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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

明治23年-板垣退助が社で演説

2010年09月30日 05時19分38秒 | Weblog
 明治23年(1890)といえば、わが国で初めて総選挙、すなわち衆議院議員選挙が行われ、第1回の帝国議会が開かれた年です。この年の6月11日付の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に板垣退助の播州遊説のことが報じられています。
 記事によれば、6月7日、加古川駅に降り立った板垣退助は加東郡(現加東市、小野市域)自由主義者の有志に出迎えられ、人力車十数台を連ねて市場村(現小野市)に向かった。加東郡、加西郡(現加西市)、多可郡(現西脇市、多可町域)の三郡自由同盟会、自由青年会のメンバーが出迎え、夜に談話会が開かれた。翌8日、市場村を出発し、社村に到着。午後から社村の持寶院を会場に演説会を行った。持寶院には二千人の聴衆が詰めかけ、約1時間30分にわたる演説を聴いた、とある。その後、板垣退助は多可郡へ向かっている。
 この記事から、同年7月1日に実施される第1回衆議院議員選挙の直前に播州自由主義者の応援のために播州各地を遊説していた板垣が社村の持寶院に来て演説をしていたことがわかります。写真は現在の持寶院の山門です。
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明治15年-社村の政談演説会

2010年09月27日 09時55分26秒 | Weblog
 明治15年(1882)といえば、今から128年前のことになります。大隈重信が立憲改進党をつくった年です。板垣退助が自由党を結成したのが前年のことで、15年には岐阜で暴漢に襲われています。
 さて、わが故郷では、当時どのような動きがあったのでしょうか。明治15年の地方新聞に記事がありました。「神戸新報」の3月15日付に、21日に社村に於いて、県会議員高瀬藤次郎、蓬莱節太郎が会主となって大阪神戸間の弁士を招いて政談演説会を開くことになっているとの記事が掲載されています。弁士と演題も報じられており、大阪よりの本山彦一(政治上の地獄極楽)、京都の甲田良造(頻年の豊饒却て民心を怠慢に失するの患あり)、新報社からは鹿島秀麿(上下乖離の憂)、桐原捨三(腕力是権利)、吉田祥三郎(官民安全之説)の4人が紹介されています。
 この政談演説会に関する記事は、神戸新報の3月28日付に掲載されており、加東郡大門(現加東市大門)の聚星楼で郡内の有志が集まり談話したあと、蓬莱氏宅を会場にして政談演説会が開かれたことが報じられています。
 記事は出席者などが詳細に報じてられており、当時わが加東の地においてもこうした政談演説会が開かれ、地方の有志者が来たるべき国会開設に向けて高い関心を持っていたことがわかります。演説会は甲田氏の演説の際に臨場していた警察官により集会条例に抵触するとして弁士中止の命令が出され、解散しています。
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やっと彼岸花が-山田錦のふる里で

2010年09月27日 06時56分35秒 | Weblog
 26日(日)、酒米の王様、山田錦のふる里東条地区で山田錦ウォーキングが行われました。滋賀県や京都府からの参加者も含めて約300人が秋の実りの色が広がる東条の里を歩きました。今年は別の式典が同時間帯に重なったために参加できなかったのですが、そろそろ出発点に戻ってこられる頃にのぞいてみると、皆さん完歩の充実感を爽やかな笑顔に浮かべておられました。実行委員会のスタッフの「お帰りなさい」の声と、うどん、巻き寿司の接待が待っていました。
 ふと、近くの田圃の方に目をやると、黄色く実った稲の中に真っ赤な彼岸花が咲いていました。いつも間違うことなく彼岸に咲く彼岸花。しかし、記録的猛暑の今年は彼岸に遅れること数日で咲きました。思わずシャッターを押しました。
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百旗墓地の消防組頭の碑

2010年09月24日 04時45分49秒 | Weblog
 23日昼頃、雨が小降りになったので墓にまいりました。加東市社には百旗墓地、中墓地など4ヶ所の墓地がありますが、わが家の墓は市街地を西に望む少し高台の百旗墓地にあります。
 国道372号線に面しているのでひっきりなしに自動車が通りますが、その道路側に大きな石碑や石塔などが並んでいます。その一つが写真の石碑です。
 表には「友藤岩太郎碑」と刻まれています。裏には、「発起人」と大きく横書きに、そして、その下に「社町消防組」、第一部から第七部までの小頭二名の氏名などが刻まれています。建立年は「大正十二年一月」と刻まれていました。西暦1923年ですから、今から87年前ということになります。
 この「友藤岩太郎」は『加東郡誌』によると、社町消防組の組頭で、社町社(旧社町)、米穀肥料商、社町町会議員とあります。当時、各町村に公設の消防組が設置されていました。社町の消防組には、約150人の消防手がいたと記録にあります。
 この碑が建立される前年の大正11年4月16日に、福田小学校で加東郡消防協会の発会式が行われています。当時の加東郡は現在の加東市と小野市域にまたがる大きな郡だったので、発会式は盛大だったと伝えられています。
 
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若宮さんから佐保神社へ

2010年09月23日 04時53分02秒 | Weblog
 加東市社、二区の西浦に若宮神社があります。若宮とは、佐保神社の祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の御子、天絵押雲命(あめのおしくものみこと)、御孫神である天種子命(あめのたねこのみこと)が祭神として祀られている神社であることをさしてよばれています。
 いつもはウォーキングのコースとして、佐保神社から若宮、そして新池の堤を通って持寶院大師堂へと歩くのですが、この写真は逆の方角から見たものです。ふだん、自宅から神姫バス社営業所(のりば)へ行く道としてこの道を使います。
 写真では、若宮さんの北側(社殿背面)を曲がったところで、向こうに佐保神社の本殿背後の森が見えます。若宮さんの大きな欅の木、そして桜、この景色が何とも懐かしさを感じるのです。
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路地の壁

2010年09月22日 05時50分48秒 | Weblog
 加東市社の市街地には、街路から家並の間を抜ける路地がたんさんあります。かつては多くの人々が歩いて通り抜けていった便利な路地。また、子ども達の格好の遊び場だった路地。昭和30年代はじめ、路地の地蔵堂の前に紙芝居がやってきて、5円、10円玉を握って飴を買っておじさんの名調子を聞いた。そんな路地を時々歩いています。
 表通りの賑わい、といっても近年はその賑わいがありませんが、路地は取り残されたように静寂です。しかし、人々の暮らしの息づかいが時を超えて感じられるのは路地です。その路地に面した蔵の壁が崩れはじめていました。とうとう耐えきれなくなったか、と思わず声をかけてしまいそうになりました。
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夜明けのタワー

2010年09月21日 05時44分40秒 | Weblog
 今朝は歩いていても蒸し暑くて汗が滲みました。加東市社の新池の堤から朝日の昇る東の方角を見ると、関西電力社営業所の鉄塔が正面、そして、少し赤みをもった朝日が薄雲の中に浮かんでいました。新池には鉄塔がくっきりと映されて、まるで天地を貫く軸のように見えました。
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福田小学校の二宮尊徳像

2010年09月20日 05時11分05秒 | Weblog
 運動会に出席するために加東市立福田小学校を訪れました。まだ開会式まで時間があったのですが、校長先生のご案内で運動場に向かう時、職員室前の植え込みの中に二宮尊徳像があることに気づきました。何度も訪れている福田小学校なのですが、尊徳像がこんな場所にあるとは知りませんでした。
 台の上に立って柴をかついで本を読む、例の尊徳翁の小さい頃の姿がそこにはありました。「二宮尊徳先生幼時之像」と刻まれた銅板がはめ込まれています。裏には、昭和六年という文字が刻まれていたように思うのですが、しっかり確かめませんでした。銅像ではなく、石像のようでしたが、今日は写真を紹介します。この像にもストーリーがあるはずですから、今度じっくり調べてみようと思います。
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昭和9年-軍艦観覧に関する通知

2010年09月19日 04時53分58秒 | Weblog
 昭和9年(1934)の社町社区長の「雑書綴」にはさまざまな通知が綴じられていますが、軍事に関するものも多くあります。
 今日紹介するのは、神戸港に入港する軍艦「伊勢」の観覧に関する通知です。船艦「伊勢」は神戸造船所で建造され、大正6年(1917)に就役していますが、昭和10年から近代化改装されています。その前年の観覧だったのです。「伊勢」はミッドウェー海戦の後、航空船艦に改装されます。半分戦艦、半分空母という型です。


 昭和九年五月二十四日
               社 町 長
各区長 殿

  軍艦観覧ニ関スル件通知

本年度神戸港ニ於テ呉鎮守府艦上簡閲点呼執行ノ際左記ノ通リ一般ニ観覧許可可相成候条貴部内一般ニ周知方御取計相成度此段及通知候

    記

一、軍艦  伊勢
一、観覧許可日時
   五月二十八、九一両日ノ午後
一、艀船乗船場所
   神戸市海岸通メリケン波止場ノ予定
一、艀船
   観覧ニ要スル艀船賃ハ実費徴収ノ予定
一、注意事項
1.不体裁ナル服装ヲ為セル者ハ観覧ヲ挙阿kセラレザルコトアリ旦傘杖ハ携行セザルコト
2.不健康者老幼年者ハ危倹ニ付観覧差控ヘラレタシ
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昭和9年-函館大火への義捐金で協議

2010年09月17日 05時42分13秒 | Weblog
 社町社区長の「雑書綴」の中に、昭和9年(1934)3月21日に起きた函館大火に対する義捐金の件に関する通知が綴じられています。
 昭和9年の函館大火は、市全体に延焼、死者2000人以上の大火だったそうです。函館は風強く、いったん火が出ると大火になりやすい土地であったということですが、焼失1万戸以上、負傷者も約1万人という大火であったようです。
 義捐金の送付について協議すべく、町長から各区長宛に出された通知は次の通りです。


 昭和九年四月十三日
                    社町長
各区長 殿

  函館大火ノ義捐金ノ件

過般ノ函館大火ニ対シ当局ヨリ罹災民ノ救護方ニ関シ交渉有之候処去ル十日加東郡町村会長会ニ於テ協議ノ結果本部ハ戸当五銭宛ノ義捐金ヲ送付スルコトト相成候ニ就イテハ之レガ支出ノ方法ハ義捐金ナルガ為ニ町費ヲ以テ支弁スルコト不可能ニ御座候条協議費ヲ以テ支出スルコトニ御快諾賜ハリ度一度区長会開催ノ上御協議申上グルガ本意ニ御座候ヘ共御多用ノ中ヲ恐縮ニ存ジ候間乍勝手書面ヲ以テ御賛成願上候
尚右義捐金ハ早々送付ノ必要ニ迫ラレ居候条当方ニテ一時立替送金可致事ニ御商人願上候
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昭和5年-社区の会議

2010年09月15日 05時11分36秒 | Weblog
 昭和5年(1930)の社区長「雑書綴」に、社区の役員会の案内が綴じられています。社区事務所用箋にペン字で書かれた案内で、区長、副区長、会計の三役連名で、参与員、評議員、土木員といった役員宛に出されています。
 6月12日付の案内は「本日午後八時」より開催とあり、当日に出されたものです。場所は西浦倶楽部となっています。協議事項は次の通りです。

 協議事項

社高等女学校運動場拡張スル件
国勢調査員五名選定スル件
第二下水溝建設ノ件
婦人会設立ノ件
小学児童ノ小農園補助ノ件
其他

以上の内容について至急協議したいということでした。
 社高等女学校は現在、裁判所になっており、庁舎の新築工事が行われています。また、昭和5年は国勢調査が行われましたが、今年も国勢調査が行われます。
 婦人会が設立されたのはこの当時だったのだということも分かります。小学生の児童農園というのは、3年生以上の児童が各地区で実習田を借りて農作業をするという趣旨で計画されたもので、そのことが話し合われたのでしょう。
 今から約80年前の郷土の先人が何を話し合い、取り組んでいたのか、こうした文書から知ることができます。
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昭和5年-佐保神社秋祭の案内

2010年09月14日 06時43分24秒 | Weblog
 そろそろ秋祭りの準備が始まる頃になりました。加東市社の佐保神社の太鼓屋台の打合せも行われ、各地区の準備や練習が始まります。
 さて、昭和5年(1930)の佐保神社の秋祭りの案内が社区長の「雑書綴」に綴じられています。写真は昭和10年代の佐保神社の写真です。



拝啓時下秋冷之節 益々御清福奉賀候陳ハ当神社例祭典来十月十五、十六日ノ両日間如例執行仕候間御一堂賑々敷御参詣被遊候様御村内皆々様ヘ宜敷御鶴声被下度 且ツ
 祭礼人足別紙切符之通リ御差シ向ケ方伏テ御依頼申上候
 尚ホ又
右十月十六被ノ例祭儀式ハ午前九時三十分執行仕候ニ付何卒是非御参列被成下度御案内申上候                                敬具

 追申 当日参列員ノ集合所ハ郡公会堂ニ御座候

 昭和五年十月九日
      加東郡社町
        縣社佐保神社
            社務所

社町社区長殿


      人足切符

一、土俵場人足    十月十五日十六日

一、跡片付ケ人足(各町一人宛) 十七日

 右祭礼人足如例御差向ケ被下度候也

   昭和五年十月九日
      縣社佐保神社々務所

社町社区長殿

    
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昭和5年-口腔衛生の活動写真会

2010年09月13日 05時06分12秒 | Weblog
 「昭和五年四月 雑書綴 社町社区長」の中に、口腔衛生週間に関する社町長から各区長宛に出された通知が綴じられています。昭和5年(1930)といえば、今から80年前のことになりますが、昭和の合併前の旧社町(今の社小学校区域)時代のもので、元加東郡公会堂(現明治館)で活動写真会が開催されるというものです。


 昭和五年十一月十二日
                  社 町 長
各区長 殿

 口腔衛生巡間映写会通知

今般左記要領ニ依リ今晩(十二日)活動写真会ヲ開催可致候間御多要中ニハ候ヘ共多数出席相成様貴内一般ニ伝達相成度此段及通知候也

  左記

一、主催  ライオン歯磨口腔衛生部
一、後援  兵庫県並兵庫県歯科医師会
一、会場  社町元郡公会堂内
一、日時  今晩(十一月十二日)午後七時開催
一、入場  無料
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昭和9年-一日一善主義ビラ配付依頼

2010年09月12日 06時47分23秒 | Weblog
 社町社区長(現加東市社)の「昭和九年四月 雑書綴」の中に、「健康週間宣伝ビラ配付」に関する社町長からの依頼文が綴じられています。(1934年)
 その中に、社警察署の「一日一善ビラ」配付に関することが書いてありました。どんなビラだったのか、ビラが綴じられていないのでわかりませんが、家の中のよく目立つ所に貼って一日一善の実行を心懸けるように指示しています。

 昭和九年六月五日
           社 町 長
各区長 殿

 健康週間宣伝ビラ配付ノ件

健康週間ニ付キ種々御配意ヒ下厚礼申上候
本日警察署ヨリ一日一善主義宣伝ビラ未配付ノ向アル様注意有之候条各戸家人ノヨク目ノツク所ニ貼リ付ケ一日一善主義ヲ実行スル様御配意相煩度
尚農繁期中多忙御事ト存ジ候ヘ共御公会堂ノ大掃除敢行セラレ度
此段及通知候也
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東条ダムを眼下に宴-昭和26年頃

2010年09月07日 04時41分08秒 | Weblog
 昨日に続いて、東条ダム(鴨川ダム)を見下ろす展望台で、湖を眼下に宴を楽しむ人たちの写真です。
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