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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

大賀ハス シラサギ

2015年06月30日 04時45分28秒 | Weblog
          

          

          

  梅雨空の下、加東市内を走っていると、稲が順調に育ち緑が濃くなっていく水田にシラサギの姿が見えました。シラサギもいろいろ種類があると聞いたことがありますが、緑の中で優雅な姿を見せるシラサギの動きに見とれていました。

 加東市立福田小学校の南にある平池公園は大賀ハスで知られています。この写真は27日(土)に撮ったものですが、2千年以上も前の縄文時代のハスの種を発芽させ、現代に復活した貴重な花です。平池公園の大賀ハスは鳥取県から移植されたものですが、近年はザリガニの繁殖で被害が出ています。
 ピンク色、少し色がうすくなった花など、2千年の時を超えて咲いた大賀ハスにしばし心を奪われてしまいました。
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中古瀬の軍人墓地と忠霊塔

2015年06月29日 05時49分35秒 | Weblog
 加東市中古瀬の墓地の一角に生垣で囲まれた軍人墓地があります。両側に墓石が並び、正面には忠霊塔と大きな墓石があります。墓石には戒名、官等が刻まれ、側面に戦歴が刻まれていました。
 忠霊塔と刻まれた五輪塔には昭和26年建立と刻まれています。昨日紹介した西古瀬と同年で、占領最後の年に建立されたことがわかります。
 戦没年は昭和19年、20年が多く、大戦末期に戦死者が集中したことがわかります。郷土から出征し、大陸や南海の島々や海で倒れられた英霊の御霊安かれと祈るばかりでした。
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西古瀬の英霊碑

2015年06月28日 05時49分16秒 | Weblog
 加東市西古瀬の集落の北に毘沙門堂があります。そのお堂の北の墓地の中央、コンクリートで整備された一角の台石の上に大きな石碑が建っていました。両側には、軍人墓が建っています。この石碑は大東亜戦争で戦死された西古瀬出身兵士の尊名を刻んだ殉国英霊碑です。
 碑には、10柱の英霊の戒名、位、氏名、戦没年月日、年齢が刻まれていました。昭和19年が4人、昭和20年が6人。大戦末期に戦死されたことがわかります。中には終戦の前日、昭和20年8月14日、24歳という日付、年齢の方もありました。年齢は20代から30代前半。陸軍8人、海軍2人。このような若者が郷土から出征し、戦死されたことを伝えています。
 碑の裏には「昭和二十六年三月遺家族一同建立」と刻まれていました。昭和26年といえばまだ占領中であり、サンフランシスコ講和条約が調印されたのは9月でした。
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昭和14年-佐保神社前で応召・入営の奉告祭

2015年06月27日 04時47分45秒 | Weblog
 昭和14年(1939)年、中国での戦闘が長期化していくなか、郷土から応召・入営する兵士を見送っていました。佐保神社(加東市社)で奉告祭を行い、バス、鉄道、自動車などで出発していく兵士を見送りました。
 当時の社区(現加東市社)の軍事関係文書綴に社町長から区長や関係者に宛てて、奉告祭への参列、見送の通知が綴じられています。
 朝のウォーキングで佐保神社に参拝しますが、70数年前には多くの兵士がこの場所から戦地へ、軍隊へと出発していったことに思いを馳せます。



 昭和拾四年弐月拾五日
               社 町 長

区 長  殿
町会議員 殿
官公衙長 殿 
各種団体長殿

      奉告祭執行ノ件

来ル二月二十日午前七時社佐保神社前ニ於テ左記応召・入営兵ノ奉告祭ヲ挙行可致候条及通牒候也

      記

一、入営兵

  藤本 廣(山国)  松原賢次(上中)  二十日午前八時祭 社駅行バスニテ出発

  檜原竜巳(山国)   二月二十六日午前八時三十分 社発播鉄バスニテ出発

一、応召兵

  松原 保(社)    二月二十日奉告祭終了後 姫路ヘ自動車ニテ出発
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昭和13年-応召兵歓送の通知

2015年06月26日 05時29分26秒 | Weblog
 77年前の昭和13年(1838)7月、支那事変が起きてからちょうど1年が経ったころ、郷土から召集されて出発する兵士を見送るべく、その通知が社町長から各区長ら関係者に出されています。
 早朝、社駅(現JR社町駅)からの出発には、家族はじめ多くの人が武運長久を祈って見送ったのでしょう。
 当時の社区(現加東市社)の軍事関係文書綴に綴じられている通知を紹介します。



 昭和十三年七月十日
           社 町 長

区   長  殿
町 会 議 員 殿
各学校、団体長殿

  応召兵出発ニ付歓送ニ関スル件

今次臨時召集下令ニ依リ応召セラルル柴垣廣次君(窪田)左記
ノ通リ出発セラレ候条君ノ壮途ヲ旺ナラシメ度ニ付多数御見送
リ相成様御配慮賜リ度此段通牒旁々御依頼申上候

   記

七月十二日午前六時四十五分 社駅発列車ニテ出発
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シリーズ2弾-終戦70年慰霊を考える-加東市内の忠魂碑・慰霊塔

2015年06月25日 08時11分28秒 | Weblog
 県政資料「ふるさと加東の歴史再発見シリーズ」の第2弾として、「終戦70年-慰霊を考える 加東市内の忠魂碑・慰霊塔」を発刊いたしました(5月)。

シリーズⅠは「東条川疏水ネットワーク博物館関係」で3月に発刊しましたが、今回は終戦70年に当たり、忠魂碑や慰霊施設に関する私の県議会本会議などでも質問と答弁、議員活動ブログ「百聞百見」、そして郷土史ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」の投稿記事からテーマに関係するものを選んで小冊子にまとめたものです。

 「百聞百見」では、兵庫県南あわじ市にある「若人の広場」での全国戦没学徒追悼祭、沖縄県ののじぎくの塔や島守の塔での慰霊祭などへの参列体験、「議会質問」では、「若人の広場」整備、忠魂碑・慰霊施設の維持管理などに関する質問と井戸知事らの答弁、そして「ふるさと加東の歴史再発見」では、加東市内にある忠魂碑や慰霊塔などの紹介記事、戦前の郷土から出征し、戦死された兵士の遺骨出迎えや公葬の記録文書を紹介しています。87ページの小冊子ですが、「終戦70年-慰霊を考える」の題の通り、この機に多くの皆さんに読んでいただき、参考にしていただければと思っています(非売品)。 お問い合わせは下記までお願いします。

 ふじもと百男事務所  TEL 0795-43-8270  FAX 0795-27-7221  Eメール mail@hyakuo.net
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昭和13年冬の朝-佐保神社で戦傷平癒祈願祭

2015年06月24日 05時08分42秒 | Weblog
 昭和13年(1938)1月、佐保神社(加東市社)で郷土出身兵の戦傷平癒祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長に出されています。
 前年の7月に支那事変が起きて約半年、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届き、こうして戦傷平癒祈願が行われていました。その通知文が当時の社区(現加東市社)の軍事関係文書綴に綴じられていますので紹介します。



昭和十三年一月二十二日
                 社町長  大橋實次

各区長 殿


  戦傷祈願祭挙行ノ件

本町修身服部勲君本月十一日名誉ノ重傷ノ公報ニ接シ候条 明二十三日午前八時ヨリ佐保神社前ニ於テ戦傷ノ平癒祈願祭ヲ挙行致シ度ニ付此段及通牒候也
 追而 各内団体及一般ニ御通知ノ上多数参列相願様御配慮相煩度願上候
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昭和13年-滝野町安取で遺骨出迎え

2015年06月23日 03時50分21秒 | Weblog
 昭和13年(1938)、支那事変の翌年5月、徐州陥落の頃、郷土出身兵の遺骨出迎えの通知が社町長から区長などに出されています。隣の福田村出身兵が播但鉄道(現JR加古川線)の滝野町安取(現加東市河高地区安取)を通過するので多くの出迎えを、というものです。社町出身兵であれば、社町駅から福田橋を渡り、県道沿いに各種団体、学校生徒らが整列して出迎えていました。
 

 社通号外

   昭和十三年五月三十日
◎兵至急
                 社 町 長
区  長 殿
町会議員 殿
学校団体長殿

    遺骨出迎ヘノ件

五月三十一日午后一時 福田村出身 故 玉井省一君ノ遺骨
滝野町安取(播丹鉄道踏切西)通過スルニツキ御出迎へ
相成度部内一般ヘモ伝言ノ上多数出迎ヘラレル様御示達
相願度通牒候也
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昭和12年-佐保座で軍人家族慰安「観劇の夕」

2015年06月22日 04時23分43秒 | Weblog
 昭和12年(1937)の暮れ、この年の7月に起きた支那事変で出征応召した郷土兵の家族を慰安する会が軍事後援会の主催で行われています。その案内状が当時の社町(現加東市社)の軍事関係綴に綴じられています。
 会場は佐保座と記されています。佐保座は明治から昭和にかけて、加東郡(現加東市小野市域)の娯楽の殿堂として演劇や活動写真(映画)で賑わいました。加東市社の銀座通りにあり、現在は跡地に県信が建っています。



拝啓
 時下厳寒ノ砌御尊堂愈々御清適奉賀上候
 偖而左記ノ通リ町出身出征応召軍人家族慰安ノ
 「観劇ノ夕」ヲ開催可仕候間御来観被下度
 此段御案内申上候         敬具

  昭和十二年十二月二十三日
    社町軍事後援会長  大 橋 實 次

 神田栄太郎 殿

       記

一、日時  十二月二十三日午后五時三十分

一、 社 佐 保 座
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神社の見える風景-瑞神門と石燈籠

2015年06月21日 05時46分04秒 | Weblog
           

 朝のウォーキングで静かな社(加東市社)の市街地を歩いていると、脇道の向こうに佐保神社の瑞神門と大石燈籠が見えました。商店街から佐保神社の門前に通じる細い道は古い商家の塀のある道です。緩やかに下っており、視界の向こうに門と燈籠が見えます。
 さらに歩いて今度は参道を歩き、佐保神社の瑞神門の正面に立つと、右手に高く聳える石燈籠と商家の塀、坂道が見えます。商店街から見えた風景を反対側から見たわけです。
 静かな朝の街の中に神社が見える風景があると、心も落ち着きます。いつも見ている風景かもしれませんが、なぜか、朝は新鮮なのです。
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昭和13年-6柱の遺骨凱旋出迎え

2015年06月20日 05時22分22秒 | Weblog
 昭和13年(1938)の7月、社町長から関係者に遺骨出迎えに関する通知が出されています。この通知は、社区事務所(現加東市社)の軍事関係往復文書綴に綴じられています。ちょうど支那事変から一年、郷土から出動し、戦死された兵士の遺骨凱旋を迎えるものです。一度に6人の遺骨凱旋という通知です。


昭和十三年七月二十四日

                社 町 長

各官衙長殿
各区長殿
各町会議員殿
各学校長殿
各団体・会社代表殿

   遺骨出迎ニ関スル件

本町出身故陸軍歩兵曹長 依藤清君 同軍曹 加古正次君 同 大橋初治君 同伍長 田村義信君 同上等兵 藤本清之助君 同砲兵伍長 田渕守君 六柱ノ遺骨左記ノ通リ凱旋被遊候条此段及通知候也

    記

一、七月二十七日 午後三時  福田橋西詰着

   御願

一、各区民団体員ハ左記要図位置ニ全部出迎ヘラレ度

一、各戸毎ニ弔旗掲揚セラレ度


 通知には、出迎えの図が書かれています。加古川に架かる福田橋の西詰で遺骨が自動車から降り、出迎えの人々が整列している道(旧国道372号)を社の三階十字路まで行進していくようになっています。この出迎え要図と遺骨行進順序が添付されています。
 遺骨の行進順序は次の通りです。

町長-分会長-分会旗-写真、位牌、遺骨(依藤曹長-加古軍曹-大橋軍曹-田村伍長-田渕伍長-藤本上等兵)-遺族-葬儀委員-官公衙-団体・学校-一般
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昭和13年-戦死者通報

2015年06月18日 05時25分03秒 | Weblog
 昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、支那事変(北支事変)が起こりました。出動令が発令され、郷土からも多くの兵が応召され出発していきましたが、それから1年余り経った翌13年9月、郷土に届いた戦死者通報に関する町の通知が当時の社区(現加東市社)の軍事関係往復文書に綴じられています。この後、他の戦死者と一緒の合同町葬が執り行われました。
 

 昭和十三年九月二十日
                社 町 長

各区長 殿
各学校団体長殿
各町会議員殿

   戦死者通報ノ件

本町内ニ左記戦死者生ジタルニ付及通報候也

   記

社町上中四一二番地

 歩兵軍曹  依 藤 武 雄 君

九月十日戦死 場所 □□
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昭和13年-佐保神社で戦傷平癒祈願祭

2015年06月17日 05時20分29秒 | Weblog
 昭和13年(1938)6月、佐保神社で郷土出身兵の戦傷平癒祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長はじめ関係者に出されています。
 支那事変が起きて約1年が、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届いていました。この歴史ブログでも8月に行われた戦傷平癒祈願祭の通知を紹介しましたが(6月13日投稿分)、今日は6月に行われた祈願祭の通知を紹介します。



昭和十三年六月八日
                 社 町 長

各区長 殿
町会議員殿
学校、団体長殿
各区内団体長殿

  戦傷祈願祭執行ノ件

本町内ニ左記戦傷者出デタルニ月本日(八日)午後八時ヨリ佐保神社前ニ於テ平癒祈願祭ヲ執行可致ニ付御繁忙中ニハ存候ヘ共部内一般ヘ御伝ヘノ上多数御集リ下サル様御配慮相相煩度此段通牒旁々及御依頼候也

  記


 山国  藤本清之助 (重傷)
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東条川疏水に関するブログを一冊に-ふるさと加東の歴史発見シリーズⅠ

2015年06月16日 07時42分55秒 | Weblog
 今年の3月末に東条川疏水に関するこの歴史ブログに投稿してきた記事と議員活動ブログ、そして、県議会での質問などをまとめた小冊子を発刊しました。題して、「県政資料-ふるさと加東の歴史再発見シリーズⅠ 東条川疏水ネットワーク博物館関係」。57ページの小冊子で、白黒ですが写真も豊富に入れています。
 東条川疏水は全国疏水百選に選定されてから今年で10周年を迎えます。東条ダム(鴨川ダム)や昭和池といった人造湖・池と用水路網、そしてため池、田圃を結ぶ壮大な水のネットワークと豊かな自然、田園景観、さらに地域の古い歴史・伝統・文化をまとめて疏水文化と呼び、県民、地域の貴重な産業遺産、文化遺産として再認識し、私たちの手で大切に維持し、次の世代に伝えていこうという取り組みが東条川疏水ネットワーク博物館構想です。
 兵庫県北播磨県民局、加古川流域土地改良事務所が中心となって地域団体やボランティアの皆さんと協働で取り組んでいます。この小冊子がその参考になれば幸いと思っています。残部がありますので関心のある方は下記までご連絡を。

 TEL 0795-43-8270  FAX 0795-27-7221 ふじもと百男事務所まで
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昭和12年-銃後の護り軍人扶助委員

2015年06月15日 05時03分21秒 | Weblog
 昭和12年(1937)7月に支那事変が起き、多くの郷土兵が召集されました。その家族を支援することを目的として軍事扶助委員が委嘱され、慰問会などの活動を行いました。昭和12年の秋、その委員会の開催通知が社町長から各委員に出されています。秋の農繁期の手伝いなどが話し合われたのでしょうか。



 昭和十二年十月十八日
            社 町 長  大 橋 實 次
軍事扶助委員殿

  委員会開催ノ件

公私御多用ノ中ヲ銃後ノ御活動ニ御励ミ被下候段洵ニ難有厚ク御礼申上候
軍事扶助ニ関シ親シク御相談申上度候条乍恐縮御参集賜ハリ度此段願上候

一、日時 昭和十二年十月二十日午後正参時

一、場所 社町役場会議室
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