ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

加東の今風景-社高校の空中回廊から

2011年12月31日 06時43分48秒 | Weblog
 昨日に続いて県立社高校を紹介します。24日のシリウスカップ(ジュニアバレー大会)の会場となった社高校の体育館の2階テラスから校舎の方を見た景色がこの写真です。
 耐震工事等で校舎はきれいになっています。40年前に学んだ校舎。当時は、この高さ、方角から見ることはできなかったので新鮮な印象を受けました。渡り廊下を先生が歩いて来られる姿が鮮明によみがえってきます。校舎の向こうに見える木が昨日紹介した木です。3階建ての校舎を超えてしまっています。手前の体育館2階テラスと渡り廊下、空中回廊ですね。
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嬉野の空に向かって

2011年12月30日 05時49分33秒 | Weblog
 県立社高校は我が母校です。昭和44年入学の47年卒。第24回生です。
 校舎の西、グラウンドとの間に高くそびえる木が一筋に並んでいます。木の名は分かりませんが、幹がまっすぐに空に向かって伸びています。そして枝と茶色くなった葉がまるでロウソクの炎か、槍の矛先のように冬の嬉野台地の高い空を衝くように伸びています。
 この写真は12月24日、社高校体育館で開かれた第4回シリウスカップの開会式に出席するために社高校を訪れた際に撮影したものです。夏には緑、そして、冬には枯れたようになるこの木。見上げる嬉野の空はどこまでも澄み切って青かった。
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加東四国霊場三十九番-野村の西之堂

2011年12月29日 06時02分44秒 | Weblog
 加東四国霊場三十九番は野村(小部野:おべの)の西之堂です。本尊は阿弥陀如来。
 小部野は今から千二百五十年以上前に編纂された播磨風土記の穂積里に出てくる「小目野」に由来する古い地名です。かつては国土地理院の地形図にも小部野の地名がありました。
 風土記には、播磨国を巡行した応神天皇が小目野(現在社町野村字小部野)にお泊まりになった時に歌を詠まれ、その歌の中に小目野の地名があるのです。加東市社の関西電力社営業所の玄関庭にはその歌を刻んだ歌碑があります。
 
 歌 愛くしき小目野の小竹葉に
   霰ふり霜ふるとも
   な枯れそね小目の小竹葉

 訳 美しい小目の笹葉に霰が降り霜が
   降っても枯れるよ小目の笹葉

 その小部野の田圃の中にポツンと西之堂が建っています。

 
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野村のお堂-加東四国三十七番霊場

2011年12月28日 05時48分46秒 | Weblog
 加東四国霊場三十七番野村の極楽堂です。ご本尊は阿弥如来。野村のお堂と呼ばれ親しまれています。かつては境内を取り巻くように廊下があったそうです。北播磨一円からのお参りの人も多く、賑わったといいます。
 お堂に掲げられた額には、本尊阿弥陀佛 延寿山極楽寺の寺号と四国三十七番霊場岩本寺の御詠歌が書かれていました。四国八十八ヶ所霊場をうつした加東四国霊場らしい額です。冬の真っ青な空の色とお堂の壁の白い色が美しく感じられました。
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野村のお堂の十三仏

2011年12月27日 06時23分50秒 | Weblog
 加東市野村のお堂(極楽堂)の境内には、道標や加東四国霊場の成立記念碑などの歴史を伝える貴重なものがありますが、東側に西向きに13の地蔵さんが並んでいます。
 地元の方の話によると、元は境内の南側にあって、北向きに並んでいたそうです。境内の整備の際に今の位置に移されたとのことでした。北向きの十三地蔵さんだったんですね。
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加東四国霊場成立記念碑-野村のお堂

2011年12月26日 05時20分28秒 | Weblog
 昨日に続いて加東市野村の「お堂」の境内にある記念碑を紹介します。
 石碑には「加東四国成立記念」と刻まれています。建立されたのは大正7年(1918)で、この極楽堂が加東四国八十八ヶ所霊場の三十七番霊場として多くの巡礼者のお参りがあったことを物語っています。台石に木が生えて石碑は少し傾いています。
 「加東四国霊場」とは、四国八十八か所霊場を加東郡内(旧の加東郡で現在の加東市と小野市域)に写したもので、大正7年につくられました。江戸時代にもあったようですが、明治維新の頃に消滅し、新たにつくられたものです。

 
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野村のお堂の道標

2011年12月25日 06時02分19秒 | Weblog
 加東市野村に「野村のお堂」と呼ばれて親しまれている加東四国霊場の第三十七番極楽堂があります。
 この境内に大きな道標が立っています。(写真)地元の方の話では元の場所から移したということでした。「左 きよみず、右 ほつけ山」と刻まれており、建立年は寛政9年(1797)です。今から200年余り昔になります。西国三十三ヶ所霊場巡りの道筋だった野村に建てられたものだったのでしょう。きよみずとは、二十五番霊場御嶽山清水寺(加東市平木)、ほつけ山とは二十六番霊場法華山一乗寺(加西市坂本)のことです。
 今はもう役目を終えてこのお堂の境内にほんの少し傾いて静かに余生を送っているように見えました。野村は丹波から播磨を結ぶ京街道が村中を通り、加古川を渡る渡し船があった村です。その昔の姿を今に伝える大切な記憶を背負って今も立っている、そんな存在感も感じました。
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天皇陛下ご誕生の記念

2011年12月24日 05時16分32秒 | Weblog
 23日は天皇誕生日。早朝ウォーキングから帰り玄関に国旗を掲げました。78歳になられた今上陛下の誕生日をお祝いする大切な日です。今年は東日本大震災に際して、国民に対して異例のビデオを通してお言葉を出されました。そして、被災地を見舞われ、被災者を励まされたお姿に日本国民は勇気づけられました。
 さて、加東市社の国道372号線(社環状線)と学園道路の交差点、嬉野口の社中央公園の入口に社交番がありますが、その手前に小高い植え込みがあり、その真ん中に石柱が立っています。この石柱には「皇太子殿下御降誕記念」、「昭和九年五月二十七日」「社支部建之」と刻まれています。これは昭和8年(1933)12月23日の皇太子誕生を祝って青年団が建立した国旗掲揚柱の支柱なのです。
 皇太子殿下とは、もちろん今上陛下のことです。昭和天皇にとっては、ご成婚以来4人の皇女がお生まれになったのですが、皇位を継がれる男のお子様の誕生がなかっのです。そんな中で皇太子のご誕生ということで、全国各地で喜びの声があがりました。この支柱は当時の国民の喜びを伝える貴重な記念物です。
 
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参道脇に折れた道標横たわる

2011年12月23日 05時48分19秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の参道の脇の公園の中に道標が倒れているという話を聞いて、朝のウォーキングの時に捜してみました。毎朝歩いているのに参道から外れているのでまったく気が付きませんでした。そこには無造作に2つに折れた道標が横たわっていました。周囲はほうきで掃いたあとがありました。
 道標には「右ほつけ山」「左極楽山浄土寺」と刻まれています。どこに立てられていたのか、なぜ、この場所に倒れているのかわかりません。詳しいことを調べてみたいと思います。それにしても、こんな身近なところにあったとは。
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福田橋之記を貴重な歴史遺産として

2011年12月22日 04時31分02秒 | Weblog
 昨日、加東市野村の加古川堤防の下にある福田橋之記の石碑のことを紹介しましたが、『新修加東郡誌』を読んでみると現在の福田橋は三代目のものということを知りました。
 一代目が明治16年(1883)年、二代目が大正3年(1914)、三代目は昭和31年(1956)に架けられています。位置は野村と対岸の安取を結ぶ線から次第に上流に移っています。128年前、97年前、そして55年前に建設されたということになります。江戸時代には渡し船、そして明治に入って橋が架けられ、さらに自動車などの陸上交通の発達とともに堅固な橋に架け替えられていったということです。
 そして、今、国道372号野村河高バイパスの建設によって福田橋のすぐ下流に巨大な加東大橋が建設されています。現在の福田橋は残るわけですが、初代の福田橋の架橋を記念して建立された福田橋之記の碑をぜひ貴重な歴史遺産として未来に伝えていきたいとの思いを強くしました。
 
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福田橋の碑-今加古川の堤防下に

2011年12月21日 05時20分49秒 | Weblog
 昨日、郷土史に詳しい佐保神社宮司の神崎さんから福田橋の碑文のことを聞き、早速石碑を見に行きました。加東市野村の加古川の堤防のすぐ下に石碑はありました。「福田橋之記」との題と碑文が刻まれていました。
 『加東郡誌』に碑文が記されているということだったので読んでみると、明治15年(1882)、加東郡民の建議によってこの地に橋が架けられることになり、翌明治16年に完成したという経緯が書かれていました。この碑文が福田橋の橋詰に建立されたもので、碑文を書いたのは当時の加東郡長だった河合半介(かわいはんかい)です。
 当時は三等県道だったこの道は現在国道372号となり、バイパス工事が進んでおり「加東大橋」の偉容を望むことができます。開通にはもう少し時間がかかりますが、この地が播磨と京都を結ぶ新たな大動脈として鼓動を始めようとしているのを感じます。
 この地に橋を架けるという加東郡民の願いが実現した福田橋の完成を記念して建立された「福田橋之碑」を加東大橋の橋詰に置いて、この橋を通る人々に歴史を永く伝えたい、そんな思いにかられました。
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佐保神社太鼓屋台のカレンダー

2011年12月20日 06時12分46秒 | Weblog
 しばらく投稿を休んでしまいました。さて、今年もあと10日ばかりを残すのみとなりましたが、この度、平成24年の佐保神社暦ができあがりました。秋祭りに出る神輿と4台の太鼓屋台、獅子舞の写真が載せられています。今年の秋祭りのポスターが好評だったので、ぜひカレンダーにという声があがり、実現したものです。先日、ある会の忘年会でもこのカレンダーが話題になりました。ちなみに太鼓は新町、上中、上組(社)、下組(社)の4台です。また、24年の秋祭りは10月の6日(宵宮)、7日(本宮)です。来年もこのカレンダーを見て一年を太鼓で過ごすことになりそうです。 
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義士の祭の幟が

2011年12月01日 04時33分57秒 | Weblog
 遅い山々の紅葉、そして嬉野台地に朝霧が立つようになって、ようやく秋の終わりを感じ始めたと思ったら、早や師走。今年も最後の月を迎えました。
 加東市社の市街地に「義士祭」の幟が立てられました。毎年12月14日には、家原赤岸の観音寺で義士祭が行われます。先月、加東市で全国忠臣蔵サミットが行われたばかりです。昭和のはじめに始まった社の義士祭が加東市になっても奉賛会はじめ地域の人々によって継承され盛大に行われています。
 義士祭といえば、保育園児のお参り、甘酒、くじ引き、駅伝が記憶に残っています。保育園の園児が先生に連れられて義士のお墓(墓碑)にお参りをします。私も社保育園の頃お参りをしました。中学生になると、江戸から赤穂への早籠にちなんで、加東郡(当時)中学校駅伝大会が開催されます。中学生の頃、選手として出場しました。当時は社の環状線から嬉野へのコースを走っていました。そして、町内会の役員になってからはくじ引きの係をしました。境内でのたき火の世話もあります。
 高輪泉岳寺、赤穂花岳寺の四十七士の墓とともに、家原の観音寺境内の四十七士の墓(墓碑)は全国で3ヶ所ある義士の墓の一つです。義士の150回忌にこの地域の村々、人々が義士の忠義を讃え、偲ぶ気持ちから寄付が集まってこの墓がつくられました。その心を今に引継ぎ、未来に伝えていかなければ、という思いです。義士祭の幟が立つとそんなことを思います。
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