ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

国宝朝光寺本堂の屋根

2012年01月31日 05時06分31秒 | Weblog
 昨日は加東市畑の国宝朝光寺本堂の屋根葺き替え工事の公開のようすを紹介しました。最も古い室町時代の丸瓦をはじめ、江戸時代、昭和時代の瓦も展示され、違いを見ることもできました。
 順番が回ってきて本堂を覆う工事用の足場を上り、建屋の中に入ると、眼の前に本堂の屋根が大きく広がっていました。瓦が葺かれる直前の状態まで工事が進んでいました。瓦の下に土を葺かず、杉板を葺いて桟木を架けて瓦を葺くという工事が行われるという説明でした。これによって屋根の軽量化を図ることができるそうです。
 本堂の屋根をこの位置から、しかも瓦が葺かれる前の状態で見ることはもうないでしょう。お父さんに連れられて地元の小学生と思われる姉妹が見学に来ていましたが、ぜひ校区にある国宝を題材とした学習をして、その歴史的な価値や保存活動の大切さを知ってほしいなと思いました。こういう機会を見逃さず体験をさせる、いいお父さんですね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国宝朝光寺本堂の屋根瓦

2012年01月30日 05時13分29秒 | Weblog
 29日(日)、加東市畑の朝光寺の国宝本堂の屋根葺き替え工事が公開され、多くの人が訪れました。
私もその一人。11時前にお寺に到着し、見学者順番カード157番をもらいました。入場しているのは120番台の人たち。順番を待つ間、掲示されている葺き替え工事のようすを撮した写真パネルや展示されている本物の瓦を見ながら説明を聞きました。
 一番古い、創建の頃に近い時代の瓦は15世紀、室町時代のもの。文明13年(1481)の丸瓦です。630年ほど前の瓦が目の前にあるというだけで何か感動的でした。おそらく瓦師集団がこの辺りに住んで焼いたものだろうということでした。江戸時代の元禄年間のものもあり、圧巻でした。今回の修理では、一番古い瓦をモデルにして新たに焼いたものを使っているそうです。
 最近の修理は昭和10年(1935)~12年にかけて行われています。75年ほど前ですから、長生きの人は生涯に二度葺き替え工事を見ることができたということになりますが、私らは今回が一生に一度の体験でしょう。ようやく順番が来て屋根の高さの足場に立ちました。一部瓦が葺かれていましたが、杉の皮が貼られ、桟木が架けられた屋根を見ることができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝説のくすのき塚-加東市古家

2012年01月27日 05時25分50秒 | Weblog
 東条ダムを左手に見ながら県道小野藍本線を大川瀬方面(東)に向かって走ると古家(ふるけ)の集落に入ります。秋津富士方面の標識が出ている所を左へ入り、北の山の方への道をしばらく行くと、道の脇に石碑のようなものが目に入りました。一角には石燈籠も立っており、その石が祀られているように見えます。これが、あの伝説のくすのき塚かと、車を降りて見てみました。
 くすのき塚とは、太平記で知られる「湊川の戦い」で敗れた楠木一族の残党がこの地までたどり着き隠れ住んだと伝えられています。この塚は、鎧や兜、武器を地中に隠したとされ、地中は空洞になっていて、力を入れて足踏みをするとがーんを響くと言われています。古家はその歴史を中世にさかのぼる古い歴史の集落です。昨年の末に公民館に寄っておられた地区役員さんからもそうした話を聞いたばかりです。道の脇の田圃の中にあるこのくすのき塚の伝説が数百年前の記憶をよみがえらせてくれる。その歴史の厚みに圧倒されます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨大工事の殉難者慰霊碑-昭和池

2012年01月26日 04時55分26秒 | Weblog
 昨日紹介した昭和池の堰堤は源平合戦の古戦場として知られる三草山の麓にあります。扇のように広がる山裾の谷を巨大な堰堤で築いて造られた池が昭和池です。建設の経緯は昨日のブログで紹介した通りですが、その工事で亡くなった人の慰霊碑が堰堤を仰ぐように建てられています。正面に慰霊碑、裏側に殉難者の名前が刻まれています。その名を一つひとつ読んでみると、朝鮮人の名前があります。この工事には朝鮮人労働者も働いていたのです。日本人と朝鮮人の殉難者の名が刻まれています。
 高校時代、池畔でキャンプをしていると、ボーイスカウトの隊長さんが様子を見に来られ、慰霊碑の前でお経をあげてキャンプの無事を祈ってくださった、ということがありました。もう40年余り前のことですが、昨日のことのように懐かしく思い出します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旱魃からふるさとを救った昭和池

2012年01月25日 04時57分30秒 | Weblog
 1月8日(日)の早朝、国道372号を鴨川方面へと向かっていました。ふと、昭和池へ行ってみたくなり、三草山の登山口になっている堰堤の下まで乗り入れました。車が1台ありました。きっと早朝登山をしているのでしょう。それにしても殺風景な駐車場です。私が中学生の頃にキャンプや遠足で来ていた頃と変わりません。
 ただ、堰堤を登る坂道のところに1枚の看板が建てられていました。東条川疎水に関する説明と、昭和池が造られた経緯や池から送られた水が台地の開発や水田を潤し、旱魃からふるさとを救ったことが書かれていました。このブログでも紹介しましたが、嬉野台地の今はもう使われていない昭和池からの用水路にもこのような看板が建てられています。
 昭和池築造の経緯は次の通りです。大正13年(1924)、この地方は大かんばつに見舞われ、これをきっかけに農業用水の水源を確立する必要性があるとの声が高まり、県営事業として巨大溜池が三草山渓谷に造られることになったのです。そして、昭和3年に工事が始まり、9年に完成、昭和池と命名されました。巨大な堰堤は、高さ約30メートル、幅(長さ)約200メートルの巨大な土堰堤です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の朝の蟲除守護名号堂

2012年01月24日 04時43分20秒 | Weblog
 加東市西垂水の集落の北の広々とした田圃の中にお堂があります。境内はきれいに掃除されており、境内の真ん中に一本の背の高い石柱が立っています。
 石柱には「加東郡霊場八十八番奥之院 蟲除守護名号堂 大正七年三月十五日 願主 上月宗兵衛」と刻まれています。大正7年3月15日は、加東四国八十八番霊場の開創された日です。 冬の朝、ピンと張り詰めた冷たい空気をほぐすように朝日が差してきました。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧社町が町制実施100周年

2012年01月23日 04時30分20秒 | Weblog
 今年は旧社町(今の加東市立社小学校区)が町制を実施してからちょうど100年目にあたります。明治45年(1912)3月、社村は町制実施の認可を受けて、6月1日に社村から社町に改称して町制を実施しました。それから数えて今年が100年目ということです。
 兵庫県では、明治22年に市制町村制が実施されました。当時は神戸市、姫路市の2つの市と26町、402村が発足しました。旧加東郡(今の加東市と小野市域)には、15村が発足しました。加東市域では、社村、福田村、米田村、上福田村、鴨川村の5村が誕生したのでした。そのうち、社村がいち早く町制を実施したというわけです。
 7月7日に町制実施祝賀会が開かれています。そのようすは、当時の地方新聞(「神戸又新日報」、「神戸新聞」)に次のように報じられています。この歴史ブログの初期の頃に一度紹介しましたが、再掲します。


町制の実施と役場
 佐保神社の参道を南に向かって歩いて行くと、「明治館」の塀につきあたります。その曲がり角あたりに昔、社町(昭和の合併以前の社町)の役場がありました。ここに役場が建てられたのは、明治45年7月のことでした。
 加東郡社村は、この年の3月に町制実施が認められ、6月1日をもって加東郡社町となっています(これが旧社町)。それまで役場があった場所に加東郡公会堂が建設されることになり、これにともなって隣接地に新庁舎が建設されることになったのです。
 町制実施記念式典はこの新庁舎の落成式を兼ねて行われました。まず、佐保神社で町制実施奉告祭が執り行われ、続いて新庁舎講堂で多くの出席者のもとに式典が開かれました。式は、国歌吹奏、勅語奉読に始まり、松本町長の式辞、山県加東郡長の告辞などが続きました。出席者を見ると、郡長、郡書記、裁判所長、税務署長、県会議員、郡会議員、町村長、会社銀行重役、新聞記者、町会議員、区長、功労者など地域の有力者ら約160人となっています(「神戸又新日報」)。
 余興には、餅まき、自転車競争、相撲、小学生の旗行列、煙火(はなび)の打上げ、提灯行列、芸妓の踊りなど多彩な催しものが繰り広げられ、さらに一般町民には祝酒が振る舞われるなど「町内空前の賑い」(新聞)だったようです。

 旧社町の町制実施から100年。その節目の今年、その歩みを振り返り、未来を構想するような機会、企画を立ててみたいですね。写真は旧加東郡公会堂で昭和初期の頃のものです。現在は明治館として各種催しなどに使われています。


 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の鯉のぼり

2012年01月19日 05時20分13秒 | Weblog
 ある日、関東から来ている義理の母が、「冬なののに鯉のぼりがあがってたよ」と話しました。腰が曲がって、膝も悪いので余り歩けないのですが、天気が良い日には少しずつ散歩の距離をのばしているようで、そんな折りに空を見上げると季節はずれの鯉のぼりが泳いでいたのが珍しかったのでしょう。
 「お義母さん、あれは人形屋さんの鯉のぼりで、加東市は鯉のぼりの産地ですよ」と教えると、「へえ、そうだったんだ」と納得したようでした。加東市での鯉のぼりの生産は東条地区で行われ、明治時代に始まったものです。大正時代には量産化され、昭和40年代には国内はもちろん、アメリカにも輸出されていたようです。
 東日本大震災の被災地へも加東市から鯉のぼりが送られました。鯉のぼりをこどもの成長と平和の象徴として世界中であげようという運動も行われています。鯉のぼりは冬の空に今日も元気で泳いでいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下滝野の土地蔵尊

2012年01月18日 04時52分46秒 | Weblog
 加東市下滝野の公民館の山側に公園があります。地区の運動会や盆踊りが行われる広場になっていますが、北東の隅にお堂があります。これが土地蔵です。
 お堂には12体の地蔵さんとお大師さんが祀られているとのことですが、お堂の中には、ねがい石とよばれる穴のあいた丸い石が納められていて、耳の不自由な人がよく聞こえるようにとお供えしたものと言われているようです。また、子宝にめぐまれるようによいう願いからとも言われているとのことです。
 毎年8月24日の地蔵盆には、子ども達はお菓子をもらって楽しみます。夜は盆踊りで賑わいますが、この日は幼くして亡くなった子どもが父と母に会える日で、お堂に祀られている子どもの霊が五峰山に登って愛宕さんで母親に、さらに上の役の行者の祠で父親に会うことができると伝えられているとのことです。
 今は冬で、この日は天気もよくありませんでした。しかし、小さなお堂ですが、地域の歴史と伝統、人々の願いが積み重ねられてきた存在の大きさを感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廻り淵-お堂の前の道標

2012年01月17日 05時16分39秒 | Weblog
 加東市廻淵の朝光寺へ向かう道と東条おもちゃ王国へ向かう道と分かれ道の北側の山の中腹にに真新しいお堂が見えます。
これは阿弥陀堂ですが、地元の人は「お大師さん」と呼んでいます。昨年の秋に少し下からこの場所に新築移転されたとのことです。お堂には阿弥陀如来とお大師様が祀られ、加東四国八十八ヶ所霊場の番外の霊場になっています。第二十二掎鹿寺から廻淵の阿弥陀堂、畑の大師堂を経て、二十三番朝光寺へと巡る途中の霊場になっているのです。
 地区の人の話では、かつてこのお堂の建てられた場所には、村の保育園があったということでした。写真の道標は、このお堂の入口の傾斜のところに建てられています。
 上部に仏像が刻まれ、その下に「左 □□□・・」と文字が刻まれているのですがよく分かりませんが、霊場巡礼の道案内の道標だったのでしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の佐保神社-欅と社殿

2012年01月16日 04時19分22秒 | Weblog
 加東市社の佐保神社。毎朝のようにウォーキングの途中に参拝しているのですが、天気のよい昼間、冬の冷たい空気と光につつまれた境内に佇んでいると明るく元気な気に満たされます。
 拝殿、本殿、そして手前のけやきの大木、その下の日露戦争戦勝記念碑。境内のこの位置からけやきを見上げるのが好きです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東四国霊場三十二番-鳥居の観音堂

2012年01月15日 05時21分50秒 | Weblog
 加東市鳥居。佐保神社の西の鳥居に由来する名のつく集落です。姫路と京都を結ぶ旧街道に沿って集落があります。そのほぼ中央にお堂があり、公民館も隣接して建てられ、まさに鳥居地区の中心になっています。
 さて、このお堂は加東四国霊場の第三十二番霊場の観音堂です。地区の人は「お堂」とよんでいますが、額には涌羅野山長福寺という寺号が書かれています。とんどの準備で来ておられた地区の方の案内でお堂の中に入らせてもらうことができました。外観にもまして内部は古さが感じられました。堂内には文化七年転読大般若経、文化十年再建、昭和四十七年大補修の文字が書かれた板が置かれていました。文化10年といえば西暦1813年ですから今から約300前のこと。それ以前から鳥居の人々によって大事に守られ継承されてきたことがわかります。
 涌羅野山の名称は社の持寶院も同じですが、加古川の東に広がる広い平野一帯の呼び名だと聞いています。社の市街地からさらに東の一帯は広野と呼ばれていました。今もその名が寺号や町名、名字などに残っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢部の小さなお百度石

2012年01月14日 05時38分40秒 | Weblog
 加東市沢部の観音堂のある墓地の入口に、加東四国第四拾二番霊場観音堂の石柱があります。そのすぐそばに小さな石が置かれており、石の前には正月の飾りもされています。
 何の石かとよく見てみると、その一部は欠けたように見えますが、表面に「百度」の文字が刻まれていました。この小さな石柱は百度石だったのです。こんなに小さな百度石との出会いは滅多にないでしょう。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高岡の道標

2012年01月13日 04時50分25秒 | Weblog
 加東市高岡の台地から河高の安取へと向かう旧道をゆっくり走っていると、坂道にさしかかる手前で道が分かれているところに一本の道標が立っているのに気づきました。
 車を止めて道標を見てみると、表面の文字はだいぶ読みづらくなっていましたが、「左 きよみず 右 □□り たかさご」と刻まれています。江戸時代、高岡は播磨と京都を結ぶ京街道の道筋にあたり、この街道を往来する人々にとってこの道標は大切な目印になったことでしょう。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾の毘沙門さん

2012年01月12日 04時47分46秒 | Weblog
 加東市松尾は社の南に位置する集落です。松尾にはかつて寶塚とよばれる古墳があり、古代、この地方を治めた豪族の墓ではないかといわれています。また古墳の濠は田圃になって、その形が円形のために田植えなどではどこまで植えても端がないので「嫁泣き田」と呼ばれたなどと聞いたことがあります。松尾は母の実家があるので、小さい頃からそんな話をよく聞かされました。
 その松尾には八幡神社、毘沙門堂があります。写真は毘沙門堂です。平成20年に改築されています。毘沙門堂は加東四国霊場の八十四番山国の妙仙寺から八十五番田中の薬師堂へと続く間にあり、霊地とされています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする