ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

明治18年刊「小学読本」より 艱難汝を玉にす

2024年02月29日 05時33分49秒 | Weblog

 明治18年刊(1885)の『小學讀本 四』、文部省編纂,兵庫県学務課翻刻を開いてみました。和綴じの教科書で、和紙の柔らかさが指先から伝わってきます。実際に使われていたもので、約140年後に誰かが読むとは、当時の人々は想像もしなかったでしょうね。
 その第三課の文中の「艱難汝を玉にす」の言葉が目に止まりました。最近はこの言葉を耳にすることがなくなりました。本文を紹介します。

〇第三課
身の貴賤なるは却りて進達の助なり就中才芸を琢磨するには貧賤ならざれば志気堅確なり難し古より身を微賤より起して顕貴に陞(のぼ)り或は貧窶にして才芸を成し得たる人枚挙す可からざれば艱難汝を玉にすとも又人の徳慧術智あるもの恒に疢疾に存るともいへり貧賤は一時の労にして後来の栄を招く基なれば貧賤を以て身の勉励を廃すべからず

 久し振りに漢和辞典を引きながら読みました。140年前には小学4年生がこの本を読んでいたのかと思うと、自分の国語力を情けなくも思います。そして、自分の置かれた環境が貧しいからといって努力することを止めてはいけない。むしろ、自分をつくってくれる助けとなる、といったことは、よく聞いて育ったように思いますが、明治時代の前半の頃には、社会の中に身分や貧富の差が大きかった時代だったので、こうした言葉が心にしみ込み、元気づけてくれたのでしょう。また、国自体がそうであった時代です。そこに明治の国の元気の源もあったのでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育旅行聯盟の団体旅行案内 出雲大社参拝や伊勢神宮参拝

2024年02月28日 04時13分17秒 | Weblog
 

 地元の方から見せていただいた古い手紙やチラシの中に、旅行案内が入っていました。「教育旅行聯盟」主催の団体旅行コースで、出雲大社方面と伊勢神宮参拝の2つのコースでした。何年のものかが分かりませんが、一緒に入っていた手紙などから昭和初期のものと思われます。
 教育旅行聯盟とは、「学生旅行及び教化団の旅行に関する事務便宜を計る爲に組織されたるものにして現在は全国学校の大半は本聯盟加盟団なり然るに普通の団体旅行には如斯機関なく従って各地に団体募集屋なるもの続出し旅行中の費用詳細不明なる世人を高き会費にて募集し暴利を得んとするもの亦不尠依って我聯盟は一般参加の旅行団を募り団体旅行は如何に低廉なるか如何に便利なるか旅行に関する確実なる標準を普く旅行者に示さんとす」と説明が書かれています。
 その上で、2コースが紹介されていました。
 一つは、出雲大社参拝、美保関、城崎温泉旅行で、10月20日大阪駅出発、23日朝帰着で会費16円。
 もう一つは、伊勢神宮参拝で、11月2日大阪湊町駅出発で、伊勢神宮外宮、内宮参拝、3日夕帰着で、会費7円50錢。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和3年の児童生徒用の栞ー社信用購買組合

2024年02月27日 05時06分48秒 | Weblog
 

 先日、御嶽山清水寺の遠景の栞を紹介しましたが、同じ箱の中にもう一枚の栞がありました。
 表は、「三月六日の産業組合記念日」と鮮やかな色で印刷されており、上部に京都御所の建禮門の写真、下部に社信用購買組合の名が印刷されています。
 裏面は、授業時間割表、昭和三年祝祭日、日曜日の一覧が印刷されています。下部には、産業組合中央会兵庫支部会印刷部の名が印刷されています。
 今から96年前の昭和3年(1928)、産業組合が児童生徒用に作成した栞のようです。
 当時は月から土曜日まで学校があり、6時間目まであったのでしょう。私が小学生だった昭和30年代もそうでした。祝祭日は、12ありました。そのうち、今もあるのは、1月1日(元旦・四方拝)、2月11日(紀元節・建国記念の日)、春季皇霊祭、秋季皇霊祭(春分、秋分の日)、11月3日(文化の日・明治節)、11月23日(勤労感謝の日・新嘗祭)、天長節(天皇誕生日)です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社公民館庭で春の日に映える枝垂梅の花ー常陸宮殿下妃殿下お成り記念

2024年02月26日 04時18分52秒 | Weblog
 

 25日(日)は、夕方まで雨降りでしたが、前日の24日(土)は、うららかな春の日射しの溢れた一日でした。
 加東市役所の東隣の社公民館前の庭に薄紅色の枝垂れ梅の花が、春の光を受けて見事に咲いていました。
 この梅の木の根元には、「常陸宮殿下同妃殿下お成り記念 昭和60年4月19日」と刻まれた石碑がありました。もう40年ほど前になります。社町時代にお成りになった時の梅でしょう。たしか、元は社町役場の玄関あたりに植わっていたような記憶が・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大戦末期、嬉野にあった飛行場 やしろ歴民研の研修会の講演会

2024年02月25日 05時20分29秒 | Weblog
 

 24日(土)、やしろ歴史民俗研究会の研修会が開かれました。
 講師は、加西市にある鶉野飛行場資料館の上谷哲朗館長でした。テーマは、「知られざる播磨の飛行場」で、加西市の鶉野飛行場について、その建設や役割等について、播磨にあった三木飛行場、加古川飛行場にも触れながら、世界情勢、大東亜戦争が起きた背景をもとに解説されました。
 鶉野飛行場と呼んでいますが、正式には海軍姫路航空隊でした。大戦末期に神風特別攻撃隊白鷺隊が編成され、多くの若者が鶉野飛行場から、鹿児島県の串良飛行場などを経由して、沖縄戦に特攻隊として飛び立っていった話を写真や遺書などを示しながら詳しく説明されました。
 また、鶉野飛行場の近くにあった川西航空機が製造した局地戦闘機の紫電改についても、その誕生経緯、性能などについての解説、加東市の嬉野にあった飛行場にまつわるエピソードも紹介されました。
 会場には、加東市在住の服部武司氏の嬉野飛行場を描いた水彩画7点が展示されました。グライダー滑空訓練、97式艦上攻撃機、ロケット戦闘機秋水など、大戦末期に開設された嬉野学徒錬成場の八角宿舎の絵もありました。これらの絵画は、専門誌『海軍工廠』(2023.6)に掲載されたものでした。
 私が社町立社中学校の生徒だった昭和40年代はじめには、広い運動場の南の端の方には、防空壕のあとがいくつも残っていました。そんなことを思い出しながら、講演を聴きました。今日聴いた話は、遠い昔のことではなく、80年程前の日本の、しかも身近な地域の実話で、今の平和な日本がこうした歴史と多くの若者の犠牲の上にあるのだということも忘れてはならないと思うところでした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

播州清水寺の栞ー御嶽山上の大塔や講堂?の屋根が遠望

2024年02月24日 05時10分30秒 | Weblog
 

 地元の方からいただいた古い本を見ていると、段ボール箱の中に栞があったのを見つけました。
 大きさは今もある横(長さ)14センチ、縦5センチで、紐もすり切れていますが付いています。
 さて、写真のように山を遠くから写した写真が印刷してありました。小さな字で、「播州御嶽山上清水寺の遠景」とあり、緩やかな山の上に大塔と講堂あるいは根本中堂の屋根と思われる建物とその建物を遙かにしのぐ高さの木が写っています。
 清水寺は法道仙人開基の日本最初の観音霊場として知られ、西国三十三ヶ所霊場の第二十五番札所として、日本遺産にも登録されています。大正2年(1913)8月2日の全山大火事で山上の建物は燃えてしまったのですが、大正6年には再建されています。この写真がいる頃のものかはわかりませんが、再建後のものではないでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

23日は天皇誕生日 

2024年02月23日 05時07分29秒 | Weblog
 明日、2月23日は天皇誕生日です。新年一般参賀は能登半島地震のために取りやめになりましたが、今回は行われるとのこと。国民みんなでお祝いをしたいと思います。
 今上陛下も皇后陛下も笑顔がお優しく、愛子内親王とご一緒のご一家のお写真を拝すると、おもわず笑顔になります。
 大学生活は東京だったので、皇居での一般参賀に行きました。宮殿の広場で天皇陛下(昭和天皇)のお出ましを待ち、お姿が見えると一斉に万歳の声があがりました。天皇陛下から「みんなで誕生日を祝ってくれてありがとう」のお言葉がありました。短いそのお言葉に感激し、日の丸の小旗を持ったまままた万歳を繰り返しました。もう半世紀ほど前のことになってしまいましたが、昨日のことのように鮮明に思い出します。
 明日は玄関に国旗を掲げて、お祝いしたいと思います。元気なうちにもう一度皇居一般参賀に行きたいと思っています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月面着陸への憧れー毎日グラフ増刊号1969

2024年02月22日 05時21分51秒 | Weblog
 

 JAXAの月面探索機が着陸に成功し、画像を送ってきた報道に心が躍ったのはついこの間でした。
 昭和44年(1969)7月、NASAのアポロ11号が月面に着陸し、アームストロング船長が月面に降り立ちました。人類の偉大な一歩でした。
 もう半世紀以上前のことになりましたが、高校1年生だった私は毎日グラフの増刊号を買って、カラー写真に見入ったことを今も鮮明に憶えています。
 本棚にその大切な毎日グラフ増刊号がありました。表紙には、1969年9月1日「人間 月をゆく」「宇宙の中の小さく偉大な第一歩の記録」の見出しと、月面に降り立った宇宙服姿のオルドリン飛行士が掲げられていました。380円です。
 今も天気の良い夜には、デジカメでズームした月面を撮影したりします。この歴史ブログでもよく紹介してきましたが、アポロ11号の月面着陸の感動がずっと心の中にあるんだと思います。生きている間に、もう一度人類が月面に立つ光景を見ることができるのでしょうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨上がりの朝の登校を見守るスイセンの花

2024年02月21日 04時58分40秒 | Weblog
 

 ほぼ毎朝、午前7時30分から15分ほど家の近くの「学校道」の交差点で社小学校の児童の登校見守りに立っています。平成18年の途中からですから、もう18年目になります。
 始めた頃に赤ちゃんだった交差点の角の家の子が高校生になり、毎日自転車で出ていきます。当時6年生だった子は、もう30歳になっているという計算になります。4月にピカピカの1年生で上級生に連れて行ってもらっていた子が、あっという間に6年生になり、通学班の旗を持って先頭を歩いていきます。
 令和6年2月20日(火)の朝は、前夜の雨はあがりましたが、霧が出て、「学校道」の先に見えるはずの校舎も霞んでいました。令和7年4月には小中一貫校社学園が開校し、今の社小学校はその歴史に幕を閉じます。子供達の登校ルートも変わるでしょう。この「学校道」で子供を見守るのもあと1年と少しになるかも知れません。そう思うと、スイセンが咲く学校道の登校風景も残しておきたいと思うのです。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨の日の梅の花ー散り始めました

2024年02月20日 04時26分31秒 | Weblog

 満開だったわが家の梅も、久し振りの本降りの雨に濡れて、散り始めました。まぶしい朝日に光る梅の花は素晴らしいのですが、雨に濡れて、暗くなった庭にまるで豪華なシャンデリアのようにくっきりと白く浮かびあがる梅の花もいいものですね。濡れた地面や庭石の上には、白い花びらが点々の模様のように散っていました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治26年発行の小学校教科書に描かれた日本全図

2024年02月19日 05時28分38秒 | Weblog
 

 地元の方からいただいた古い教科書の中に、明治26年(1893)発行の『小学校用日本歴史前編第一』がありました。これは高等小学校の歴史科で実際に使用されたものです。表紙裏には、明治二十七年一月十六日文部省検定済と印刷されています。
 さて、目次の次に、「大日本諸島及ビ近傍ノ地図」と題された地図が掲げられています。日本は赤く塗られており、北は千島列島、南は台湾までが国土の範囲です。今月7日は北方領土の日でしたが、明治8年(1875)にロシアと結ばれた樺太千島交換条約で、千島列島は我が日本領土となったことが反映されています。
 琉球列島も我が国領土と本文には書いてありますが、地図は台湾も赤く塗ってあります。台湾は日清戦争の下関条約によって日本に割譲されたもので、それは明治28年(1895)のことでした。この教科書が27年に再版印刷、発行されていますが、条約締結前ですね。この教科書はその後すなわち台湾割譲後に発行されたものかなとも思います。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ステラパークから望む夕景ー金屋谷池の向こうに青野原台地の地平線

2024年02月18日 04時25分43秒 | Weblog
 

 17日(土)もいい天気でした。夕方、加東市社の社中央公園にあるステラパークに行ってみると、親子連れが遊ぶ姿がありました。
 公園は、金屋谷池、円形の芝生公園のステラパーク、傾斜のある芝生広場などがあり変化に富んでいます。隣接して社中央図書館もあります。
 ステラパークの池側は海に面した港のような雰囲気を持っています。但し、ここは播磨の内陸。海があるわけもありません。池がその代わりをしています。この冬は降水量が少なく、水面はいつもより下がっていますが、夕方の茜色に変わる空の色を映していました。
 加古川の河岸段丘の高位面の一番西側にあるステラパークからは、中位面、低位面の向こうに加古川、そして青野原台地の地平線が何の障害物もなく見渡せます。この雄大な景色を望めるこの場所は私のお気に入りです。
 地平線に沈む大きな夕日を眺めながら、今日一日の終わりをしみじみと感じる一時でした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和6年2月16日朝の庭-満開の梅を眺める

2024年02月17日 05時23分09秒 | Weblog
 

 16日(金)の朝、9時前。庭に朝日が射し込み、真ん中の梅の木に日が当たり、満開の梅の花が白く光っていました。咲き始めてから何度も紹介してきましたが、令和6年2月16日朝の梅はこの一瞬しかありません。
 庭に下りて、見上げてみると青い空と白い雲を背景に気高く光っています。2階のベランダから見下ろしてみると、梅の花だけに朝日が当たり、白く輝き浮かび上がっていました。
 昨日古い写真を紹介しましたが、母や私と弟が立っている場所とほぼ同じ位置に今は梅の木が植わっています。古い写真に写っていた隣家や風呂屋の煙突、高い屋根は今はなく、新しい住宅が写っています。60年余りの歳月が確かに過ぎたのでした。この梅が母が生前に寄せ植え教室で使った梅の木を直か植えしたものであることを思うと、古い写真のほぼ同じ場所に母が写っているのも何か縁がありますね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代半ばの風呂屋の煙突と屋根

2024年02月16日 05時57分17秒 | Weblog
 

 アルバムの中に昭和30年代半ば頃の社の風呂屋さんの屋根と煙突が写っている写真がありました。
 わが家の南に路地をはさんで煉瓦積みの煙突が立っていました。風呂屋さんの煙突です。庭で座っているのが母です。その後ろに煙突がはっきり写っています。天辺に避雷針があり、雷がよく落ちたものです。縁側で父と一緒に見ていて、バチッという音とともに目の前が真っ白に光り、体がぐぐっと前へ吸い寄せられた感じがありました。なぜか、よく憶えています。この煙突の下で、近所の仲間と釘刺しなどをして遊んだことも懐かしい思い出です。
 もう一枚は弟と一緒に撮ってもらった写真に、風呂屋の高い屋根が写っていました。路地を歩くと、浴場で桶などを置く音や話し声、笑い声が響いて聞こえました。
 風呂屋は火事が続き、廃業しましたが、小さい頃、この風呂屋の煙突や建物が風景の中にあったことを思い出しました。今はその場所に新築の住宅が3軒建っています。ちなみに母が持っているのはおもちゃのロボットです。これも懐かしい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝の光に映えてーヒヨドリと梅の花

2024年02月15日 05時26分40秒 | Weblog
 

 14日(水)の朝、登校見守りが終わって自宅に戻ると、電線に一羽のヒヨドリが止まって、朝日を浴びていました。高い所に止まって日光を浴びる姿をよく見ます。
 日が高くなると、うららかな日の光に庭の梅の白い花が輝きをまします。ほぼ満開になり、ほのかに香ってくるような気がしました。2月半ばといえばまだ寒い頃ですが、今日は4月の陽気に包まれました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする