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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和7年-満州出征現役兵の満期退営を出迎える

2009年07月31日 06時04分28秒 | Weblog
 昭和7年(1932)5月17日、満州事変の勃発により、出征していた地元社町出身の兵士が満期退営で帰郷することになり、社町駅に出迎え、佐保神社で奉告祭が行われています。
 その5月17日の父の日記には、「凱旋兵奉告祭参加」の見出しで社駅まで出迎えに行ったことなどが記されています。当時青年団の幹部をしていた父は代表として参加したのでしょう。写真は昭和10年代の佐保神社です。

(日記)

朗らかな春に戦友が帰る。
 赤い夕日の満州に剣銃片手に戦った社町出身者が帰る。その今日が奉告祭を佐保神社にするとの事で大村さんと共に社駅迄行った。三名(海軍召集兵)


 この満期退営者の出迎えについては、社町長名で各区長に通知が出されています。(昭和七年 雑書綴 社町社区長)


五月十五日
                社 町 長
各区長殿
    満州出征現役兵満期退営ノ件通知

昨年九月満州事変起ルヤ挑戦部隊出動シ今日迄戦闘ヲ続ケ目出度ク満期退営セラルル貝原藤本辰太郎氏令息友市氏明十六日午後一時社駅着帰郷遊サルノ由同氏及先般帰郷遊サレシ大久保氏利山氏ノ奉告祭ヲ午後一時半佐保神社ニ於テ施行致ス可ク候条御多用中ニハ候ヘ共モ貴部内一般ニ伝達参列相成様御依頼申上候

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昭和6年-太鼓の虫干

2009年07月30日 05時51分49秒 | Weblog
 今年はまだ梅雨が明けていません。太鼓の虫干しの頃ですが、こんな年は困ります。
 父の日記には太鼓のこともよく出てきます。昭和6年(1931)の8月7日のページに太鼓の虫干しのことが書いてありました。およそ80年近く前の社の上組(かみぐみ)の太鼓の虫干しです。写真は昭和17年の上組太鼓の写真です。


八月七日 金曜  晴

青年に虫干を任されてゐるので今日位ひにしておかねばならぬと思つて磯貝、松原、藤原、三木等によく伝えておいて松原と二人でどうなりこうなり出して帰ってきた。松原は充分に昼寝もしたいと言つてゐたが。

石井君がベビーゴルフに行こうと言つたので出かけた。勝てる筈がない。俺等は今日がたつた二回のゴルフだもの。四十七だ。

午後二時頃からみんな揃った。そしてそろそろと蔵の中にしまつてしまつて西瓜をたっぷりと食べた。
麻雀は俺は近頃うけにのつてゐる。負けた夜がなくなって来た。


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昭和9年-甲子園野球見物

2009年07月29日 05時54分16秒 | Weblog
 夏の高校野球も各地区大会の優勝校が報じられるようになってきました。もうすぐ甲子園です。兵庫県では、母校県立社高校が決勝進出をかけて今日戦います。
 さて、昭和9年(1934)の夏、社の青年が甲子園に野球見物に出かけたことが父の日記に書かれていました。この年、甲子園では、第20回全国中等学校優勝野球大会が8月13日から開催されています。父らは開会日に社から甲子園に出かけたということです。日記は次の通りです。(漢字等表現はそのまま)

八月十三日

午前二時三十分前社発。
浅井、山本、小西、中西、末永、大橋、藤本、大橋、藤本八、岸野、三村、杉原中川、大西、小生 十六人。タクシー三台分乗。
夏の夜のドライヴは又格別。爽快にそして瞬間的に気敏に窓から訪れて窓に逃げる むしろ走って消える夜風は一種特別な味覚を肌は覚えてゐる。
ーーー三時過ぎ明石、四時頃神戸駅、駅弁購入。五時入場。八時迄寝る。内野無料スタンド入り。
ーーー入場式の壮観。始めて見る野球。凡てが好奇心で一杯だ。長野ー呉港、桐生ー早実、享栄ー島田。午後の眠たさと暑さに閉口。午後五時中場。末永さんを探したが見当たらずに□□。明石六時頃夕食。社帰着午後八時半頃。草臥れて早寝。


以上ですが、午前2時30分出発というのはすごいですね。青年だった父らの興奮が伝わってきます。この日は初日ですが、日記にもある呉港中学校が勝ち続けて優勝しています。社に帰ってきたのが午後八時半頃ということですが、それは疲れたことでしょう。
 
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昭和6年-出水の太鼓屋台をかつぐ

2009年07月27日 06時08分53秒 | Weblog
 昭和6年(1931)、5月23日の父の日記の見出しに「出水行き 太鼓をかつぐ」と書き込んであるのが目にとまりました。

出水が新しい太鼓をかつぐんだからと言はれたので大橋さんの宅迄行く。仕方ない。とうとうかつがされてしまつた。唯他迄行つてかつぐ物好きもあるが仕方ない。大橋さんそのものの指図がなかつたらかつがない。

 太鼓について書いてあるのはこれだけです。当時父は20歳の青年で、市場に勤めていましたが、「大橋さん」は、市場の社長だったと思います。出水(加東市出水)の太鼓屋台は今はありませんが、今年春に行われた「春のフェスティバルinやしろ」の催しで彫り物が展示されていました(写真)。
 80年前、出水に新しい太鼓が入り、みんなでかついで祝ったんでしょうね。
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御大神宮さん-田町の神様を祀り続ける

2009年07月26日 04時46分35秒 | Weblog
 25日の夕方、佐保神社(加東市社)の境内の西側、小宮が並ぶその真ん中あたり、一つの祠の前に人が集まり、お祭りが始まります。

 御大神宮さんの祭りです。御大神宮さんについては、このブログでも紹介をしてきましたが、私が住んでいる加東市社の田町(たまち)筋の真ん中あたりの中(なか)田町の町内会がお祀りしています。毎年7月25日の夕方になると、町内の住人が集い御大神宮さんにお参りをして家内安全町内発展を祈ります。

 かつて社でも一番栄えた商店街だった田町筋ですが、今はそれも昔のこととなり、店も減って静かな住宅街に姿を変えつつあります。戸数も人口も減るばかりだった中田町町内会に今年は新たに居を構え住人となった人々を迎えて例年にない賑やかな祭となりました。また、町内の家に遊びに来ていた台湾、中国から兵教大の大学院に来ている院生の飛び入りもありました。

 御大神宮さんについて少し由来を紹介します。、この小宮について、町内に住んでおられた故・服部千代子さんはこんな言い伝えを紹介しています。
 
 江戸時代のはじめの頃、ある日、空から御幣がひらひらと舞い落ちてきたので、人々は「これは勿体ないことだ。おろそかにできない」と、お金を出し合って家の前に小さな祠を建てたそうです。小さいながらも玉垣で囲って立派なものだったといいます。その後、昭和のはじめになって、田町筋(県道)を清水行や三田行の定期バスが通ることになり、幅5メートルほどの道の真ん中あたりまではみ出していた祠を移転することになりました。当時の町内会長さんが佐保神社の宮司さんに相談を持ちかけたところ、佐保神社の境内に移すことになったのです。

 こうして田町筋につくられた御大神宮さんの祠が佐保神社の境内に遷されたわけです。もう一つ、御大神宮さんについて歴史を紹介します。
 それは玉垣に刻まれた「加東米穀取引所」という字についてであります。
 
 加東米穀取引所とは?これは明治中頃から大正初期まで田町にあった米の取引所の名前です。当時の米の取引といえば、大阪の堂島が知られていますが、兵庫県では、神戸や姫路、そして社の取引所で行われていたのです。田町通りはこの米穀取引所に集まる人たちで賑わったそうです。電信や電話が発達していなかった頃、大阪の米の相場を旗振りで知らせたというのです。大阪から神戸、そして志方の城山などを中継して、社の田町通りに建てられた櫓から望遠鏡でのぞいて値段の上下を知り、それを小僧さんが大声で知らせてまわった、といいます。城山から社までは地図上で測ってみると、直線で約14キロほどです。本当に見えるのかを実験した方があり、結果は十分見えたそうです。

 
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新町-愛宕神社の夏祭りで子ども相撲を奉納

2009年07月25日 04時46分30秒 | Weblog
 24日、加東市新町の愛宕神社では夏祭りが行われ、午後から子ども相撲が奉納されました。
 愛宕神社は新町の市街を見下ろす高台にあり、加古川の向こうには五峰山の雄大な山並みが望めます。新町はその名の通り、新しくつくられた町で、慶長10年(1605)に領主(池田輝政)の命令で多井田と北野の一部を割いて河岸をつくったのが始まりです。ですからその歴史は404年とはっきりしている珍しい地区なのです。
 大久保利政氏(前区長)の『新町の記録』によると、愛宕神社は寛文年間(1661~1673)に火の神である迦具土命を祭神として建立されたのがはじめだそうです。その場所は現在の位置ではなく、新町の河岸の岩盤の上であったとされ、今も岩盤には柱を立てた穴があります。私も滝野東小に勤務していた平成17年には地元の郷土史に詳しい尾縣齋さんから教えていただいて柱穴を確かめました。
 大久保氏は現在の地に移転された年は、寄進された燈籠の年代から1781年か、拝殿上棟の板書きから神社として完成したのは1809年と推測しています。1809年ということであれば、今年は実に移転200年の節目の年でもあるわけです。
 20数人の小学生が集まり、皆パンツを脱いでまわしを締めてもらいます。私も飛び入りでまわしを締めさせてもらいました。まわしを締めたのは、自分が中学生時代にまわしを締めて加東郡中学校相撲大会(佐保神社秋祭)に出場した時以来約40年ぶりのことでした。
 境内には地区の老若男女が集い、孫や子どもたちの健やかな生長を祈って奉納相撲を楽しんでいました。まさにこうした風景の中に、地区の守り神を中心とした共同体のよき伝統的な姿があると確信させられたところです。
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昭和7年-区長会で軍用機献納や愛国婦人会について協議

2009年07月24日 05時42分35秒 | Weblog
 社町社区長「雑書綴」に、昭和7年(1932)3月16日の区長会協議事項が綴じられています。その主な内容は3点で、軍用機献納醵金募集、三笠保存講演映画会開催、愛国婦人会会員募集についてであります。前年に満州事変が起こり、国内に於いても軍事色が強まっていくなか、社町でもそうした内容の議題で区長会の協議が行われていたことがわかります。
 

 
 区長会協議事項

一、軍用飛行機献納醵金募集ニ関スル件

最近航空機ノ急激ナル発達ハ軍略上重要ナル地位ヲ占メシムルニ至リ列国ヲシテ競ツテ其精鋭ヲ誇ラシムルノ時代ヲ現出セリ之レガ我国軍ニ顧ミルニ尚ホ未タ充実ノ道程ニアリ然ルニ今次事局ノ重大性ニ鑑ミ県下教化団体ヨリ軍用飛行機一機ヲ献納シテ愛国ノ至情ニ燃ユル県民ノ意気ヲ表明セントスル趣意ヲ以テ醵金募集ノ申出アリ宜敷御配意アリタシ

二、三笠保存講演映画会開催ニ関スル件

軍艦三笠保存会ハ三笠保存ノ趣旨徹底海事思想鼓吹国民精神作興及寄付金募集ノ目的ヲ以テ本月十九日本町(一郡一ケ所)ニ於テ映画会開催ノ筈ニ付御助力アランコトヲ望ム(詳細口頭)

三、愛国婦人会員募集ノ件

最近満蒙事変勃発以来我カ将卒ノ困難ハ申ス迄モナク追々死傷者ヲ出シ之レカ救護慰籍等ニ付テハ愛国婦人会ノ活動ヲ要スルモノアリ然ルニ本県ノ如キ女子人口ニ比シ会員数少キ府県ニ於テ増募ヲナサントシ近ク神戸市ニ於テ兵庫県支部惣会ヲ開催シテ前記ノ目的ヲ達成セントスル計画ニ付此際各ニ於テ三四名入会御斡旋アランコトヲ望ム
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昭和7年-帝国議会解散の電報

2009年07月21日 05時04分47秒 | Weblog
 社町社区長の「雑書綴」の中に、一枚の電報が綴じられています。当時の社区(現加東市社)の区長だった増田政次宛ての電報で、受付の日付は昭和7年(1932)1月21日になっています。

(電文)
宛名  ヤシロマチヤシロ」マスダマサジ
発信局 アザブ

ギカイカイサンシタショクンニオツタヘコウコバヤシキヌジ

電文の通り、小林絹治代議士から増田区長に対して議会解散を伝えるものでした。
時代は変わって、今日21日に麻生総理は衆議院を解散することになっています。ちなみに77年前、議会を解散したのは犬養毅内閣でした。
写真はその電報です。
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昭和3年の御大典-社小学校で儀式

2009年07月20日 05時17分10秒 | Weblog
 昭和3年(1928)11月10日、昭和天皇の即位式が京都御所で行われました。その御大典を祝って全国各地でお祝いの儀式や行事が開催されましたが、社でも社小学校で儀式が行われたようです。写真は社小学校講堂(2階)の建物です。
 「社町社 雑書綴」には、社町長から区長に宛てた案内状が綴じられています。


大礼御挙行ニ際シ歴朝ノ嘉例ニ依リ即位礼当日ヲ以テ養老ノ典被為行候ニ付テハ来ル十一月十日午前十時社小学校講堂ニ於テ奉授式挙行候条御参列相成度此段御案内申上候也
 昭和三年十一月五日
            社町長  松本兼蔵
区長殿
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鴨川学校前のりば-昭和30年代後半

2009年07月18日 06時12分57秒 | Weblog
 法事があったのでアルバムを見ていると、私がまだ小学生の頃の写真が目にとまりました。場所は神姫バスのりばで「鴨川学校前」で撮影したものです。その側に東条湖観光協会の広告塔が立ってます。
 広告塔には、「関西の仙境 東条湖」とあり、「仙境」という言葉が当時はピッタリする環境だったことがわかります。乗船希望者は東条湖観光協会へ、といったことも書かれています。先日、東条湖観光開発に関係された方から、観光船の許可を取るのにずいぶん苦労したというお話を聞かせていただいたばかりです。
 バス乗場の側には道標が2本立っています。字は読み取れませんが、この道標は今はどうなっているのでしょうか。当時と変わらないのはおそらく背景の山なみだけだと思います。
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上三草-大坂街道の道標

2009年07月16日 04時26分14秒 | Weblog
 加東市上三草、やしろ国際学習塾から旧京街道を少し上ったところに旧大阪街道と交わる地点があります。京街道は京都から篠山、上鴨川(加東市)、上三草、社、河高、高岡を経て姫路に通じるもので、昔から重要な幹線道路でした。また、大阪街道は、山陰地方から西脇市、加東市の曽我、三草、横谷を通って、吉川(三木市)を経て大阪に通じる道路です。
 この2つの道が交差する地点に、火の見やぐらと古い消防団器具庫があり、その前に立派な道標が立っています。道標には「すく 大坂」「すく きよ水 三里」「すく た可郡」「すく ほつけ山 五里」と刻まれています。そして、三草川を渡るその橋は「大阪橋」。まさに大阪街道だった証拠が残っています。この道標については、この歴史ブログでもすでに紹介しています(2007年2月6日)。
 その大阪橋を渡ってすぐ、田圃のそばに不自然に石が置いてあります。この石は自然石のようですが、一つの面に「右 大さか」と刻まれていました。道標だったのです。地域の方の話では、圃場整備をしたあと、この場所に置いているが、元はもう少し東の畑の分かれ道の脇にあった、ということでした。
 大阪街道の名残りの道標は今は役目を終えて田圃の脇で寝ています。そんな道標に思わず「ごゆっくり」と声を掛けたくなりました。
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昭和12年-元郡公会堂で遵法講演会

2009年07月15日 05時34分49秒 | Weblog
 昭和12年(1937)、遵法週間の行事として、社町の元加東郡公会堂(現明治館)で講演会が開催されています。社区裁判所の判事や検事、地元弁護士さんが講演者として演壇に立っています。
「社区事務所 諸通達綴」に綴じられている役場から区長に宛てて出された講演会の案内を紹介します。写真は昭和10年代の社区裁判所です。


昭和拾貳年十月二日
                 社町役場
区 長 殿

 遵法週間講演会ニ関スル件

拝啓 愈々御多様ノ条奉賀候
陳者今回国民教化運動ニ関スル宣伝実施計画トシテ遵法週間実施相成リ左記日時、場所ニ於テ講演会開催相成ルヘク候ニ付御部内多数聴講候様御勧誘方御配意相煩シ度此段御依頼候也

    記

一、日時   昭和十二年十月四日 午後壱時
一、場所   社町元郡公会堂
一、演題並ニ講演者
一、民衆ト裁判    社区裁判所判事  吹譯健吉氏
一、司法国民ノ責務  々    検事  瀧石政治郎氏
一、法ノ基礎     弁護士      井上俊次氏


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社尋常高等小学校の校歌-大和心を義士に学ぶ

2009年07月14日 05時52分26秒 | Weblog
 以前、この歴史ブログで昭和12年(1937)に開かれた学芸会のプログラムを紹介しましたが、午前9時から午後3時まで、1日がかりの大きな行事だったわけですが、このプログラム裏表紙に印刷された「校歌」を紹介したいと思います。
 歌詞には、佐保(神社)、千鳥川、御霊(山)、赤岸・義士といったふるさと社のシンボルともいうべき神社・名跡や山、川の名前が入っています。また、大和心
を義士に学ぶ、聖勅かしこみ・・・といった精神性も歌われています。


  一

佐保の神垣  あふぎつつ
立つや我等の  社校
千鳥川のべ 影うけて
御霊の森に  黙示きく

  二

あさひかがやく  日の本の
忠と孝との  小国民
大和心を 赤岸の
義士に学ぶや 朝夕に

  三

聖勅かしこみ  大御代に
強く正しく  今日生きて
よき国民と いざならむ
いざやはげまむ わらべわれ
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大正15年-青年団・教育界が思想講演会開催

2009年07月13日 05時39分06秒 | Weblog
 「大正拾五年 雑書綴 社町社」に社町青年団、社町教育快主催の講演会開催案内が綴じられています。青年団や教育会は明治の終わり頃には郡内で設立され、こうした講演会の開催をはじめ、さまざまな活動を展開していたようです。
 大正15年(1926)といえば、この年の末に大正天皇が崩御され、昭和天皇が即位されることになるわけですが、前年には普通選挙法が公布され、3年前の大正12年には関東大震災が起きています。そのような中、講演会が開催されたわけです。
 余興には浪曲も行われたようで、元郡公会堂(現加東市明治館)はこうした講演会などの催し物の会場として使用され、ふるさとの文化の中心の役割を果たしていたんですね。写真は昭和10年代頃の元公会堂です。


大正十五年七月十九日
               社町青年団
               社町教育会
       殿

左記要項ニヨリ思想善導通俗講演会開催致候条貴部内ヘ夫テ御伝ヘノ上多数参聴方可然御取計ラヒ被下度及御依頼候

       記
一、演題 国難来ル覚メヨ国民
一、講師 斯界ノ権威者 木下俊陽師
一、会場 元郡公会堂
一、日時 七月二十日 午後七時
一、余興 元浪界ノ四天王 吉田小円師
     陸奥外傷ト小村外相 
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昭和2年-大正天皇御大喪の日、社小学校で遙拝式

2009年07月11日 05時50分12秒 | Weblog
 昭和2年(1927)2月7,8日の2日にわたって、大正天皇の大喪の儀が執り行われました。その日、社町でも儀式が行われています。
 「大正拾五年四月 雑書綴 社町社」には町長から出された案内が綴じられており、二日間は仕事は休み、弔旗を掲揚すること、また、八日には社小学校で遙拝式が行われることになっています。大喪の儀は新宿御苑で行われ、多摩御陵に埋葬されました。東京から遠く離れたこの地に於いても儀式が行われたんですね。
案内文を紹介します。


昭和二年二月六日
               社町長   松本兼蔵
      殿

来ル本月七、八日  大正天皇御大喪儀御取行ハセラルルニ依リ右両日ハ一般休業ヲナシ各戸弔旗ヲ掲ゲ哀悼ノ意ヲ表シ奉ル様御配慮相煩シ度
尚八日午前正六時ヲ期シ社小学校校庭ニ於テ町及各種団体聯合遙拝式挙行致候条貴部内一般ニ此旨御示達ノ上貴職ハ勿論多数参列致ス様御取計相成度此段及御通知候
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