本券持参者ニ限リ会費特ニ 金十銭)

会期 自一月二日 至一月四日 毎日午前九時ヨリ午後十時マデ 晴雨不論

会場 社町 郡公会堂

後援 社町役場 社警察署
主催 帝国保健協会

   (枠外に) 社町
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和8年-農会の蔬菜種子斡旋

2011年02月10日 05時05分13秒 | Weblog
 昭和8年(1933)の社町社区長の「雑書綴」の中に、社町農会から各区長宛てに出された「蔬菜種子斡旋」の通知が綴じられています。この社町は昭和の合併以前の社町ですから、今の加東市社小学校区にあたる区域です。
 「蔬菜」(そさい)とは、野菜などのことですが、通知にはさまざまな種類の野菜類が書かれています。以下の通りです。

 昭和八年八月十八日
             社町農会

区長 殿

  蔬菜種子斡旋の件

左記蔬菜種子斡旋候条来ル二十二日迄ニ御取纏メノ上御申込相成度願上候也

    記

紫雲英 種子 一石当  ※れんげのこと
    一等 七〇円
    二等 六〇円

種類  一合当値段

黄大玉葱     六〇銭
聖護院大根    一二銭
白首宮重尻丸根  二〇銭
天満大根     一一銭
野崎結城白菜   八〇銭
サダヤ甘藍  二円〇〇
天王寺蕪     一二銭
休菜        八銭
金時人参      六銭
水菜       二〇銭
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉井の住吉神社

2011年02月05日 05時00分02秒 | Weblog
 先日、加東市吉井の住吉神社の石鳥居の前に置かれている不思議な力をもつ竜神岩を紹介しましたが、今日は住吉神社を紹介します。
 きれいに整備された参道を行くと、深閑とした境内に入ります。石垣の上に拝殿、社殿、小宮があります。
 拝殿に掲げられている額に記された神社由緒によれば、「口碑によれば往古、久米谷の住人がこの地に吉き井(清水)と耕地を求めて移り住み、多くの困難とたたかいながら原野を切り開き水田を作った当時はまだ久米谷住吉神社の氏子であったが年とともに暮らしも安定し一族を呼び寄せるとともに久米谷住吉神社の分霊をこの宮山の南麓にお迎えし祠を建ててお祀りしたのが当社のはじまりといわれている」とあります。加東市下久米の住吉神社にも同様の伝説があるそうです。
 竜神岩の伝説といい、村の成り立ちと神社の由来を村の共通の過去の記憶として残そうという意思がはっきり感じられました。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南北朝時代の五輪塔-中国道沿いの山中に

2011年02月04日 05時53分56秒 | Weblog
 加東市木梨から中国自動車道をくぐり、北へ向かって上る坂道の右手山中にコンクリートの階段があるのに気がつきました。通り過ぎて坂道の途中まで来て気になって方向転換し、坂を下って階段の下、すなわち中国道の側道まで戻りました。
 車を降りて階段を上がると、大きな五輪塔のような石塔と直方体のような石塔が目の前に現れました。刻まれている字ははっきり読めません。しかし、どっしりとした石塔は存在感があります。隣の石塔は何かよくわかりませんが、神聖な感じを受けました。
 夜、『新修加東郡誌』で調べてみると、永和4年(1378)年の銘が刻まれているということが分かりました。南北朝時代、3代将軍足利義満の頃のものです。驚きました。今は、南面の中国自動車道とほぼ同じ高さの所にあり、すぐ目の前を右に左に車が疾走していきます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棚田の向こうに天神一ノ宮

2011年02月03日 05時08分05秒 | Weblog
 冬の田圃は枯れた草の色。加東市天神の市街を見下ろす山に一ノ宮神社があります。谷をはさんで中国自動車側から見ると、棚田の向こうに一ノ宮神社と背後の山が視界に広がります。
 一ノ宮神社は播磨風土記に出てくる端鹿里の産土神で掎鹿寺の鎮守であると伝えられています。一ノ宮からの眺めも素晴らしく、緑濃い田圃が段々に重なる風景も素晴らしいものです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の空に立つ-貞守の孤高の大杉

2011年02月02日 04時55分58秒 | Weblog
 冬の播州は、中国山地を越えてきた冷たく乾いた空気が流れ込んでよく晴れます。そんな中、加東市長貞の貞守集落の東の少し高くなっている田圃の中を水路にそった道路をゆっくり走っていると、青い空に向かって鋭く突き刺すように屹立する2本の大きな杉の木が目に飛び込んできました。
 上の方は葉がなく、幹と枝だけが突き出しています。周囲は傾斜地に田圃が広がっていて高さを比べるものは何一つありません。道路から細い道を少し入ると根元に着きました。神社があり、その社殿の前に根を張り、太い幹の存在感たっぷりの大杉が立っていました。
 少し離れて、その孤高の姿をカメラにおさめました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする