この写真は、まむし助役との異名をもっていた父・藤本豊治です。写真には、「38.7.15 読売太田記者写」と父の字で書かれています。昭和38年当時、父は社町(昭和の合併後の新社町)の助役、52歳でした。
父は、まむし酒を作っては、自宅や役場の助役室の床下に置いていました。親しい客には、求めに応じてまむし酒を振る舞っていました。
まむしは毒蛇で、はめと呼ばれていました。水に近い草むらなどにおり、人が咬まれると毒が回って命の危険がありました。まむしの捕り方は、竹の先を割り、そこに紐を結んだ木片をはさんでまむしの首に辺りにもっていき、割った竹のところに入ったら紐を引っ張り、木片をぬいてぱちんと竹がまむしの首をはさむ、というやり方でした。近所のおじさんが「助役さん、はめ捕ってきたで」と竹の先に首をはさんだまむしを持ってくると、すぐにその場で腹を縦に裂き、内臓を取り出します。そして、これが肝といって小豆大の肝を私の口に放り込みました。それを見ていた母が、そんなもんこんな子供に食べさして、と父に言っていたのを憶えています。皮を剥ぎ、きれいに洗ったまむしの身と骨を竹に巻き付けて、軒下に陰干し、やがて、乾いて干物になったものをペリペリと食べた憶えがあります。懐かしい思い出です。
まむしは、焼酎に漬けてまむし酒にしていました。まず、水を入れた一升瓶にまむしを入れ、瓶の口をさらしで塞ぎます。まむしは、水の中で便を出したりして、きれいになるまで瓶の中でした。その瓶を家の中の棚などに置いておくものですから、瓶の中でくねくねと動きながら瓶の口のところまで頭をもたげているまむしを常時見ていました。あのまむしが夜中にさらしをやぶって出てきたらと想像すると怖ろしい思いでした。水の中で、子供のヘビを産んだのもいました。きれいになったまむしを焼酎につけてまむし酒にしたんだと思います。床の板をはずして床下をみると、10本、20本の瓶があったように思います。
父が亡くなったのは、この昭和45年2月でした。母によると、まむし酒は求める方に差し上げ、持って帰ってもらったとのことでした。1本だけ台所に残しておいたものを大人になってから飲んでみましたが、味はよく分かりませんでした。
その後、数年前に同級生が30年もののまむし酒があると持ってきてくれました。開栓して、おそるおそる飲んでみました。無味無臭といってもいいほどの澄んだ酒になっていました。
まむしに咬まれたことはないのかと父に聞いたことがあります。一度刺された(※はめは口を開いて頭から飛んでくるようにして咬むので、咬むというより刺すという言い方の方が当たっているようです)と言っていました。二度目刺されたら死ぬとも言っていました。この写真は、まむし助役という題で新聞に紹介するための写真だったのではなかったかと思います。
すべて、小さい頃の記憶ですから、違ったところもあるかもしれません。しかし、床下に並ぶ何本ものまむし酒の一升瓶、水を入れた一升瓶の中で動くまむし、井戸のそばでまむしを解体して肝を口の中に入れられたこと、軒下に干したまむしの干物を食べたこと、は今も鮮明に蘇ってきます。
お父様は、道普請、溝普請の時などよく一升瓶を抱えて地元の方の意見を聞きに来られてました。
あの一升瓶は、「まむし酒」だったのですかね
ふと半世紀前のことを思い出しました。
戦争経験者なら何ともありませんが、我々には。。。
父はまむしでなく、「うなぎ」の捌き方が上手で戦地で教わったようなこと言ってました。
まむしでなくよかったです。
しかし、お父様は加古川の氾濫等風水害時にこまめに回られたこと記憶しております。