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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

続-藤井喜明先生の実践記録から

2015年11月30日 05時12分38秒 | Weblog
 藤井喜明先生の実践記録の中から、東条ダム建設によって湖底に沈んだ土井のことについて記述されている部分を紹介したいと思います。写真は東条湖の水天宮の祀られている岩場から堰堤をのぞんだものです。この堰堤が築かれている場所が一ヶ所さけていた場所で鴨川が流れていた谷だったのです。


121ページ

イ かっての土井
 旧加東郡市場村村長近藤準吉翁が「天恵の地形、土井は池になる」と有名なことばをのこしている。土井とは現在東条ダムの湖底に沈んでいる加東郡東条町黒谷字土井のことである。標高百二メートルの山あいで静かに生活していた。山は一か所だけ小さくさけ、そこを鴨川が流れ戸数七戸、耕地面積約七町の平和郷であった。大正十三年の大干害でなんとか大貯水池をつくりたいとのねがいがもりあがったのである。この一つの実現が昭和池でもあった。加東、加西、印南、加古、美の五郡二十七か町村の首長が東播農業開発既成同盟を結成した。この計画は五郡二十七か町村に及ぶ広大な灌漑利水であって受益面積も数千町歩に及ぶものであったが日中戦争、第二次世界大戦と発展するにつれこの計画も中断される形となった。
 冬季は男子の中には鴨川付近で薪炭製造のため出かけるものもあったようです。善きにつけ、悪しきにつけ、そこに住む人々は先祖伝来の田や畑をもとに老若男女、悲喜交々の生活を続けてきた。なにしろ狭い耕地の中で限られた生活を続けてきたのですから、二、三男の就職には思い切った手がうたれ阪神地方へ進出する傾向も強かったようです。祖先伝来の田畑もさることながら、何よりも切実な思いは墳墓の地を失うことであったようです。東条町掎鹿寺の住職を招き涙のうちに、墓をほりおこした思い出は土井の人々の胸にいつまでも残ることでありましょう。遺骨の形を止めるものはそのまま転居先に映され、それらの人々に守られながら各地におくられていきました。土の幸にめぐまれたこの平和郷がどれだけ去り難い土地であったかは想像に余りあるものがあります。

                                つづく
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「東条ダム建設と郷土の開発」の授業記録-藤井喜明先生

2015年11月29日 04時59分35秒 | Weblog
  

 11月23日、東条川疏水ネットワーク博物館オープン記念の式典、シンポジウムが加東市やしろ国際学習塾LOCホールで開かれました。

 東条川疏水が全国疏水百選に選定されてから10周年にあたり、昭和26年11月23日の鴨川ダム(東条ダム)の竣工した日を「東条川疏水の日」として制定することになりました。その趣旨は、ダムと用水路、ため池、田圃を結ぶ壮大な水の流れとその流域の自然や歴史・文化を大切な地域資源として保全し、次の世代に継承していこうとするものです。

 東条川疏水ネットワーク博物館は、鴨川ダム、昭和池という巨大な「水がめ」と水路網で結ばれたため池や田圃など流域全体を「屋根のない博物館」として見て、展示物はその景観の中に点在する水利施設、農業施設をはじめ、歴史的建造物や継承されてきた祭りや人々の暮らしそのものという考え方に立っています。

 ダムの建設により、全国有数の少雨地帯であり、旱魃、水不足に苦しんできたこの地方に安定した恵みの水が供給されることになりました。水がなかった台地の開拓地に水が引かれ水田化も進みました。水路は隧道で山を穿ち、水路橋で谷を渡り、さらに長大なサイフォンで谷を渡って台地へと結ばれ水を運びました。「子ダム」も築造され、さらに水路は遠くまで延びていき、田圃を潤しました。

 しかし、昭和初期の昭和池、戦後間もなくの鴨川ダムの工事はどちらもその巨大さゆえに難工事となりました。また、鴨川ダム建設には湖底に沈む土井の人々の立ち退きという大きな犠牲がありました。そうした物語も疏水ネットワーク博物館に収録され、語り伝えられていく大切な「展示」の一つです。

 さて、手元に一冊の社会科授業実践記録があります。和文タイプの活字で書かれた200頁余りの冊子です。
 表紙には、「たしかな社会科の授業を求めて」-東条ダム建設と郷土の開発-の題名だけが書かれています。奥付には、著者、藤井喜明。昭和42年2月発行となっています。
 著者は、当時40歳。加東郡社町立社小学校に勤務し、社会科授業の研究実践に情熱を注ぎ、特に東条ダムの建設と開発をテーマにした授業の開発に精力的に取り組んでいます。この冊子は、その授業開発と実践の記録です。

 加東市内の学校に勤務しておられる先生からお預かりしている資料ですが、これは東条川疏水に関する貴重な教育資料だといえます。実は今から30年余り前、私も兵庫教育大学附属小、中学校に勤務していた時に社会科授業で、東条ダムと嬉野台地の開発をテーマに授業開発に取り組みましたが、その20年余り前に大先輩の藤井喜明先生が取り組んでおられたことをこの一冊によって知りました。
 この内容については、これから紹介していきたいと思っています。
 
 
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昭和3年-全国同人誌一覧表に郷土加東郡の同人誌が

2015年11月28日 05時47分40秒 | Weblog
  

 昭和4年(1929)の父の日記の巻末に全国同人雑誌関係者一覧表が掲載されています(昭和3年10月時点の掲載申込み)。
 父らは仲間と文芸活動に取り組んでいたなと思いながら一覧表を見ていると、ペンで印を入れてある箇所がありました。そこには郷土の同人誌と関係者の氏名が書かれていました。
 同人誌名、同人名、住所、編輯兼発行人の順に書かれています。「牧笛」、「農村風景」が郷土加東郡(現加東市、小野市域)の同人誌で、それぞれ走馬燈詩社、東播藝術聯盟が発行しています。
 そして、同人の氏名の中に父の藤本豊路(本名は豊治)の名前もありました。また、当時父が住み込みで働いていた加東郡社町社の魚市場の名もあります。
 兵庫県関係では、加東郡の2つの同人誌の他、神戸市9、西宮市1、赤穂郡1がありました。加東郡の同人誌欄は次の通りです。


 「牧 笛」

兵庫県加東郡市場村樫山、走馬燈詩社
 編輯兼発行人
  國井重二  小川芒舟  岸本輝夫  近藤 次  山本重禮  上川 博
  管田節子  久保田一一  國井静村  藤本豊路  伊藤 好  藤本正城


 「農 村 風 景」

兵庫県加東郡社町社魚市場、東播藝術聯盟
 編輯兼発行人
  岸本輝夫  國井静村  小川芒舟  近藤 次  上田 博  國井重次
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昭和8年-青年団の運動会に盆踊り

2015年11月27日 05時15分45秒 | Weblog
 父の日記から、昭和8年(1933)の9月、青年団の運動会、そして盆踊りについて記されている部分を紹介します。
 当時、市場で働きながら青年団活動に勤しんでいた父の生活や社の様子をうかがうことができます。

9月3日(日)
 
 盆踊りだ。音頭もとって見た。

9月4日(月)
 
第十三回の運動会だ。
社支部は全然宛ててゐないのに意外の成績をあげた。そして第二位だった。小寺弘君の意外な成績と手腕を心強く感じる事が出来た。将来未込みをつけるべしだ。風の強い日。黄色の土煙が一分の余裕もおかずに吹きまくって著しい苦痛の中に大会を終わった。
午后五時過ぎ。ボツボツと雨が降って来た。倶楽部に集合。うどんとせんべいで余談。そしてもう一息に元気をつけて来年の春季には一生懸命優勝をめざして練習する事に一決した。
踊りは雨の為中絶の形だったがやがて月が出て冷気を帯びた風が吹いて八時過ぎから始める。先ず盛大位の程度で十時頃に終った。平凡な盆踊りだ。

9月5日(火)

今晩の盆踊りは極盛大に終った。昨夜の不振に入れ足しの出来た事が何より嬉しい。そしてよくはずんだ事が此の上もない痛快さだ。終ってから銀波に行った。小枝と末永、伊藤と共に行った。
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昭和8年-郷土兵遺骨凱旋の日の父の日記

2015年11月26日 04時48分02秒 | Weblog
 昭和8年(1933)の父の日記を読んでいると、5月13日の頁の上欄の豫記欄に「末永忠男君町葬」と書いてあるのが目に止まりました。

 以前、この歴史ブログで紹介した「遺骨凱旋の郷土出身兵」の名前でした。当時の社区(現加東市社)の諸通知綴に戦死通知から遺骨凱旋の出迎え、町葬にいたる一連の通知文が綴じられており、ブログで紹介したものです。これは、「県政資料シリーズⅡ」(平成27年5月発行)にも収録しています。末永忠男さんの名前は社の忠魂碑の満支事変の一番最初に刻まれている名前です。当時、町青年団は遺骨出迎えや葬儀委員などを務めていました。父の日記より町葬関係部分を紹介します。

五月十三日  末永忠男君 町葬

満州の団山子附近で名誉の戦死をした歩兵伍長末永忠男君の町葬だ。十日に遺骨を迎えて今日の晴れの日だ。初夏の気分も横溢に照り輝いてゐるのでその暑さに今さら閉口し得ざるを得ない程だ。十一時中川君を呼んで団旗を奉持して鳥居に出迎えに行った。そして又引返して町の学校に残ってゐる団員を気遣って学校に引込んでゐるのを出して出迎えの指揮に当った。一時半小学校庭に於て始まって午後四時迠かかって終了解散。
~後略~


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昭和3年-加東郡立憲青年党の発会式

2015年11月25日 05時19分32秒 | Weblog
 父の日記から-

 昭和3年(1928)、当時18歳だった父の日記を読んでいると、2月6日の頁に加東郡立憲青年党の発会式が公会堂で行われたことが記してありました。演説会も行われたようです。
 青年労働者として市場で働いていた父は、仕事がすむと公会堂へ行っています。公会堂とは加東郡公会堂、現在の明治館のことです。

 大正14年(1925)に普通選挙法が成立し、昭和3年の2月20日に第1回の普通選挙が実施されています。満25歳以上の男子に選挙権が与えられるようになったものです。
 2月15日の頁には「普選のスタート。記念すべき二月二十日。後五日になったものだから八人の候補者は猛烈なる運動を開始した」と記されています。
 父も選挙運動に関わったようで、「自分は日給二円で雇はれてゐる以上政友会の方をヒイキをせなければならない。自分は昨年の県会に於て運動した様にほんとうに選挙と言えば社会凡ての人がヒステリックになってしまふ様に考えられる。”君こう言ったりしてゐたら罪だよ。違反だよ。”こうした声をどんなに多く聞く事だらうか。」と社会の雰囲気を書いています。
 2月20日の頁には、「選挙の投票日。市日。普通のスタート。記念すべき此の日。政友内閣を信任するか、不信任か。尤も興味ある問題だ。」と記しています。

 写真は昭和10年代の加東郡公会堂です。
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里の秋-県立やしろの森公園収穫祭

2015年11月24日 05時02分59秒 | Weblog
 

 



 23日(月)、勤労感謝の日。戦前は五穀豊穣に感謝する新嘗祭の日でした。今年は紅葉が遅いというか、鮮やかではないような気がしますが、加東市上久米にある兵庫県立やしろの森公園では収穫祭が行われました。開園15周年を迎え、多くのボランティア団体が森づくりに参画し、豊かな里の秋を楽しむ収穫祭となりました。
 新米の炊きたてご飯、おでんやお餅をいただくのが毎年の楽しみだったのですが、他に用事があり、販売開始時刻の11時前には出なければならず誠に残念でした。写真だけ撮らせてもらいました。国際ソロプチミストの皆さんのコーヒーはいただきました。社高校生の森の中の読み聞かせコーナーでは小さな子供とお父さんが聞き入っていました。池の堤にはミニ列車がお客を乗せて走りちょっとした行楽気分を味わえます。兵庫教育大学の学生さんのお茶席もありました。井戸のまわりに子供が集まり、不思議そうに勢いよく出てくる水を見ていました。
 こうした自然体験、里山体験は子供だけではなく、大人にとっても大切なものだとつくづく思います。母屋の中の囲炉裏を囲んでかまどで炊いたご飯をいただくことで、人間が火を使って料理をし、食べるという実にシンプルな基本に立ち戻ることができます。できることならこうした場所で晴耕雨読の暮らしをしてみたいと誰しも思うのではないでしょうか。
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昭和8年の夏-太鼓の虫干し

2015年11月23日 05時01分35秒 | Weblog
 昨日に続いて、父の日記から。
 昭和8年(1933)の7月29日の頁の上欄には、太鼓虫干し、委員会と書いてあります。下欄の日記を読んでみると、青年団活動のことが書いてありました。父は当時23、4歳だったはず。市場に勤めながら青年団活動に没頭していました。太鼓屋台も青年団の担当だったようです。今も夏に虫干しをしていますが、80余年前も青年が虫干しをしていた確かな記録です。写真は昭和12年の佐保神社秋祭りの太鼓屋台(上組)です。左端で腕組をしている父の姿もあります。


 帳簿に一時間かかった。これで今日の日課は事務的に終わった訳だ。-町青年団の役員名簿等の整理を始める。過去五年間の町青年団に対する内容えの研究と努力は遂にして最近その理想に近き第一歩の刻印を踏む様になってゐる事を嬉しく我れ事の様に感じて来る。
 太鼓の虫干しを午前十一時から始める。末永君は未だ眠ってゐたらしい。母親の命令では起きないらしい。三木君が終了半ばにやつて来た。暑い最中で照りも良く虫干しの絶好の日和だつた。弁当五〇銭宛と西瓜と氷で満腹した。午后二時過ぎ終了。
 会社の裏庭をコンクリートに改められるのでじつとそれを見てゐろとの事だったので帰ってじっと午睡もせずに見てゐた。別に不正をする人でもないと思はれる。
 夜常任と全委員会。予算の編成に就ての協議だ。体育部は休み。社会部と当部のみ。
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昭和8年の義士会-観音寺で相撲大会

2015年11月22日 04時40分06秒 | Weblog
 昭和8年(1933)の父の日記を読んでいると、1月に観音寺、義士会という名が何度もでくるので気になりました。
 6日の頁には、「義士会の宣伝ビラ」を書いたこと、小学校の落成式に出席したこと、夜にはまた義士会の会議に観音寺に行ったことなどが出てきます。7日の頁にも観音寺に行って庵尼に出会っています。8日も仕事を終えて観音寺に行っています。そして、9日が義士会の日でした。この日は旧暦の12月14日にあたり、赤穂義士討ち入りの日だったのです。
 義士祭は本拠の赤穂の義士祭が有名ですが、明治36年(1903)に始まったと聞いています。加東市家原の観音寺には、赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺と同じように四十七義士の墓碑があります。浅野家の領地であった加東郡の家原には義士の一人である吉田忠左衛門が郡代として赴任していました。討ち入りから150年の後に義士を称えるために当地の人々の寄附でつくられたのがこの墓碑です。社町(旧)の義士祭は昭和2年(1927)年に始まったと聞いており、青年団が中心となって相撲大会や義士行列、映画大会などを行っていたようです。
 当時青年団員だった父の日記にその義士会のことが記されていたのでここに紹介します。義士会の在り方についても問題意識をもっていたようです。写真は当時、義士装束に扮した青年団員の姿です。
 

父の日記より

 一月九日

 午前八時起床 その儘岸熊に行って義士会の相撲大会の役員だったの洋服に軽衣裳をつけて出かけた。尤も寒空と曇天なので一層の心配と寒さだ。こうして義士追善の為に一種の公共団体が参加総動員すると言ふ事は考えものであると思ふ。そして一青年団の年中行事の一つとするが如きは以て考慮すべき事実だと感じる。
 午后一時から相撲の開始。
 午后四時半頃に優勝戦も終了。優勝は鳥居支部の末永百太郎君、二位が意外にも社の内橋健市君が獲得してくれた。
 午后七時から夜の部だ。活動写真の弁士を初めてやつた。銀幕に遷す説明は演説よりむつかしい。~後略~

 
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まさに鈴なりの柿の実

2015年11月21日 04時39分04秒 | Weblog
 久しぶりに晴れ渡り、青空と紅葉がまぶしいなか、加東市東条の山道を車で走っていると、突然前方に現れた風景に目を奪われてしまいました。

 一瞬、黄色く色づいた広葉樹かと思いましたが、なんと柿の木でした。鈴なりという形容がありますが、まさに鈴なりの柿の木でした。谷筋の下り坂、高く伸びた幹と枝にまるで色づいた葉のように無数の柿の実がついています。
 車を降りて近寄ってみました。今までにも鈴なりの柿の木はずいぶん見てきましたが、目の前のこの柿の木を超えるものはありません。豊かな恵みを生み出す自然の力に圧倒されました。

 
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昭和4年-社警察署新庁舎落成式の日

2015年11月20日 04時33分18秒 | Weblog
 昭和4年(1929)1月18日(金)、社警察署の新庁舎落成式が行われています。建設地は社町社字東条町(とうじょうまち)566番地の1(現加東市社の「みなと銀行社支店」)でした。
 当時の社町役場の通知によれば、18日に落成式が行われ、その夜は近くの佐保座で
砂川捨丸一行の余興(萬歳)が無料で開催されることになっています。

 ところで、この日のようすが父の日記に記されていました。

 賑やかな警察の祝ひだ。素晴らしい盛大振りにおどろいた。あの自動車を並べてやって来た多くの高位高官連に。然しあれ程の警察署は社地方にしてぜいたくすぎる官署だ。あの高慢に出るポリが尚更あの立派な所で高慢に出ると思ふと良い気持ちもしなかった。
  ~ 中略 ~ 
 賑はしい町々。この儘で飾ってゐたら俺は毎晩歩いてやるのに。太鼓をかついでゐたが、どうしたものか自分は近来にないかつがなかった。夕方早くから活動に行く可しだったのが活動ぢゃなくて萬歳に行った。○が入(要)らぬと言ふので素晴らしい見物人。特に自転車の曲乗には感心したのみ。
 ~ 後略 ~

 当時、19歳の多感な労働青年だった父の心持ちが伝わってきました。日記の中に書いてあった萬歳は砂川捨丸だったのでしょう。自転車の曲乗りもあったんですね。それにめでたいこういう日には太鼓(太鼓屋台)が出ていたようです。
 写真は昭和10年代の社警察署の写真です。私ももちろんこの社警察署の庁舎が懐かしい世代です。建物だけでも保存しておけばよかったのに、と思いませんか。
 
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雨に濡れた朝の風景

2015年11月19日 04時58分06秒 | Weblog
 

 18日(水)の朝も雨で地面が濡れていました。
 いつものように早朝ウォーキングで、忠魂碑、佐保神社、大師殿の定番コースを歩きました。
 昨日紹介した民家の柿の木の色づいた葉がアスファルトの路面を飾っています。大師殿でお大師様の木像に向き合っていると心が満たされていくような感じになります。
 私の朝の大事な時間です。
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朝焼けと柿の葉

2015年11月18日 04時43分50秒 | Weblog
 



 早朝、人の活動が始まる前の時間帯、自然がさまざまな姿を見せてくれます。
 加東市社の忠魂碑のある明治館前の広場から東を見ると、手前に皿池が見えます。日が昇る前には低くたなびく雲が朱に染まります。16日の朝の一瞬の光景でした。
 佐保神社から若宮神社へとつながる道では、民家の庭の柿の木に紅く色づいた葉がついていました。あまりに美しいその紅に思わずシャッターを押しました。
 さらに持寶院大師殿へと続く新池の堤の道を歩いていると、社のランドマーク、関西電力の鉄塔、私は社のエッフェル塔と呼んでいますが、日の出をバックに空と池面に映っていました。
 秋の空気と色に満たされた朝の光景です。
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加古川流域滝野歴史民俗資料館の脇に石柱が

2015年11月17日 04時39分52秒 | Weblog
 加東市下滝野の高台に加古川流域滝野歴史民俗資料館があります。この一角は旧滝野庁舎、現在は北はりま消防本部をはじめ滝野文化会館、滝野図書館、滝野公民館などの施設が集中しています。高台にあるため見晴らしもよく、遠く六甲連山や播磨平野が一望できます。特に滝野図書館の3階からの眺望は絶景です。
 先日、雨の中、用事で公民館に行くことがありました。駐車場と民俗資料館の間の草の中に石柱が置いてあるのが目に入りました。以前、友人からそんなものがある、と聞いていたことを思い出し、これがその石柱かと近寄ってみました。
 覆い被さる木の枝や雨の滴でよく見えませんでしたが、「明治三十九年四月建立」「多可郡丹波道」などの文字が刻まれているのが見えました。おそらく道標なのでしょうが、割れているようでもあり、よく分かりませんでした。
 民俗資料館には加古川舟運の歴史をはじめ、民俗資料が展示されています。その建物の傍らで静かに横たわっている石柱。天気の良い日にもう一度調べてみます。
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ボーイスカウト社第1団発団50周年

2015年11月16日 04時08分52秒 | Weblog
 

 15日(日)、加東市社の社中央公園ステラパークで、ボーイスカウト社第1団発団50周年記念式典が行われました。
 昭和40年(1965)7月、加東郡社町に加東第2,3,4団が誕生し、合同の発弾式が行われました。それぞれ、社小学校、三草小学校、福田小学校区だったと思います。私は当時社小学校の5年生でした。友達と一緒に加東第2団に入隊しました。3つの誓いや12の掟、ハット、カーキ色の制服、ネッカチーフ、ストッキングなど当時は珍しいものばかりでした。ロープ結索、飯盒炊爨、テント野営、キャンプファイヤーなど初めての活動にわくわくしていました。
 今回50周年を迎えたのは加東第4団です。昭和60年に社第1団に改称しています。一口に50年といいますが、半世紀の間、団や隊を運営し、スカウト活動を継続していくのは容易ではありません。指導者、支援者の情熱と努力、支えがあってこその結果といえます。発団当時、社会教育では子供会とボーイスカウトぐらいしか子供の活動場面はなかったように思います。社会奉仕や野外活動を体験的に学ぶ場であり、親切、勇気などといった精神面でも育てられたと思います。
 加東市には滝野地域で活動を継続している第5団があります。ふるさと加東においてボーイスカウト活動がこれからも活発に行われ、子供達が元気に育っていってくれることを期待します。
 
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