不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

東条川疏水ネットワーク博物館展示池の標識

2015年09月30日 05時29分13秒 | Weblog
         

 29日(火)、早朝に夜明けの景色を見ようと思って、加東市社の市街地の東の高台にある、みのり農業協同組合の本店駐車場に行ってみました。
 西を望めば、青野原台地に沈もうとしているスーパームーンが光っていました。東を振り返ると、本店ビルの向こうに夜明けの光が広がる空がありました。実に壮大な景色でした。

 少し歩いていくと、見慣れない看板が目に止まりました。近づいてみると「東条川疏水ネットワーク博物館」関連の看板で、ため池の名前が書いてありました。

「展示登録番号:池加東1号」
「若ヶ谷池」
「加東市社」
「この池の水は鴨川ダム(東条湖)から県営貝原線を流れてきて、下流の農地を潤しています。」

 東条川疏水ネットワーク博物館の、いわば展示物?の池であるという表示だったわけです。この若ヶ谷池は加東市社の市街地の東にあり、我が家の田圃も池のすぐ下にあります。社農会ではこの池の堤の草刈りをやっていますので、身近なため池でもあります。その若ヶ谷池が東条川疏水ネットワーク博物館の展示池、しかも1号とは嬉しくなりました。この看板を見る人が鴨川ダムを起点とする壮大な水のネットワークを想像することができれば楽しいことです。
 若ヶ谷が1号なら、すぐ近くの社中央公園の金屋谷池は?と期待しながら、ステラパークから池の堤の遊歩道を歩いてみると、同じ看板がありました。

「展示登録番号:池加東2号」
「金屋谷池」

 もう少し大きい看板がよかったかな、と思いながらも、こうして東条川疏水ネットワーク博物館が身近に感じられるようになったことは素晴らしいと思いました。これからも池のそばを通る時には気をつけて見てみたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

28日の夜明けとスーパームーン

2015年09月29日 04時38分01秒 | Weblog
 昨日は加東市で眺めた中秋の名月を紹介しましたが、続いて、今日のスーパームーンを紹介します。
 県庁からの帰途、三木市と加東市の境、桃坂近くで車を止め、東の空低く、赤く光る満月をねらってシャッターを押しました。

           

 加東市に入って、山国の椿山保育園の前に車を止め、周囲の雲をふちどるように光る月を撮りました。電灯がなかった時代には、静かにゆっくりと月を眺めながら、いろいろと思いをめぐらせていたのだろうなと思います。

           

早朝もよく晴れていました。夜明け前の午前5時30分頃、加東市社の市街地の東、百旗(ひゃくはた、ひゃくはったい)辺りから三草山方向を望んだ風景です。空はあかく染まりはじめていました。西の青野原台地の地平線に大きな月が沈もうとしていました。もう光を発してはいませんが、かすかに赤い月の輪郭が見えました。壮大な夜と朝の交代の時間帯で、宇宙を感じる神秘的な時でした。

             



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東市の秋-透明な光

2015年09月28日 04時24分52秒 | Weblog
 我が家の庭のぶどうが秋の日に透かされています。完熟すると本当に甘くなるぶどうです。


 加東市山田錦乾杯まつり会場の空は宇宙にまで澄みわたっています。


 やしろ国際学習塾の前の橋の上から望んだ三草川、三草山の写真です。この辺りを東経135度の子午線が通過しています。  


 そして、夜、東の空に中秋の名月が光っていました。加東市の秋、透明な光を感じる一日でした。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地上の秋-銀杏と胡桃

2015年09月27日 04時17分07秒 | Weblog
   
 9月に入ってから例年のような暑さはなく、雨や涼しい日が続きました。朝晩は秋祭りの頃のような肌寒さを感じるほどですが、それでもまだ9月です。

 早朝に歩いていると、佐保神社の境内にある恵比寿神社の脇の地面に白い光るものが散らばっているのに目が止まりました。足を止めてよく見ると銀杏でした。銀杏の葉はまだまだ緑色をしているのですが、色は薄いのですが確かに銀杏でした。

 帰宅して気になっていた胡桃の木の下に行ってみると、今年実をつけたたった一個の胡桃の実が落ちていました。去年は数十個もなったのですが、今年は天辺近くに一個だけ実をつけました。夏の終わりになると、小さな青いリンゴの実のような胡桃の実の下の部分が割れて中の胡桃の種の部分が除きます。やがて表面の割れが広がり、胡桃が落下するのです。溝にでも落ちて流れてしまってはと心配していましたが、ありました。期せずして見つけた地面の秋でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は加東で山田錦と日本酒を満喫して下さい

2015年09月26日 06時54分00秒 | Weblog
          
   

 27日(日)、加東市では日本酒を満喫するまつりが開かれます。加東市は、酒米の王様として知られる山田錦の産地です。全国第一位を誇る兵庫県産山田錦の主産地である北播磨の中でも加東市は特A地区の東条地区をはじめ山田錦の生産が盛んに行われています。また、牧野地区は酒米の王様、山田錦の種子栽培指定地でもあります。
 加東市では2年前に兵庫県下で一番早く日本酒で乾杯条例を制定し、山田錦の生産と消費の振興をめざしています。また、山田錦の誕生に欠かせない人物である藤川禎治さんは加東市高岡の人で、藤川さんが品種改良、育成、普及に打ち込んだ酒米試験地は加東市沢部にあり、まさに加東市は山田錦のふるさとであります。

 そんな加東市で、今年も山田錦の穂波が光る田圃の風景を楽しみながらウォーキングができる、山田錦の里ウォークが行われます。今年は東条とどろき荘から加東市役所までの11キロのコースで行われます。
 ゴールの加東市役所前の広場では、加東市山田錦乾杯まつりが開かれます。加東市産の山田錦を用いて日本酒をつくっている14の蔵元が全国各地から集結し、最高の日本酒を味わうことができます。加東市特産の三草茶うどん、山国肉めしなどのグルメの店も並びます。
 ちなみに蔵元を挙げると、ヤヱガキ酒造(兵庫県)、神結酒造(兵庫県加東市)、本田酒造(兵庫県)、辰馬本家酒造(兵庫県)、剣菱酒造(兵庫県)、白鶴酒造(兵庫県)、大関(兵庫県)、惣誉酒造(栃木県)、旭酒造(山口県)、宮坂酒造(長野県)、佐浦(宮城県)、玉乃光酒造(京都府)、山忠本家酒造(愛知県)、月桂冠(京都府)です。日本酒愛好家にとっては見逃せない名酒の勢揃いです。当日は名酒の試飲と販売も行われます。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「滝野つたえぐさ」(滝野町老人クラブ連合会)

2015年09月25日 05時39分40秒 | Weblog
  

 一昨日、「滝野つたえぐさ」第二集を紹介しましたが、今日は第一集を紹介します。
 第一集は、平成5年(1993)に発行されています。私は平成17年度に滝野町立滝野東小学校で総合学習を担当し、地域学習を進めるにあたって参考となる図書を探していたときにこの一冊と出会いました。
 執筆、編集とも老人クラブ連合会によるもので、380頁におよぶ分厚い冊子になっています。二百数十名の方が大正、昭和時代を生きた証として、ふるさとの歴史や文化、生活などの思い出、伝承を記しています。

 一つひとつの話をこの歴史ブログで紹介したくなるほど、内容がおもしろく、貴重な証言、資料ばかりです。当時の6年生が「未来に伝えたいふるさと滝野の歴史遺産」と題した地域学習に取り組み、各自が自分の住んでいる地区の歴史や文化、伝承を調べて発表しました。その時にもこの一冊は大いに活用されました。

 一つだけ紹介しますと、多井田地区に聖神池という名の大きな池がありますが、この池の名前の由来を調べていくと、忠臣蔵で知られる赤穂四十七義士の一人、内蔵助が頼りににしていた老武士の吉田忠左衛門が関係していることが分かりました。子供にとっては、赤穂義士も忠臣蔵も初めて聞く話でしたが、加東郡には赤穂浅野藩の領地があり、吉田忠左衛門は加東郡代としてこの池の築造工事を監督していたのです。しかし、主君浅野内匠頭長矩の江戸城内での刃傷事件、自刃の報を受け、急ぎ赤穂に戻っていったのですが、池の築造は忠左衛門の言いつけ通り続けられ、完成しました。その後、四十七士の討ち入り、切腹の報が伝わり、その中に忠左衛門の名があることを村人は知り、誰言うとなくこの池を聖神池と呼ぶようになった、ということでした。私も初めて知ったことでした。その子供にとっては、それまで通学路にあるただの池にすぎなかったのですが、この伝承を知ることによって、ふるさとの歴史の中にこの池が光を放って見えるようになったはずです。

 渡し舟、音頭や唱歌、従軍記、農事等々珠玉のような貴重な話が詰まっています。よくぞこの冊子を編んで下さったと今は感謝の気持ちでいっぱいです。第二集は12年後の平成17年に発刊されいます。合わせて540頁にもなります。百年、千年後に、この冊子を読む子孫のことを想像すると楽しくもなります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「東はりま」(昭和33年刊・兵庫県観光連盟)

2015年09月24日 05時07分10秒 | Weblog
  

  



  今日紹介するのは昭和33年(1958)に発刊された兵庫県観光連盟による「東はりま」(30頁)です。観光シリーズの第5篇として発行され、多くの写真で東はりま(現在の東播磨、北播磨地域)の各市町の観光地が紹介されています。
 昭和33年といえば、私がまだ5歳。日本が高度経済成長時代に入ったばかりの時代で、まだ埋立される前の瀬戸内海沿岸の美しい海岸部の空中写真なども掲載されており、当時の東播磨地域の姿を目で見ることができる貴重な冊子といえます。
 巻頭の「刊行のことば」で当時の阪本勝(さかもとまさる)兵庫県知事は次のように書いています。

 「兵庫県というところは、大変風通しのよいところです。何しろ私が知事室に坐っていますと、時には日本海の風が書類の頁をめくり、時には太平洋の風が私の耳をなぶるのです。瀬戸内海にたわむれる波の歌もきこえます。雪に埋もれた山村の溜め息の声も伝わってきます。
 それだけに随分ひろい兵庫県です。何でもあります。山は高く、野は広く、海は、まさに南北縦断吹き通しです。産業、仏参、文化風俗、景色、何でも一通りは揃っております。
 その一通りを美しい写真に収めて、わが郷土のありのままの姿をおめにかけようというのが、この観光シリーズであります。楽しい足袋の思い出の、さわやかなよすがにもして頂ければ、私どもの幸これに過ぎるものはありません」

 加東に関するものは、清水寺の大塔からの展望、朝光寺・鬼踊り、佐保神社屋台の宮入、嬉野公民研修所、上鴨川住吉神社神事舞、東条湖・景観、湖底に沈んだ土井、若宮八幡宮、釣ハリ、鯉のぼり、闘龍灘・鮎漁、五峰山光明寺などが紹介されています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「たきのつたえぐさ」第二集(老人クラブ連合会)

2015年09月23日 06時15分36秒 | Weblog
  

 10年前の平成17年度(2005)、教師生活最後となった一年、加東郡滝野町立滝野東小学校に勤務しました。同校では、教務主任、3年~6年生の総合学習を担当し、子供達と一緒に地域学習に取り組みました。3年生はまち探検、4年生は加古川舟運、5年生はユニバーサル社会、6年生はふるさとの歴史遺産、といったことを主な内容として校区の歴史などを調べてまわりました。私にとっては、滝野の歴史を学ぶ機会となったと同時に、同じ加東郡の社町社から滝野を見る生活から、この一年間は滝野から社、加東郡全体を見るという視点の転換が出きたのが大きな成果でした。

 ところで、地域の歴史や伝承を調べるときに役立った図書の中に、地元滝野町老人クラブ連合会による「たきのつたえぐさ」第二集があります。平成17年3月20日発行となっていますから、滝野東小に赴任した直前にできたばかりだったのです。8章、160頁にわたり、貴重な証言が写真とともに収められています。
 新町の尾縣斎さんの「新町の屋台と秋祭り」や上滝野の芹生強さんの「茅の輪くぐりの行事について」、下滝野の長谷川純子さんの「お菊虫について」、上滝野の長谷川宏さんお「春日神社由緒」など貴重なものばかりで、学校の授業にもゲスト講師としてお話をしていただきました。
 こうした話を活字にしていただいていたお蔭で、それ以前の歴史や文化が次の世代に継承されるということになります。私の大切な一冊です。
 
目次
第一章 神事・神社
第二章 仏事・寺院
第三章 歴史・部落史
第四章 暮らし
第五章 思い出
第六章 産業・なりわい
第七章 戦記・従軍記
第八章 伝承・歌謡等

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「清水寺誌」開創千三百三十年記念法要特別号

2015年09月22日 06時42分29秒 | Weblog
  

 平成23年(2011)5月から6月にかけて、この歴史ブログで「赤松氏範の最後」を紹介しましたが、この話は「清水寺誌-開山千三百三十年特別号」に掲載されていたものです。今日はあらためてこの「清水寺誌」を紹介します。

 清水寺(加東市平木)は、西国25番札所として知られ、多くの参拝客が訪れる天台宗の名刹です。その清水寺が昭和32年4月に「当山開創壱千三百三十年記念法要 開扉特別号」と題した「清水寺誌」を発行しています。B6判、58頁の小冊子です。
 清水寺は、約100年前の大正2年(1913)の山火事で全焼してしまいましたが、大正時代に堂塔が再建され、昭和2年に落慶法要が営まれています。そして、推古天皇35年の創建から1330年を記念してこの小冊子が発行されたのです。

 口絵写真には、炎上前の堂塔伽藍や今はない大塔や山門なども掲載されており、清水寺のすべてがこの小冊子に盛り込まれています。目次は次の通りです。

目次
 再建記念碑文
 清水寺縁起
 当山の復興
 山の行事
 山の活動と施設
 清水寺史蹟と伝説
 清水寺鐘銘
 山の宝物
 恩師善照大僧正を讃へて
 史蹟清水 赤松氏範 

 全文にルビがふってあり、誰でも読めるようになっています。なかでも、赤松氏範の話は33頁から56頁にわたっており、おもしろい読み物になっています。赤松一族でただ一人南朝側に立って奮戦した氏範の最後の決戦がえがかれていますが、小学生の頃、清水寺に泊まった翌朝、草をかきわけて山道を行き、氏範の墓に連れていってもらったときの記憶は今も鮮明によみがえってきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「日本運送二十年」懐かしい写真も

2015年09月21日 04時48分26秒 | Weblog






 書棚を探していたらありました、「日本運送二十年」の冊子。先日「三十年史」を紹介しましたが、昭和三十五年に発行された二十年記念のこの冊子もなかなかおもしろい内容になっています。
 巻頭は、社長の大橋實次さんと曾野綾子さんの対談が掲載されています。播州米の話題、大橋さんが実業界に入るようになった経緯も語られています。町長とタクシー会社の社長を掛け持ちしていた頃のエピソードも語られており、なかなかおもしろい内容になっています。
 写真も豊富に掲載されており、「僕はやりくり運転手」と題し、モデルに佐々十郎と大村崑の2人が出ています。当時人気があった2人です。大阪本社や加古川本社をはじめ、播州の懐かしい風景も掲載されています。ちょうど真ん中にはカラー写真が見開き頁になって掲載されています。トラックと運転手、子供が2人。題は「笑顔」になっています。その2人の子供は私の従兄です。父親の兄弟が日本運送の東京営業所に勤めていました。70頁の小冊子ですが、日本運送と陸運新聞社の共同編集だそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三木翠山、森月城の絵がある三草小学校

2015年09月20日 05時30分51秒 | Weblog
            

            

 19日(土)、加東市立三草小学校の運動会が行われ、開会式に出席しました。少し早目に学校に着くと、小林校長先生が見せたいものがあるので、と校長室に招かれました。部屋には大きな絵が飾られており、三木翠山の絵ですと紹介されました。以前は体育館にあったものを校長室に移したということでした。そして、玄関正面の壁面には森月城の絵が掲げられていました。三木翠山、森月城という日本画家の大作があるのが三草小学校です。
 三木翠山の絵(上)は毛利元就の三本の矢の教えの場面ではないか、と校長先生は話しておられました。森月城の絵(下)は富士山を描いたものです。

 この歴史ブログでも5年前に体育館に掛かっている2枚の絵を写真と一緒に紹介しましたが、体育館の2階の高いところにあるのでよく見えませんでした。しかし、今回は間近かに作品を鑑賞することができるようになりました。
 2人とも三草小学校の校区にゆかりのある画家です。校区の上福田村木梨(現、加東市木梨)の出身で、大正から昭和にかけて活躍した有名な日本画家です。
 今年7月に姫路市立美術館で三木翠山展が開かれましたが、そのときにブログで三木翠山について少し詳しく紹介しましたが、あらためて森月城とともに掲載し紹介します。 
 
 三木翠山は明治16年(1883)、兵庫県加東郡社村の田町(たまち)生まれで、現在の加東市社の田町通りが生まれ故郷です。翠山は幼少の時から絵を描くことが好きで、加東郡上福田村の内、木梨村の三木南石に絵の手ほどきを受け、紺屋だった三木家の養子になっています。明治33年に京都に出て、竹内栖鳳に入門し本格的に絵の修行をしたと伝えられています。大正2年(1913)には、第7回文展に初入選(「朝顔」)し、それ以後、文展、帝展などの常連作家となり、竹内栖鳳の助言で美人画の創作に取り組み、次々と名品を発表、翠山の美人画は人気を博し、京都画壇に確固たる地位を築きました。
 展覧会では、「祇園会」や「維新の花」などの美人画、東海道五十三次の風景画、ニューヨークの摩天楼など、間近に翠山の絵を鑑賞することができ、惹き付けられてしまいました。その門下の森月城の「富士図」なども展示されていました。
 森月城は、やはり加東郡上福田村木梨出身です。小学校卒業まで木梨で過ごし、幼い頃から母方の祖父であった三木南石に習っています。14歳で京都に出て、19歳の時に翠山の手引きで竹内栖鳳に入門しています。22歳で文展に入選、その後も入選を重ね、やがて竹内栖鳳門下の四天王と称されるまでに活躍しています。大正13年の兵庫県美術協会の設立では中心的存在となっています。

 小林校長先生は、子供達が雄大な富士山の絵を見て大きく育って欲しいとの願いを述べられていました。移転前の三草小学校(現やしろ国際学習塾)時代からあったものだと話しておられましたが、このような郷土出身の偉大な日本画家の作品がある小学校は珍しいのではないでしょうか。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「社町歴史遊歩道」(ふるさと研究シリーズ1)

2015年09月19日 04時42分23秒 | Weblog
  

 今日紹介するのは20頁の小冊子で、磨崖仏の写真が表紙に掲げられたポケットサイズの「社町歴史遊歩道」紹介本です。
 昭和47年(1972)に発刊されたもので、編集は社町中央公民館内の「ふるさと研究会」となっています。「あとがき」には発刊の趣旨などが次のように書かれています。

 「わたしたちの郷土、「やしろ町」は、ゆたかな歴史の宝庫です。「ふるさと研究グループ」は、郷土の風物や歴史、bんかざいの調査、研究を進めてきました。”ふるさと研究シリーズ”の第一回として、今回は「歴史遊歩道」を剪定し、なんとか郷土のふるいたたずまいを記録にのこしてみました。日時の制約、紙数の幅などで十分なものになっていません。みなさま方のご教示をお願いし、完全なものにしたく思います。
 最後に、この冊子を発行するにあたり、ご指導とご助言をいただきました吉田省三先生に厚くお礼申し上げます。(片岡昭夫・記)

 取り上げられているコースは藤田、木梨、上三草、下三草のたんば道に沿ったものになっています。掲載されている写真と解説は次の通りです。

1.逆川(さかさまがわ)
2.木梨神社
3.原坂地蔵
4.木梨八幡神社の椋の樹
5.丹波ふうの民家
6.かなし池
7.孝女「ふさ」の碑
8.はたご「大西屋」
9・徒士長屋
10.武家屋敷
11.街道の松並木
12.道のべの石仏
13.上三草古墳群
14.三草山古戦場址

 現在もそのまま残っているものもあれば、もう見ることができなくなっているものもあります。例えば「かなし池」は源平合戦の物語の伝承がありますが、圃場整備で今はもうありません。巻末には吉田省三先生の「たんば道」に関する解説も掲載されており、内容が充実しています。私にとっても貴重な参考書になっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-「社町・10年のあゆみ」(町勢要覧・1965)

2015年09月18日 05時19分11秒 | Weblog
  

 加東市が合併で誕生して10年目を迎えようとしています。10年は一区切りとなりますが、ここに「社町・10年のあゆみ」と題した小冊子があります。この冊子は「町勢要覧・1965」と副題にあるように昭和の大合併で誕生した社町の10年目の姿を写真と統計などで示したものとなっています。昭和30年に社町(旧)・福田村・上福田村・米田村・鴨川村が合併して誕生したのが社町でした。
 写真には、木造校舎の頃の社小学校校門辺り、社の銀座商店街、社病院、社小学校の松林、社中学校体育館をはじめ、清水寺や朝光寺、佐保神社や上鴨川住吉神社、昭和池、赤穂義士墓などの文化財や名勝も掲載されています。昔の社町役場の窓口風景の写真もありました。小さい頃にはこのわが家の隣だったのでよく遊びに行ったものです。
 昭和40年(1965)に発行されていますのでちょうど50年前になります。もう50年保存できれば100年前のものということになり、「歴史」になっていきます。その時にはもう私たちの世代はおそらくこの世にいないのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の参考書-『私の運送史-日本運送30年』(大橋實次著)

2015年09月17日 10時39分52秒 | Weblog
 

   

 今日紹介する『私の運送史-日本運送30年』の巻頭につぎのような一文が掲げられています。

 「昭和八年、大橋實次という三十歳を越えたばかりの青年が、兵庫県の播州地帯の東部中央にある加東郡社町(やしろちょう)の町長に就任した。青年町長はただちに三つの目標をたてた。すなわち、膿瘍を守るための灌漑(かんがい)用水の確保、産業開発のための道路の建設、そして地方産業の振興の実践である。この三つの構想のうち、道路建設と地方産業の振興が結びあって東播運輸が生まれ、今日の日本運送へ発展していったのである。」

 「大橋實次」、「日本運送」という名を小さい頃から耳にして育ってきました。身近かに日本運送関係の人が多くおられましたし、大橋實次さんは郷土社町が生んだ立志伝中の人であり、郷土が誇るリーダーとして、その名は誰もが知っていました。また、この歴史ブログでも昭和8年代の社町(旧)の諸文書を紹介してきましたが、そこには「社町長 大橋實次」の名前がありました。青年町長として、昭和池の築造、東播産業道路(旧175号)の建設、そして、日本運送の前身である社自動車、さらに東播運輸の運送会社の設立を手がけ、その後の社町はもちろん、東播磨地方、日本のトラック運送業の発展の基礎をつくるという大きな仕事をされています。父(藤本豊治)からも大橋さんの話はよく聞かされました。また、青年期に大橋社長のもとで社市場で仕事をした当時のことも日記に書かれています。

 この一冊は、昭和初期から戦後、昭和40年代はじめまでの郷土の発展、交通、運送業などの産業の発展のようすを大橋實次、日本運送を通して知ることができる貴重な本です。父母や親戚、近所の人を通じて大橋さんと日本運送は身近な存在であり、その生き方に多くを学ぶことができます。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日も美しい-早朝の忠魂碑裏で彼岸花

2015年09月16日 04時44分58秒 | Weblog
  

 美しい夕日に見とれた翌朝(15日)、日の出の頃にウォーキングで社環状線の松尾交差点近くの大池にさしかかりました。東の空高く朝日に照らされた雲が輝きました。
 環状線から路地へと入り、下川に架かる橋(昔は石の神橋だった)を渡って、石段を登りきると明治館の広場に出ます。この広場に社町(旧)の忠魂碑があり、ここで静かに感謝の祈りを捧げます。
 広場の周辺の林は先日のクリーンキャンペーンで社5区の皆さんによってきれいに草刈りが行われていました。石段もきれいになっていました。その斜面に彼岸花が咲いているのが目に止まりシャッターを押しました。
 彼岸が近くなり田の畦でも彼岸花を急に見るようになりました。草刈りが終わったあとに必ずといってよいほど彼岸花が出てきます。まだ少し早いかなとも思いますが、毎年間違いなく彼岸の頃に咲く彼岸花。
 そのあと、佐保神社に参拝し、新池の堤を通って持寶院大師堂へ歩きます。新池を通る頃には日が昇り、関西電力社営業所の鉄塔が池面に映っていました。
 社の秋の早朝の風景でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする