ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和28年頃-社小学校の運動会

2010年08月31日 05時46分55秒 | Weblog
 この写真は、私が生まれた昭和28年(1953)頃の社小学校の運動会のようすを撮したものではないかと思います。
 運動場の北東から南西を向いて撮影したもので、運動場の向こうに本館と理科室が写っています。理科室は大正12年(1923)落成の立派な設備の校舎だったということです。私もその理科室で勉強しました。占領が終わり、独立を回復して間もなくの頃、この年に私は生まれました。
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享保年間の宝筺印塔-社の百旗墓地

2010年08月29日 07時13分49秒 | Weblog
 国道372号が加東市社の市街地へと入ってくるところに百旗墓地があります。ちょうど社郵便局の東の少し高いところです。この墓地に見上げるほどの高さの大きな宝筺印塔があります。
 墓参りに来ると入口近くにあるこの大きな宝筺印塔が目につきます。いったいいつごろのものだろうと思って見てみると、享保十五年三月の文字が刻まれていました。先日紹介した出水の薬師堂の境内の宝筺印塔も享保年間のものでしたが、同じ頃、今から280年も前に建立されたものだったんですね。
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田中の薬師堂-ハメよけ薬師

2010年08月25日 05時21分44秒 | Weblog
 加東市田中に薬師堂があります。ジャスコや県総合庁舎の南側の道路を西向きに走っていると、広々とした田の向こうにお堂が見えます。これが田中の薬師さんです。
 このお薬師さんは昔から「ハメよけ薬師」として知られています。お堂の床の下の砂をいただいて、ハメ(蝮:マムシ)の出そうな田圃の畦などにまいておくとハメが出ないということで、多くの人が砂をいただきにお参りしたということです。
 ハメはこの地域にはたくさんいました。山裾の水のあるところや田圃の畦などに巣があって、草刈りなどをしているとよく噛まれたと聞いていました。自分も田圃で草刈りをしていたときにハメに出くわし、冷や汗が出た経験があります。
 お堂の床下を覗いてみると、掲示板が結びつけられていて、砂については地図に印のしてある家に連絡して下さい、と書いてありました。
 この薬師さんは加東四国八十八ヶ所霊場の第八十五番霊場になっています。西向きのお堂の入口に立派な石柱が建てられており、加東四国八拾五番と刻まれています。ご本尊は大日如来で、木造大日如来坐像は平成3年に兵庫県指定文化財に指定されています。また、手水場の石には、寛政十二年と刻まれています。ちょうど西暦1800年ですから、210年もの間、お堂にお参りする人々を迎えてきたのですね。
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享保年間の宝筺印塔-出水薬師堂

2010年08月24日 06時16分33秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市出水地区の入口にある薬師堂の境内に宝筺印塔があります。
 宝筺印塔(ほうきょういんとう)というのは、先祖供養のために経文を刻んだり収めたりして祈りを込めて建てられた塔です。
 以前、この歴史ブログで、加東市山口の墓地にある宝筺印塔を紹介しましたが、この出水のものも同じ享保年間に建てられたものでした。
享保12年(1727)の建立、願主は出水村の大橋源右衛門と刻まれています。テレビの「暴れん坊将軍」で知られる八代将軍、徳川吉宗の時代なんですね。
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出水の薬師堂-殉国の碑

2010年08月23日 04時30分02秒 | Weblog
 加東市出水の入口にあたる場所に薬師堂があります。お堂の正面には軍人の墓が並んでおり、脇に石碑が建てられています。昭和27年(1952)に建立されたこの「殉国」の碑には、日支事変、大東亜戦争に出征し戦死した郷土出身兵士の英霊を顕彰するためにこの一角を聖地とするといった碑文が刻まれています。その石碑の脇に立つ石燈籠は寛永年間に建立されたものでした。江戸時代はじめの頃、三代将軍家光の頃のものです。
 昭和27年といえば、日本の占領が終わり独立を回復した年です。その年に郷土出身の英霊を顕彰する碑を建て慰霊をされたのでしょう。それから58年が経ちました。
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昭和32年秋の嬉野

2010年08月22日 05時39分59秒 | Weblog
 加東市のほぼ中央に広がる嬉野台地。東条ダムからの水を運ぶ水路や兵庫教育大学附属小学校の新築当時の写真を紹介してきましたが、時代と共に大きく変貌を続ける嬉野台地の姿に自分の人生を重ね合わせてみると感慨一入です。
 昭和40年代は、社中学校、社高校と6年間嬉野へ通いました。また、昭和56年から平成15年までの22年間を附属小、中学校の教員として嬉野で教育に携わりました。人生の半分を嬉野で過ごしたということになります。
 今日紹介する写真は、昭和32年秋の社保育園時代の嬉野への遠足の一コマです。場所は嬉野公民研修所の辺りではないかと思います。記憶は残っていませんが、こうして写真から当時の風景、松の木以外は何もない嬉野の姿を知ることができます。一緒に手をつないでいる先生や友達。あれから50年以上経っているのですが、人も風景も半世紀の時が過ぎたことをあらためて実感します。
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嬉野台地-東条ダムの水の旅

2010年08月21日 05時57分29秒 | Weblog
 東条ダム(鴨川ダム)の水が嬉野台地を潤している。このことを29年前に兵教大附属小の4年生の社会科の学習で探究しました。教材研究でダムから幹線水路を追ってバイクで走り回ったことで、私自身も驚きの連続でした。
 この写真はその一枚ですが、嬉野の附属小学校の近くまで流れてきた水路が円筒の分水口でさらに分かれていくところを撮したものです。子ども達と一緒に見学しましたが、何せ、当時は「まむし危険」の立札が立っている藪の中で近づくのも危険でした。だいたい標高100メートルの等高線にそって水路が流れていました。
 現在では、周囲は住宅地になっています。当時、ここが住宅地になることなど予想もしませんでした。私が中学生だった昭和40年代はじめ、この分水施設のもう少し手前の山で、キャンプをして、炊事の水は水路の水を使っていたことを思い出します。
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昭和56年-嬉野兵教大附小交差点

2010年08月20日 05時08分55秒 | Weblog
 この写真は、昭和56年(1981)、嬉野の兵教大附小の交差点を小学校の敷地から撮したものです。遠くに三草山の山並みが見えます。右側の白い施設は浄化施設で、嬉野地区の附属学校や官舎の下水を浄化していました。
 兵教大附属小学校は昭和56年に校舎を新築し、元嬉野公民研修所の仮校舎から移転し、1年生と4年生を新たに受け入れました。写真で作業をしているのは当時の4年生の子ども達です。真新しい校舎はできたのですが、校庭には学級園も花壇も何もありませんでした。
 この土地は元、社中学校があったところです。私は昭和40年代はじめに、同じ場所で学んでいたのです。現在、私が50代後半になり、この子ども達も40歳を迎えようとしています。そして、その子弟が今は附小に通っています。
 写真に写っている辺りの風景もずいぶん変わりました。浄化施設は撤去され、駐車場になっています。田圃だった交差点辺りは開発されて、道路や住宅が建ち並び、新たな町ができています。同じ場所に立って写真を撮ってみても、住宅で三草山はもう見えないでしょう。
 かつて、西瓜畑が広がっていた嬉野、畑が水田に変わり、やがて住宅地へと変貌しました。「不毛の台地」と呼ばれた嬉野。これからどう変わっていくのでしょうか。
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伝統の盆踊りで新ふれあい音頭の披露-山国観音堂

2010年08月19日 05時47分53秒 | Weblog
 18日(水)、加東市山国の観音堂の境内で「やまくに盆踊り大会」が行われました。山国地区の役員さんをはじめ、老人会、女性会、子ども会、消防団など地区の各団体で構成される実行委員会の皆さんが、伝統行事として続いてきている盆踊りを盛り上げるために汗をかいて準備をされたとのことでした。
 山国地区の盆踊りは観音堂の境内で新仏供養のために行われてきた地区伝統の行事です。近年は高台にある山国で打ち上げられる花火が遠くの地区からもよく見えることで知られるようになりました。今年も135発の花火が観音堂の上の夜空に花開き、多くの人を楽しませてくれました。
 ところで、今年は「山国ふれあい音頭」が新しくつくられ、盆踊りで披露されました。山国地区の自然や歴史、産業、そして人々の願いが表現されています。音頭に合わせて踊りも披露されました。一緒に輪の中に入って見よう見まねで踊ってみました。歌手も地元の方とあって会場は大いに盛り上がりました。
 やぐらの上で太鼓をたたくのは子ども会の子ども達。次々とやぐらにのぼって、練習した腕前を披露しました。この地区の将来を担う子ども達。大きくなってもこの踊りのことを忘れることはないでしょう。すべてが地区住民手作りの盆踊り。踊りに汗だくになりながら、心から楽しませてもらいました。

山国ふれあい音頭
  作詞 石井貴代子  作曲 岸本眞知子  歌手 友原幹雄・宮野浩子

ア、ソレ

一、水の恵みは 王子ケ池に
  昇る朝日を 水面にうつし
  山田錦の穂はそだつ
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

二、信州諏訪の 蔵元と
  まごころこめて さなえうえ
  実りゆたかな 山国の
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

三、無病息災 願いをこめて
  観音さんに 手を合わせ
  老いもわかきも 輪になれば
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

四、緑ゆたかな 権現さんに
  今年も豊作 願いつつ
  力あわせて のぼりたて
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

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東条ダムの水-山中でサイフォンへ

2010年08月18日 07時23分49秒 | Weblog
 この写真は29年前、教師だったころに社会科の教材研究調査で、東条ダムからの用水路をたどって嬉野台地の東端の安政池付近まできたところで撮影したものです。
 この歴史ブログでも当時撮影してまわった用水路の写真を紹介してきましたが、その一枚が、このサイフォンの呑口です。ゆっくりと流れてきた水はこの呑口で谷の底へと一気に管の中を落ちて、谷の向こうの吐口へと駆け上がって噴き出します。
 呑口のところに立つと、真っ暗な管の中へと吸い込まれていく自分を想像して恐怖感に襲われます。山の中ですから、ふだん誰にも見られることもなく、ひたすら水を呑み込み、向こうの吐口へ水を送る。そんな仕事をし続けている。何か、姿勢を正してご苦労様です、と敬意を表したくなる思いです。
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黒谷の柱まつり-夏の夜空にヤマの炎が

2010年08月17日 05時14分34秒 | Weblog
 昨16日夜、東条ダムの麓の地区、加東市黒谷の若宮八幡神社の境内で盆踊りが開かれました。黒谷地区では、この16日の盆踊りのあとに伝統行事である「柱まつり」が行われます。「ヤマ」とよばれる松の木を軸にしてつくられた大きな木の柱を燃やす行事ですが、2年前に初めて見て、その神秘的な光景に感動を覚えました。「ヤマ」は7日に伐りだした木を16日の午前中に組んだということでした。

 午後10時過ぎ、若宮八幡宮で神主さんと黒谷地区の役員さんらが神事を行い、松明に火がつけられました。その火を八幡神社を少し東に下ったところにある民家の庭の前の場所につくられた「ヤマ」まで歩いて運び、根本の部分に点火されました。真っ暗な夏の夜空に一気に炎が上がります。2年前は昼間の雨に濡れていたのでなかなか炎が上がらなかったのですが、今年は一気に火がつきました。

 「ヤマ」の松の木のてっぺんには御幣がつけられています。やがてこの御弊も炎に包まれました。そして、「ボン!」という大きな竹の爆発音も響きました。「柱まつり」の由来などについて、2年前に地区の方から伺った話を紹介します。2年前の8月17日付のこの歴史ブログで紹介したものですが、再掲します。


 この「柱まつり」について、地元の方からいろいろ教えていただきました。全国に黒谷という名の村が四ヶ所ほどあり、このような火まつりをしているということです。京都の大文字の送り火に関わりのある地域に黒谷というところがあるらしく、東条の黒谷も鴨川の清水寺に近く、西門(さいもん)という字名があるように清水寺に関係も深く、16日の火まつりという共通点がある、といった話でした。この「柱まつり」の歴史的な由緒などはよく分からないということでしたが、お盆の精霊送りの行事の一つだろうということです。また、「柱松」とよばれる行事が各地にあるらしく、お盆の精霊送り、豊作祈願、疫病退散など人々の願いが込められた伝統行事であることに間違いがないでしょう。

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田町の法連寺で

2010年08月16日 05時05分34秒 | Weblog
 この写真は町内の家にあった古い写真です。写っているのは社(加東市社)の田町通りの東端にある法連寺の建物の前での記念写真のようです。
 この写真がいつ撮影されたものか、また、どのような人たちなのかについては、提供して下さった方も分からないということです。はっきりしているのは、田町の法連寺の境内であるということだけです。
 建物や石碑、樹木などの配置は今も変わっていません。後ろの幕に「大正十二年・・・」の文字、柱に掛けられた看板に「来ル十八・・・」「寺院移・・・」の文字も見えます。上には万国旗が飾られています。女性の髪型を見ても古い写真であることは想像がつくのですが、それ以上のことは分かりません。
 法連寺の境内には、かつて田町通りが京街道として西国巡礼の人々が往き来したことを伝える大きな道標があります。元は田町通りの西端あたりにあったものですが、この地に移されたものです。由来についてはこの歴史ブログでも紹介しています。
 田町通りの昔を伝える貴重な古い写真ですが、残念ながら詳しいことが分かりません。
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終戦記念日の忠魂碑

2010年08月15日 11時35分04秒 | Weblog
 8月15日(日)、65回目の終戦記念日です。
 朝のウォーキングでは、いつも忠魂碑の前で護国の英霊の御魂に感謝と祈りを捧げますが、今日は特別な思いをもって忠魂碑にお参りしました。
 加東市社の市街地の南端の明治館(旧加東郡公会堂)の敷地の一角に社の忠魂碑があります。この忠魂碑は旧社町(昭和の合併前の社町、今の社小学校区域)出身兵士の慰霊碑です。この歴史ブログでも紹介してきましたが、ここに再度紹介します。


 周囲を玉垣で囲み、その中に、大きな自然石で組んだ約2・5メートルの台の上にさらに高さ約2メートルの3本の石碑が聳えています。
水平に伸びた松の枝のために正面から見ると、碑が隠れてしまっていますが、中央の忠魂碑は大正15年3月、両側の碑は昭和28年建立と刻まれています。
中央の「忠魂碑」の揮毫は陸軍大将、川村景明とあります。川村大将は薩摩出身の陸軍軍人で、日露戦争では鴨緑江軍司令官として奉天会戦などで活躍した人物です。日露戦争後は子爵となり、大正4年には元帥、その後在郷軍人会会長をつとめています。大正時代のはじめには、全国的に忠魂碑建設ブームが起こりましたが、川村大将は多くの忠魂碑の揮毫をしています。
 両側の碑には英霊のご尊名が刻まれています。明治10年の西南戦争から大東亜戦争まで、祖国のために戦って戦陣に散った英霊の数は、240柱余りにのぼっています。ちなみに、各戦役の数は以下の通りです。西南戦役(4)、日清戦争(5)、日露戦争(7)、日独戦役(第一次大戦2)、満支事変(31)、大東亜戦争(195)。
 
 以上ですが、大正15年(1926)建立ですから84年、昭和28年(1953)再建から57年が過ぎました。戦中は、地元社町の帝国在郷軍人会の主催による慰霊祭や戦勝祈願祭などが行われてきた場所です。私の母方の2人の叔父の名も刻まれています。また、この歴史ブログで紹介してきた出征兵士や戦死された英霊の名前もあります。この英霊の尊い犠牲の上に戦後の日本があるのです。忘れてはならない記憶。この碑の前に立ち、祈りを捧げ続けることが戦後を生き継いでいる者の責任だと思っています。
 今朝も蝉の鳴き声だけが耳に入ってきました。
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昭和32年-旧社中運動場で保育園児が運動会に参加

2010年08月14日 04時19分16秒 | Weblog
 今から53年前の昭和32年(1957)年9月20日、嬉野にあった社中学校運動場(現兵庫教育大学附属小学校)の運動場で行われた運動会に社保育園の園児が参加し、輪になって踊りを披露しました。写真はその時の演技のようすです。
 この写真をよく見ると、広い運動場の右手奥に屋外用のバスケットボール場が見えています。さらにその向こうにはただただ広いとしかいいようのない嬉野の台地が見えています。私がこの社中学校に通ったのが昭和40年代はじめですから、この写真から約10年後ということになります。その当時も同じように広い運動場でした。野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、ソフトボール、テニスが同時に重ならずにできるといった広さです。運動場の南の方はまだ荒れていたと記憶しています。野球部で外野の後ろでボール拾いをしていて、後ろにのがそうものなら果てしなく追い続けることになります。挙げ句の果てに草むらや用水路の法面に入ってしまえば捜索は不可能になってしまい、先輩からひどく叱られます。
 3年の夏休みに、向こうに見える松林の中にキャンプをし、夜にはこの運動場のバスケットボール場あたりに遊びに出てきてファイヤーをやった記憶があります。今なら大変なことになっていたことでしょう。
 この地は現在兵庫教育大学の附属小学校、そして大学職員の官舎になっています。当時は何もなかったので、見通しがよかんたんですね。それにしても、社保育園からよく歩いて行ったものですね。
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昭和32年-義士の墓に参る社保育園

2010年08月13日 04時36分20秒 | Weblog
 12月14日。赤穂義士の討ち入りの日です。加東市社では、赤岸(観音寺のある辺りの地名で、「あかぎし」と読む。赤穂義士が訛ったものと言われている)の観音寺の義士の墓(正確には墓標)にお参りをする義士祭が行われます。
 赤穂義士と観音寺(加東市家原)との関係については、この歴史ブログで何度も紹介してきましたが、観音寺には赤穂義士四十七士の墓標があり、毎年12月14日には盛大に義士祭が行われています。(2006年7月4日、5日のブログ参照)
 社保育園児はこの日、先生に連れられて義士の墓にお参りをします。甘酒をいただくのですが、寒い頃ですからおいしいはずです。味は覚えていません。
 写真は昭和32年(1957)の12月14日、墓にお参りし、その真ん中の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の墓の前で記念の撮影をしたものです。
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