ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

令旨塔建立まで-昭和初期の青年団員の記録

2009年05月31日 07時32分36秒 | Weblog
 加東市立社小学校の校庭の築山に今は庭石として置かれている「令旨塔」の石について、一枚のの写真を手がかりにしてその経緯を探ってきましたが、この令旨塔建設に当時青年団員として熱い思いで関わっていた父の日記から関連する記述を抜き出し、もう一度建設までの過程を見てみたいと思います。


最初に出てくるのは昭和5年の11月22日、すなわち「青年記念日」(令旨下賜記念日)です。青年団の社支部で何か計画しようという支部長の提案があったようです。
 そして、11月27日は第1回目の令旨塔を建設するための石取りのことが日記に書かれています。これについてはすでに5月20日のブログで紹介しました。今日はその後の動きを日記から紹介します。


昭和5年
○11月29日
「第二回令旨塔石取り」 
 仕事が馬鹿につかえてゐるのにまた岩をとりに出かけねばならなかった。八時半頃から足袋もはかず草履をはいて山口と馬瀬の間の河に入った。河の水は馬鹿に冷えてゐる。じつとしてゐられない程だ。一の石、二の石全部が失敗に終る。そして遂に昼食となつてしまつた。唯昼食をする時が一種の興味をもたれてゐるようにも思はれて来る。午後から社町有林に入って二,三の石をあげて滝野の山から又馬鹿に高い所から遊び半分に大岩を崩した。豪快か、痛快か、とかく興味はあった。~後略~

○12月1日
「岩取り」
ゆつくりと眠れる筈に思ってゐたのが電鈴がはげしくなつてまた令旨塔の岩とりとなった。仕方ない。~中略~馬瀬の山奥で昼食をたべた。風が強いのでそ程に美味くなかつた。一日から山の上で飯をたべるなんて。車力の下敷になつたりした。午後六時帰着。~後略~

○12月11日
「岩取り」
~前略~ 拾時過迄に山に出かけた。皆が岩をとりに出かけてゐたので。拾時頃着。体は従前の通りになった。滝野山から崩した岩を二拾□名かかつて二十二三ヶをあげた。昼食の面白さは又格別なものだつた。日曜なので○○○君迄が来てゐた。昼弁当を食べに来たのかも知れない。夕刻に帰った。途中に岩の中に大方右足をしかれてゐたのが助かってよかった。~後略~

○12月28日
「石取り 鴨川に行く 支部長会」
~前略~ 青年の石取りだと言ふので弟に仕事をまかせて行く。呑気でいいんだもの。鴨川から小山まで行った。なんとなく鴨川がなつかしかった。~後略~


昭和5年の日記には附録に「家庭ノート」の頁があり、誕生日や先祖祭の日を書き込むようになっていますが、父は誕生日と「青年記念日」を書き込んでいます。

○青年記念日  十一月二十二日  摂政宮殿下令旨御下賜記念日

父等青年団員にとって、令旨が大切なものとして意識されていたことがよくわかります。
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昭和5年12月14日-社の義士会

2009年05月28日 06時05分07秒 | Weblog
 この写真は、この4月に開催された「春のフェスティバルinやしろ」の今昔写真展に出展した懐かしい昔の社の姿を伝える写真の一枚ですが、赤穂義士ゆかりの観音寺(加東市家原)の境内で四十七義士に扮した青年の記念写真です。昭和初期の頃のものと思われます。父は右端に大高源吾の役に扮して写っています。

 さて、この歴史ブログで社小学校に建設されていた「令旨塔」の建設経緯を調べるために父の日記を読んでいたところ、「義士会」のことが所々に記されていて気になっていました。そんな時、昭和5年(1930)の12月14日の日記に「義士会」の表題があり、そのことが書いてあるのを見つけました。青年団員が義士の討ち入りを演じることになり、衣裳などを準備して当日を迎えています。その日記を紹介します。一部読み取れない字がありました。文中の「宮」は佐保神社のこと、「赤岸」は地名で赤穂義士がなまったものといわれています。日記に記念撮影をしたとあります。この写真がそうかもしれません。


昭和5年12月14日の日記
「義士会」
 五時参拝。七時頃迄宮の境内の掃除で夜が明けた。出席する者は極一部分の人々のみである。
 今日は義士会だ。荷物は来てゐる。仕事は午後一時終了三時迄副□□のような仕事がすむとそれから早ぐ用意にかかつた。松原君を訪ねて衣裳の用意。午後六時頃からみな出席したので配役の割当を定めた後用意の□□にのったのだ。吉良上野介は配役として悪顔である。高瀬君と八時過ぎ炭部屋でなかったが家根にかくれた。太鼓がなつて探したが見当らずに終る。見物人の多いこと祭礼の宵祭のような人出で賑はつてゐた。赤岸観音寺参拝、記念写真二枚を撮影した後帰着。眠かった。それから石井君と錦波に行つた。眠かった。一時半就寝。
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社小学校の二宮尊徳銅像

2009年05月27日 05時30分44秒 | Weblog
 社小学校の正門を入ったところ、西側の大木の側に二宮尊徳の銅像が立っています(写真)。校舎や運動場など私が小学生だった頃とずいぶん変わりましたが、この二宮尊徳像は今も変わらず立ち続けています。

 『社小学校百年誌』によれば、昭和10年(1935)、二宮尊徳像が建設されたと記されています。場所も正面西どなりとありますからおそらく同じ場所なのでしょう。「登校して正門をくぐると、左西側の尊徳像に最敬礼し、引き続いて、奉安殿にも同じようにして、教室に入ったものです」(百年誌より)と昭和10年代に在学した卒業生の思い出が書かれています。
 その後、二宮尊徳像は戦争が激しくなると「老骨にむち打ち、赤だすきをかけて歓呼の声に送られての出征(軍需物資として献納)となりました」(百年誌)。

 今の銅像は、台座石に「寄贈者 神戸市 田野さち子 取次 黒石健次 昭和三十一年十二月再建 黒石素仙」と刻まれています。
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令旨塔の台座石にちがいない-社小学校の築山

2009年05月26日 05時15分59秒 | Weblog
 昭和7年(1932)に社小学校校庭に建立された令旨塔(大正9年、皇太子殿下から青年に下賜された令旨を記念して建立)について、このブログで建設にまつわるエピソードを紹介してきました。
そして、その令旨塔を刻んだ石が社小学校の庭石として置かれていることも確認できました。これらの石には建立にあたった当時の青年団員の熱い思いが込められていることも父の日記から知りました。
 そしてこの話はこれで終わることはなかったのです。その後の朝のウォーキングの際、また社小学校の築山にふと目に飛び込んできた石があったのです。それは「なかよしの像」のすぐそばに置かれた平たい庭石で、よく見てみると、正面の地面に埋まったところに表面を削り取ったような部分が見えたのです。近寄ってさらによく見ると、地中に埋まっていて下部はわかりませんが、長方形に表面が削られたようになっていて、銅板をはめてあったあとのようになっています。直感的にこれは令旨塔の最上部の石のすぐ下の台座の石で、正面に令旨を刻んだものに違いないと思いました。
 石の形の特徴をよく覚えておいて帰宅し写真で確かめてみました。天地がさかさまになっていますが、まさに台座石に間違いありません。父らが上福田の馬瀬や山口の山、そして川から取り出して建設した「汗の結晶」である令旨塔のその情熱がこめられた石に対面することができたことに感激してしまいました。

 小学校時代の恩師に令旨塔のことをお聞きしたところ、奉職された昭和28年にはもう撤去されていたということで、奉安殿とともに撤去されたのではないか、ということでした。その際、撤去された石がこうして築山の庭石として置かれたものと考えられます。それにしてもこうして残されていてよかったという思いでいっぱいです。かつての社小学校の記憶を伝えるものがほとんどないなかで、この令旨塔の石は貴重な遺産だと思います。
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「孝女ふさの歌」-三草小学校百年誌から

2009年05月25日 05時40分28秒 | Weblog
 加東市上三草の旧街道沿い、下三草との境に「孝女ふさ」の碑があります。この歴史ブログでも何度か取り上げ紹介してきましたが、三草小学校百年誌を読んでいると、卒業生の寄稿文の中に「孝女ふさの歌」が掲載されているのが目に入りました。
 「孝女ふさ」に歌があったことを初めて知り、その歌詞に興味をもったわけですが、一番の歌詞のはじめに「涌羅野の里に産声をあげて・・・」とあり、ふさが社村に生まれたこともきちんと歌われていました。百年誌には「孝女ふさ」の碑の前に小学生が整列している写真もありました。「孝女ふさ」を郷土の誇りとして顕彰し孝行の大切さを教えるという教育が行われていたことに感激しました。
 「孝女ふさの歌」を紹介します。

一、涌羅野の里に産声を
  あげてまもなく人の手に
  育みうけし彼女
  之や二葉のせんだんか

二、花にたわむる蝶の群
  月の光にすだく虫
  かくて幾度春秋に
  巡り会えるか稚き彼

三、愛しき限り言えねども
  家の生計に是非もなく
  子守奉公つとめつも
  帰りて致す孝の道

四、千鳥の川の片ほとり
  荒れし畑の一隅を
  か弱き腕に培いし
  畑草は父の慰めと

五、或は日毎父君と  
  山に働きましまさば
  さかしき道も心せで
  行きて迎うもけなげなる

六、帰れば早も母君の
  わらじあむ手の悲しさに
  子を背負いしてとる槌の
  助は明日の食糧となる
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紀元2600年記念の石碑が-社小学校の築山に

2009年05月23日 04時21分22秒 | Weblog
 社小学校の校庭の築山に令旨塔の石が庭石として置かれていることは先日のブログで紹介したところですが、その石のすぐ側に何やら表面に字が刻まれているように見える石があったので、よく見てみると「紀元二千六百年記・・」と読めるのです。高さは1メートルほどでしょうか、先端が丸くなった石で、地中にどれぐらい埋まっているのかは分かりませんが、元は記念の石碑だったものが庭石として置かれています(写真)。

 紀元2600年は神武天皇の即位を建国の紀元として数えて昭和15年(1940)にあたるということで、国をあげて奉祝の式典や行事が開催されました。社小学校でもそうした行事が行われたのでしょう。
 今は築山の庭木の側にひっそりと立つこの庭石が実は約70年前の紀元2600年の記憶を今に伝えてくれる記念の石だったのです。
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昭和6年-社区の役員が大阪へ出張、その実費は?

2009年05月22日 05時01分49秒 | Weblog
 昭和6年(1931)の「社町社区長 雑書綴」に社区役員が大阪まで出張した際の実費報告のメモが綴じられています。当時、社区裁判所の停止問題について、当局との交渉のために大阪や東京へ陳情等を行っていますが、この大阪出張もその一つです。当時どういう経路で大阪に行き、その実費はどれぐらいだったかを知る資料になります。


区裁判所ノ件ニ付大阪ヘ西村順一林佐二郎両氏出張の実費書

一金弐円     社相野間自動車二人
一壱円六拾八銭  相野大阪間汽車賃二人
一五拾銭     梅田谷町間自動車賃
一壱円      弁当二人
一拾弐銭     市電二人
一八拾八銭    大阪兵庫間汽車賃二人
一弐円      兵庫社間自動車賃二人
一弐拾五銭    大阪電話料
一五拾銭     藤原林吉宅ヨリ大阪電話薄病院ヘ二通話
 〆   八円九拾参銭
 弐ツ割 四縁四拾六銭五
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令旨塔の石が社小学校の築山に

2009年05月21日 04時23分50秒 | Weblog
 ここ数日、昭和7年(1932)に建立された令旨塔について探索を続けていますが、写真から始まり、社区文書や父の日記からいろいろな事が明らかになってきました。それらについてはこのブログで紹介してきましたが、今日は衝撃の発見!について報告します。

 休日の朝、ウォーキングの途中で、社小学校の前を通ったときに令旨塔のことを思い出し、校門を入って塔があったと思われる校門東側のところを見てみました。もちろん、塔はありません。
 本館正面の築山はかつて奉安殿があった場所ですが、玄関正面の2つの築山のうち、東側の築山の植木の間に大きな石がいくつか配置してあるのですが、そのうち一番大きな石を見てピンときました。大きさといい、形といい、これはもしかして・・・。
令旨塔の石にちがいありません。なんと字が彫られているではありませんか。

 「令旨奉戴十周年記念
        社支部建之」
 「昭和五年十一月二十二日」

と刻まれています。これは令旨塔の裏書です。令旨は大正9年(1920)11月22日に皇太子殿下(のち昭和天皇)から青年に下賜されたもので、昭和5年(1930)は令旨奉戴10周年にあたります。この石の土に埋まっている部分が表、そこには写真にあった白川義則大将の揮毫になる「令旨塔」の字が刻まれているはずです。おそらく、敗戦後の占領時代に戦前の国家主義に通じるとして撤去され、そのまま築山の庭石として置かれたままになっているのではないでしょうか。
 父等、当時の青年団員が汗と血の結晶と感激しつくりあげた令旨塔と、約80年後の今、こうして出会うことができ感激してしまいました。自分自身も昭和30年代後半に在学し、また一番下の娘の在学時にPTA会長もさせてもらうなど、母校社小学校とは縁が深かったわけですが、令旨塔やこの築山の石についてはまったく知りませんでした。
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昭和5年-令旨塔建設準備の石取り(父の日記から)

2009年05月20日 05時25分02秒 | Weblog
 昭和7年(1932)2月に社小学校に建立された令旨塔の建設は、当時の社町青年団の情熱を注いだ一大事業だったことが父の日記や区長文書綴の資料などから明らかになってきました。

 昭和5年晩秋の父の日記を読んでいると、「石取り」の表題が時折り出てきます。これは青年団員による令旨塔の石取り作業のことで、その様子が書かれています。今日はその一節を紹介します。文中の山口、馬瀬、三草、鴨川は地名で加東市上福田地区、鴨川地区の集落です。青年団の面々が自ら令旨塔の石を取りに弁当持ちで山や川へ出かけて作業をしていたことがこの日記からわかりました。写真はその令旨塔全景ですがこの石を父やその青年仲間がその手で取ってきたものだと思うと感慨深いものがあります。


昭和五年十一月二十七日
 令旨塔建設石取り

朝七時起床。令旨塔の石取りのために九時半拾名山口の方面に出発。寒さと冷たさは又格別である。長い間の握り弁当を食べなかったものを今日は食べられると思った。元気でいい。偉勢が揃ってゐる。磯貝、松原、三木、黒石、堀本、近藤、山下、川崎支部長。三草の若藤で石をかく道具や針金や等を購入と借入れをして西山先生の裏山の石をもらふ交渉をすませて山口の西山先生の裏山から百五六十貫の石を拾時から拾貳時迄、山口と馬瀬との間の河中から午後三時過ぎまで石をあげた。正午弁当を開いたときの味は又久しい間味はなかつたものとて痛快だつた。鴨川の小山迄行つて石を見て午後六時帰つた。 -後略-


 こうした石取りはこのあとも昭和5年の日記には数回記述されています。除幕式の日記に「涙」「血の結晶」といった感激の言葉が出てくるのはこのような苦労があったからだったんですね。

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令旨塔建設まで-父の日記から

2009年05月19日 06時28分32秒 | Weblog
 昭和7年(1932)年1月1日の父の日記の終わりの2行に令旨塔のことが書かれていました。

 「令旨塔の揮毫が今日届いた。白川義則大将の筆書だ。大万歳だつた。」


 社小学校の校門東側に建設された令旨塔の揮毫は白川義則大将だったことがわかりました(揮毫部分の拡大写真)。白川大将は昭和7年1月に起こった上海事変の派遣軍司令官に任命され、昭和天皇の信頼が厚い軍人だったと聞いています。同年4月29日の天長節の式典会場で爆弾テロにあって重傷を負い、これがもとで5月26日に亡くなっています。その白川大将の揮毫ということになると、亡くなる3ヶ月前に令旨塔除幕式が行われたということになります。
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昭和7年-「令旨塔除幕式」青年団員だった父の日記から

2009年05月18日 05時49分11秒 | Weblog
 このブログで社小学校の令旨塔の写真を紹介してから探索を続けていますが、昭和7年建設という社小学校百年誌の記述をもとに当時社町青年団社支部の団員だった父の日記を読み直してみました。

 昭和7年2月28日の日記に「令旨塔除幕式」という表題がつけられており、その様子、昂揚した気分などが書きとめられていましたので紹介します。


二月二八日
令旨塔除幕式 二事会 肥田 十名

涙だ。熱の塔だ。血の結晶だ。汗の石魂だ。思ひ起すも昭和五年の十一月二十七日、寒風漸く強くして人襟を立てるのあの朗らかにして且つ元気一杯で石取の門出。それが幾度か続けられて来る事か。弁当を枯れて行く山の木々に比して嬉しきと希望と期待と完成えの張り詰めた気分一杯で食べた事が幾回とも知れぬその過程。思ひ起す度に懐かしく、そして偉然と今日の日に輝かねばならない。そしてこんな大した完成が出来るとは誰が期した事だらう。思い起す度に奇蹟と感じ偉大と感ずるのが今日の嬉しき胸であり気分だ。朗らかに唄え。そして、この記念ある日を祝ひ俺等は若くして永久にこの地に残り忘れ得ぬ印象だらう。
午前五時半、折弁当の用意と会場の用意。次いで来賓の来るのを待つて午前十一時式挙行。午後一時宴会も終了。以上で倶楽部で心からの祝いぞ。而かも青年の手製で。午後五時過解散。午後七時過から肥田文店で慰労会。少なからず酔態の有様。-唯喜悦と嬉しさで一杯だ。
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昭和6年-青年団主催の第二回敬老会

2009年05月17日 06時25分07秒 | Weblog
 昭和6年(1931)、社町青年団社支部主催、女子青年団後援の敬老会が開催されています。当時は青年団活動が活発に行われ、昨日もこのブログで紹介した令旨塔の建設も青年団の事業として取り組まれたものです。
 当時の区長宛通知が社区長の「雑書綴」に綴じてありましたので紹介します。



謹啓 厳寒砌御尊堂愈々御清栄の段奉賀候
陳者当町青年団も青年の修養並使命貫徹及善良なる町民たらん事を希し改革以来此処に三星霜専心修養会雄弁会又ハ社会奉仕的事業に一致団結致し其の実績も微々たるものとは言え相当相認められるに致りたるは扁に町民諸氏の絶大なる御声援を深く感謝仕候
 扨而今般貧弱乍ら第二回敬老会と団員家族慰労会を兼以開催可致計画仕候条失礼に御座候得共当日貴町区内人も出席有之候条万障繰合上御出席相成度御通知申上候 敬具

 拾八日   第二回敬老会
    主催 社青年支部長  岸野助十郎
    後援 社町社女子青年団
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昭和7年-令旨塔建設費の内容

2009年05月16日 07時12分22秒 | Weblog
 昭和7年に社小学校に建立された令旨塔について、写真とともに2日前のブログで紹介しましましたが、その後資料を見ていると、令旨塔の建設費の内容に関する文書が見つかりました。
 文書は「昭和六年 雑書綴 社町社区長」に綴られており、日付はありませんが、前後の文書の日付から類推して、昭和7年1月はじめのものと思われます。文書から青年団が令旨塔建設を行ったことが読み取れます。
 この写真は令旨塔の拡大写真ですが、はっきりと令旨塔と刻まれているのがわかります。また下の石に銅板のような長方形の部分が見えます。
 令旨塔についてはさらに探索を続けていきたいと思っています。もし情報をお持ちの方は教えて下さい。


 
 支払ノ部

一 七拾五円    石代
一 四拾五円    石搬出運賃
一 七円      砂、小石代
一 拾五円七拾銭  石工賃
一 参円      ボロツコ借料
一 拾六円七拾八銭 雑費
一 弐円四拾銭   人夫賃
  〆弐百七円参拾八銭
  内七拾五円(先年ノ団費ヲ活用)
  内参拾弐円参拾八銭(積立金流用)
  内壱百円(他ヨリ借入レタ)

  未払ノ部

一 五拾円     令旨ト奉仕者連名銅板代
一 五拾円     石工代柱石石文字裏表分
一 拾九円五拾銭  セメント拾五袋
一 弐拾五円    植木職ノ分
一 五拾円     除幕式招待者百名
一 弐拾五円    仕上ゲ迄ノ雑費
一 弐拾五円    除幕式祭司料供物料其他
  〆弐百五拾四円五拾銭

総額料金 四百六拾壱円八拾八銭也
  不足額 参百五拾四円五拾銭
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昭和6年-社の街の電灯調べ

2009年05月15日 05時09分02秒 | Weblog
 昭和6年(1931)、社町社(今の加東市社)では電灯調査が行われ報告されています。現在では街灯は当たり前のように市街地のあちこちに設置されており、夜でも明るい町になっていますが、約80年前ともなると貴重な街灯だったのでしょう。
 設置場所の報告に老松町や西浦町などの社の旧町の地名が出てくることや今はない建物などが記載されているのが貴重です。中田町の「大神宮前」とありますが、この田町筋にあった祠は昭和9年には道路拡張のため、佐保神社に遷されています。写真は田町に大神宮さんがあった昭和初期のものです。


昭和六年四月十三日
  社町社電燈調査
     区長   増田政次
     電灯会社 石井兼太郎
 社町社 有料燈  十燈 九燈
 社町社 無料燈  十二燈

  所在地
老松町  八阪神社道路南電柱 八阪神社前
老松町  幼稚園前
中田町  魚市場前
東田町  大久保久次前  川崎木工場角一ツ
東条町  関本原治氏前 秋葉神社
東条町  岸野貸家マヂヤン前
下町二部 肥田稔氏南露地
宮ノ前  藤本醤油舎ノ四ツ角
宮ノ前  菊太郎氏ノ前
宮ノ前  岸本□ゑ氏ノ東角
宮ノ前  常夜燈ノ東角
宮ノ前  神崎氏ノ東   上中町露地ノ三ツ角
西浦町  石井喜平氏ノ東三ツ角
西浦町  倶楽部西四ツ角
西浦町  倶楽部内
西田町  肥田啓治氏ノ北学校道倉ノ前
中田町  大神宮前ノ北石垣前
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昭和7年-社小学校に令旨塔

2009年05月14日 05時10分31秒 | Weblog
 古いアルバムの中に忠魂碑のような石塔の写真を見つけました。裏書きがなかったので写真をよく見直してみると、石塔の真ん中に「令旨塔」と刻まれているのが読み取れました。「令旨」という言葉は歴史の中で聞いたような覚えがあります。「以仁王の令旨」です。源頼政がこの令旨を受けて平家を討つために兵を挙げたわけですが、その「令旨」が浮かんできました。
 調べてみると、天皇の詔のほかに、皇太子や皇后などが出されるのが「令旨」というそうです。では、この「令旨塔」は?。どこかでみたような・・・と記憶をいろいろさぐってみたところ、どんぴしゃりで社小学校の「創立百年誌」の年表にその石塔のことが掲載されていました。
 昭和7年(1932)に「校門東側に令旨塔建設」の記録がありました。もちろん今は令旨塔はありません。私が通っていた昭和30年代もそのような石塔があった記憶がありません。
 この「令旨」とは何なのか。調べてみると、大正9年(1920)に皇太子殿下から全国の青年団に下賜されており、その令旨をさすのではないかと思います。令旨は次の通りです。

国運進展ノ基礎ハ青年ノ修養ニ須ツコト多シ諸子能ク内外ノ情勢ニ顧ミ恆ニ其ノ本分ヲ尽シ奮励協力以テ所期ノ目的ヲ達成スルニ勗メムコトヲ望ム

 当時青年団活動が活発だったようです。その青年団に下された令旨を記念して石塔が建設されたものでしょう。もう少し確かなことを調べてみたいと思います。
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