ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和10年-佐保神社で厳寒の入営奉告祭

2012年12月30日 07時42分10秒 | Weblog
 昭和10年(1935)1月、郷土社町(旧社町、現在の加東市立社小学校区域)から入営する兵隊の奉告祭が佐保神社で行われています。社町社区事務所「往復文書綴」に社町長から町会議員、区長宛てに出された通知が綴じられていました。通知には、入営者の氏名と入営部隊、社駅発の時刻等が書き込まれています。


 昭和十年一月十日

      社町長  大 橋 實 次

来ル一月十三日午前八時ヨリ社佐保神社前ニ於テ本年入営スベキ左記各位ノ奉告祭ヲ施行可致候条御多用中且厳寒ノ折柄ニハ候ヘ共萬障御繰合ノ上御参集相成度此段御案内申上候
 追而 御部内一般ヘモ伝声ノ上多数御列席相成様御配慮相煩度

       記

一月十三日午前九時二十三分 社駅発
 朝鮮竜山野砲兵第二十六聯隊入営(一月二十日)
  社、出井芳雄  喜田、岸本義夫

一月十八日午前八時四十分 社駅発
 広島電信兵第二聯隊入営(一月二十日)
  窪田、家永輝義

一月十九日午前八時四十分 社駅発
 姫路歩兵第三十九聯隊入営(一月二十日)
  山国、宮野清重  家原、山本貞雄  窪田、大西史郎
  上中、依藤 清  家原、鈴木三次  家原、田村義信
 姫路輜重兵第十大隊ニ入営(一月二十日)
  社、亀田快隆  出水、井上信司  窪田、太田繁春
  出水、大橋精一

出寄留地ヨリ入営スルモノ(  )内原籍
 野砲二大、近藤貞夫(社)   電二、中西健次(貝原)  歩三九、大橋八郎(出水)
  
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大正15年-松葉亭で肥牛品評会開催の相談

2012年12月29日 09時38分23秒 | Weblog
 大正15年(1926)の末、社町(旧の社町、現在の社小学校区域)で加東郡畜産組合主催の肥牛品評会が行われることになり、その相談を社町の松葉(料理旅館)でしたいという案内状が「雑書綴」(社町社)に綴じられています。
 「松葉」は今も加東市社の商店街で営業されており、社が官公庁の街として賑わった往時の姿をとどめています。写真は手前の白い建物が移っており、改装前のものです。案内状は次のとおりです。

拝啓
益々御清勝の条賀上候
陳者来る二十日より二日間社町に於て本組合主催第二回肥牛品評会開設致し度
就而万事御援助相願度義も有之御多用中甚だ恐縮に存シ候ヘ共明十一日午後三時より
社町松葉亭へ御足労相願ひ度此段得貴意候也

  大正十五年十二月十日
    加東郡畜産組合長 岸本定八

肥田仙治 殿
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昭和10年新年祝賀会の案内-社町

2012年12月28日 06時19分04秒 | Weblog
 今年も残すところあと4日になりました。今から78年前の昭和9年(1934)の今日、12月28日付で、社町長から昭和10年の新年を祝う会の案内状が出されています。当時は小学校で新年の式があり、続いて郡公会堂で祝賀の会が行われていたようです。写真は元加東郡公会堂で、現在の明治館(加東市社)です。

拝啓今年モ愈々歳尾ト相成御多端御察申上候本年中ハ公私共格別ノ御交誼ヲ蒙リ難有奉謝候陳者来ル昭和十年一月一日午前十一時元郡公会堂ニ於テ
皇室ノ御繁栄ト国家ノ隆盛ヲ祝福シ併セテ親シク年頭ノ御祝詞申上粗酒一献差上度候間何卒御繰合セ御貴臨ノ栄ヲ得度此段御案内申上候  敬具

 昭和九年十二月廿八日
          社町長  大橋實次

      殿
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太鼓屋台勢揃いの平成25年佐保神社カレンダー

2012年12月27日 06時10分54秒 | Weblog
 写真は平成25年の佐保神社暦です。佐保神社は加東市社にある北播屈指の大社で、その秋祭りは北播三大祭りに数えられています。図柄は、今秋の瑞神門修復記念の祭りに宮入した神輿と5台の太鼓屋台(新町、上中、東古瀬、上組、下組)の勇姿と大門地区の獅子舞が瑞神門の周囲にあしらわれています。
 25年の佐保神社秋祭りは10月12日(宵宮)、13日(本宮)となっています。郷土の祭りは先祖から受け継ぎ次代へと伝えていく貴重な伝統文化であり、郷土を思うときの原点にあるものです。来年もこのカレンダーを眺めながら秋祭りを楽しみにして過ごすことになるでしょう。
 
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大正15年-社区評議員会の案内状

2012年12月25日 05時58分43秒 | Weblog
 今から86年前、大正15年(1926)の4月、社区(現在の加東市社)の評議員会が開催されています。その案内状が「雑書綴」に綴じられています。案内状は、社事務所の専用事務用箋に毛筆で書かれています。
 協議内容の中に上町大師殿上棟奉祝が挙げられていますが、持寶院の大師殿のことでこのブログで何度も紹介してきた日本一の木造大師像が安置されています。写真は冬の早朝の大師殿です。


拝啓
大正十四年度終始決算報告並ニ上町大師殿上棟大法会奉祝方法相談の為め明十日午後七時揃ひ西浦倶楽部に於て評議員会開催仕候間何卒御出席御御願相成度此段御案内申上候也

 大正十五年四月九日

                 社町社区長  肥田仙治 

各町制服評議員御中
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大正14年-北但大震災救援募金

2012年12月23日 05時34分09秒 | Weblog
大正14年(1925)5月23日、兵庫県の但馬地方北部で地震が発生し、豊岡や城崎などで大きな被害が出ました。この震災は北但大震災とよばれていますが、被災地救援の義捐金募集に関する記録が「社町社区長 雑書綴」に綴じられています。

大正拾四年五月弐拾参日午前十一時二十分ノ(強地震)北但地方ノ震災義捐金募集

 大正十四年五月二十八日

・本町      貳拾六円也
・上中町     貳拾六円五拾銭
・下中町     貳拾六円八十銭
・下町一、二部  貳拾五円三十銭
・宮前      四円拾銭
・西田町     拾壱円五十銭
・中田町     九円弐十銭
・東田町     拾三円五十銭
・西浦      拾円七十銭
・上町南部    拾円七十銭
・上町北部    弐拾五円三十銭
・東条町     拾三円弐十銭

  合計 貳百弐円八十銭
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大正14年-社区評議員会の協議事項

2012年12月22日 04時36分48秒 | Weblog
 大正14年(1925)の「社町社区長 雑書綴」の中に、評議員会の協議事項を記した文書が綴じられていました。その中には、昨日のブログで紹介した県立社高等女学校の移転新設負担金の件や社地区にある上組(かみぐみ)と下組(しもぐみ)の屋台太鼓の倉の合併の件なども協議事項に挙げられており、どのような協議が行われたのか興味が湧いてきます。文書は次の通りです。


大正十四年十一月十日開催
    評議員会協議事項

一、消防用水溜 壱ヶ所設置ノ件
一、女学校負担金徴集ノ件
一、墓地合併ノ件
一、耕地整理組合創立経過報告ノ件
一、上下組太鼓倉合併ノ件
一、コレラ病予防法並ニ牛ノ肺炎発生ニツキ予防注意ノ件
                        以上
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大正14年-社高等女学校で畜産講話会

2012年12月21日 05時43分44秒 | Weblog
 大正14年(1925)の秋、10月24日、県立社高等女学校の講堂で兵庫県畜産組合聯合会の主催で、肥育牛に関する講話会が開催されています。
 このような催しは、社町では元加東郡公会堂で開催されることが多かったようですが、女学校の講堂で開催されるのは珍しいのではないでしょうか。
 社高等女学校は大正11年に県立移管に伴い、小野町から社町に移転新築されていますので、まだ真新しい講堂での開催だったのでしょう。女学校は県立社高等学校の前身で、その校舎跡は今、新しく建て替えられた社区裁判所になっています。写真は昭和10年代の女学校の校舎です。
 講話会の講師は、元畜産試験場技師の飯田吉英氏とあります。
 
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昭和4年-佐保神社で現役兵退営奉告祭

2012年12月20日 04時57分08秒 | Weblog
 昭和4年(1929)の夏、佐保神社(加東市社)では、現役兵の退営奉告祭が行われています。社町長から社区長宛てに出された通知が雑書綴に綴じられていました。軍の兵役につくために入営し、そして期間をつとめ退営する。その入退営には郷土の神社で奉告の祭りを行っていたのです。わずか80年余り前のことなのに今の私たちはよく知りません。文書は次の通りです。



 昭和四年七月八日
               社 町 役 場

社区長 殿

  現役兵退営ニ付キ奉告祭及出迎式挙行ノ件

明九日午後一時社佐保神社ニ於テ現役兵退営奉告祭執行致スベク候条御多忙中ニハ候ヘ共モ貴部内有志多数参列相成候様御伝達相成度此段及通知候也

      左記

退営者氏名  山国  井上夘吉
右   仝  松尾  前田慎吉
右   仝  田中  黒石義男
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昭和11年-播鉄乗合自動車で見送り受け入営

2012年12月19日 05時02分35秒 | Weblog
 昭和11年(1936)、郷土から現役兵として入営する兵士の見送りに関する通知が社区事務所の諸通達綴の中に綴じられています。
 輜重兵とは輸送部隊の兵のことだと聞いています。出発地の社の三階前は、現在の加東市社の市街地の南の佐保神社の参道に近い交差点です。播鉄乗合自動車すなわちバスでの出発だったんですね。
 
 昭和十一年九月二十九日

       町 長  大 橋 實 次

区 長 殿
学校長 殿
各団体長殿

  現役兵入営ニ関スル件

十月四日姫路輜重兵第十聯隊ヘ第五期入営輜重兵特務兵として田井昌夫殿(社)左記日時ニ出発セラルルニ付御見送リ被下度此段及通知候
 尚 部内一般ヘモ御伝言被下度

    記

十月三被午前八時二十五分 社(三階前)発  播鉄乗合自動車
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番外-わたしの好きな風景

2012年12月18日 06時02分35秒 | Weblog
 ふるさと加東の歴史再発見のブログですが、今日は隣の三木市細川あたりにあるコンビニの駐車場から見える「私の好きな景色」を紹介します。
 神戸への道すがら、コンビニの駐車場に車を置くと、西側の見上げる位置に枝を丸く広げた一本の木があり、その根元にお地蔵様が祀られています。
 田圃の高い土手の上にあり、四季を通じて、あるいは朝夕姿を変えながら見上げる私たちの心に安らぎを与えてくれます。
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昭和13年-社小学校卒業式案内

2012年12月17日 05時44分06秒 | Weblog
 昭和13年(1938)の春、社小学校(現加東市立社小学校)の卒業式の案内状が社区事務所の諸通達綴に綴じられています。74年前のことですから、この年に卒業された方はまだ居られる筈。その案内状はガリ版刷りの候文。写真は社小学校の講堂(西校舎)です。

謹啓 愈々御清穆之段奉賀候
 搘而来ル廿六日午前十時本校卒業式挙行
 可仕候間何卒御賁臨ノ栄ヲ賜ハリ度ク
 右御案内申上候         敬具

 追テ準備ノ都合モ有之候ニ付御出席ノ有無
 乍恐縮廿四日迠ニ御回報相煩ハシ度
 御依頼申上候

昭和十三年三月廿二日

        社小学校長 合田常蔵

    殿  
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昭和12年-元加東郡公会堂広場で畜産映画会

2012年12月16日 05時15分20秒 | Weblog
 昭和12年(1937)の夏、元加東郡公会堂(現、明治館、加東市社)で畜産組合主催の映画会が開催されています。場所は公会堂広場となっていることから、野外での映画会だったようです。朝のウォーキングで明治館を通りますが、75年前の夏に夕涼みがてらこの広場で映画を楽しんだのですね。
 通知は次の通りです。どんな映画だったのか観てみたい題名があります。写真は現在の明治館正面です。



昭和十二年八月五日

         社町畜産第一区長

各区長 殿

  映画会開催通知

貴職益々御清祥賀上候
陳者来ル本月七日午後七時ヨリ社町元郡公会堂広場ニ於テ標記畜産ニ関スル映画会ヲ郡畜産組合主催ニテ開催相成可候条多数御観覧相成様御配意相煩度右通知候也
 追而 映画フィルム左記ノ通リ

    記

一、愛馬ハ行ク    一巻
一、家畜ハ農家ノ寶  一巻
一、愛馬ノ誉     一巻
一、後悔先ニ不立   三巻
一、景勝ヲ訪ネテ   二巻 全発声
一、乃木将軍ト辻占売 五巻 全発声







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昭和11年-台風情報を至急文書で

2012年12月15日 05時58分35秒 | Weblog
 昭和11年(1936)の社区事務所(現加東市社)の諸通達綴に「至急」の通知が綴じられています。内容は台風情報で、社町役場から各区長宛てに発せられています。夜には風雨が強まるという警報ですが、当時はこうした形で情報の伝達が行われていたんですね。



至急

 昭和十一年十月二日
             社町役場

各区長 殿

      気象特報

神戸測候所館内全部ニ颱風現ハル、
今晩ヨリ風雨強クナル、海上ハ特ニシケル、

  神戸測候所午前九時発報
  午前十時三十五分受報
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加東市赤穂義士祭-家原観音寺で

2012年12月14日 05時19分36秒 | Weblog
 今日14日は赤穂義士討ち入りの日。加東市では家原の観音寺で義士の法要が営まれるほか、剣道大会や中学駅伝大会が開催されることになっています。夜は社市街地の明治館で落語会も開催されます。甘酒の接待や豪華景品のくじ引きもありますので、ぜひお越し下さい。

 ところで、加東市でなぜ義士祭が行われるのか。この歴史ブログではもう何度もエピソードを紹介してきました、そのいくつかをまとめて再掲しますので、興味のある方はお読み下さい。


義士祭
 赤穂義士の墓は、東京高輪の泉岳寺、赤穂の花岳寺が知られていますが、観音寺の墓碑はそれらに劣らない立派なものです。
 毎年、討ち入りの行われた12月14日には義士祭が行われています。この日には、加東市中学校駅伝大会が開かれていますが、これは長矩刃傷の知らせを江戸から赤穂に伝えた早籠にちなんだものとされています。
 私は学生時代に東京で開催された中央義士会の法要に先輩に連れられて出席したことがあります。赤穂義士の子孫が集まり、法要を営んだあとの小宴で、「君はどなたかな?」と問われ、ふるさと社の観音寺と四十七士の墓の話を披露しました。ところが、誰も観音寺のことも墓碑のこともご存知なく、残念な思いをしたことがありました。
 もう一つ、思い出話を。観音寺に庵主さんが居られた頃、不思議なお話を聞いたことがあります。
 観音寺の南側の林の中の高い木の枝の上に浅野内匠頭の霊が現れるという話でした。庵主さんによれば、観音寺は浅野内匠頭が切腹する一年前に建立したもので、一番思いのこもった寺だったとのことです。
 観音寺では、毎年12月14日に義士祭が催されています。中心になっているのは、地元の家原地区と社連合区、加東市観光協会による義士奉賛会です。法要のほか、剣道大会や中学駅伝大会、甘酒接待、くじ引きなどが開かれにぎわいます。
 義士祭は、本家赤穂のものが有名ですが、社の義士祭も昭和のはじめ頃から始まったと聞いています。写真はその頃、青年が四十七士に扮装して勢揃いしたところを撮影したものです。大高源吾に扮した父、若き藤本豊治(元社町長)の姿も見え、当時の青年の義士を讃える気概が伝わってきます。
※赤穂の義士祭は明治36年(1903)、社の義士祭は昭和2年(1927)年にはじまったとされています。


薦誠碑(せんせいひ)
 赤穂義士の寺として知られる観音寺(加東市家原)境内の四十七士の菩提所の入口脇に大きな石碑があります。近寄ってその表を見ると、漢字がびっしりと刻まれています。これが「薦誠碑」です。
 この碑文は、弘化4年(1858)に観音寺に150回忌に合わせて赤穂義士の墓碑が建立されましたが、その寄付を募った善龍院の僧、明範の依頼で家原浅野氏の当主である浅野長祚(あさのながよし)が書いたものです。
 家原浅野氏は赤穂浅野家の分家(3500石)ですが、赤穂藩は滅びた後もそのまま残り、明治維新まで7代、200年続きました。善龍院(加東市社)は家原浅野氏の菩提寺でした。
 碑文には四十七士の墓碑建立の経緯、明範の呼びかけで、義士を偲びその忠義を讃える人々の寄付によって建立されたことなどが書かれているようですが、何分漢文ですので難しくて読解できません。碑文を書いた浅野長祚は江戸に生まれて、幕府の要職を務めています。鉄砲頭、浦賀奉行、京都町奉行、江戸町奉行などを歴任しています。京都では、火事にあった皇居の造営を指揮しています。また、学問にすぐれ、多くの著書を残しています。明治13年65歳で亡くなっています。
 義士の墓をお参りされるときは、入口の階段手前左手にあるこの「薦誠碑」を見て下さい。


家原浅野家
 「刃傷松の廊下」のせりふの一節に「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」とありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)の他に、加西郡8920石(33ヶ村)、そして加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
 加東郡の領地のうち、現加東市域に23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩ととても強い結び付きがあるということです。加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村にのぼります。このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました。
 加東市家原の観音寺に赤穂義士の墓碑が建てられたのもこうした浅野家の領地だったという経緯があります。
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