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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

朝光寺つくばねの滝-昭和40年代末

2017年01月31日 06時12分48秒 | Weblog
  

 この写真は、国宝朝光寺(加東市畑)のすぐ下を流れる鹿野川にかかる「つくばねの滝」です。昭和40年代の末に撮影したものです。山門の階段下の道から滝壺へと下り、下から滝を見上げたものと、中段の岩に立つ私を撮したものです。
 つくばねの滝の名は、周辺にツクバネが自生していることに由来するようです。小学生の頃に訪れて滝壷あたりで遊んだ時には岩が大きく見えました。中学生の頃、滝の上からロープで岩を下り、滝壺まで降りようとして滝壺に落ちてびしょ濡れになったこともありました。
 この写真は大学生になって友人らと朝光寺を訪れた時のものです。朝光寺には毎年5月5日のこどもの日に行われる鬼踊り法会に参詣します。国宝の本堂、重要文化財の鐘楼、市指定文化財の多宝塔がそう広くない境内にあり、つくばねの滝はその南の崖下にあります。
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昭和11年防空演習-雲を衝いて來るもの 備えよここに

2017年01月30日 05時28分04秒 | Weblog
 9年前の平成21年(2008)の1月30日に投稿した昭和11年度の社町防空演習の要項の冊子の表紙を再掲します。
 前回の投稿では、表紙の空襲の絵だけを掲載しましたが、今日は表紙全体を紹介します。サーチライトに照らされる敵機の機影。絵には「強襲!」「爆撃!」の文字が書かれています。
 絵の下に2段に次の言葉が書かれています。
  雲を衝いて来るもの・・・
   備えよここに・・・

 そして、下段には演習の月日と演習に対する気持ちを鼓舞する文が書かれています。


 九月19日予行
   二十日、二十一日 演習


 轟々密雲を衝いて来るもの
 制服の猛鷲!侵略の鋭隼!

 轟々銀翼を磨して来るもの
 力の推進!意慾の強行!

 鵬程萬里熄まざる機構の廻転。強襲!
 一瀉千里絶えざる視界の注視。爆撃!

 羅針は指す目的の一点
 進路は決す直行の一途

 強風プロペラを折り乱雲翼を摧くとも
 轟々と続くものあり、爆撃強襲の鉄鳥ら

 見よここに征服のパイロット 侵略の前哨
 ああ密雲を衝いて来るものあり
           備えよここに。

                 社町役場
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社町道路元標が明治館前庭に-元の三階交差点近く

2017年01月29日 05時52分32秒 | Weblog
 

           

           

 社町(旧社町)の道路元標を明治館の庭に設置したとの報せを受け、さっそく見に行きました。
 明治館(加東市社)の前庭の一角、旧加東郡公民館時代の門が建てられている横に設置されていました。
 正面には「社町道路元標」と刻まれています。表面はきれいに洗われているようでした。この道路元標は、元は明治館から北へ50メートルほどにある交差点、通称「三階交差点」に建てられていたとのことですが、道路の拡張のために撤去され、その後、邸内に保管されていたものを今回新たな場所に再建することになったものです。「三階」は佐保神社の門前、旧郡公会堂や社町役場などに近く、県道の通る交通の要でした。

 道路元標は、大正8年(1919)の「道路法施行令」で、国道や府県道、各市町村の道路の基点となる目印(石碑)として設置されたものです。加東市内の道路元標は現在確認されているのは、滝野町、加茂村、上福田村、福田村、鴨川村、上東条村の6基でした。それらはこの歴史ブログで紹介してきましたが、社町、米田村、中東条村の3基の行方が分かりませんでした。今回、社町の道路元標が由緒ある旧加東郡公会堂の明治館の庭に再設置され、加東市の貴重な歴史遺産がまた一つ増えました。保管されていた方や教育委員会関係者に感謝します。ぜひ、多くの方に見ていただきたい。
 このブログでは市内の道路元標を紹介しています。また、各地を訪れた際に出会った道路元標も紹介してきました。それらには歴史的な由来を記した銘板なども付けられて大切に保存されていることが分かります。市内の道路元標も未来に伝えたい歴史遺産として保存し、市民に伝える工夫が必要だと思っています。
 加東市内の道標・道路元標については、県政資料シリーズⅢ「ふるさと加東の歴史再発見-道標・道路元標」(28年3月刊)に記載しています。残部あります。
 




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冬の晴れた日-嬉野の景色

2017年01月28日 06時17分54秒 | Weblog
 

         

 加東市の中央部には嬉野台地が広がっています。標高は100メートルから150メートルの高原で、広々とした景色が望めます。
 加古川の河岸段丘が西に向かって高位、中位、低位と広がっており、一番高い面からは、遠く多可町の雪の山々が見通せます。
 また、社高校、社中学校、兵庫教育大学附属幼小中、県立教育研修所などの教育施設が標高90メートル辺りの面に集中しています。
 写真は、遠く望める雪の多可連山、青い空を衝くような社高校のメタセコイヤの木、そして、社高校の本館校舎です。
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半鐘でホース干し-昭和50年代の社分団

2017年01月27日 06時00分49秒 | Weblog
 写真は半鐘の上でホース干しの作業をしているようすを穫ったものです。昭和50年代半ばでしょうか。
 この半鐘は元社町役場の敷地の南西の隅にありました。役場は移転し現在は駐車場と消防会館になっています。場所は今の加東市社市街地、学校道の途中で、市街地を見渡せる場所にありました。
 写真を撮った頃、私は社町消防団社分団の団員でした。火事や放水訓練でホースを使ったあと、この半鐘に洗ったホースを干します。半鐘の上に2人が上り、ロープで吊り上げられたホースを金具に架ける作業をします。
 今となっては懐かしい光景になりました。現在はこの半鐘は撤去され、自動化されています。当時、気合いを入れないと恐怖心を克服できなかったことを憶えています。梯子をするすると下りるのが得意な先輩が居たことも懐かしい思い出です。
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昭和50年頃の佐保神社境内-けやき、小宮、日露戦争記念碑

2017年01月26日 06時55分23秒 | Weblog
 この写真は今から40年ほど前の昭和50年頃の佐保神社境内を撮したものだと思います。
 境内から北の方角を向いていますが、今も変わらないのは大ケヤキと根元の日露戦争戦勝記念碑、そして、正面と向かって左手に並ぶ小宮です。ただ、恵比寿神社は建て替えられ、倉庫もできていますから、当時とだいぶ景色が変わっています。また、松の木も恵比寿神社の側の大木も今はありません。
 今はクスノキなどが生い茂る本殿背後の森も当時はありません。約40年ほどの間にずいぶんと鎮守の森が育ったのです。
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昭和20年、巨額の国民貯蓄割当通知

2017年01月24日 05時12分25秒 | Weblog
 戦時債券等の町別割当について紹介してきましたが、今日は昭和20年の国民貯蓄割当額の決定通知を紹介します。
 敗戦3ヶ月前の通知ですが、前年度より5割増しの「巨額に有之」とあり、それでも完遂を目指しての「一段の御力添え」を依頼しています。
 この通知に社区(現加東市社)の各町内別の割当一覧が添付されています。敗戦3ヶ月前のこの通知が文書綴の最後になっていました。


 昭和二十年五月七日
            社 町 長
社区長殿

 国民貯蓄配分額決定通知ノ件

国民貯蓄達成ニ関しては格別の御協力御援助ヲ頂き御蔭を以て昨年度は目標額の完遂をみたるは邦家の為め慶賀の至りに存上候就てハ本年度本町の割当額ハ実に四百六十八萬圓の巨額に有之内国民貯蓄組合地域別割当分を左記の通り配分決定仕り候ニ付之れが達成に尚ほ一段の御力添へを賜ハリ度右通知旁〃得貴意候也

 記

国民貯蓄  一金七万五千二百十円    五割増
国債貯蓄  一金三万壱千三百二十八円  五割増
国債債券  一金一万七千〇八十八円  酒付債券  

  合計 金拾弐万参千五百三拾六円         
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続・嬉野赤土古墳-兵教大附中草創期の一こま

2017年01月23日 07時09分25秒 | Weblog
         

         

 昨日に続いて、兵庫教育大学附属中(加東市山国)の草創期の懐かしい写真を紹介します。
 昭和57年(1982)、第1期生75名でスタートした附属中。赤土の校庭に造られた前方後円墳。郷土史研究クラブの作品で、葺石も見えます。記念撮影の背景に県立社高校の本館校舎が見通せるぐらいですから、植栽も何もなかったのですね。
 神戸の五色塚古墳や小野市の中番の古墳群の見学などをした記憶もあるのですが。
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兵庫教育大附属中草創の頃-嬉野古墳を囲んで

2017年01月22日 05時12分44秒 | Weblog
 この写真は加東市山国にある兵庫教育大学附属中学校の創立間もない頃の写真です。昭和57年(1882)に第1期生が入学しましたが、まだ校舎があるばかりで、郷土史研究クラブで、校庭に前方後円墳を造ったように思います。表面に葺石まで置いてあるので、正確に再現しようとした努力のあとが見られます。
 この古墳を囲んでいるのは卓球部の生徒だったと思います。あれからもう35年。加東市のケーブルテレビで市内各中学校の文化祭のようすが放送されていました。附属中の文化祭は「友嬉祭」と名付けられていますが、「嬉野に集う友」「嬉野を友として」という思いが込められた名前は1期生が付けたものでした。今も続いているのを見て懐かしくなりました。当時私は28歳。若かったんですねえ。
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嬉野へあがる坂道-公園も図書館もない頃

2017年01月21日 06時46分09秒 | Weblog
 この写真は、加東市社の環状線から嬉野、中三昧墓地へ上がる坂道を坂の下から撮影したものです。おそらく今から40年ほど前の昭和50年前後の風景だと思います。
 現在は、坂道の右手は社中央公園になっていますが、当時はこの辺りは田圃と店、町営住宅があったように思います。
 坂道半ばの左手には「生長の家」の建物があり、今も変わらないのはこの建物と中三昧の墓地だけでしょう。坂道は舗装されていますが、私達が社中学校へ通った頃は舗装もされておらず、もっと狭い道でした。今はこの坂道を上ると、中央図書館や市役所がある市の中心部に変貌しています。
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昭和18年-戦時国債割当の通知

2017年01月20日 05時59分38秒 | Weblog
 今日は昭和18年(1943)4月に社町長から各部落会長宛てに出された戦時国債消化割当に関する通知を紹介します。「高度国防政策の確立のため」の財源とする目的で国債が発行され、その消化が各地区每に割当てされたものです。(1月15日付投稿で昭和16年の同通知を紹介)
 「前線将兵の心を思い消化相成るやう」の言葉に当時の空気が伝わってきます。写真は文書中の社区(現加東市社)の各町内会每の割当消化一覧表です。


 昭和十八年四月八日
                社町長  合田常蔵

 各部落会長殿

   債券消化割当ニ関スル件

第七回大東亜戦争戦時国債並貯蓄債券ノ割当左記ノ通リ有之候間前線将兵ノ心ヲ思ヒ消化相成ルヤウ一般ニ指示相煩度候各割当基本町民税五等ヨリ十等迄ハ平均三十円十一等ヨリ十五等迄ハ平均二十円十六等ヨリ二十等迄ハ平均十円二十一等ヨリ二十五等迄ハ平均七円二十六等以下ハ平均二円ニ割当現物ハ本月二十二日ニ着スルニ付収入役ヨリ受領五月十五日迄ニ代金ヲ収入役ニ納付相成度

一、公債消化総額(額面)壱万五千円也
二、同購入総金額    壱万七百九拾弐円也
   内訳
一、国債(額面) 金五千円  信用組合
二、 〃(額面) 金参千円  各部落会
三、 〃(額面) 金四百円  播州自動車工業社木工旭産業利器(各百円)
四、貯蓄債券(額面) 金六千六百円
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大門橋の親柱の銘板

2017年01月19日 05時13分13秒 | Weblog
             

             

 加東市大門から加古川を跨ぎ小野市へと通じる大門橋。先日、加古川の河川改修工事の現場説明会が行われた際、その親柱に埋め込まれた銘板を見る機会がありました。
 銘板には「知事 岡田周造」を筆頭に、土木部長、道路課長、主任技師など大門橋架橋工事関係者の職、氏名が刻まれていました。
岡田知事、いつの時代の知事か。居合わせた関係者の一人が調べると、昭和10年代はじめの兵庫県知事でした。詳しくは、第25代、昭和11年3月13日~同年6月24日(『新修 加東郡誌』)でした。
 昭和11年は西暦1936年。今から81年前のことです。大門橋は明治30年に完成し、昭和11年に青野ヶ原陸軍戦車隊が新設され、現在の大門橋がつくられたとのことです。その時の知事が岡田周造だったということでしょう。
 
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おじぎ雪だるま-雪あそびの翌朝の通学路

2017年01月18日 05時36分19秒 | Weblog
 

 16日(月)、まだ雪がちらつく朝、いつものように登校見守りに立ちました。
 昨日は近所の子供達が駐車場に降った雪で雪だるまをつくって遊んでいました。朝になると、その雪だるまが、深々と頭を下げておじぎをしていました。
 ちょうど社小学校へ通じる学校道の交差点ということもあって、登校する子供達や出勤する関西電力の社員さんも思わずにこりと笑顔になりました。
 教会の十字架も,先日紹介したロウバイも雪をかぶっていました。
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加東の雪景色-平地も積雪

2017年01月16日 04時36分21秒 | Weblog
 

 

 15日(日)は、一日中、断続的に雪が降りました。朝方は大したことはないな、という感じでしたが、8時を過ぎる頃には本格的な降りになり、道路も田圃も真っ白な雪景色となりました。午前中、市内を車で走る用事があり、ところどころで停車して写真を撮りました。
 藤田交差点、北野交差点から望む五峰山、上滝野交差点あたり、そして、近所のキンカンの木に積もった雪です。加東市域の平地で雪が積もるのは珍しいことです。
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昭和16年-国防政策確立のための国債消化割当通知

2017年01月15日 06時13分41秒 | Weblog
 大東亜戦争開戦半年前の昭和16年(1941)6月、社町長代理助役の名で各区長宛ての「債券消化割当」に関する通知が出されています。
 国債、貯蓄、報国債券の社町の消化割当を各每に割当てたものです。当時の社町社(現加東市社)の国債等に関する昭和15年から20年までの関係書類を綴じた文書の中にありました。通知は次の通りですが、「高度国防政策の確立のため」の財源とする目的が明記されています。



昭和十六年六月十二日
            社町長代理助役 久野萬太郎
各区長殿

  債券消化割当ニ関スル件

国債並貯蓄、報國債券消化ニ関シテハ再度種々ト御高配ヲ煩シ誠ニ感謝仕リ居リ候現下内外ノ諸情勢ニ対シ我ガ國ニ於テモ高度国防政策ヲ急速ニ確立セザルノ現状ニ在之候之ニ要スル財源ハ公債ノ消化ニマツノ外ナキ現況ニ有之依テ縣当局ヨリ今回本町消化割当額左記ノ通リ通牒有之候条貴部内割当額ヲ適切ナル方法ニ依リ消化相成度候現物ハ本月十七日社町収入役ニ着スル見込ニ付キ預リ証ニ依リ現品受領セラレ本月末日迠ニ代金徴収ノ上収入役ニ支払相成度

一、債券ノ種類 第二十二回支那事変國債 金弐千圓也
    〃   第八回貯蓄債券     金参千九百圓也
二、消化割当表
    ※省略
 
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