ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

観音寺の薦誠碑

2010年12月18日 05時10分02秒 | Weblog
 赤穂義士の寺として知られる観音寺(加東市家原)境内の四十七士の菩提所の入口脇に大きな石碑があります。近寄ってその表を見ると、漢字がびっしりと刻まれています。これが「薦誠碑」です。
 この碑文は、弘化4年(1858)に観音寺に150回忌に合わせて赤穂義士の墓碑が建立されましたが、その寄付を募った善龍院の僧、明範の依頼で家原浅野氏の当主である浅野長祚(あさのながよし)が書いたものです。
 家原浅野氏は赤穂浅野家の分家(3500石)ですが、赤穂藩は滅びた後もそのまま残り、明治維新まで7代、200年続きました。善龍院(加東市社)は家原浅野氏の菩提寺でした。
 碑文には四十七士の墓碑建立の経緯、明範の呼びかけで、義士を偲びその忠義を讃える人々の寄付によって建立されたことなどが書かれているようですが、何分漢文ですので難しくて読解できません。碑文を書いた浅野長祚は江戸に生まれて、幕府の要職を務めています。鉄砲頭、浦賀奉行、京都町奉行、江戸町奉行などを歴任しています。京都では、火事にあった皇居の造営を指揮しています。また、学問にすぐれ、多くの著書を残しています。明治13年65歳で亡くなっています。
 義士の墓をお参りされるときは、入口の階段手前左手にあるこの「薦誠碑」を見て下さい。
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