不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

約半世紀前(昭和40年代半ば)の社中央公園辺り

2016年12月31日 06時42分51秒 | Weblog
 この写真は、昭和44年(1969)の秋に撮影された社町社(現加東市社)の空中写真の一部です(上が北)。
 場所は、今の社中央公園辺りで、中央の池が金屋谷池です。まだ公園、ステラパークもなく、中央図書館も、社交番も、そして学園道路も昔のままで、嬉野へ上がる坂道がおおきく曲がっています。社環状線と池の間は田圃、池の北側、東側も田圃が広がっていたことがよく分かります。
 約半世紀を経て、この場所は公園となり、また、道路が改修され、市役所ができて、加東市の中心的なエリアに生まれ変わりました。
 池の北側の木が茂っている場所が中ざんまいの墓地です。この墓地を通る細い道を社中学校時代に通学していました。野球部の練習を終えて真っ暗になるとこの道を通って帰るのは怖いものでした。街の変化の記録となる写真の一枚です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代後半の闘龍灘

2016年12月30日 06時05分15秒 | Weblog
 この写真は昭和30年代後半の頃の闘龍灘の写真です。アルバムの中の一枚ですが、滝をを渡る橋が鉄製です。
 背景には、今の闘龍スクウェアや料理旅館の建物、阿江与助像の台座(像はない)、水神社、さらに五峰山も写っています。手前の橋台のところにいるのが私達兄弟です。滝野の叔父(上滝野)宅へ行ったときのものだと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和50年代はじめの頃の嬉野、社高校の風景

2016年12月29日 05時45分04秒 | Weblog
 今日も昭和50年代はじめ頃のものと思われる写真を紹介します。広々とした風景ですが、その広い空には雲が垂れ、手前には冬の枯れ草色の田圃が広がり、なんだか殺風景な風景です。写っている建物は県立社高校の校舎と体育館です。そして、左の白い建物は県立教育研修所です。
 現在、同じ位置に立ってもこの風景は見ることができません。手前の田圃は区画整理され、新しい住宅地に変わり、活気に溢れています。この写真も嬉野の変化を記録する一枚となりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和50年代はじめの社市街風景

2016年12月28日 06時02分44秒 | Weblog
            

           

 今日も昭和50年代はじめの頃の社市街地(加東市社)の風景を紹介します。撮影場所は金屋谷池の堤です。上の写真は堤から北西を、下の写真は南西を望んだ写真で、一応パノラマ写真のつもりです。
 現在は社中央公園になっていますが、当時は池の西側は田圃があり、交差点の改良、道路改修前(学園道路)で、手前にあった住宅も写っています。よく見ると、市街地に社警察署の建物も見えます。
 時代と共に街の景色は変化していきますが、遠くに見える五峰山はじめ山並みは姿を変えずに望めます。自分の青春時代がふるさとの風景とともによみがえってきます。当時、大学の友人の友人のプロカメラマンから譲ってもらったカメラでいろいろ撮影していたものです。時を経て、街の記録の一枚になっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和50年代はじめ頃の社町役場

2016年12月27日 08時19分17秒 | Weblog
 写真は、昭和50年代はじめ頃の社町役場を望んだ風景です。手前の池は金屋谷池です。まだ図書館や社中央公園が整備されていない頃のもので池と田圃が広がっていました。
 40年ほど前と今の風景を比べてみると、この辺りの風景は大きく変わっています。今は写真の社町庁舎もなく、駐車場になっていますし、池は社中央公園、ステラパークに整備され、加東市の中心的な広場になっています。当時シャッターを押しながらそんな未来の景色は思いも浮かびませんでした。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和50年代の佐保神社

2016年12月26日 05時16分17秒 | Weblog
 この写真は昭和50年代前半の佐保神社の風景です。中央の瑞神門は改修される前のもので、現在の姿と比べると屋根が丸みを帯びている感じがします。
 また、現在は門前の写真左手前に公衆トイレが建てられ、この位置からの写真を撮ることができません。何か広々とした門前からの景色に新鮮さを感じます。
 もう一つ、門の向こうの拝殿、本殿のうしろに木が写っていません。よく見ると、向こうの玉垣や家が見通せます。現在はクスノキが本殿の屋根より高く見えるほど繁っていますから、この写真撮影時には木は植わってなかったのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-輝く健康博覧会入場券

2016年12月25日 05時44分06秒 | Weblog
 社町社区(現加東市社)の大正15年区長雑書綴の中に、小さな一枚の券がはさんでありました。昭和2年(1927)の年初の文書と一緒にあったもので、当時のものと思われます。

 「輝く健康博覧会」の特別会員券で、「一葉一名限」、「本券持参者ニ限リ会費特ニ金十銭」と印刷されており、博覧会の割引入場券ということです。
 会期は1月2日から4日の午前9時から午後10時まで。結構夜遅くまで開場していたんですね。
 会場は社町郡公会堂、すなわち当時の加東郡公会堂で今の加東市明治館です。主催は帝国保健協会、後援は、社町役場と社警察署となっています。
 「輝く健康」。残念ながら博覧会の内容が分かりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正時代の社町消防組の決算報告

2016年12月24日 05時42分02秒 | Weblog
 大正14年(1925)年の社町消防組第一部の決算報告が当時の区長雑書綴に綴じられています。消防組は、現在の加東市消防団社分団に承け継がれています。父も、私も消防団員として活動しました。地域の安全は地域で守る。その最前線にあるのが消防団です。近年は団員不足で高齢化も進んでいますが、こうした先人の活動の跡をしることは大事なことだと思います。小野や大門の火事にも出動していたことも分かります。相当大きな火事だったのでしょう。


 第一回 自大正十三年八月一日至大正十四年四月三十日 決算報告

   収入ノ部

一金壱百圓   大正拾参年度補助(八月十八日受理)
一金壱百圓   仝      上(十一月八日受理)
一金参拾八銭  自大正十三年八月十八日至仝十一月二十五日 銀行預金利子
一金百圓    大正十四年度補助(大正十四年三月三日受理)
   合計 金四百圓参拾八銭

   支出ノ部

一金四拾九圓拾五銭  大正十三年八月中夜警諸費用
一金五拾壱圓四拾銭  仝    九月夜警慰労宴諸費用
一金参拾壱宴九拾銭  仝  十月十七日秋季演習諸費用
一金四拾五宴六拾銭  仝  仝演習終了後宴会折詰五十七人分(八十銭替)
一金弐拾圓      友藤前組頭隠退ニ付當部ヨリ贈呈
一金拾圓       友藤前組頭花芝居興行ニ付當部ヨリ祝儀
一金弐拾圓七拾五銭  提灯慎重拾四張(壱圓替)張替十五張)四十五銭替
一金拾圓       香料及供花料四軒分
一金六圓五拾銭    竹梯子壱丁代
一金七圓四拾五銭   小野、大門出火出動氷及萬頭代
一金六拾九圓7銭   名刺其他諸印刷費
一金九圓参拾銭    諸通知及配布賃
一金拾壱圓八拾四銭  雑費
   合計金弐百八拾圓八拾六銭
   差引残高金百壱拾九圓五拾弐銭
 右之通リ候也

   大正十四年八月
           社町消防組第一部      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正14年-加東郡仏心協会の部落講話講師一覧.

2016年12月23日 04時46分08秒 | Weblog
 大正14年(1925)、加東郡仏心協会の講話の実施について、各区長への協力依頼の文書が社町社区(現在の加東市社)の区長雑書綴に綴じられています。この文書は以前に紹介しましたが、今日は、地区割りならびに受持講師について紹介します。
 加東郡は現在の加東市と小野市域にまたがり、北部、南部、東部の地域分けがしてあります。北部は現在の加東市域、南部は小野市域、東部は下東条が小野市域で、あとは加東市域になっています。
 この講話の趣旨は、「大正十二年十一月十日煥発の精神作興御詔書の誓旨を奉戴し勤倹奨励、陽暦励行、協調思想興進のため」とあり、12月10日から5日間、毎夜6時から各地区会場で行われるものです。

12月10日
〔北部〕社町:社、上中 〔南部〕河合:新部、粟生 〔東部〕下東条:小田、菅田
12月11日
〔北部〕加茂:新町、多井田 〔南部〕大部:敷地、土橋 〔東部〕中東条:新定、栄枝 
12月12日 
〔北部〕滝野:上滝野、河高 〔南部〕小野町:小野、浄谷 〔東部〕上東条:天神、森12月13日
〔北部〕福田:上田、南坊 〔南部〕市場:太郎太夫、池尻 〔東部〕米田:上久米、下久米
12月14日
〔北部〕上福田:上三草、藤田 〔南部〕来住:下来住、阿形 〔東部〕鴨川:上鴨川、平木

〔北部受持講師〕田村快賢、菅野法梁:松本隆膵、三枝快忍:田村義基、小泉惠誠
〔南部受持講師〕土師原穆秀、一柳環應:稲村修道、中尾霊鳳
〔東部受持講師〕足利禅器、丹生裕典:金岡梅犮、清水谷善照
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年-加東郡農会主催の農事講演会等案内通知

2016年12月22日 05時46分17秒 | Weblog
 昭和2年(1927)、社町(旧社町、現加東市立社小学校区域)の農会長名で、農会の評議員、総代、農事改良奨励員、穀物検査員、篤農家宛てに農事講演会、懇談会の案内通知が出されています。大正時代、昭和前半は農業が主要産業であり、当時の社区文書綴には農会関係書類が多く綴じられています。この農事講演会と懇談会は加東郡農会の主催によるもので、社町の元郡公会堂(現加東市明治館)で開催となっています。写真は昭和10年代の社町の元郡公会堂です。
 通知は次の通りです。

社農第六号
昭和二年一月二十七日
            社町農会長 松本兼蔵

農会評議員
農会総代
農事改良奨励員  各位
穀物検査員
篤農家

 農事講演会並農事関係者懇談会ノ件

郡農会主催ニテ来ル二月四日午前九時ヨリ社町元郡公会堂ニ於テ

一 農事講演会
 農業経営改善ニ就テ 講師 本県農務課技師
 農会経営ニ就テ 講師  〃農会技師

二 昭和二年度ニ於テ加東郡、町村、農会ニ施設奨励ヲナスヘキ事項ニ関スル懇談

三 □□品質改良統一共進会褒賞授与式

四 優良農会ノ選彰式

五 農事功労者ノ表彰式

右執行相成可ニ就キ当日万障ヲ繰合ノ上御出席相成度此段及通知候也
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

約90年前、社小学校講堂落成

2016年12月21日 06時05分24秒 | Weblog
 昭和2年(1927)2月、社町長から各区長に対し、社小学校の校舎増改築工事の竣工に関する通知が出されています。
 『百年史』によると、完成した新校舎は講堂のようです。私が通った昭和30年代には、2階が講堂になっていて、1階は確か3年生の教室でした。「当時は東北播にその例を見ないモダンな建物」(同百年史)と思い出欄に書かれています。写真はありし日の社小学校講堂(南校舎)です。
 案内文は次の通りです。

 昭和二年二月九日
                 社 町 長
各区長 殿

兼て御配慮相煩し居り候社小学校増改築工事愈々竣工明十日落成式挙行致候就ては此の機を祝し児童学藝品展覧会をも開催致し候十日十一日の両日間を休業とし観覧致す様貴部内一般へ御通知方御取計相願度此□得貴意候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八志路幼稚園長の公印と清水寺の用箋

2016年12月20日 10時29分17秒 | Weblog
  



 写真は昭和10年代の八志路幼稚園の園舎です。八志路幼稚園は、大正3年(1914)、社町(旧社町)有志が御大典記念事業として創立し、大正7年にこの写真にある園舎が建築されています。清水寺が経営し、昭和53年まで続いた私立幼稚園です。わが家の北側にあり、私は社保育園に行きましたが、近所のこの幼稚園でよく遊びました。
 ところで、この幼稚園の園長院と清水寺の用箋の写真を紹介します。大正15年のもので、園長から区長あてに出された文書です。用箋には「播磨國 御嶽山淸水寺」の寺号が印刷されています。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正時代の社市街地の略図

2016年12月19日 05時50分09秒 | Weblog
 

 大正13年(1924)の加東郡社町社の区長雑書綴に、社市街の田町通りに新設される食料品市場関係の書類が綴じられています。その中に設置場所を示す地図があり、当時の社市街のようすを知ることができます。
 新市場の設置予定地は、田町通りの中田町(なかたまち)。当時の田町通りは県道で「有馬郡ヘ通ス」と書き込まれています。三田方面です。また、田町通りは西から、西田町、中田町、東田町と続いており、今もその町割りは変わっていません。
 市街を南北に走っている道路も県道です。北は「多可郡ヘ通ス」と書かれています。これは西脇方面です。この県道に沿って、北から南へ、郡役所のある上町、本町、上中町、下中町の順に町割りがしてあります。その県道から、西浦、田町、東条町、宮ノ前、東浦へと道が延びています。
 地図には小学校、幼稚園、天理教会、裁判所などの書き込みもあり、当時の位置がわかります。小学校はそのままですが、幼稚園(八志路幼稚園)、天理教会辺りは住宅に、裁判所辺りは法務局になっています。
 さて、市場ですが、長い間市場として食品流通の拠点として賑わい、その後、駐車場や車庫になり、現在、整地されて駐車場に変わろうとしているようです。写真は昭和初期の市場のものです。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅野内匠頭を仰ぐ大石父子の墓碑

2016年12月18日 05時35分07秒 | Weblog




 加東市家原の観音寺にある赤穂義士の墓所は、中央に浅野内匠頭長矩はじめ浅野家四代の大きな墓碑があり、その手前の両脇に大石内蔵助と主税父子が控え、それを義士がぐるりと取り巻く形で配置されています。
 単なる石碑、墓碑ではなく、その墓碑を通して主君を慕う家来の姿、忠義の心が表されています。写真は大石父子の墓碑と墓所の入口から見た風景です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一休みの加東伝の助くんと空飛びたいハバタン

2016年12月16日 08時43分43秒 | Weblog
 

 加東市の文化伝統や歴史、自然などのよさを伝えるマスコットキャラクター、加東伝の助くん。さまざまな催しに登場する人気者ですが、出番前の控室で一休みしている様子をそっと撮りました。三頭身ですが、座ると頭と下半身だけになってしまいます。何をしていても可愛い伝の助くんです。
 一方、県議会副議長室ではハバタンが部屋の中を飛んでいます。窓の外に飛び出していきたいと言っているようです。兵庫と加東のマスコットキャラクター。古風な伝の助と妖精的なハバタンでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする