ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

朝の状ヶ池

2011年09月30日 05時09分16秒 | Weblog
 オルカ像のある状ヶ池の早朝の景色です。東の社中学校の方角から朝日が昇ります。秋から冬にかけて、嬉野台地には朝霧が発生します。池が多いからだという人もいますが、これからの季節、早朝の光と空気がいいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の秋景色-実りの秋の三草山

2011年09月29日 05時35分49秒 | Weblog
 加東市東古瀬から東実に向かって走っていると、黄金色に色づいた田圃の稲穂が秋の実りの季節を感じさせてくれます。そして、その遠く向こうに三草山がどっしりと座っています。
 三草山は標高423メートル。決してそう高い山ではありませんが、播磨平野にさえぎるものはなく、遠くからでもよく見えます。丹波と播磨を結ぶ街道の要所にあり、源平合戦や太平記の時代の舞台になってきました。今日は秋景色の中の三草山を紹介します。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の秋景色

2011年09月28日 05時18分16秒 | Weblog
 彼岸になると間違えずに咲く曼珠沙華。秋の陽ざしに燃えるような赤。空の青と、田の黄金色、そして、祭りの幟の白。ふるさとの秋の景色です。(加東市藤田の木梨神社参道で)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

状ヶ池のオルカ像-国際交流の記念像

2011年09月27日 05時20分20秒 | Weblog
 加東市社の市役所社庁舎や税務署、福祉センターなど公共施設が集中するその東側に国道372号社バイパスをはさんで状ヶ池があります。池の周囲は公園になっており、さらにその東には社中学校、社高校があり、緑豊かな市民の憩いの場になっています。
 状ヶ池は、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が監督して築造した歴史的にも由緒のある池で知られていますが、今では春の桜、初夏のヒラドツツジなど多くの市民が四季折々の自然を楽しんでいます。
 さて、372号から社中学校への進入路を入ったところ、公園の入り口を入ってすぐの所に大きな魚の像があります。これがオルカ像です。すぐそばの看板には解説が書かれています。

姉妹都市親善のシンボル オルカ(シャチ)

 オリンピア市の原住民は”オーラカ”と呼び「勇敢な心と美しい姿の象徴としてたたえ」また家紋として用いている鯨目の海獣。社町が昭和56年10月、オ市に教育視察団を派遣した際に重要無形文化財上鴨川住吉神社の「神事舞」の人形を寄贈、オ市の州政庁博物館に展示され人気を集めている。そのお礼として、昭和57年5月4日、オ市と姉妹都市提携調印式の席で、両市町の友情のきずなとしてオ市から贈られたオルカは、調印式にさきだち昭和57年3月16日、オ市から彫刻家ジョー・ツーガスさん(32才)が親善大使として来町、住民と友情の対話を広げながら2ヶ月ばかりで精魂こめて彫りあげたものである。

    昭和57年5月4日    社       町
                 社町都市親善委員会

 このオルカ像を彫っているところは公開されていました。今でも覚えています。今年は社町とオリンピア市との姉妹都市提携による国際交流が30周年を迎えます。市役所社庁舎の西側の道路はオリンピア道路と名付けられています。そして、状ヶ池公園にはこのオルカ像が展示されているのです。日米友好、加東市とオリンピア市の友好関係のシンボル、オルカ像を一度見て下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田小の二宮金次郎像

2011年09月26日 04時53分26秒 | Weblog
 加東市立福田小学校の運動会でも二宮金次郎像に注目しました。同校の卒業生のTさんは、昔はこの周りに植え込みがあってそこで遊んだもんやと懐かしそうに話していました。像はセメント製のようでした。しかし、なかなか細かいところまでよくつくられている感じを受けました。お顔を見てみると、どうもやはり視線は本に向かっているようには見えませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鴨川小の二宮金次郎

2011年09月25日 04時51分48秒 | Weblog
 鴨川小学校で開催された秋の運動会に行ってきました。門を入ってすぐ脇の傾斜地に二宮金次郎像が建てられています。鴨川小の金次郎像についてはこれまでにもこのブログで紹介してきましたが、今日は昨日に続いて金次郎の視線が気になったのでよく見てみました。
 少し下へ視線を落としているように見えますが、その延長戦上に本はありません。この高さからだと門を入って登下校する児童の見守りにちょうどよいかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田小の金次郎像

2011年09月24日 05時30分53秒 | Weblog
 23日(金)、秋晴れの下、市内各小学校では秋の運動会が行われました。加東市立米田小学校では、小学生はもちろん、保護者、保育園児、消防団、老人会など地区住民が参加して米田地区伝統のふれあい運動会が開かれました。ただ、年々子どもの数が少なくなって寂しいという話も聞きました。
 そんな米田小学校の校庭の築山に立派な松が枝を伸ばしており、その下に二宮金次郎の像がありました。ふと目が合ったような気がして立ち止まりよく見ると、金次郎の目が持っている本を見ておらず、遠くを見ているように見えました。思わずシャッターを押しました。きっと登校してくる子ども達を見守っているんだろうと思いました。運動会シーズンになると二宮金次郎に出逢えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

79年前の社上組太鼓屋台

2011年09月22日 05時05分43秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の秋祭りが近づいてきました。昨日20日から上組太鼓保存会では乗子の子ども達の練習が始まるはずでしたが、台風15号接近のために取りやめになってしまいました。今年は10月8日宵宮、9日本宮と決まっています。これから毎晩、上組の太鼓倉では飾り付けと太鼓の練習が続きます。ドンデドン、ドンデドンの太鼓の音が響いてくるとだんだん心が騒いできます。

 さて、太鼓といえば、今日アップしている写真はこのブログでも紹介してきたものですが、hはじめどこの太鼓屋台かよく分かりませんでした。その後、ブログを見た太鼓研究家の方から上組の太鼓だと教えていただきました。確かに撮影場所は現加東市社の一区の八坂神社の前であり、佐保神社の三階菱の印がついた法被を着た若い頃の父の姿もあるのですが、何せ飾りの海老は今の上組の太鼓の鯱とは違っているし、父以外の担ぎ手の顔に見覚えがない、ということでいろいろ疑問が残っていました。

 そんなことも忘れていたのですが、祭が近づき、昔の太鼓屋台の飾り付けのようすを調べようと昭和7年(1932)の父の日記を読んでいると、10月2日の頁に次のような記述がありました。

太鼓をかつぐ用意にかかってしまふ。
午前十一時過ぎ出発。祇園神社前で記念撮影を終えて区長前、都亭の横、黒石の前で休憩して山氏神社入口で終る。~中略~ 午後二時終了

これは山氏神社の祭に上組太鼓を出した時のものだと思いますが、「祇園神社前で記念撮影」という一節に、ああ、あの写真のことだと直感しました。昭和7年といえば父は23歳。青年時代の父の姿と符合します。約80年前の上組太鼓屋台の勇姿に見入ってしまいます。
 








 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田の急坂の道標

2011年09月19日 19時14分15秒 | Weblog
 19日(月)の朝、加東市藤田の集落から台地の藤田南地区につながる旧道の急坂を車で上っていると、坂道のちょうど真ん中あたりで西側の崖のきれいに草が刈られたその中に花を供えられた小さな石碑があることに気づきました。少し行き過ぎてからバックで坂道を下り、車から降りて確かめました。
 供花されているのでお地蔵さんかと思いましたが、最上部に仏様の坐像が彫ってあり、下部に「左 山国 右 やしろ」と刻まれている道標でした。元からこの位置にあったのかどうか、また、建立年もわかりませんが、社方面、山国方面への分かれ道に建てられたのでしょう。しかし、中学時代からよく知っているこの急坂、そして、大人になってからも本当によく車で通っているのに、この場所に道標があることに気づきませんでした。
 この坂は千鳥川(久米川)から嬉野台地を一直線に結ぶ坂で、相当急な傾斜の坂になっています。私が社中学校の生徒だった頃、冬になると筋トレだといってはこの急坂でダッシュやうさぎ跳びをやらされました。また、長距離走の途中でこの坂道を走って上り、まさに心臓破りの坂の名がふさわしい急坂でした。今でも社中学校の生徒や社高校の生徒がこの坂道でトレーニングをしているところに出くわすことがあります。
 また、この坂の東側は谷になっており、一帯にどんぐりの木が生えていて、その頃からクワガタやカブトムシを採りに来ていました。坂を下りきったところは千鳥川が深い谷の底を流れていて、大蛇伝説に因んで逆さま川と呼ばれている急な蛇行の辺りにあっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代初め-やぎのいる風景

2011年09月16日 05時00分47秒 | Weblog
 この写真は、昭和30年代の初めごろの母の実家(加東市松尾)の風景を撮ったものです。当時は農繁期には農家だった母の実家に帰っていたように思います。かすかな記憶の中にこのやぎのことを辿ることができます。写真を見るまではすっかり忘れていました。
 牛もいました。庭に繋がれた牛が尾を右や左にムチのように振りながら蠅をはらっていたことや時折り振り向いてその大きな目でにらみつけられたことを思い出します。家族一族総出で田植えや稲刈りをしていた昭和30年代の懐かしい記憶の一こまです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青年団機関誌-「涌羅野」編集座談会

2011年09月14日 05時59分58秒 | Weblog
 この写真はわが家の古いアルバムの中にある一枚ですが、昭和初期のものだと思われます。青年時代の父の姿があります。「涌羅野編集員座談会」の幕が写っています。「涌羅野」(ゆらの)とは現在の加東市社あたりの古い呼び名です。社の持寶院の向かいに社一区公民館「ゆらのホール」があります。また、持寶院の寺号にも涌羅野山慈眼寺持寶院というようにこの地名がついています。
 さて、「涌羅野」の編集員の記念写真であることは見た通りなのですが、「涌羅野」が何なのか分かりませんでした。「ゆらのホール」に建て替えられる前、ここに木造の建物があり一区公民館として使われていました。この木造の建物が、大正3年(1924)に地元の識者や女学校の先生が学ぶ意欲はあっても経済的な理由などから進学できなかった青年のための夜学塾として開設され、昭和3年(1928)には、昼間制に改められた中学校に準ずる各種学校である「涌羅野義塾」の校舎だったのです。その「涌羅野義塾」に関係するものと思っていました。
 ところが、「涌羅野」は青年団の機関誌の名であることが父の日記の中の記述からわかったのです。昭和5年(1930)の1月24日のページに「昼頃から石井君が訪れた。そして二人で青年の機関誌涌羅野発行に就て活版印刷を協議した。」との一行がありました。「涌羅野」は青年団の機関誌だったのです。実物があればいいんですが。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奉安殿の玉垣の石?

2011年09月03日 05時49分56秒 | Weblog
 加東市立社小学校の本館前の築山には学校の歴史を物語る石が庭石として配置されています。そのことについては、この歴史ブログで紹介してきましたが、今日はその築山の石に使われている石柱(写真)を紹介します。
 こうした石柱は記念碑などの周囲に石の玉垣として使われているのを見かけますが、社小学校という場所柄から、また、この位置から奉安殿の周囲に玉垣として使われていた石柱ではないかと想像してしまいます。奉安殿は昭和10年に建てられています。当時の写真をみると、周囲に石の玉垣がありますが、写真の石柱かどうかは分かりません。
 この築山には校門付近にあった令旨塔や紀元2600年記念の石碑などが庭石として配置されています。写真の石柱が奉安殿のものだったとしたらこの築山は社小学校の歴史を語る築山の値打ちをさらに高めますね。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天神八朔まつり

2011年09月01日 05時24分58秒 | Weblog
 9月1日、加東市の夏の踊りの幕を閉じる天神八朔まつりが行われました。台風12号の接近で朝から雨が断続的に降っていたのでその開催を危ぶんでいましたが、神戸からの帰りに加東市天神の市役所東条庁舎前の広場横の道を走ると、やぐらが組まれ、提灯にも灯が入っていました。
 あらためて午後7時30分頃に会場を訪れると、太鼓、踊り手の人が十数人、地区スタッフが十数人とまだ人出はまばらだったが、雨は降っておらず、踊りが始まった。
 伝統の播州音頭から始まり、東条ゆかりの音頭や小唄、そして加東よしよし音頭、炭坑節などの曲で時間ととともに踊りの輪が大きくなっていきました。ときおり、播州弁でいう”ぴりぴり”と雨が降りましたが、例年ほども人出はなかったものの、加東市のこの夏の踊り納めを楽しむ人で賑わいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする