ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和30年-新社町へ合併調印

2008年08月24日 06時53分27秒 | Weblog
 この写真には「五ヶ町村合併調印式 30.2.24」の書き込みがあります。いわゆる昭和の大合併で、加東郡社町、福田村、上福田村、米田村、鴨川村の一町四ヶ村の合併調印が行われている歴史的瞬間の写真です。「五ヶ町村長席」と書かれた札がはっきり見えます。
 合併の協議は29年から活発に行われていましたが、30年の1月末には各町村議会で合併が議決され、2月には合併条件などの審議が行われ、2月24日の調印式になったということです。
 
 
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昭和30年-社町の解町・合併祝賀

2008年08月23日 06時11分07秒 | Weblog
 旧加東郡の社町、滝野町、東条町が合併して加東市が誕生し、今年は3年目になります。平成18年3月にはそれぞれの町が解町の式を行い歴史に幕を閉じましたが、社町は昭和30年(1955)4月1日に旧社町、福田村、上福田村、米田村、鴨川村の1町4ヶ村が合併して誕生しました。いわゆる昭和の大合併ですが、半世紀を経て、平成の大合併によって新たに加東市の誕生となったわけです。

 この写真は「合併祝賀 30.3.29(解町式)」の書き込みがあります。昭和30年の合併・解町記念の写真です。撮影場所は郡公会堂(現加東市明治館)だと思われます。記念写真には約130人の人々が写っていますが、旧町村長やその経験者、県会議員、町村議会議員、吏員などの顔が見えます。
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昭和27年-旧役場前で消防ポンプ購入記念

2008年08月22日 06時13分38秒 | Weblog
 この写真には昭和27年5月3日(1952)の日付があります。今から56年前、占領が終わり、日本が独立を回復したばかりの頃ということになります。
 「第一分 ポンプ いすゞ 新購入記念 区長5名外委員」という書き込みがあります。新しい消防ポンプの購入記念の写真です。現在は同じ場所に社分団の詰所があり、ポンプ車2台が常に出動できるように待機しています。

 写真は、まだ昭和の合併前の旧社町(今の社小学校区域にあたる)の時代のもので、場所は社町役場(現、加東市社の消防会館、連合区駐車場)の玄関前です。玄関ポーチの「社町役場」という看板が懐かしく感じられます。
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昭和30年-風呂屋の煙突

2008年08月21日 06時24分01秒 | Weblog
 この写真は昭和30年(1955)頃のもので、社(現、加東市社)の田町の裏あたりで遊ぶ子どもらを撮ったものです。高度経済成長が始まる前の貧しいけれど素朴さが子どもの表情や服装から感じられます。
 さて、この背景に一本の高い煙突が見えます。これは風呂屋の煉瓦づくりの煙突です。当時、社には2軒の風呂屋があったと記憶しています。この煙突の下の路地で近所の子ども達が釘をさして陣地を取り合う遊びをしたり、地蜘蛛(クモ)を闘わせ遊んだ思い出があります。
 風呂屋の高い窓からは大人や子どもの甲高い声が響いて聞こえてきたことも懐かしく耳に残っています。その後、二度の大火事で廃業となりました。この煙突には避雷針が取り付けてあり、雷がバシッという音とともに落ちていたこともありました。
 ちなみに真ん中の小さい子どもが私です。
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昭和30年代はじめ-百旗への道

2008年08月20日 06時04分41秒 | Weblog
 この写真は昭和30年代はじめ頃の道池から百旗への道辺りの風景ではないかと思います。場所は加東市社の市街地の東、国道372号線道池交差点から少し坂をのぼったところに百旗があるのですが、田町からこの百旗に続く道の途中のように思います。
 写真に写っているのは私と弟ですが、まだ小学校にあがる前の頃でしょう。私にはこの頃の記憶はあやふやです。
 半世紀という時間の流れが風景を変えてしまいましたが、こうして印画紙に記録された当時の風景と私たち兄弟の姿はそのままに今も時間が止まっています。
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昭和30年代の神田学園-役場窓から

2008年08月19日 06時25分55秒 | Weblog
 半世紀という歳月は街の風景を変えてしまいます。しかし、写真の中に往時のなつかしい風景が残っていて、しばし当時を回想して時の経つのを忘れてしまうこともあります。
 ここに梅雨時でしょうか、雨の中を合羽姿で下校している子ども(私)を窓から写した写真があります。位置関係から当時あった社町役場の窓から北側を向いて写したものです。田圃の向こうに二階建のどっしりとした建物が見えますが、神田学園です。(加東市社)
 神田学園は、昭和のはじめに私立有隣家政女学校として設立され、「高等女学校や補習学校を卒業した子女に対して、良き家庭の婦人となるべき実際教育を施すことを目的とし、家事、裁縫、手芸、作法、音楽、茶道、花道などを実習する」学校でした。
 戦後、有隣農業女学校(昭和22年)、学校法人神田学園(〃25年)、有隣女学校(〃34年)と学校名が変わりましたが、昭和37年に閉鎖されました。この写真は30年代中ごろの写真だと思われますので、最後のころの姿ということになります。
 現在は建物は解体撤去され、フェンスで囲まれた更地になっています。手前の田圃も宅地開発され住宅が建て込んでいます。もちろん役場もなく駐車場と消防会館になっています。
 変わらないのは私が今も同じ視線で見ていることです。



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昭和30年頃の八志路幼稚園

2008年08月18日 06時26分40秒 | Weblog
 この写真に写っているのは、昭和30年(1955)頃の八志路幼稚園の園舎で、幼稚園の南、田圃をはさんだ道から望んだものです(加東市社)。
 現在は幼稚園はすでになく、跡地には4階建のマンションが建っていますが、この建物も老朽化し使用されていません。また、手前には田圃が写っていますが、ここも現在は宅地になっていてまったく変わってしまっています。
 半世紀前の社市街地は街路沿に住宅が連なっていましたが、裏には田圃が広がっていて、背の高い建物もなく視界が開けていました。
 八志路幼稚園は清水寺によって設立された私立幼稚園ですが、大正時代から昭和53年まで続きました。
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黒谷のヤマ-若宮八幡神社柱まつり

2008年08月17日 11時03分38秒 | Weblog
 8月16日夜、加東市黒谷(旧東条町)の若宮八幡神社の境内で開かれた盆踊りに参加しました。昼間の大雨で開催を心配していましたが、境内は老若男女でにぎわっていました。境内の地面は少しぬかるんでいるところもありましたが、Tシャツ姿の若者の姿も多く、上手下手の区別なく踊りの輪に連なっていました。聞いた話では毎年大阪からの若者がこの祭りに参加しているということで、都市と農村の自然な交流の形ができていることに驚きました。踊りの合間の余興ビンゴゲームでもTシャツの賞品を提供するぐらいとけ込んでいました。
 
 さて、この黒谷地区では8月16日に「柱まつり」が行われ、「ヤマ」とよばれる松の木を軸にしてつくられた大きな木の柱を燃やす行事が盆踊りのあとにあるということで、楽しみにしてきました。

 10時過ぎに神主さんと黒谷地区の役員さんらが神事を行い、松明に火がつけられました。その火を八幡神社を少し東に下ったところにある民家の庭の前のような場所につくられた「ヤマ」まで歩いて運び、根本の部分に点火されました。いったん雨に濡れているのでなかなか炎が上がらずしばらく煙が立ち上っていました。「ヤマ」を囲んだ人々からは「さあ、つけよ!」とかけ声もかかります。

 しばらくして、炎が立ち上り始めました。火の粉が舞い上がります。「ヤマ」は8月7日に当番の人々が伐り出して今日まで乾燥させておいたものを組んてつくったものです。松の木のてっぺんには御幣がつけられています。炎が大きくなり側にはおれないほど熱が伝わってきました。「ボン!」という大きな爆発音が数回響きました。竹が爆発したのです。なかなか御幣にまで火がつかず、地区のお年寄りの気をもませていました。

 この「柱まつり」について、地元の方からいろいろ教えていただきました。全国に黒谷という名の村が四ヶ所ほどあり、このような火まつりをしているということです。京都の大文字の送り火に関わりのある地域に黒谷というところがあるらしく、東条の黒谷も鴨川の清水寺に近く、西門(さいもん)という字名があるように清水寺に関係も深く、16日の火まつりという共通点がある、といった話でした。この「柱まつり」の歴史的な由緒などはよく分からないということでしたが、お盆の精霊送りの行事の一つだろうということです。また、「柱松」とよばれる行事が各地にあるらしく、お盆の精霊送り、豊作祈願、疫病退散など人々の願いが込められた伝統行事であることに間違いがないでしょう。

 「小さい頃からこのヤマの火を見て育ってきたんや」というお年寄りの言葉にあるように地域の伝統行事を大切に継承していこうという熱い思いが伝わってきました。
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昭和18年-加東地方事務所開設一周年記念講演会

2008年08月16日 17時31分32秒 | Weblog
 ここに昭和18年(1943)6月29日付の社町長から社区長宛に出された案内通知文があります(「昭和17年以降 社町役場ヨリノ書類綴 社区」)。
 加東地方事務所開設一周年を記念しての講演会の開催通知ですが、地方事務所は前年の昭和17年に開設されました。大正末年の郡制の廃止により加東郡役所が廃止されていましたが、戦時体制が整えられていくなかで、地方事務所が設けられました。


 昭和十八年六月二十九日

                        社町長  合田常蔵
 社区長 殿

  講演会開催ノ件

来ル七月一日ヲ以テ加東地方事務所開設一周年ニ際シ地方事務所ニ於テハ記念ノ意味ヲ以テ左ノ通リ時局講演会ヲ開催致サレ候間農繁期御多忙中ニ候ヘ共御聴講相成度此団及通知候也
 追而一般ニモ此ノ旨御伝達□成下度御依頼申上候

              記

日時 昭和十八年七月四日(日曜日)午前九時半
場所 社町 元郡公会堂
演題 『世界航空戦力の現状』約二時間
講師 川西航空機製作所取締役航空機部長 橋口義男氏
   海軍技術少佐


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高岡の道標-加東の最西端

2008年08月16日 06時25分33秒 | Weblog
 加東市高岡の旧道沿いに庚申堂があり、その角に一本の道標が立っています(写真)。高さ1メートル余りの立派な道標です。
 「東 すぐ清水社」「西 すぐ法華山 姫路」「南 大門 屋渡」「北 すぐふけ 北条」と刻んであります。かつて、西国霊場巡礼の旅をする人々、山陽と大坂を往来する商人が、この道標を目印に行き先を確かめながら旅を続けたことでしょう。 
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鶉野出役-昭和20年7月終戦直前

2008年08月15日 06時26分08秒 | Weblog
 このブログで、鶉野飛行場跡(加西市)について紹介しましたが、この飛行場建設、整備は、地元、近隣地域の人々の勤労奉仕作業によって行われています。
 ここに「参考綴 社区」という文書綴がありますが、その中に終戦直線の昭和20年7月の鶉野飛行場の奉仕作業に関する文書が綴られています。


 昭和二十年七月二十七日
                  社町長

社区長 殿

  出役割当ノ件通知

人手不足の今日各方面に勤労御協力を御願ひ申し上げ殊に今回は草採中とて定めし御困りのこととは萬々察し上候へ共御高承の通り愈々本土決戦を控へ設工事の竣成は全く寸時を争ふ緊急工事に有之候ニ付何卒戦局の推移を賢察の上、萬障御繰合せ速に御動、一段の御協力相煩し以懇願申し上候

 尚ほ蚊帳、勝札をも併せて割当候条宜敷御願申上候也


 そして、出役人員、期日、集合場所などが書かれています。鶉野出役は、部隊名は橘部隊、出役人員は壱一〇人(110人)、出役すべき日は7月31日から8月10日迄。午前7時従前通り法華口駅下車指定場所で集合、とあります。先日車で通った草むしたあの道を飛行場まで歩いたのでしょう。

 今日は63回目の終戦記念日です。昭和20年の夏、こうして本土決戦に備えて勤労作業に汗を流していたんですね。           
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昭和13年-防空ビラ

2008年08月14日 06時36分36秒 | Weblog
 この写真は昭和13年(1938)に社町役場・社町防護団が配布した防空ビラです。前年に支那事変が起こり、中国大陸での戦線が拡大して、12月には南京も陥落していました。昭和13年4月には国家総動員法が公布され、国内は戦時体制が強化されていた頃です。

 このビラは各家庭掲示用で、「敵機の来る虞のある時」「敵機の近つきたる時」「爆撃を受けたる時」に分けて、管制、警報、伝達法などを記してあります。燈火管制についても警報の区別によって細目が定められており、その一覧に従って確実に実行するよう書いてあります。

 戦争を知らない世代が圧倒的多数を占めるようになった現在、その体験を風化させないために、戦争体験を伝えようと各地で高齢者の体験談を聞く会が開催されているようです。終戦記念日が近づくと、お盆と重なって先の大戦のことに関心がでてきます。私自身も戦後生まれ、占領が終わった翌年の生まれですから、戦争、占領を直接には体験していません。こうしたビラを通して当時のようすを知ることにつとめています。
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鶉野飛行場跡-飛行場建設

2008年08月13日 07時54分18秒 | Weblog
 夏の日の夕暮れ、西の空は高く透明な空気の向こうに夕日に雲が光っています。鶉野飛行場跡は静かに一日を終わろうとしていました。法華口駅につながる草むした細い道をゆっくりと車で進んでいると、60余年前、飛行場建設の奉仕作業のために多くの人々がこの道を歩いたことに思いがおよびました。
 飛行場跡の記念碑の碑文に飛行場建設の経緯が刻まれていましたので紹介します。


 「飛行場建設に協力した地元の人々」

 播磨平野中部丘陵の加西郡九会村中野、鶉野、宮木と下里村野条一帯は、鶉鳴く農村地帯であった。
 昭和十六年十二月八日、西太平洋で始まった米、英国との戦いにおいて、航空機によるハワイ真珠湾攻撃が成功し、海軍は、航空機搭乗員の訓練を目的として全国各地に練習航空隊を設置することになり、この地も候補に上がった。
 一般民家、企業が立退きの対象となり、昭和十八年一月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元河西郡はもとより近隣町村より勤労奉仕団、国民学校、中学、女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の献身的労働により、僅か一年余りの作業で完成した。
 そして、全国より配属されて来た若き操縦練習生たちは、日夜飛行訓練に精を出した。訓練合間の休日には地元の人々は彼らを暖かくお世話した。
 昭和二十年に入ると、この鶉野にも米艦載機が飛来し、飛行場は言うに及ばず周辺の民家にも攻撃を加え、一般住民にもかなりの被害が出た。戦争は我が方に利あらず、八月十五日に戦争は終わった。そして、元の静かな鶉野に戻った。この平和をいつまでも続けるため、ここに飛行場設置に協力した多くの人々の労苦を後世に残し、碑を建立するものである。 
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鶉野飛行場跡-特攻隊の碑文

2008年08月12日 05時38分13秒 | Weblog
 鶉野飛行場(加西市)から特別攻撃隊が飛び立った、ということを知ったのは神戸新聞の記事からで、最近のことでした。嬉野(加東市)でも特攻隊の訓練が行われたということでしたし(社町史)、身近な地域にも特攻隊と深い関係があったことをあらためて知ったところです。

 ところで、鶉野飛行場跡の記念碑(写真)に特攻隊のことを刻んだ碑文がありましたので、紹介します。
 

 「神風特別攻撃隊白鷺隊記」

 神風特別攻撃隊白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、この地鶉野飛行場において日夜訓練を重ねた。
 隊長 佐藤 清大尉以下六十三名は、その保有する艦上攻撃機二十一機をもって、昭和二十年四月六日より五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃し、沖縄周辺の米軍艦艇にたいし飛行機もろとも体当たり攻撃をくわえ、壮烈な戦死を遂げた。
 戦いは遂に国土防衛戦に入り、厖大なる物量を誇る米軍の強襲に、わが沖縄守備隊の戦力では如何ともしがたく、菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、海空による総攻撃が開始されたのである。
 姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。隊員たちは出撃にさいし、遙か故郷の愛する家族らに別れを告げ、再び還ることなき特攻に若き命を捧げ、武人の務めを全うしたのである。
 今ここ鶉野の地に碑石を建立し、この史実を永世に伝え、謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、併せてそのご加護により、永遠の平和の実現を切に願うものである。
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防空壕?-鶉野飛行場跡

2008年08月10日 09時43分02秒 | Weblog
 昨日に続いて、鶉野飛行場跡を訪れたときのことを紹介します。
 夕暮れ時、ちょうど飛行場跡あたりを犬を連れて散歩されていた地元の方にいろいろ話を聞きました。
 飛行場周辺にはコンクリート造りの防空壕のような構築物がたくさんあるということで、近くの神戸大学農学部の農場沿いの廃屋のようなところに案内していただきました。近づいてみると、草木で覆われていますが、かまぼこ型の半地下のコンクリートで造られた構築物がありました。内部をのぞいてみると何もなくガランとしています(写真)。
 飛行機の格納庫にしては小さすぎるし、やはり防空壕だったのでしょうか。このようなコンクリート製の構築物があちこちに残っています。この一帯だけが半世紀余りの間、時間が止まっていたかのような感じでした。
 
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