ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和30年頃-風呂屋の煙突が見える風景

2010年11月30日 05時18分19秒 | Weblog
 この写真は、昭和30年頃の写真です。撮影場所は、現在の加東市社の田町通りから社小学校に通じる学校道に少し入った所だと思われます。4人の子どもが写っていますが、刀のおもちゃを持ってチャンバラ遊びでもしていたところでしょうか。大きな子も小さな子も一緒に遊んでいます。当時は子どもが多かったので子守りをしながら遊んでいました。
 子ども達の後ろに一本の煙突が写っています。これは、煉瓦積みの風呂屋の煙突です。風呂屋の東から北側には路地があり、煙突の前のほんの少し広くなった場所でよく遊びました。ここでの遊びはくぎ刺しです。くぎを地面に投げて刺しながらぐるぐると陣地を取っていく遊びだったように思います。
 この煙突には避雷針が立っていて、雷が時々落ちるのですが、縁側で雷を見ていてこの避雷針に雷が落ちると、バチっと鳴って一瞬真っ白になり、身体が吸い寄せられるのです。その感覚は今もよく覚えています。
 昭和30年頃の社の風景には、この煙突がありました。
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昭和30年頃-八志路幼稚園が風景にあった頃

2010年11月28日 05時16分10秒 | Weblog
 この写真にある風景は、今ではまったく見ることができません。正面奥に写っている建物は八志路幼稚園の園舎です。その手前には田圃があります。そして、道路、その手前に二人の幼児が遊んでいます。
 この一枚の写真は、昭和30年頃に撮影されたものです。今、同じ位置からこの方向を見ると、まず、アスファルト道路があり、美容院があり、その背後には5階建の集合住宅が見えます。これが、約50年余りの歳月の変化です。
 かすかな記憶の中にある風景。私が2歳頃のこと。私はこの幼稚園には通わず、社保育園に3年通いました。幼稚園にはセミを捕りに行ったりして遊んだ記憶があります。畦道を通って、生け垣の木の根元の隙間から園内に入ったり抜け出たり。トトロに描かれた昭和30年代の田舎の風景が懐かしいわけです。
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昭和32年-鴨川小学校の二宮尊徳像建立記念

2010年11月27日 04時41分57秒 | Weblog
 この写真には、昭和32年10月15日の書き込みがあります。半世紀余り前の写真です。木造校舎の前の二宮尊徳像の前で記念写真ですが、神主さんの姿があるので、竣工式か何かの記念でしょうか。
 二宮尊徳像が光っています。ひょっとしてと思い、以前この歴史ブログで紹介した鴨川小学校の二宮尊徳像のページを見てみると、「昭和32年建立・・・」を発見しました。この写真は木造校舎の頃、二宮尊徳像建立の際の記念写真に間違いありません。
 現在は、校門を入って右手のところに像が移転されていますが、鴨川小学校に通う子ども達を半世紀にわたって見守ってきたんですね。
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昭和50年頃の社銀座通り

2010年11月26日 06時00分43秒 | Weblog
 現在、加東市社の銀座通りはアスファルトの張り替え工事が行われていますが、この写真は、昭和50年頃の銀座通りの写真です。
 右手前には、懐かしい社警察署の庁舎が写っています。昭和のはじめに建てられたもので、威風堂々とした雰囲気がありました。現在は跡地にみなと銀行社支店が建っています。
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昭和40年代前半-佐保神社でピラミッド

2010年11月25日 04時58分34秒 | Weblog
 昨日に続いて、ボーイスカウトの写真をもう一枚紹介します。
 この写真は佐保神社の境内で写したものです。当時、ボーイスカウトの集会は佐保神社の境内で行うことが多かったと記憶しています。写真は、昭和40年代前半の頃のものだと思うのですが、今から約40年前ということになります。左後ろのケヤキの木も今と比べると細いように見えます。また、その後ろの小宮の木も今はもうないもの、あるいは、まだ小さいものもあります。
 ピラミッドの中の顔はみな懐かしい少年時代の笑顔です。
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昭和40年頃-社でボーイスカウトの行進

2010年11月24日 05時14分59秒 | Weblog
 この写真は昭和40年(1965)頃のものだと思いますが、ボーイスカウトの行進のようすを写したものです。
 場所は、元の社町役場前(現在の加東市社、消防会館)の辺り、関西電力社営業所の東に当たるところで、後ろに神田学園の建物、そして、行進を見守る近畿電気の人が見えます。また、田町から社小学校につながる学校道なのですが、写真をよく見ると未舗装です。
 45年後の平成22年(2010)、同じ場所で毎朝、登校する社小学校の子ども達の見守り活動に立っています。私は結成されたばかりの社の団の旗手をつとめていました。夏の野営などでは、立ったまま貧血でよく倒れていました。中学に入って野球部で鍛えられて強くなりました。旗手の中に自分がいるのを発見しました。
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もう一枚-秋の光満ちる播磨中央公園

2010年11月23日 05時25分56秒 | Weblog
 県立播磨中央公園のこどもの川に秋の光が満ちていました。昨日に続いて、秋の播磨中央公園の写真をもう一枚紹介します。
 
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錦秋-播磨中央公園

2010年11月22日 06時10分14秒 | Weblog
 21日(日)、北はりま絆プロジェクトのイベントで県立播磨中央公園を訪れました。五峰山麓に広がる公園一帯は今まさに紅葉が鮮やかに光っていました。
 子どもの水辺の水面に光る秋の透明な空と紅葉。開園記念にうれしの大学の皆さんによって刻まれた巨大な羅漢石像。その背景には紅葉が光っていました。思わずシャッターをきりました。太平記に語られた足利尊氏兄弟の合戦の繰り広げられたその地に今は多くの家族連れが訪れ、豊かな彩りの秋の一日を楽しんでいました。
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錦秋の佐保神社門前

2010年11月21日 06時06分18秒 | Weblog
 加東市社の佐保神社の門前を車で通ることが多いのですが、秋になると、まずケヤキの葉が真っ先に色づきはじめます。国道372号のケヤキ並木も今年は色合いが美しく感じます。そして、銀杏が色づくとまさに錦秋の言葉通り、秋の透明な空気の中で、紅や黄色に鮮やかに輝いています。
 昨日は思わずシャッターを押しました。四季のある日本に生まれてよかった、と思います。
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消防署の大ムク

2010年11月20日 05時32分03秒 | Weblog
 先日、加東市上中の加東消防署で市内の事業所や防火クラブの皆さんが参加して自衛消防大会が開かれました。天気はよかったのですが、少し風が冷たく感じる日で、秋の透明な日に周囲の木々の紅葉が一層鮮やかさを増していました。
 消防署の訓練場には訓練棟や足場が組まれています。その足場を支えるようにというか、覆いかぶさるように太い幹の巨木が天に向かって枝を伸ばしています。黄色く染まった葉が光にまぶしく、そして吹く風に舞い飛んでいました。
 消防署のすぐ脇にお堂があり、道路をはさんですぐ東側にも巨木が生えています。遠くからでもよく見えるこの2本の巨木はランドマークでもあります。当日は、消防署員によるレスキュー訓練も披露されましたが、巨木は炎暑の夏も寒風の冬も、日々、こうした署員の訓練に励む姿を見守ってきたことでしょう。
 もうすぐ落葉し、太い幹と根のように血管のように伸びた枝だけになります。太い幹の途中には大きな瘤もできていました。大木、巨木には、人間を遙かに超える生命力を感じます。思わず近寄って手を押しつけてみました。
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社町時代の絵葉書-高室池

2010年11月19日 04時18分16秒 | Weblog
 社町時代の絵葉書をもう一枚紹介します。天と地に広がる美しい青。その間には緑の山が広がる広々とした風景。写っているのは加東市上三草、三草山の山麓の南にある高室池です。その池畔に、昭和45年に設立された社モーターボート会館の施設があります。50メートルの室内温水プール、体育館、研修宿泊施設などが整備されています。スポーツセンターとして社町の新しい観光施設として期待が集まっていました。絵葉書の解説には次のように書かれています。

 〈兵庫県・社町〉YASHIRO-HYOGO
  体育館、50m室内温水プール、研修館、宿泊館(200人収容)からなる社ボートセ ンター、前面には美しい高室池がある。
 YASHIRO BOAT CENTER 
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社町の絵葉書-ぶどうと栗

2010年11月18日 04時40分18秒 | Weblog
 社町時代の絵葉書をもう一枚紹介します。
観光果樹園のぶどうと栗。解説には次の通り書かれています。

〈兵庫県・社町〉YASHIRO-HYOGO

 四季の味覚、くり・ぶどうの観光農園もさかんである。
小林果樹園・下三草ぶどう園・西山くり園・牧野ぶどう園・山本果樹園
SIGHTSEEING FARM

 
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佐保神社境内の小宮

2010年11月17日 05時18分39秒 | Weblog
 この写真は、加東市社の佐保神社の境内で撮影したものです。昭和50年前後の頃のものだと思います。
 境内の西側には、一列に小宮が並んでいます。この歴史ブログでも何度も紹介してきた御大神宮さんは、左から3番目にありますが、榊の木で祠がよく見えません。現在では、この榊の木が大きく成長して祠にかぶさるようになっています。
 画面右の手前に石碑が写っていますが、これは日露戦役紀年碑で、大正2年に大阪堂島取引所有志によって建てられたものです。米取引所があった社のまちとの関係を伝える石碑です。そのすぐ後ろに太い幹が黒々と写っていますが、欅の大樹です。数百年の時をこの境内で生き抜いて今も毎年緑陰を提供してくれています。
 
 
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社町の絵葉書-清水寺

2010年11月16日 04時37分46秒 | Weblog
 社町時代の絵葉書を2枚紹介してきましたが、3枚目は清水寺の絵葉書です。山中の数ある建物のうち、根本中堂が絵葉書に選ばれています。
 根本中堂は、推古天皇勅願所として推古35年(627)創建と伝えられていますが、現在ある建物は、大正2年の全山大火事のあと、大正6年に再建されてたものです。絵葉書に印刷された解説は下のとおりです。

(兵庫県・社町)YASHIRO-HYOGO
  西国二十五番霊場・播州清水寺
 登山道路も開通し、山上からの展望もすばらしい。
  KIYOMIZU TEMPLE
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社町の絵葉書-赤穂義士の墓碑

2010年11月15日 04時58分07秒 | Weblog
 昨日は社町の絵葉書-佐保神社の秋祭りを紹介しましたが、今日は絵葉書のうち、「赤穂義士の墓碑」を紹介します。絵葉書には下記の紹介が印刷されてます。

 (兵庫県・社町)YASHIRO-HYOGO
  家原浅野藩の祈願所であった観音寺境内にある赤穂義士の碑、1848年、150回忌 を記念して建立された。
  TOMBSTONES OF THE LOYAL WARRIORS OF AKO FIEF AT KAN-NONJI TEMPLE

 写真は、中央に赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、その左右に大石内蔵助良雄、大石主税良金の墓碑があり、塀の内側に取り巻くように義士の墓碑が並んでいます。南側入口の方から墓碑に刻まれた義士の名前を確かめながら歩いていくと「忠臣蔵」の主人公たちがそこに居る、という感じがします。ちなみに最初は吉田忠左衛門(63歳)で、当地に駐在して、ため池の築造などを指揮したことで、今もその名が各所に残っています。
 この赤穂義士の墓碑があるのは、家原の観音寺ですが、地名の赤岸(あかぎし)も赤穂義士がなまったものといわれています。この歴史ブログの2006年7月ごろの投稿記事を見てくだされば、もう少し詳しいことがわかりますが、ここに記事の一部をを再掲します。


家原浅野氏
今から約350年ほど前、江戸時代のはじめの頃(1645年)に、播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)に浅野氏が大名として入ってきました。赤穂浅野藩は赤穂をはじめ、佐用郡や加西郡、加東郡に領地を持っていました。加東郡の領地のうち、旧社町内では、垂水(今の西垂水)、窪田、中村(今の上中)、北村(今の喜田)、梶原、家原、鳥居、田中、貝原、福吉、沢部、上三草、下三草、木梨、野村、上田、大門の各村が浅野領でした。加東郡の領地には郡代がおかれ、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が郡代を務めていました。(文中の垂水から沢部まで村は、のちの家原浅野氏の領地)
1671年、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の領地三千五百石が分けられ、旗本・家原浅野氏がつくられました。家原には陣屋(役所)もつくられ、その後、家原浅野氏は明治維新の廃藩までの七代、約200年続きました。

観音寺
観音寺はいつ建てられたかははっきりしませんが、家原浅野氏がつくられた頃だと考えられています。浅野氏の祈願所・香華所であったようです。
 社の市街地の北端にある善龍院は家原浅野氏の菩提所とされ、住職が観音寺の住職を兼ねていました。次に赤穂義士との関係をみてみましょう。

赤穂義士と観音寺
元禄14年(1701)3月14日、江戸城内で赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)に斬りつけ、けがを負わせました(松の廊下の刃傷事件)。長矩はその日のうちに切腹。領地は没収、お家は断絶というきびしい裁きが行われました。しかし、吉良はおとがめなしでした。
 主君の恨みをはらそうと、翌15年12月14日(15日の早朝にかけて)、家老大石内蔵助をはじめ四十七人の家臣が江戸の吉良のやしきに討ち入り、ついに仇を討ったのです。人々はこの赤穂藩の家臣らの忠義をたたえました。今でも時代劇「忠臣蔵」として人気が高い話です。
討ち入りから約150年後の弘化4年(1847)、善龍院の住職だった明範は、領主の家原浅野氏と相談して、観音寺の境内に赤穂藩浅野氏四代の藩主と四十七義士の石碑を建て、義士の忠義をたたえました。それが、観音寺の四十七士の墓とよばれているものです。
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