不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和6年-社の大師殿で国威宣揚皇軍健勝大祈祷会

2009年06月30日 06時15分28秒 | Weblog
 社町社区長「社町雑書綴」(昭和6年4月~)の中に、加東郡真言宗寺院一同名の案内通知が綴じられています。
 内容は、昭和6年(1931)12月に、大師殿(現加東市社の持寶院大師殿)に於いて、国威宣揚皇軍健勝大祈祷会を執行するというものです。
 昭和6年9月には満州事変が起きており、満州で戦闘が行われている中での戦勝祈願が行われたのでしょう。この大師殿は、日本一木造弘法大師像が安置されており、加東四国霊場の仕上げの道場ともなっています。写真は昭和10年代の大師殿堂です。


拝啓
漸ク厳冬ニ向ヒ候折柄尊台下愈々御清祥ノ御條奉大賀候
陳者来ル十二月二十一日午後一時ヨリ社町大師殿堂ニ於テ
国威宣揚皇軍健勝大祈祷会執行仕リ候間万障御繰合セ御参列
倶ニ御記念被下度此段御案内申上候     敬具

 昭和六年十二月
           加東郡真言宗寺院一同
       様

 追テ当日ハ大般若転読並ニ郡内修験者出仕採燈大護摩供奉修候間
 御区内各位ヘ御参拝方御披露下サレ度願上候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和8年-社小学校が産業教育で調査

2009年06月29日 06時26分43秒 | Weblog
 社区長の「雑書綴」(昭和7年~)の中に、昭和8年(1932)に社尋常高等小学校が産業教育の資料とするために、農家戸数や耕作面積などの調査を区長に依頼している文書が綴じられています。
 文書には調査結果の数字が手書きで記入されており、社区(現在の加東市社)の総戸数435戸のうち、農業従事戸数は156戸、約36%となっています。64%も非農家があるのは、社が商業や官公庁の町であったという特徴が表れているということでしょうか。



昭和八年二月十八日
              社尋常高等小学校

 社区長殿

春寒料岣の砌弥〃御多祥の條奉賀候
却設誠に突然乍ら左記御調査願度本校産業教育資料と致し度
御手数恐縮乍ら本月中に御教示被下度御依頼申上候

   左記

社 総戸数(四三五) 農業(地主・自・小作)に従事する戸数(一五六)
             農業に関係せざる戸数(二七九)

耕地(田・畑)地積別所有者数

 五町以上所有せる戸数   2
 三町以上・・・      3
 一町以上・・・      13
 五反以上・・・      14
 五反未満・・・      79
                計111

  宅地、山林、原野は含まず
  所有数は一戸を単位とす(名義は数人なりとも一世帯を一として計算す)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東条西小学校の二宮金次郎像

2009年06月26日 05時56分36秒 | Weblog
 25日、加東市立東条西小学校のオープンスクール(ファミリー参観)が行われました。親子歯磨き教室やAEDを使った救命講習なども行われ、子どもたちも暑さに負けず元気に学習する姿が見られました。
 ところで、校門のすぐ脇の庭の植え込みの中に二宮金次郎像があることに気づきました。何か違う感じを受けたのは、写真のように庭石の上にそっと立っていたからでしょう。ふつう、金治郎さんは台石の上に立っており、下から見上げるような位置関係だと思うのですが、この金治郎さんはうしろからそっとのぞき込めるような高さなのです。
 校長先生が、「ちゃんとこの本には字が書いてある」と教えて下さったのでのぞいてみると、確かに。金次郎は確かに薪をかついで歩きながら本を読み勉学に励んでいたのです。
 この像の由緒はわかりません。しかし、何とも言えない身近な感じを受ける二宮金次郎さんでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和21年-兵役届の裏紙で乳幼児体力検査の通知

2009年06月25日 05時46分01秒 | Weblog
 敗戦後間もない昭和21年(1946)5月25日、社町長から各区長宛に「乳幼児体力検査施行ノ件」の通知が出されています。
 この通知はA6判の大きさで、裏紙に印刷されています。その裏紙は「兵役ニ関スル届」の様式で、陸軍防衛召集規則第十一條第二項の定めに従って神戸聯隊区司令官宛に届け出を行うようになっています。赤鉛筆で斜線が引かれ、裏紙であることが示されていますが、当時は物資不足で紙もなかったのでしょう。
 表の通知文は次の通りです。


昭和二十一年五月二十五日
               社町長
各区長殿

     乳幼児体力検査施行ノ件

昭和二十一年度乳幼児体力検査ヲ左記ニ依リ施行可致ニ付貴部内該当者ニ対シ伝言相煩度此段及通知候也

          記

一、該当者   自昭和十九年四月一日
        至昭和二十一年三月三十一日 生レノ日

二、施行場所  社区公会堂

三、日 時   五月三十日{午前九時ヨリ  山国、松尾、出水
               午後一時ヨリ  社

        〃月三十一日{午前九時ヨリ 田中、鳥居、貝原、野村
                午後一時ヨリ 西垂水、窪田、家原、上中、梶原、喜田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年8月30日の勝札当籤-社町農業会

2009年06月23日 05時38分12秒 | Weblog
 昭和20年(1945)8月30日、勝札当籤金の支払いに関する通知が社町農業会から各部落区長に出されています。8月15日に終戦の玉音放送が行われて2週間余りしか経っていないこの時期、勝札、すなわち今の宝くじのような籤の支払いが行われていたのですね。


                   社町農業会
   部落区長殿
 勝札当籤金支払ニ関スル件

拝啓曩ニ御配意相煩シ候勝札当籤番号発表相成候ニ付テハ奨金当会ニ於テ御支払可致候ニ付当籤ノ方ハ勝札御持参奨金御受取候様御伝達相煩シ度御願申上候

 貴ハ 自一〇六二三五号
       至一〇六四一五号


勝札当籤番号表
 支払期限   昭和二十年八月三十日

支払方法     金額現金払

 等級  当籤金   当籤番号
 一等  拾万円   第110473番
 二等  壱万円   一等当籤番号1千位以下四桁ヲ同ジクスル番号 第 0473番
           但シ一等当籤分ヲ除ク〃
 三等  壱千円   一等当籤番号1百位以下三桁ヲ同ジクスル番号 第 473番
           但シ一二等当籤分ヲ除ク
 四等  五拾円   一等当籤番号1拾位以下三桁ヲ同ジクスル番号 第 73番
           但シ123等当籤分ヲ除ク
 五等  拾円    壱位ノ桁ニ下記何レカノ数字ヲ有スル番号 3,1
           但シ一二三四等当籤分ヲ除ク
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年-空襲罹災者へ草履や梅干の慰問

2009年06月22日 06時23分12秒 | Weblog
 今から64年前の昭和20年(1945)6月、兵庫県下への空襲の罹災者に緊急に慰問品を送るため、区長や婦人会支部長あてに社町長から通知が発せられています(「参考綴 社区」)。
 慰問品は草履、梅干となっており、物資不足のなか、これらの慰問品は罹災の同胞を力づけたのではないでしょうか。この通知文も裏紙に印刷されています。


昭和二十年六月十四日
           社町長  合田常蔵

各区長殿
各婦人会支部長殿

 罹災者慰問品送付ニ関スル件

農繁期御多忙中ニハ候ヘ共今回県下ニ於テ空襲ノタメ罹災者トナリタル者ニ対シ今般左記慰問品送付致シ度候条至急ノ婦人会ト連絡ヲナシ当役場ヘ御持参相成度及此段願上候也

        記

一、品目  草履一足  梅干 二乃至三個(各戸宛)
二、期日  六月二十日 正午迄  遅滞ナク
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀元2600年記念石碑-社小学校の築山

2009年06月19日 05時18分27秒 | Weblog
 この歴史ブログで、加東市立社小学校の校庭の築山にある石の一つが戦前の紀元2600年記念に建立された石碑だったということを紹介しましたが(5月23日、6月9日付)、石の側面に刻まれた字から、やはり当時の青年団の建立だったことを確かめることができました。(紀元2600年は昭和15年・1940年)

 側面に刻まれた字は彫りが浅くて判読しにくいのですが、「社町青年□建立」「昭和一□年□□・・」とかろうじて読むことができます。さらに20数名の名前が刻まれていることがわかりました。そのうち、はっきり読めるものを紹介します。


□   □枝樹□
団長  藤本豊治
副団長 亀野正□
仝   大□□□
理事  酒□□□
□□  大□治郎□
仝   岸野□□
仝    ・


    藤本栄次
    山本健次
    藤本正雄
    藤本正司
    稲岡□□

 また、父の日記の昭和15年9月1日に記念碑に関する次のようなことが記されていました。

 興亜記念日だ。そして二百十日だ。静穏だ。
 支部長が二百十日をかまわず二千六百年記念塔建立□□石を取りに行った。
 ~中略~
 石取りが四時頃帰った。皆□酒一升をもらってするめで飲む。

 この日記を読むと、やはり青年団が紀元2600年の記念碑を建立したんだろうと考えられます。
 令旨塔の建設といい、この記念碑の建立といい、今から70年余り前のことですが、当時の青年の熱いこころが伝わってきます。その確かな証拠が今も社小学校の校庭の築山の中にひっそりとある、というのが嬉しいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年-青年の淡路自転車旅行②

2009年06月18日 05時20分49秒 | Weblog
 昭和7年(1932)年9月1日から二泊三日の淡路島一周自転車旅行の日記を昨日に続いて紹介します。一日目は西浦海岸を、そして二日目は伊諾神宮参拝、鳴門観潮をして洲本泊。三日目は岩屋から明石を経て社に帰っています。チェーンが切れたりの事故もあったようです。今のように舗装された道路をサイクリング車で快走するのとは違って、大変だったろうと思いますが、明石から社までやはり約2時間半で走っています。


旅行第二日
江井町午前七時三十分発。
郡家都志等を突破。郡家の東方約半里伊諾神社(伊弉諾神宮)に参拝する。途中五色浜に下りて有名な石を拾ふ。途中慶野松原の手前でチヱンが切れて徒歩。連中から遅れること甚だしく、大橋與一郎に出会って二人で走る。
福良 鳴門観潮
福良の町に午前十一時過ぎ着。小柄な南国の気分の溢れる町。鳴門公園で昼食。望遠鏡で渦巻を見て午後二時過福良町を発。市□を経て洲本着。淳仁天皇の御陵を見る。
洲本一泊
洲本大浜公園に天幕を張る。海水に入る。洲本の町は六、七年振りに見る。洲本の城、盛り場の弁天前、本町筋、船着場を一巡して手拭い三本を買って十時過就寝。

(第三日)
午前四時から四時半迄夜警し、三十分□りだ。
午前七時過洲本町を出発。一番後に遅れて岩屋に走る。志筑、假屋等西浦海岸と違って文化の恵みを受けてゐるらしい町の発展振りを感じる。假屋から佐野迄の杉並木はとても良かった。
岩屋に十時着。直ちに乗船。その場所でも気分を悪くする。余裕も充分あったものを馬鹿にしてゐると思った。
明石に上陸。二時迄公園で昼食の後昼寝。それから真すぐに一走りだった。
午後四時半過帰社。上杉先生の西瓜を食べて帰る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年-青年の淡路自転車旅行

2009年06月17日 05時41分53秒 | Weblog
 昭和7年(1932)の父の日記の頁をめくっていると、9月1日の頁に「淡路自転車一周旅行第一日」と書いてありました。「へえー、そんな時代にサイクリングやってたのか」と思いながら読んでみると、社(加東市社)から明石(明石市)まで3時間10分で走っていることや天幕(テント)を張って寝ていることなど、興味深い記述があったので紹介します。
 

旅行第一日 淡路自転車一周旅行第一日

午前四時起床
 西□のうどん屋の小母さんを起して弁当の用意。
午前六時半 社佐保神社発
午前九時四十分 明石着
  十時十分  岩屋行便船に乗船
  十時四十分 岩屋着
 絵島を見物して真正ぐに自転車を走らせ西浦海岸疾走に□る。室津の万福寺で昼食。昼寝二時間。江井町に着午後四時。離宮公園に天幕を張る。海水に入る。夕食、入浴、散歩。夜警十一時より十二時迄。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年-天理教青年会が浪曲の夕べを開催

2009年06月16日 06時24分36秒 | Weblog
 「昭和七年四月 雑書綴 社町社区長」に、天理教青年会社支部による「浪曲の夕べ」の案内が綴じられています。当時、天理教社分教会は市街地の中(現在の社一区、社小学校に通じる学校道の西辺り)にありました。その案内状を紹介します。


拝啓 今回左記の如く教化浪曲の会を催します。参観希望の方々御同伴御試聴下さい。

 七月十三日
                天理教青年会 社 支 部

       殿


教化と
慰安    浪曲の夕べ

日時=   七月十五日 午後八時
場所=   社 分教会
演者=   鼈甲齋虎丸氏門下
       鼈甲齋虎王丸(本名 中村□吾)

       広島県呉市 天理教呉支教会(□知部属)所属
       現住所 大阪府布施町


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和5年、7年-旧暦の義士会

2009年06月15日 06時12分31秒 | Weblog
 昭和5年(1930)1月30日、義士会についての記述が父の日記にありました。1月30日は旧暦12月14日にあたります。この日に討ち入りにちなんで、義士ゆかりの地、社で義士会が開かれたものと思われます。

 義士会の為にと在って姫路よ里稲垣少将の来社有りとて青訓所より出迎えを決定されたり。充分に眠る事を希し居りしには可らずや九時集合の由聞きつれば少々早くよ里小学校に行けば誰も居らず。ために気晴らしのためと思ひ雪の降り残れる山を歩きたり。 ~中略~ 夕刻は早目よ里義士会の活動にと出可けたるに木戸無料の事とて見物人多きこと近来に稀と覚ゆ。


 同じ昭和5年の12月14日には、「義士会」のことが日記に書かれています。これはすでにブログで紹介しましたが、再度掲載します。

 五時参拝。七時頃迄宮の境内の掃除で夜が明けた。出席する者は極一部分の人々のみである。
 今日は義士会だ。荷物は来てゐる。仕事は午後一時終了三時迄副□□のような仕事がすむとそれから早ぐ用意にかかつた。松原君を訪ねて衣裳の用意。午後六時頃からみな出席したので配役の割当を定めた後用意の□□にのったのだ。吉良上野介は配役として悪顔である。高瀬君と八時過ぎ炭部屋でなかったが家根にかくれた。太鼓がなつて探したが見当らずに終る。見物人の多いこと祭礼の宵祭のような人出で賑はつてゐた。赤岸観音寺参拝、記念写真二枚を撮影した後帰着。眠かった。それから石井君と錦波に行つた。眠かった。一時半就寝。


 翌昭和6年(1931)2月1日は旧暦12月14日。父の日記には「義士会」の見出しがあり、次のような記述がありました。

 ~前略~ 午後五時前に森本君が訪れて来た。そして友達を社の駅前から呼び返して赤岸の四十七士の記念の墓参りをした。 ~中略~ 青年の墓参りをやめて藤原君のたいやに行く。 ~後略~

 これだけしか書かれておらず、何か催しがあったようには思えません。昭和6年の12月14日には義士会に関しては何も書かれていません。そして、翌昭和7年(1932)1月21日(旧暦12月14日)には義士会が開かれたことが書かれていました。

 
 ~前略~ 義士会に於て自分は世話の役だ。相撲が午前□時半にある。栗栖先生、田畑先生が生徒を引率して参拝してゐた。相撲は優勝は窪田支部□□君の一人抜は出水支部の大橋君が獲得し四時半終了。~中略~ 午後六時から夜の演芸の世話。十時半迄。

 昭和5,67年の日記には義士会のことが以上のように出てきます。新暦で行われたり旧暦で行われたりしていますが、青年団が中心となって相撲や演芸などの催しをしていたことがうかがわれます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年-佐保座で在郷軍人会主催の慰霊祭と慰安会開催

2009年06月13日 06時22分01秒 | Weblog
 「昭和七年四月 雑書綴 社町社区長」に領収書が綴じられており、その内訳欄に昭和7年(1932)4月9日に開催された在郷軍人会主催の出征軍人家族慰安会のことが記されています。会場は佐保座になっています。


一金  拾五円

此内訳 四月九日ニ佐保座ニ於テ満州事変上海事変ニ出征軍人戦死者慰霊祭ト出征軍人家族慰安会ヲ加東郡在郷軍人会主催ニテ催サレ社町社ヨリ果物〆百五拾袋入リヲ寄贈セリ

右領収候也
 昭和七年四月十八日 右 岸野助十郎
社町社出納役 神崎壽景殿


この領収書のあとに在郷軍人会から社区長宛の礼状が綴じられています。

拝啓
益々御清勝賀上候
陳者今回出動軍人家族慰安会開催ニ際し
結構なる品多数御寄贈被成下御厚志千萬難有
夫々家族に分配致し一同喜び入申候
一応罷出親しく御礼申上へき筈に候得共
乍略義暑中御礼申述度如斯御座候
             敬具

 昭和七年四月十二日
  帝国在郷軍人会
   加東郡聯合分会長 大西亀太郎

 社区長 増田政治 様
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年-青年団が敬老会

2009年06月12日 05時44分39秒 | Weblog
 昭和7年(1932)、青年団が町の高齢者を招いて「敬老会」を開催しています。この「敬老会」については、今年の2月9日付のこのブログで案内状を紹介しましたが、その準備についての記述が父の日記にあったのであらためて紹介します。
 当時、青年団は令旨塔の建設に力をいれていましたが、その中にあって敬老会の開催にも取り組んでいたということです。準備の餅つきのことなども書かれていますが、その中に早く母親を亡くした父が母親と一緒に餅つきをしたことを懐かしんでいる記述もありました。父が自分らはこうした敬老会に招かれることはあるのかと自問している部分がありますが、57歳で亡くなった父はその機会がなかったのです。
 それにしても当時の青年団は元気ですね。そしていいことをしてますね。日記の一部を紹介します。


○一月七日
 ~前略~ 敬老会の仕事も自分が筆頭になってしなければ満足に出来ないと思ったので松原と二人で町の高齢者を訪ね歩いた。 ~後略~

○一月十一日
 ~前略~ 会社の伝票も作らずに青年の敬老会の準備たる餅搗きに出かける。小枝や冨田がやって来て十時過迄には全部揃って餅を搗いた。在りし昔、俺も母親と父と爺さんと面白くこんな餅を搗いた事を思ふ。岡森さんの手を搗いてそれ切り自分は閉口だ。その儘夜迄かかってしまった。餅の喰過ぎで体の調子が悪い。~後略~

○一月十二日
 ~前略~ 敬老会に熱中の準備だがこれも淋しい事だ。俺等が果たして七十迄も生き永らえてこんな催しに列席出来るか。それも一路のローソクの光の様なものだとしか思えない。~後略~

○一月十三日
 午前八時に岸熊に行った。小枝が御飯を炊く用意をしてゐる。真面目らしい話だ。そうしてゐる内に五人十人と連れがやつて来た。折缶の用意にかかってから公会堂の準備だ。之は町の人に好かれなかったら青年が馬鹿かも知れない。十二時迄に準備をすっかり終えてしまった。~中略~

 敬老会は午後二時半に開いて午後五時閉会。出席者五十三名。評議員十二名。盛会であったと思う。夕飯を岸熊で七人食べた。そして皆活動に出かけたものだ。



○資料 青年団から高齢者に出された案内状

御達者で御座いますか
 梅の蕾もふくらみまして白い雪の姿も見ずに新しい年が参りました、遅れ馳せ乍ら例年の通り敬老会を開きまして敬老をねぎらはしたく存じますので甚だお寒い折柄でありますが私等若い者の意を汲まれまして是非共御越し下さいます様僭越ながら御通知申上げます。

 尚附添の方一名必ずお越し下さる様御願ひます

 一月十日

               社 青 年 団
                 岸野助十郎

期日 昭和七年一月十三日 正午
場所 社元郡公会堂

  第三回敬老会
   招待券
  昭和七年一月十三日正午
  元郡公会堂

       様





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀元2600年記念の石碑も青年団が-社小学校

2009年06月09日 05時37分08秒 | Weblog
 5月23日付のこのブログで、加東市立社小学校の築山に置かれている庭石が紀元2600年記念の碑であったということを紹介しましたが、その記念碑を囲んで記念撮影をしている当時の青年団と思われる写真を発見したので紹介します。

 写真はわが家の古いアルバムの中にあったのですが、この写真の真ん中に写っている石を見た時、先日社小学校の築山の中に立っていたあの庭石にちがいないと思いました。写真の前列左から4人目、石碑のすぐ左にいるのが父、藤本豊治です。当時は青年団員として活動していたはずです。写真の背景には学校の校舎のような建物が写っているので、社小学校の校庭に建てられたものだと思われます。

 現在社小学校の築山に庭石のように置かれている石の表面には「紀元二千六百年記・・」とかろうじて読める程度の字が刻まれているのですが、写真の字は非常にはっきりと字が写っています。字を消すかのように削ったのではないかと思われます。高さといい、形といい、写真の記念碑であることはまちがいないでしょう。

 紀元2600年は神武天皇の即位を建国の紀元として数えて昭和15年(1940)にあたるということで、国をあげて奉祝の式典や行事が開催されました。石の側面には建立者等の名前が刻まれているようなのですが、彫りが浅くて判読しにくい状態です。時間があればまた朝のウォーキングで調べてみたいと思います。

 それにしても令旨塔、紀元2600年記念の石が今も小学校の庭石として置かれていたこと、そして、それらが青年団員だった父親達、先人と大いに関係があったことに不思議な縁を感じます。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和9年-青年団が国旗掲揚柱建設で財政支援要請

2009年06月08日 05時36分44秒 | Weblog
 「昭和九年四月 社町社区長 雑書綴」の中に当時の社町社青年団が区長に対して財政支援の要請を行っている文書が綴じられています。その支援というのは、国旗掲揚柱の建設に関するもので、社町各の支部はすでに掲揚柱をもっているののに社支部のみまだないという状況で、青年団員の奉仕で建設にかかったものの財政的に困難が生じて完成できないでいるので支援を、というものです。
 この掲揚柱は、すでにこのブログでも紹介した(2006.9.6付)国道372号線(社環状線)が学園道路と交差する嬉野口の社中央公園の一画、交番のすぐ横の小高い植え込みの真ん中に立っている石柱のことだと思われます。石柱には「皇太子殿下御降誕記念」、「昭和九年五月二十七日」「社支部建之」と刻んであります。当時の青年団員が奉仕作業で建設した国旗掲揚柱にちがいありません。道路工事や公園建設工事で元の設置場所から少し動いたかもしれましんが、ほぼ同じ位置にこうして残されたことは素晴らしいことだと思います。
 青年団の区長宛の書状を紹介しますが、父、藤本豊治の名がそこにあり、日記と同じ特徴の字が書いてあることから、この書状は父が書いたものだと思います。



若葉の薫る頃となりました。
皆様の絶大な御後援に依りまして吾が青年団も漸次内容の充実を見るに至りまして来月上旬郡聯合青年団よ里支部経営に於て表彰を受ける事に内定しまし多事は日頃の皆様の御力添えの賜と深く感謝して居ります。此の元気を以て本秋九月には当支部を中心に聯合青年団指定の合同視察の際は一層の努力を尽す考えで御座います。
就きましては比處に青年団として非常に残念な事には従来満蒙事変を機に愛国運動として国旗掲揚運動が全国に向って台頭致しまして如何なる会合にも公共団体が主体となり日章旗を掲揚して国体の無比の宣揚と尊重に務めて居りますが、独り吾が社のみは十四支部洛中本社のみ未だに、その実現を見ない事は、甚だ遺憾と存じまして、昨春以来考えて居ましたが何分財政豊かでない為に放任して今日迄来ましたが此度思ひ切って支部員の奉仕と微少積立によって鉄筋で半ば完成致しましたのですが、今一息と言ふ所で、財政の捻出で中止の悲運に遭ひまして何とか方法を考えましたが結局毎々何事かあれば御迷惑をかけて誠に厚顔も甚だしい事ですが、皆様有志におすがりするより他に今では当支部をしてなく存じますので何卒私等の意中を御諒察下さいまして多少共御援助の程仰ぎ度く乍失礼書面にて御願申上げます。  敬具

 五月廿二日
            社町社青年団
                藤本豊治
                小枝政治
                松原幸次
                  外三十三名

 増田政治 殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする