ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

もうすぐ義士祭 5

2010年12月11日 19時07分51秒 | Weblog
 加東市義士祭は、赤穂義士ゆかりの地、加東市において行われる伝統行事です。そもそも加東市と赤穂義士との関わりは、播州赤穂藩の領地がこの加東市にあったということに始まります。旧加東郡(現加東市、小野市域)内に24か村、8200石余が赤穂藩領だったのです。観音寺のある家原をはじめ、鳥居、田中、窪田などの村々がそうでした。加東郡には、加西郡内の領地と合わせて57か村を管轄する加東郡代が置かれ、加東郡穂積((現加東市穂積)に陣屋がありました。義士の一人、吉田忠左衛門は加東郡代でもあったのです。
 寛文11年(1671)、赤穂藩浅野家の相続で、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の11か村(3500石)が分知されて、家原浅野氏が創立されました。この家原浅野家は
その後7代200年続いて明治維新の廃藩まで続いています。家原には陣屋が置かれました。また、家原浅野家の祈願所として観音寺がつくられたのではないかと伝えられています。
 元禄15年(1701)の討入りから150回忌が近くなった弘化4年(1847)に善龍院(加東市社の寺院、家原浅野家の菩提所)の住職明範が観音寺境内に四十七義士石碑を建立して回向をし、義士の忠誠を称えていこうと勧進(寄付)を行ないました。これには旧赤穂藩領の村々や有志が進んで寄付に応じ、墓碑が建立されたのです。まさに義士の忠義の志、精神を伝えていこうとする多くの人々の願いが実現したということです。
 その後、昭和のはじめに地元の青年団員によって義士祭が行われ、義士行列、早籠に因んだ駅伝や剣道大会など時代とともに形は変わりながらも今の時代に受け継がれています。そんな義士祭にぜひお越しください。
 
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もうすぐ義士祭 4

2010年12月11日 05時17分06秒 | Weblog
 この写真は観音寺にある赤穂義士の墓所ですが、おそらく昭和10年代のものだと思われます。浅野内匠頭長矩の墓碑と大石父子の墓碑を囲むように義士の墓碑が並んでいます。その風景は今も変わらないのですが、塀の向こうに見える風景が今とはずいぶん違っています。
 写真には松林が写っており、当時の御霊山一帯が松林だったことが分かります。現在はこの塀の向こうは道路になっており、松林はありません。現在の観音寺辺りは社環状線(昭和の合併でつくられた市街地を取り巻く環状道路)と旧国道175号線の交わる赤岸(あかぎし)交叉点があり、多くの車や人が行き交ひ混雑しています。
 
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