ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から⑥-縣政の話

2018年12月31日 06時34分08秒 | Weblog
 今日で、この項も最終です。

 「四年生の読本で、県税は県の費用になることを習いましたが、詳しく言うと、どんな事業に使っていますか。」
 「それはなかなか多方面であるから、一口には言えないが、県立の学校や病院、警察署、道路、橋、公園などの費用をはじめ、感化院、養老院、職業紹介所、公設食堂などのような社会事業費に至るまで、本県では一ケ年に二千万円を超えている。そしてこれらの費用の大部分が、我々県民の租税であるのはいうまでもないことだ。」
 「県会議員のほかに、まだいろいろな議員がありましたね。」
 「そうだ。市町村には市町村会議員があり、国家には衆議院議員というものがあって、県会議員と同じように何れも国民が公選するものだ。市町村府県、国家と大小の相違はあるけれども、国民の世論によって政治をして行こうという精神に於いては全く同一のものである。」

 以上が、昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』の第33項「縣政の話」でした。父と娘が県会議員選挙の実施のために学校が投票場となることをきっかけに「県政」について会話をする形式で書かれていました。欄外には、研究資料として、県会議員の任期、有権者資格、県庁の事務分掌、県の歳入の種目、県会、県参事会、知事の各項目について説明がなされています。最後に「問」として、「帝国議会を組織する二院の名をいえ」、「帝国議会の主なる任務をいえ」と挙げられています。
 巻末の郷土年表のには、明治4年「藩を廃し兵庫県を置かる」と書かれています。今年は兵庫県政150年で記念事業が行われましたが、初代県知事の伊藤博文が任命されたときを兵庫県の設置と定めてのことでした。明治維新の諸改革が進み、明治4年に廃藩置県、明治9年に現在の兵庫県の形になりました。それぞれ、現在の兵庫県の歴史の節目です。折々に歴史を振り返る契機になればと思います。
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昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から⑤-縣政の話

2018年12月30日 06時00分23秒 | Weblog
 昨日の続きです。昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から「縣政の話」を紹介します。

 「お父さんは、明日どなたに投票なさるおつもりですか。」
 「それは人に言うべきことではない。しかし、議員選挙には人格見識のすぐれた真に県民の幸福のために尽くしてくれるような人に投票せねばならぬことは、お前達にもわかるだろう。折角の貴い一票を棄権したり、親類縁故などの関係に心を動かされたりしてはならない。若し又金銭や物品の誘惑を受けるようなことがあれば、選挙違反の罪にとわれることになっているのだ。」
 「県知事と県会はどんな関係があるのですか。」
 「知事は政府から任命された役人で、県の政治を実行するものだが、県会は地方自治の精神にもとづいて、その政治の相談にあづかるという大切な役目をするのだ。」
 「県会の有様を議員以外の人は見ることは出来ないのですか。」
 「傍聴席という席があって、我々にも議事を聴くことが許されている。議事の進行は議長が司どるのだが、なかなか激しい議論の起ることもあるものだ。」     
                               つづく・・・

 公正な選挙についての父娘の会話が続いています。知事と県会の関係は、戦後は知事も公選となり、同じく選挙で選ばれる議員で構成される議会と二元代表制をとっています。また、傍聴制度についても紹介されています。12月議会でも私は代表質問に立ちましたが、傍聴席には地元加東市からの多くの方が来られました。子育て中の若い人が傍聴できるように「親子ルーム」も設けられています。社会、時代の変化にしたがって制度は変わってきましたが、日本には民主主義の長い経験が積み重ねられていることを感じます。
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昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から④-縣政の話

2018年12月28日 18時03分16秒 | Weblog
 『兵庫縣郷土読本』の33項は「縣政の話」になっています。戦前の縣政をどのように記述しているのかなと読んでみました。欄外の注には、当時の県庁、現在の県公館の正面写真が掲載されています。本文は次の通りです。


 「お父さん、明日は学校が県会議員選挙の投票場に使われるので、私達は野外遠足に行くことになりました。」
 「そうか、それも公の為だからやむを得ない。が、一体おまえは県会議員に当選した人々がどんな仕事をなさるのか知っているかね。」
 「県のことに就いて、いろいろの相談をして下さるのでしょう。」
 「それはそうだが、もう少し精しく言えば、我々二百六十万の県民を代表して県会に集まり、県の規則をつくったり、歳出歳入の予算を決め又は決算を承認したり、県税をかけることに就いて相談をされたりするのだ。」
 「その議員には誰でもなれるのですか。」
 「現在では、二十五歳以上の男子で二年以来同じ市町村に住んでいるものは誰でも被選挙権があるのだが、候補に立つという届け出をしなければ選挙して貰うことはできないのだ。」
 「投票に行く資格のあるのはどんな人ですか。」
 「選挙権も被選挙権と全く同じだ。もとは財産や収入に就いての制限があって、有権者の数が大層少なかったが、今日では普通選挙法が布かれて、有権者の数もぐっと多くなった。つまり我が国の政治がそれだけ進歩したわけである。それに二十五歳以上という制限も将来まだ低下することだろうし、やがてはお前たち婦人にも参政権の与えられる時代が来るかも知れない。」
                              以下つづく・・・・

 父と娘の会話形式で選挙制度の話が展開されています。昭和6年当時、兼人口は260万人だったんですね。ちなみに現在は約550万人ですが、すでに人口減少期に入っています。選挙権、被選挙権とも満25歳以上の男子で、財産制限は取り払われていましたが、年齢制限もいずれ下げられるだろうし、女性参政権も認められる時代がくるだろうと予想しています。民主主義の進歩の趨勢がそうであったということが読み取れます。
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昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から③-孝女ふさ

2018年12月28日 05時19分04秒 | Weblog
 「孝女ふさ」の続き、後半部を紹介します。

 廿五(25)歳の折、大病にかかった父はおふさを臨終の枕もとに呼んで涙をながして言いました。
 「家が貧しい為にお前を仕方なしに奉公に出したが、お前は少しも私を怨む様子もないばかりか、奉公の身で心のままにならぬ中をよく自分等二人の為に尽くしてくれた。今更お礼の言葉もない。だが、物には報いのあるもの、行末は必ず仕合わせになるだろう」
 おふさはその後ひとりになった養母をいたわり、何くれとなく親切に世話をしましたが、この事がお上のお耳に達し、役所に呼ばれて褒美をいただきました。
 おふさはそのお金で家を改築し、田地を買い求めてこれを子孫に伝えました。その田は今も孝行田として残っています。おふさは嘉永二年九十歳の高齢でなくなりました。

 以上が「おふさ」の一節でした。欄外には、孝女ふさの孝行田の写真と孝行田碑(蘇峰徳富猪一郎題額)の碑文が掲載されています。さらに「問」として、おふさの外(ほか)に修身で学んだ孝子は誰か」と書かれています。本文を読み、欄外の写真や資料をもとに話題を広げ、さらに問いかけまで付けられていました。自分の身近な地域の例や歴史上の孝子について調べたかもしれません。
 写真を見ると、今の景色とずいぶん違って、田圃が広がって、その向こうに神社でもあるのか松の大木のある森が写っています。ひょっとしたら、住吉神社の鎮守の森でしょうか。
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昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から②-孝女ふさ

2018年12月27日 05時28分33秒 | Weblog
 昨日に続き、『兵庫縣郷土副読本』(昭和6年刊)に掲載されている「孝女ふさ」の項の本文を2回に分けて、紹介します。今日はその前半です。

 おふさは加東郡社村の十兵衛の子でした。六歳の時から三草村の茂兵衛の家に育てられましたが、茂兵衛が至って貧しい水吞百姓だったので、おふさは七つ八つの遊び盛りにも近所隣りの子守や使い歩きに頼まれて、貰った金品で家の生計を助けました。
 十歳の頃には幼心にも年老いた父が草履や草鞋を作るのを見て気の毒に思い、傍に藁を打ってはその手助けをした。又父が山に薪を取りに行って帰りの遅い時など、大そう心配して迎えに出たことも度々ありました。十一歳の時、他家へ奉公に出ましたが、主人の与えるものは何によらず、総て父母に贈ってこれを慰め、又暇があれば主人の許しを得て養家をたづね、父母の元気な顔を見るのを唯一の楽しみにしていました。

 このブログで10回にわたって紹介した『兵庫県地理郷土書』(昭和7年刊)に掲載されている「孝女ふさ」の話に比べると短いものですが、ふさの孝行が端的に書かれています。 
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昭和6年刊の中学用『兵庫縣郷土讀本』から①-孝女ふさ褒状

2018年12月26日 05時09分38秒 | Weblog
 

 兵庫県150周年にあたり、教育委員会では「ふるさと副読本」を作成中ですが、県議会の議会図書室には、昭和6年(1931)年発行の『兵庫縣郷土讀本』が所蔵されていました。小野中学(旧制)1年生の生徒氏名が書いてあり、実際に使用されていたものと思われます。
 その(19)項に「孝女おふさ」が取り上げられていました。注欄の「研究資料」として、ふさが領主の丹羽氏福から受けた褒状が掲載されていましたので紹介します。このブログで紹介してきた『兵庫県地理郷土書』の「孝女ふさ」では、この褒状を一目見せてほしいと多くの人が訪れたと書いてあった、その褒状です。


 丹羽侯から受けた褒状左の通り

 一金拾両
 右者累年對養父母致孝養候趣達御聴為御褒美被下置候者也

   戌十一月    御役所
 孝女ふさへ
 
 
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大詔奉戴記念の国旗掲揚柱ー喜田男女青年団建立

2018年12月25日 05時28分13秒 | Weblog
 

 加東市喜田地区の旧道を車で走っているとき、古い鉄製の警鐘台(火の見櫓)の前を通り過ぎました。古い消防器具庫と思われる建物もありました。ふと、ブレーキをかけてバックでその前まで戻りました。その警鐘台のすぐ側に立っている国旗掲揚柱の台石が気になったのです。
 その石柱には、正面に大きく「大詔奉戴記念」と刻まれていました。側面には、「喜田男女青年団」、反対側の側面に「昭和十六年十二月建立」と建立者と建立年が刻まれていました。
 大詔とは、大東亜戦争開戦の詔のことであり、正しくは「米国及び英国に対する宣戦の詔」(昭和16年12月8日)です。米英に対して、自存自衛のために戦いを始めるとの宣言でした。その詔に応えて喜田青年団が建立したのがこの国旗掲揚柱であったのでしょう。今から77年前の日本国民、青年の決意、覚悟が伝わってくるようです。今はひっそりと立っています。この掲揚柱に国旗が揚げられることはあるのでしょうか。
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「孝女ふさ」⑩-戦前の兵庫県地理郷土書から

2018年12月24日 05時54分48秒 | Weblog


 「孝女ふさ」の話も最終回です。今日は「孝行田」と「年譜など」を紹介します。

(10)孝行田の由来
 ふさ女は拝領の金拾両を以て、上三草村の両端、下三草村の境に広さ約一反半の田を買い入れた。里人今に字して孝行田と称している。

(11)年譜その他
 茂兵衛--茂兵衛(養子)・ふさ女(養子)--久右衛門--久右衛門(幼名清八)--善吉--伊三郎(現戸主)
   
二四二〇年 宝暦十年 ふさ女生る
二四二五年 明和二年 ふさ女六歳、養女となる
二四二八年 明和四年 ふさ女八歳、上三草村定右衛門の子守となる
二四四五年 天明五年 ふさ女二四歳、養父殁
二四五〇年 寛政二年 ふさ女三十一歳、表彰さる
二五一〇年 嘉永二年七月十七日 ふさ女九十歳歿す

 明治四十四年国定教科書にふさ女の事績が載せられしを動機として、大正十一年四月時の郡長、町村長、郡会議員、郡教育会長、小学校長等が発起して、浄罪を醵金し孝女ふさ女彰孝碑を建設し、嘗てふさ女の所有であった孝行田一段六畝五歩を買収し、之を永遠維持の資にあてた。
 今いて見るに千鳥川の近く孝行田の前に彰孝碑を建て、萬歳に徳を顕し紀念して居る。

 以上が「孝女ふさ」について記述されているすべてです。その年譜によれば、2420年、皇紀ですから西暦換算すると、ふさは西暦1760年に生まれ、幕末の1850年に亡くなっています。90歳という長命だったことにも驚きました。養家の系譜も初めて知りました。
 彰孝碑は老朽化し、地元上三草の老人会の皆さんが草引きや清掃をして下さっていますが、碑や周囲の石の玉垣は一部が破損しています。木の根が押し上げているのが原因のようです。何とか修理しなければという思いを皆さんが持っておられますが、現在、この碑の所有、管理者がはっきりしていないということでした。建設当時の発起人、組織も今は無くなっているといいます。
 「孝女ふさ」の碑が伝える「孝行」と、「孝行」を人の徳として大切に思う心を承け継ぎ、次代に伝えることが今の時代を生きる私達の使命だと思います。
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「孝女ふさ」⑨-戦前の兵庫県地理郷土書から

2018年12月23日 05時23分40秒 | Weblog
 引き続き、「孝女ふさ」について紹介をします。ふさの孝行は江戸の領主のもとに届きました。その表彰の場面やその後のことが詳しく書かれています。

(9)孝子旌表(せいひょう)せらる
 養父の病大に漸(すす)むや、ふさ女に向かって曰く、「家貧しくして、幼より人の下仕えとなしぬるを、恨む色なきのにならず。主もてる心にまかせぬなかにて末頼みなき我々を懇(ねんごろ)にいたわりぬる志の程、今更禮いうべき言葉もなし、なれども物皆むくいあれば行末必幸い多からん」と。感謝の辞、読むだに暗涙を催す。父の意天に通ぜしか、神此の子の孝に感ぜしか、養父逝いて後七年、寛政二年、報果たして到る。三草の郡奉行雄城紋右衛門、林直右衛門は、かの御定書に拠って、ふさ女の徳行を記し江戸表に上申し、其の表彰を請うた。領主丹羽氏福は直ちにに之を孝子と認め、賞辞に加うるに黄金拾両を以てした。
 表彰は行われた。ふさ女は召し出された。庄屋に伴われ、式場に入れば郡奉行厳かに褒賞の旨を説いて辞令を交付。孝女は褒状を幾度か押し戴く。
 ふさ女の役所から帰った時、母の悦やいかばかり、ふさ女の感亦如何。悦びの極まるところ母子相擁して、うれし涙にかきくれて相喜べるさま、目のあたり見るが如き心地がする。
 後数日遠近相伝え、隣閭相慶し礼を厚うし、辞を卑しうして「おかきつけを拝みたし」と称し子女を伴い来って、かの辞令の一見を請うもの、日に幾人であるかその数を知らぬ有様。顧みて子を諭す父もあれば、伏して娘を誨える母もある。

 この項には、ふさの養父が病で逝く前の感謝の言葉、そして、ふさの孝行が江戸表の殿様の耳に届き、表彰となった。その表彰のようすや役所から帰ったふさと母親の喜び合う姿、ふさのことを聞きつけ、多くの人が訪れてその孝行を子に教えようとしたこと、などが書かれています。表彰の場面や後日多くの人がふさの徳行を称えて訪れたことなどがありありと目に浮かぶようです。ふさの孝行の場面はいろいろ書かれていますが、表彰やその後のようすを書いてあるものは余り読んだことがありません。この師範学校の教科書、いわば指導書には実際の指導で使えるように詳しい話が書かれていました。ふさ女がぐっと近くなったように思います。
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「孝女ふさ」⑧-戦前の兵庫県地理郷土書から

2018年12月22日 06時21分44秒 | Weblog
 今日も「孝女ふさ」の話です。

(8)孝徳江戸に聞ゆ
 当時領主氏福公は定府として常に江戸にあり、遙かに御定書なるものを寄せて、郡奉行に示し、部下並に部民を戒しめた。その中に「百姓共へ御褒美之次第、第一孝子於有之者、先其居村を相糺、近村近郷の取沙汰迄茂致符合候者其趣意江戸表へ申越差図を以取計可申事 天明七丁未年四月」とある。
 ふさ女の表彰は実に此の御定書に據ったものである。調査、推挙に時日を要し、其の孝子として承認され、所謂御褒美を授けられたのは、御定書発布後四年即ち寛政二年で、松平定信が鋭意改革を企てた当時にて、ふさ女三十有一。

 ふさの孝行が領主である丹羽氏福の耳に届き、御褒美が与えられる経緯が書かれています。孝行の者を探し江戸へ届けよ、との命令を受け、4年の歳月をかけて調査が行われ、ふさのことが推挙されたということです。時にふさは31歳になっていました。ふさをはじめ、江戸時代には孝行を尽くした者が表彰されています。今でもさまざまな分野で顕著な業績を挙げた人を賞することが行われています。当時は孝行が最も大切な徳目の一つであり、その実践を尊いものとして顕彰していたのですね。

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「孝女ふさ」⑦-戦前の兵庫県地理郷土書から

2018年12月21日 05時18分12秒 | Weblog
 今日も引き続き、昭和7年刊の『兵庫県地理郷土書』に掲載されている「孝女ふさ」について紹介します。写真は修身教科書の「カウカウ(孝行)」に掲載されているわらを打つふさ女の挿絵です。

(7)孝子日毎の定着
 ふさ女の仕えた定右衛門の家は、ふさ女の養家と僅か三丁を隔つのみである。ふさ女は主家の許しを得て、常に養父母の定省を怠らず、主家の用務を終わる時は必ず馳せ帰りて養父母の安否を省みた。主家もその徳に感じ、これが自由を彼に与えた。風吹く夕、雨そぼ降る夜、一日といえども之を怠らなかった。父母も亦彼の来るを期待して、夜更けて行くも常に表戸をあけていた。時に主家の都合もあって夜の更けることもある。時に大風雨の折もある。かかる時はふさ女は父母の眠を覚すべきを恐れて尋ね来るも家に入らず、居宅の周囲を一周して帰ったというに至っては誰が嘆声を発せざらんやである。

 ふさ女は奉公に出ている間も主人の許しを得て養父母のところへ帰って安否をたしかめたという話です。一日もこれを怠らず、夜遅くなったときにはそっと家の周りを回ってまた帰っていったというその孝行心にただただ感心するのみです。ふさ女はきっと養父母の元にいて孝行を尽くしたかったのでしょうが、貧しさゆえ奉公に出て、そうした境遇にありながら、養父母のことを思い、一日の仕事を終えたあとに家に戻って様子をみていたのです。人は自分の都合を優先して考えたり行動したりするものですが、ふさにとっては、養父母への孝行、奉公先への忠勤を優先し、自分のことは後回しどころか、無いようなものです。ここまで徹底した孝行心が周囲の人の感嘆するところとなったのでしょう。
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「孝女ふさ」⑥-戦前の兵庫県郷土地理書から

2018年12月20日 05時08分37秒 | Weblog
 「孝女ふさ」の紹介を続けます。

(6)孝子父に煙草をすすむ
 煙草の植栽が自由であったころ、上三草村地方の農民は各自之を栽培して自家用煙草を刻んでいた。而して採業後残余の茎は皆用なしとて川野に放棄せられ或は風呂焚きの燃料として薪に代用した。孝心深きふさ女は主家の幼児を背にして打ち捨てられた煙草の茎に残留した末葉を摘みとり帰り細き縄に挟み陰干しして之を刻んで父の喫烟の料に供した。その小さき葉の正しく美しく整えられて低く軒端に吊されあるのを見て、そのゆえ由を聞き、見るもの涙をこぼさぬものはなかったということである。孝女が養父母に奉った不断の志、三牲の養に勝って高く貴く感ぜらるる。

 子供の頃、三草やこの地域では、たばこの栽培が盛んに行われて、大きな葉がついていたことを憶えています。その葉が私の家の近くの専売公社、たばこ耕作組合の倉庫のようなところに集められていたのを見たような記憶があります。葉が育った頃に雹が降ってきて葉に穴があいてしまい、大人が嘆いていたこともなぜか印象に残っています。今では専売公社や倉庫もなくなり、跡地は住宅地に変わっています。このふさの行ったことをかろうじて記憶と合わせながら思い描くことができました。私の祖父も煙管(きせる)でたばこをのんでいました。今の社会で、「父に煙草をすすむ」ことは孝行とはいえないという感覚でしょう。しかし、昔はそうではありません。ふさは貧しい養家の父に一服のたばこの楽しみを、という思いで、奉公先の子守をしながら、捨てられたたばこの茎に残る小さな葉を取って、軒下に吊して陰干しにしていたのです。その親に尽くす心に人々は涙したという話です。
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「孝女ふさ」⑤-戦前の兵庫県郷土地理書から

2018年12月19日 04時59分14秒 | Weblog
 今日も引き続き、「孝女ふさ」の話を紹介します。

(5)孝子主家に飯粒を集む
 ふさ女の主家は上三草村の定右衛門(定右衛門五代の孫太郎兵衛は今尚ほ生存)の家である。ふさ女は,主家の厨房を整頓し、心なき家人朋輩等の飯粒を流し先に散佚(さんいつ)せしむるを見て、常に笊(ざる)を以て悉く之を拾い集め、日に乾して、糒(ほしいい)を作ったという。当時、米価昂騰、天下飢饉を訴う.一般雇人等の主家から受くる給米の如きも非常に減ぜられ、困難を感じたのであろう。ふさ女の飯粒を集めしその心懸に感激の至りである。

 ふさが奉公先の家の厨房で、流しで洗い水と一緒に流されてしまう飯粒一つを無駄にせず拾い集めて洗い、天日干しにして乾し飯にして食べられるようにしたという話です。「その心懸けに感激の至り」と書かれています。米粒、飯粒を大事にするということは私達の小さい頃の日本の家庭では当たり前のことでした。茶碗のご飯は一粒も残さず食べる、こぼしたご飯も拾って食べていました。その癖が教員時代の給食の時間にも出てしまい、生徒に「きたないやんか」と指摘されたことも度々のことでした。たしかに衛生的ではありませんが、ついた埃や汚れを取れば食べられるという感覚でした。ボーイスカウトの野営で培った感覚でもあったように思います。その習性は65歳になった今も変わりません。むしろ、日々、大量の食べ残しを捨てている今の日本の姿に嘆息しています。「もったいない」の気持ちを一粒の米、飯粒から見直したいものです。
 写真は上三草の武家屋敷群の風景です。
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「孝女ふさ」④-戦前の兵庫県郷土地理書から

2018年12月18日 05時22分35秒 | Weblog
 『兵庫縣郷土地理』(昭和7年、兵庫縣姫路師範學校発行、兵庫県議会図書室所蔵)に掲載されている「孝女ふさ」の部分を今日も引き続き紹介します。

(4)孝女樵する父を迎ふ
 父は上三草村の東方三草山附近の入会野山に樵(きこり)していた。この山はふさ女の家を距(へだた)る里余、即ち京街道に従って東に行くこと三十丁、右に折れて細径をたどること十数町のところにある。上三草村は山も多く薪も裕なれば、村人は山路深く樵するものは少ない。しかし、ふさ女の父が此の山奥に行くのは、自己所有の山林がない為である。故に屡々(しばしば)山に入るふさ女の父は伴侶もなくて唯独り山奥深く分け入りし場合も多かった。孝心深きふさ女は子守の傍、此の父を遠く迎えたのである。その父の帰りの遅いのを憂えて、村外れに迎え居るふさ女の影を見て、父はいかばかり慰められ又励まされたことであろうか。

 ふさは、養家の父親が三草山の山奥に入って薪をもって帰ってくるのを村外れまで出て迎えていたといいます。そのふさの姿を見る父親はきっと嬉しく、慰められ、励まされたことでしょう。写真は現在の上三草の集落附近とその向こうに見える三草山の景色です。
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「孝女ふさ」③-戦前の兵庫県郷土地理書から

2018年12月17日 05時36分45秒 | Weblog
 『兵庫縣郷土地理』(昭和7年、兵庫縣姫路師範學校発行、兵庫県議会図書室所蔵)に掲載されている「孝女ふさ」の部分を今日も引き続き紹介します。

(3)孝子父のために藁(わら)を打つ
 ふさ女十三、四歳の頃は、村民の生業は農の外、少々駄賃挽をしていた。しかしふさ女の養父茂兵衛は年既に老いて駄賃挽する力なく唯僅かに京街道である門先を往来する行旅の為めに、日に草鞋(わらじ)を作って之を売っていた。さればふさ女は、子守の暇に藁を打ち以て父を扶けた。そのかよわき手に勇ましくも重き槌(つち)を振り上げつつ藁打つ様を見て隣人常に感嘆したという。

 ふさ女は養家で父を助けて藁を打ち、草鞋を作って、それを旅人に売って家計を助けたという話です。茶店にもふさ女の作った草鞋を置かせてもらったという話もあります。今の子供達には藁を打つといってもそれがどのような作業なのか分からないと思います。挿絵などを見て知るしかありませんが、牛が田圃で活躍していた時代を体験している私達より上の世代の人には藁打ちも草鞋、草履作りもおわかりでしょう。今では地区のお年寄りによる小学生の体験教室で草履作りや注連縄作りの機会がありますが。そういえば、小学生の中学年の頃に、運動会では草鞋で走ると軽くて速く走ることができるというので履いたことがあります。店に売っていました。

 

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