今年一年、ウォーキングや早朝の見守りで、また庭にやってきた野鳥を観てきました。佐保神社や明治館の高木に営巣するアオサギ、庭にやってくるヒヨドリやムクドリ、シジュウカラ、ジョウビタキ。見守り時間の朝日を浴びるスズメ、晩秋の川を歩き回るハクセキレイ、兵庫教育大学でみつけたエナガ。いろんな野鳥と出会うことができました。
今年一年、ウォーキングや早朝の見守りで、また庭にやってきた野鳥を観てきました。佐保神社や明治館の高木に営巣するアオサギ、庭にやってくるヒヨドリやムクドリ、シジュウカラ、ジョウビタキ。見守り時間の朝日を浴びるスズメ、晩秋の川を歩き回るハクセキレイ、兵庫教育大学でみつけたエナガ。いろんな野鳥と出会うことができました。
平成29年も幕を閉じようとしています。この一年をふり返ってみると、ふるさと加東の四季おりおりの美しい自然の景色や人々の営み姿がよみがえってきます。
昨日紹介した日本一弘法大師木像のある大師殿の春、桜の景色。初夏の平池公園に咲いた大賀ハス。山田錦の里、東条の曼珠沙華。そして、コスモス。冬、うっすら白くなった社中央公園ステラパーク。
新しい年を迎える前に加東の四季をふり返ってみました。
昨日紹介した日本一弘法大師木像のある大師殿の春、桜の景色。初夏の平池公園に咲いた大賀ハス。山田錦の里、東条の曼珠沙華。そして、コスモス。冬、うっすら白くなった社中央公園ステラパーク。
新しい年を迎える前に加東の四季をふり返ってみました。
28日(木)の朝、いつものように明治館の忠魂碑から佐保神社、そして大師殿を回るコースを歩きました。もう20年以上続けている朝のウォーキングで、このコースを歩くことが一番多く、朝の凛とした気を感じながら歩いています。
いつもはうす暗い大師殿の内部に今朝は電気の照明がついていました。持寶院年末恒例の除夜の鐘撞きを間近となり、大師殿も大掃除が行われるのかなと思いながら、大師像の正面に座って南無大師遍照金剛を唱え、日日のご守護に感謝の祈りを捧げます。今朝は照明にお大師様のお顔がいつもよりはっきりと拝めました。
31日の大晦日、午後11時30分から始まる除夜の鐘を撞き、奉賛会の皆さんによるぜんざいをいただき、大師殿にお参りしてこの一年の無事に感謝するのが一年の締めくくりです。少し早いのですが、お大師様今年もありがとうございました。
いつもはうす暗い大師殿の内部に今朝は電気の照明がついていました。持寶院年末恒例の除夜の鐘撞きを間近となり、大師殿も大掃除が行われるのかなと思いながら、大師像の正面に座って南無大師遍照金剛を唱え、日日のご守護に感謝の祈りを捧げます。今朝は照明にお大師様のお顔がいつもよりはっきりと拝めました。
31日の大晦日、午後11時30分から始まる除夜の鐘を撞き、奉賛会の皆さんによるぜんざいをいただき、大師殿にお参りしてこの一年の無事に感謝するのが一年の締めくくりです。少し早いのですが、お大師様今年もありがとうございました。
27日(水)の朝、いつもより少し遅い7時10分過ぎに歩き始めました。すると、東南の空低く、雲が昇ろうとする朝日に輝いていました。そして、一本の光の筋がぼんやりとではありましたが、すっと天に向かって伸びています。あれは、太陽柱か。以前に朝早く車で登庁したときに、一度見たことがあったことを思い出しました。
消えるなと思いながら社中央公園へ早足で歩いていき、公園の一番見晴らしのよい金屋谷池の堤に立って東の空を見ました。まだ、うすく光の柱は立っていました。
冷たい空気の中で、しばし荘厳な自然の現象を眺めていました。
26日(火)の早朝、ちょうど朝日が昇る前の午前7時前、社の市街の北辺にある社小学校から東の木梨へと向かって歩きました。空気は冷たく頬を刺すようでした。
小学校と幼稚園の角を曲がると、北西の方角に播磨高野と呼ばれる光明寺のある五峰山の大きな山塊が望めました。家が途切れ、田圃と竹藪の向こうに五峰山が浮かび上がって見えました。
さらに東へ歩くと、ぐっと東の方角に視界が広がりました。その先には、源平の古戦場で知られる三草山の山塊がどっしりと座っていました。ずうっと向こうには遠く丹波への道筋が谷となって続いています。その中にお椀を伏せたような山が見えます。この山が西国三十三番霊場の第二十五番、播州清水寺のある御嶽山です。そこは丹波と播磨の境となっています。古来、巡礼者が、兵が、そして旅人がこの道を歩いてきたのです。
加東市を代表する3つの山、それが五峰山、三草山、御嶽山です。同時に三山を望むことができるのが嬉野台地です。市役所やJAみのりからの展望はさらに素晴らしいものです。
窓から
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。 - 一二.一九 -
この詩は父、藤本豊治の青年時代の創作ノートの中にある詩です。昭和12年(1937)の冬。80年前に書き込まれたものです。当時、父は20代半ば、社の市場に住み込みで働いていました。その詩の中に当時の社の街の風景が描かれています。市場のある田町通りから見える「町の劇場」は銀座通りにあった佐保座でしょう。その佐保座に立つ避雷針の西に「黒く立つてゐる松の木」とは、山氏神社境内の「義経お手植えの松」のことだと思います。黒い瓦屋根の密集する当時の社の市街に劇場の避雷針と老松が空に向かって立っていた、そんな風景が浮かんできました。
写真はその「義経お手植えの松」です。昭和10年代のものだと思われます。今はありません。若い松が育っていたのですが、この秋の台風の強い風で傷んだようで、根元から伐られていました。何代目になるかわかりませんが、切り株から新しい芽が出ることを祈ります。そして、父が青年労働者として仕事と創作に打ち込んでいた市場の跡は、この冬に駐車場になりました。80年の歳月が経ったのです。
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。 - 一二.一九 -
この詩は父、藤本豊治の青年時代の創作ノートの中にある詩です。昭和12年(1937)の冬。80年前に書き込まれたものです。当時、父は20代半ば、社の市場に住み込みで働いていました。その詩の中に当時の社の街の風景が描かれています。市場のある田町通りから見える「町の劇場」は銀座通りにあった佐保座でしょう。その佐保座に立つ避雷針の西に「黒く立つてゐる松の木」とは、山氏神社境内の「義経お手植えの松」のことだと思います。黒い瓦屋根の密集する当時の社の市街に劇場の避雷針と老松が空に向かって立っていた、そんな風景が浮かんできました。
写真はその「義経お手植えの松」です。昭和10年代のものだと思われます。今はありません。若い松が育っていたのですが、この秋の台風の強い風で傷んだようで、根元から伐られていました。何代目になるかわかりませんが、切り株から新しい芽が出ることを祈ります。そして、父が青年労働者として仕事と創作に打ち込んでいた市場の跡は、この冬に駐車場になりました。80年の歳月が経ったのです。
毎朝子供の登校見守りに立っているのは、加東市社の田町通りから社小学校へ通じる、通称「学校道」。今ではそんな言い方をする人はほとんどいません。
写真は、関西電力社営業所と社消防会館(社分団詰所)の交差点から学校の方を見た景色です。古い写真は、同じ交差点ですが、消防会館のある場所にあった、社町役場から撮した写真です。梅雨の頃でしょうか、合羽を着て立っている子が私です。小学校低学年の頃でしょう。父親が助役だったので、役場の窓から撮影したものと思います。後ろは田圃、その向こうに大きな2階建ての建物が見えます。神田学園の校舎です。
今、田圃は住宅地に、そして神田学園の跡地は駐車場になっています。50数年前に通った同じ交差点で、今は子供達(後輩)の登校見守りに立っています。
今日は加東市の冬の景色を紹介します。用事で市内を回っていると、いいなあと感じる景色に出会うことが少なくありません。そんな時、「山よし、技よし、文化よし」の加東市を実感します。
鴨川から黒谷に抜ける道から、冬の日に輝く東条湖が一望できます。冬は木々の葉が落ちて、視界が広がります。山間地のダム湖とちがって、内陸の平野を見下ろすような位置にある東条湖は、まさに天空の湖のようでもあります。
一方、加東市にある県立播磨中央公園で公園内のコースでロードレース大会が開かれました。芝生公園で冬の朝の光を浴びてアップする選手達と木の陰がのびていました。
社への帰り道、JR社町駅の踏切で赤信号に。地球ドーム型の駅舎を背景に下り電車が動き出しました。滅多に遭遇することはない踏切ですが、電車の姿を楽しめます。
瀬戸内気候で冬は晴れの日が多く、日の光がたっぷりある加東市の冬景色でした。
22日は冬至。一年で一番日が短い日です。朝のウォーキングで歩いた社中央公園のステラパークの芝生は霜で白くなっていました。ちょうど夕日が沈もうとする5時少し前に中央公園辺りを通りがかったので、金屋谷池の堤から日が沈む景色を眺めました。この堤からは西側の南から北まで遮るものがないので青野原、播磨平野が地平線となって望めます。冬至の今日は、太陽が一番南よりに沈みます。手前の社市街の裁判所よりさらに南寄り、小野市の方面に日が落ちていきました。
やがて、5時ちょうどぐらいに真っ赤な火の玉のような冬至の太陽が沈みました。明日からはまた北寄りに少しずつ位置を変えながら沈むことになります。
21日の午前、加東市下久米にある兵庫教育大学の構内の丸善書店に行きました。今日も良い天気でしたが、広い窓の向こうには、三草山が迫ってくるように望めます。山との間には、谷と丘陵があるのですが、ちょうど額におさまった絵のように三草山が浮かび上がってきます。ふと見ると、その右側の奧にお椀を伏せたような山と山頂近くに光るものが見えました。方角から、播州清水寺のある御嶽山だとわかりました。手前の三草山に目をとられて見過ごすところでした。西国三十三ヶ所霊場の第二十五番、清水寺のある山です。この秋には根本中堂の秘仏が30年ぶりに公開されました。大正年間に全山が火事になり遠く社からもその火が見えたといいます。
信仰の山御嶽山、源平の古戦場の山三草山。眺めていると思いは遠く古の時に。
信仰の山御嶽山、源平の古戦場の山三草山。眺めていると思いは遠く古の時に。
20日(水)の夕方、5時30分を回った頃、加東市三草の道を車で走っていると、日が沈んだ西の空がまだ赤く光を残し、上空にいくにしたがって青から紺色に、そして夜の暗さが広がっている光景が見えました。その荘厳さに車を止めてしばらく眺めました。
空には細く鋭い三日月が光っています。これから大晦日、正月にかけて満ちていく月。この地には東経135度日本標準時が通っています。また、源平の古戦場、三草合戦の戦場にもなったところです。昔の人もこの地で今夕のような夕景と月を見たのでしょう。
空には細く鋭い三日月が光っています。これから大晦日、正月にかけて満ちていく月。この地には東経135度日本標準時が通っています。また、源平の古戦場、三草合戦の戦場にもなったところです。昔の人もこの地で今夕のような夕景と月を見たのでしょう。
19日、加東市西垂水にある泉保育園を訪れました。周囲は田圃が広がり、南はため池に面している光がいっぱいの環境です。
西垂水という地名は、元は垂水でしたが、明治のはじめに東条の垂水と区別するために西垂水と名を改めたと聞いています。ちなみに東条の垂水は東垂水となっています。垂水は水が垂れる地という意味があり、加古川の左岸にあたるこの地が垂水とよばれたのでしょう。
西垂水には、佐保神社の由来にゆかりの深い、立明かし明神の祠があります。また、私のルーツもこの西垂水にあり、小さい頃は西垂水に墓参りに来ていました。
さて、加古川の左岸は河岸段丘の地形となっており、広々とした低地から東に、社の市街地、さらに嬉野台地へと階段状に上がっています。西垂水辺りはその低地にあたりますが、播磨風土記に記された穂積里の塩野の一部にあたるとされています。隣の貝原には弥生時代の住居跡も発見されており、大昔から人が住んでいたことがわかっています。
北の方角には播磨高野と呼ばれる光明寺のある五峰山のどっしりとした姿を望むことができました。千年二千年の昔から人々はこの景色を眺めて北野でしょう。
西垂水という地名は、元は垂水でしたが、明治のはじめに東条の垂水と区別するために西垂水と名を改めたと聞いています。ちなみに東条の垂水は東垂水となっています。垂水は水が垂れる地という意味があり、加古川の左岸にあたるこの地が垂水とよばれたのでしょう。
西垂水には、佐保神社の由来にゆかりの深い、立明かし明神の祠があります。また、私のルーツもこの西垂水にあり、小さい頃は西垂水に墓参りに来ていました。
さて、加古川の左岸は河岸段丘の地形となっており、広々とした低地から東に、社の市街地、さらに嬉野台地へと階段状に上がっています。西垂水辺りはその低地にあたりますが、播磨風土記に記された穂積里の塩野の一部にあたるとされています。隣の貝原には弥生時代の住居跡も発見されており、大昔から人が住んでいたことがわかっています。
北の方角には播磨高野と呼ばれる光明寺のある五峰山のどっしりとした姿を望むことができました。千年二千年の昔から人々はこの景色を眺めて北野でしょう。
18日(月)、加東市下久米にある兵庫教育大学の構内で小さな野鳥数羽が木々を飛び回っているのに気づきました。スズメより小さく見えました。動きもこまかく、図書館の南側のケヤキの木にとまり、動きながら幹や枝の表面をつついていました。
写真を撮って、インターネットの野鳥図鑑の写真で調べてみると、大きさ、頭の白い筋、長い尾などの特徴がぴったりの野鳥の写真が見つかりました。エナガです。
ここしばらく冬型の天気が続き、瀬戸内気候の播磨内陸の加東市は晴天が続いています。三草山もくっきりと望めます。そんな自然豊かな兵教大のキャンパスで見つめたかわいい野鳥でした。
道の向こうに山が見える。そんな景色を紹介します。加東市社の田町通り(たまち)は、市街の中心部から東に延びている通りです。かつては、社で一番賑わった商店街でしたが、現在では営業している店舗も少なくなり、住宅地に変わっています。
田町通りから社小学校へと延びる学校道の三叉路辺りから東を見ると、軒を並べる家々の屋根の上に三草山の山頂が頭を出していました。屋根が低い時代にはもっと大きく見えたのでしょうが、今でも通りの向こうに見えました(早朝と夕方の2枚)。
西国巡礼の道筋でもあったので、昔の人にとっては方角を見定めるよい目印になったことでしょう。三草山は源平の古戦場で知られ、平家を破った源義経率いる源氏が逃げる平氏を追って、この通りの東の高いところに陣を張ったとの伝承もあります。
ちょうど昔この通りで菓子屋を営んでいた先輩が通りかかり、小さい頃はよく見えたもので、雪が積もっているのが見えたので山に登りに行ったことがあるというエピソードを話してくれました。
古い写真は今から80年ほど前の昭和10年代(西暦1930年代後半)の社の市街を撮ったものです。位置と方角から、県立社高等女学校辺りから北、北西方向を見ています。瓦屋根の街並みの向こうに五峰山(光明寺)の山並みが写っています。
新しい写真は、社中央公園の金屋谷池の堤から同じ方向を向いて撮った現在の社の市街です。撮影場所は少しずれていますが、街の景色はずいぶん変わっています。変わらないのは、五峰山と加西に続く山並みでした。