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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

大正12年-加東郡真言宗寺院托鉢義金

2009年02月23日 05時55分02秒 | Weblog
 「大正拾貳年度 諸例規諸達書雑書合綴 原区長」と表紙に書かれた社区(現、加東市社地区)の書類綴の中に加東郡真言宗寺院住職の名で托鉢義金の報告とお礼の文(印刷物)が綴じられています。当時の加東郡は現在の加東市、小野市域にまたがる大きな郡でした。内訳のところでは、110ヶ村余の名と金額が書かれています。印刷文を紹介します。


佛加護の下各位益々御隆昌の段奉賀候
却説過日関東震災義財乞の際は多大の御援助を辱ふし且つ過分の浄財御喜捨被下候御厚志の程奉深謝候
右御礼を兼ね左記御報告申上候
 尚托鉢に際し新定安国寺、岡本総持院、仝碩安寺、天神丸山應現寺、藪西教寺等他宗御寺院の随喜御同行被下候段感激に堪えず候

一金壱千圓也         托鉢募集義金
               真言宗機関紙六大新報社委託

内訳
 ※金額、名・・・省略

一金参百圓也         郡内真言宗寺院就職一堂醵出義金
               大阪朝日毎日委託
一金五拾圓也         托鉢及追弔法会諸雑費寺院負担

右托鉢義金は予告の通り大阪朝日毎日両社に委託可致筈の処時日経過の為真言宗の機関紙たる京都六大新報社を経て寄贈致候尚領収証に代ふるべき同紙報告欄は最寄真言宗寺院に付きて御覧被下度候

  大正十二年九月二十二日  加東郡真言宗寺院
                    住職一同

郡内檀信徒各位

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昭和11年-海軍志願兵徴募検査の試験問題

2009年02月22日 06時06分11秒 | Weblog
 昨日のブログで海軍志願兵徴募についての通知を紹介しましたが、その中に試験問題のことが書いてありました。その試験問題(昭和11年度)が綴じられていますので紹介しましょう。B4判の紙にガリ刷りで印刷されていて、化学、物理、歴史、地理の分野から出題されています。



昭和十一年海軍志願兵徴募検査(予科練習生志願者)特別試験問題 A

雑 問(時限 四十五分)

一、 水ハ何カラ出来テヰルカ。

二、 上ノ図デ棒ガ水平ニナツテヰル為ニハ支点ト右端トノ隔リハ幾ラカ。(※図は省略しました:ブログ管理者)

三、 同ジ電池ヲ導線デ結ブ場合、長サモ太サモ等シカツタラ銅線ヲ使フノト鉄線ヲ使フノトデ何レガ大キイ電流ガ流レルカ。

四、(1)ノ人物ニ関係アル事柄ヲ(2)ヨリ撰ビ線ヲ以テ連結セヨ
   (1)     (2)
   北条親房   貞永式目
   塙保己一   大化改新
   藤原鎌足   群書類従
   菊池武光   島原ノ乱
   北条泰時   神皇正統記
   板倉重昌   小田原
   北条氏康   筑後川ノ戦

五、次ノ史実ヲ考ヘ、発生ノ順序ニ番号ヲ附セ
 番号     史実
(  )  北条氏鎌倉ニ滅ブ
(  )  承久ノ乱起ル
(  )  蒙古来襲ス
(  )  保元ノ乱起ル
(  )  源頼朝武家政治ヲ始ム。

六、左ノ半島、岬角、島嶼、都会ノ属スル府県名ヲ(  )内ニ記セ。
能登半島(    )、  室戸岬(     )、 伊豆大島(    )
福岡(     )、  堺(     )、

七、左ノ諸国中、石炭ヲ多量ニ産スルモノニ○ノ符号ヲ附セ。
イスパニヤ、 米国、  フランス、  イタリヤ、  英国、  ポルトガル、  ドイツ、  シヤム、
                              (以上)
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昭和11年-海軍志願兵志願者徴募

2009年02月21日 06時42分38秒 | Weblog
 昭和11年(1935)、社町長から社区長宛に12年度の海軍志願兵の志願者徴募についての通知が出されています。海軍の志願兵については、県、郡への割当があったようで、加東郡(現、加東市・小野市域)には25名の割当がなされていたようです。試験問題や懸垂などの検査準備についても述べてあります。その依頼文を紹介します。


社通壱第二六一六号ノ一
 昭和十一年十一月十四日
              社町長 大橋實次
社区長
 神田栄太郎 殿

  海軍志願兵志願者徴募ニ関スル件

昭和十二年度海軍志願兵徴募期モ差迫リ採用予定数モ決定致シ本年度ニ比シ県下ニ約六百名多ク割当セラレ加東郡ハ二十五名ノ多数ノ割当相成候条本年度迄ハ各位ノ熱心ナル勧誘ニ依リ多数ノ志願者ヲ得ル好成績ニ認メラレ候ヘ共尚一般ノ御盡力ニ依リ我海軍ノ内容充実特ニ志願兵ノ優秀ナル者ヲ要求スルコト切ナル現状ニ鑑ミ、理想ノ志願兵ヲ選抜シ国防ニ当ラシムル様致度ニ付勧誘ニ当リテハ嘗テ志願兵検査ニ於テ永久ニ不合格トナリタルモノハ再志願ヲ考慮セシメ、新ニ志願セントスル者ニ対シテハ左記ノ規格ニ達スルヤ否ヤヲ調ベラレ優秀ナル者ヲ受検ヲ慫慂セラレ貴部内ヨリ多数優良ナル志願者ヲ応徴募セシメ海軍ノ標語「精兵主義」ニ合致スル様御配意相成度此段御依頼申上
 追而 勧誘資料トシテ本年度試験問題、ポスター、栞等送付候条適当ニ配布相成度、志願者ニハ普通学科並ニ懸垂運動ヲ充分練習スル様注意相成度

 志願申出締切  昭和十二年一月十五日
 徴募検査日   昭和十二年一月三十日

        記
(身長等の規格)・・・省略
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大正15年-社町婦人会総会

2009年02月20日 07時10分01秒 | Weblog
 大正15年(1926)、社町婦人総会の開催通知が会長から区長宛に出されています。総会は元郡公会堂(現、明治館)での開催で、女性新聞記者が講師として招かれ講演の予定とされています。当時、女性新聞記者はまだ珍しい存在だったのでしょう。案内文を紹介します。


拝啓時下益々御壮栄御起居遊ばしますとの事 御祝し申します さて明後日二十三日午後零時半から元郡公会堂で社町婦人総会を開きますから貴内婦人に出席致しますやう御督励相成り度く此の段御依頼申します
 追而貴職も御繰合せ御臨席下さいます事をお願ひ致します
 当日は大阪朝日新聞記者 恩田和子女史の講演をお願ひして居ます

  大正十五年五月二十一日     社町婦人会長   田中正一

社区長 肥田仙治 殿
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昭和11年-海軍軍事講演会・活動写真会

2009年02月19日 08時05分14秒 | Weblog
 昭和11年(1936)、海軍の軍事講演会・活動写真会が社の元加東郡公会堂(現明治館)で開催されています。社町役場から区長宛に出された出席依頼を紹介します。写真は明治館に改修される以前、昭和前期の頃のものです。


 昭和十一年十二月四日
              社 町 役 場
各区長殿

 海軍々事講演並ニ活動写真界開催ノ件

海軍々事思想普及並ニ海軍志願兵徴募ノ為呉海軍人事部ヨリ講師並ニ活動写真班ノ派遣ヲ乞ヒ左記要項ニヨリ軍事講演並ニ活動写真会開催可仕候条御部内一般ヨリ多数御来聴方御配慮相煩度御案内旁御依頼申上候
 追而小学五年生以上ノ男子並ニ青年団員多数参集スル様特ニ御指示相成度同送ノビラ各戸配布ヒ下度願上候

          記

一、日時  十二月六日午後六時半(晴雨不論)
一、場所  社町元郡公会堂
一、講師  海軍主計特務中尉  蔵屋丑三 殿
一、映画  ビラ 記載ノ通リ

   主催 社町役場
      帝国在郷軍人会社町分会
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昭和12年総選挙-棄権防止に消防の警鐘打ち鳴らす

2009年02月18日 06時03分48秒 | Weblog
 昭和12年(1937)4月30日実施の衆議院議員選挙の棄権防止のために消防の警鐘を打ち鳴らすという通知が社町役場から各区長宛に出されています。これは棄権率が高いことに対する対策で、町の面目を立てるために打たれた手であったようです。


 昭和十二年四月二十九日
               社 町 役 場
各 区 長 殿

 投票棄権防止ニ関スル件

明三十日衆議院議員選挙執行セラレ候ニ就テハ之レガ棄権防止ニ関シテハ既ニ御配慮相煩居リ候ヘ共全ク棄権率多ク候テハ町ノ面目ニ関シ候ニ付有権者ノ注意ヲ喚起シ出席督励ノ意味ニ於テ消防ノ警鐘ヲ打鳴シ合図致ス事ニ取極メ候条火災ト取違ヘザル様貴部内一般ヘ御伝達相成度此段及御依頼ニ及候、
 猶左記事項御励行被下様重ネテ御依頼中上候
 
       記
一、各戸必ズ国旗ヲ掲揚スルコト

 尚鐘ハ午前七時投票開始ノ時ニ打鳴ラス

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昭和12年-在郷軍人会主催の講演会

2009年02月17日 05時43分07秒 | Weblog
 昭和12年(1937)、在郷軍人会主催の時局講演会・映画会が元加東郡公会堂(現:明治館)で開催されました。その案内文とビラを紹介します。ビラを見ると、三月二十日の当日、小野町、中東条村、社町の三ヶ町村で開催されることになっており、夜の社町では講演と映画会の開催となっています。


社軍文通第四二号ノ一
昭和十二年三月十一日
           帝国在郷軍人会社町分会長 光眞卓

各区長
軍役会長
青年団長
婦人会長     殿
小学校長
在郷軍人会長
女子青年団長

    時局講演会並映画会開催ノ件通牒

標記ノ件ニ関シ日露後第三十二回ヲ記念スベク軍部ヨリ講師並ニ映画班ノ派遣ヲ乞ヒ講演並映画会ヲ左記要領ニ依リ開催可致候条御部内一般ヘモ御伝ヘノ上多数御参集相成様御配慮相煩度御通知旁御依頼申上候

           記
一、日時  三月二十日午後六時ヨリ
一、場所  社町元郡公会堂
一、講師  姫路輜重兵第十聯隊長  前野大佐
一、映画  軍事映画
一、演題  時局漫談
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阿弥陀堂-涅槃図のご開帳も

2009年02月16日 06時28分08秒 | Weblog
 春のような日差しの2月15日、「あったか加東の冬まつり」の酒蔵めぐりをしようと加東市下滝野の旧道を歩いていると、阿弥陀堂の前でお年寄りから「時間があればどうぞお立ち寄り下さい」と声をかけていただきました。お堂の方を見ると、戸が開かれています。いつもは閉まっているので幸いと思い、堂に上がらせていただきました。
 堂には地区の役員さんやお年寄りが居られ、お茶のご接待を受けながらいろいろ説明を聞かせてもらいました。今日は春の涅槃図のご開帳の日で、大きな涅槃の図の掛け軸が披露されていました。中央に横たわったお釈迦様、それを悲しみの表情で見る弟子や人々、動物などが細かく描かれています。古そうなものですが、年代は分からないということでした。お堂そのものは将軍吉宗の頃に建てられたものと聞きました。あとで調べてみると享保6年(1721)ということでしたから、約280年前ということになります。堂には阿弥陀如来、役行者、不動明王、弘法大師像が安置されていました。
 堂内には加東四国八十八ヶ所霊場巡拝図が掲げてありました。図を見ると、シモタキノと印が入っていました。確かめてみると、阿弥陀堂は第三番霊場でした。境内に石柱等がないか探しましたが見あたりませんでした。一番は光明寺、二番は上滝野の薬師庵で、三番阿弥陀堂、次の四番は北野の東光寺へと続きます。

 「あったか冬のまつり」のテーマはあたたかい人のふれあいとふるさとの魅力再発見だと聞いています。あったかな温泉、人情とこんなもんが加東に「あったか」という発見の楽しみですが、まさに阿弥陀堂で伝統を守り続ける地域の方々の厚い信仰心とあったかな人情、そして歴史、伝統文化の魅力を発見できました。
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弁慶のなぎなた石-元は旧道脇に

2009年02月15日 05時24分31秒 | Weblog
 国道372号沿い、三草山がのしかかるようにせまってくる加東市山口と馬瀬の境あたりに一風変わったモニュメントがあります。大きくカーブをきるその山側に塀のように立つ壁に鎧姿の騎馬武者達の姿がくり抜かれています。スピードを出して走っていると一瞬脇目に飛び込んでくるその武者らはまさに影絵のように動き出しそうな感じがします。このモニュメントは三草山が源平合戦の古戦場であることを表してつくられたものです(平成6年竣工)。
 三草山合戦は義経の坂落としで有名な一の谷の合戦の前哨戦です。京の都から西国に通じるこの丹波路が山間から播州の平野部に出るところ、この三草山に平資盛らが陣を張り、都から迂回路をとって生田へ攻めようとする義経軍を待ちかまえていたわけです。夜は攻めて来ないだろうと鎧を脱いで清盛の法要をしていた平家の陣に義経は得意の夜襲をかけました。大混乱の平家はそのまま街道を社方面に逃げ、資盛はそのまま高砂から四国の屋島に逃げました。しかし、三草から社にかけてのいたるところで逃げる平家と追う源氏の戦いが繰り広げられたのです。下三草の「かなし池」、喜田の大寺、社の百旗、山氏神社の「義経お手植の松」、下川(白川)源氏などの地名、上久米の弁慶の投げ桜など源平の戦いにまつわる伝説が数多く残っています。これらについてはこの歴史ブログでも紹介してきた通りです。
 さて、その中でモニュメントの近くの山の中に写真のような石が置かれており、その石に数本の御幣が立てられています。この石は「弁慶のなぎなた石」と呼ばれ、この地を通った弁慶がそのなぎなたの柄をこの石に打ちつけたあとがくっきりとへこんで残っているのです。よく見ると確かになぎなたの柄でついたあとのような人工的なへこみがあります(少し口径が大きいかも)。この石は元は馬瀬の村の中を通る旧道の脇にあったと聞いていました。それが372号の工事の際にこの地に移されたということです。
 さて、ここまではこの歴史ブログにも2年前に紹介しましたが、その後新たに聞いたことを紹介します。この石は今は半分地中に埋められている状態で立っていますが、元は道ばたに横というか平らに寝た状態であったそうです。これを聞いて合点がいきました。弁慶はその石に上からなぎなたの柄をついたのだ、と。今の状態だと横からついたことになってしまいます。また、御幣は馬瀬の村の東西南北に魔除けで置かれているものだそうです。
 モニュメントは目立ちますが、そこから少し離れた林の中の石に今からおよそ800年余り前の強者の痕跡が伝承されているのが何ともうれしい話ではないでしょうか。
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米田村の忠魂碑

2009年02月14日 06時31分40秒 | Weblog
 2月11日、加東市上久米の東光寺の大日さんに参詣した折りに寺の東の山の中腹に米田村(現加東市米田地区)の忠魂碑があることを知り案内していただきました。
 忠魂碑は昭和7年(1932)の建立で、大きな自然石には「忠魂碑」と彫られていました。揮毫は「陸軍大将鈴木荘六書」とあり、予備陸軍大将で昭和6年から12年まで在郷軍人会会長であった鈴木荘録六大将です。
 この忠魂碑は地元の方のお話によれば、元は米田小学校(現上久米公民館のある地)の校地内にあったそうですが、米田小学校の新築移転に伴ってこの地に移されたということです。今では、主に上久米の方が維持管理にあたっておられるとのことでした。遺族会の方々も高齢となりこれからの維持管理が心配だと語っておられました。
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上久米の大日さん

2009年02月13日 04時54分59秒 | Weblog
 2月11日、加東市上久米の東光寺で大日祭が行われました。天気予報では午後の天候悪化が心配されましたが、少し風が強い程度で、春のようなやわらかい日がさしていました。午後1時半頃には区長さんが先導する山伏さんの行列が寺に向かう坂道をのぼっていきました。その頃から人出も多くなり、午後2時過ぎには、参詣の人々が見守る中、寺の前の田で護摩焚法要が執り行われました。そのあとは無病息災を祈って多くの人が火渡りをしました。

 「大日さん」はかつて大いに賑わっていたという話を今年も聞きました。去年の歴史ブログでも紹介しましたが、「広報やしろ」第10号(昭和35年3月5日発行)に紹介された大日さんの賑わいのようすを再掲します。

 「郷土の探究」(8)
 社町にも北播三大祭の一つとかぞえられるものに、上久米にある東光寺の恒例祭とされている「大日如来祭」がある。
 昔から牛馬の守り仏として有名で毎年二月二十八日には播州一円の農家が参拝し、境内せましと思わせる。この日北播一帯の青年有志大相撲が展開されるとともに参道に列をなす植木をはじめ農機具などの多くの露店は、まさに社町のなかでの最大の祭りでもあり、北播三大祭の一つでもある。

 寺の南辺りには、かつて役場、学校、駐在所などがあったそうで、米田村(現加東市米田地区)の中心であったということです。参道には道標や石灯籠などが立ち、往時の賑わいがしのばれます。
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河高の厄神さん

2009年02月12日 05時13分24秒 | Weblog
 2月11日、加東市河高の八幡神社で厄厄除け祭が行われました。この歴史ブログでも去年紹介しましたが、この祭では、地元出身の成功者や厄年の人たちがお金(硬貨)をまき、それを子どもたちが拾うという行事が行われることでも知られています。
 去年と話しはほぼ同じになってしまいますが、本殿に参拝したあと、地元の皆さんが開いておられるテント店で温かいうどんをいただきました。そのあと、本殿脇の坂道を登って山上の祠に向かいました。山上は、広場のようになっており、むき出しになった大きな岩盤が目に飛び込んできます。その真ん中に巨大な岩が天に向かって立っており、その頂上に小さな祠が安置されています。巨石には注連縄が張られ、この一画が神聖な場所であることをさらに強調しています。この山頂は加西との境にもあたる場所でもあります。
 巨岩の前の広場には法被姿の子どもたちが群れています。そこへ袋やお盆にお餅などを持った人たちが現れ、巨岩の上の祠にそれをお供え、拝んだあと、子どもの方に向かって硬貨やお菓子をまきます。子どもたちは歓声をあげながらそれを拾って用意した自分の袋に入れていきます。周囲では子どもの親御さんや家族がその光景を微笑みながらみています。子どもの中にはランタンを持ってきている姿も見られ、早朝3時から来る子どももいるとか。また、消防団は3班に分かれて5時から持ち場についているということも聞きました。

 この河高八幡の厄除け祭について去年のブログで紹介した文を再掲します。

 河高八幡さんは、今から約470年前の天文4年の創立とされ、「厄除けの霊験頗る顕著」なお宮さんとして知られ、厄除けのお祭りが毎年一月十九日に行われていました。この日には旧加東郡や加西、多可郡から多くの人が参詣したと聞きました。また、地区の子どもたちはこの日ばかりは学校を休んでお祭りに出たということでした。年輩の方の話では、前夜から友達と連絡を取り合い、午前三時頃から山の上に向かつたそうで、親も寝ておれなかった、ということです。戦後の一時期、女の子も参加したようですが、今は地区の男の子だけが参加できることになっています。この祭りを「奇祭」とよび、子どもがお金を拾うという行為を好ましくないなどという観点から一部の批判があったことは確かで、毎年新聞でそのようなコメントが付けられていました。しかし、このお祭りは厄除けの祭り、伝統文化、地域社会などの観点から見るとそのような表面的な見方だけの批判は的はずれといわざるを得ません。子ども達は拾ったお金を特別なお金として大切に使い方を考えたと聞くきました。また、拾っている姿を見ていると、年長の者が年少の者に配慮しながら拾っている姿もありました。成功した人が地域に感謝の気持ちを示すというこうした姿勢をこの子ども達がまた継承していき、地域の維持発展につながることになると思います。

 心配された天気も晴れて、地元の方から「ぽかぽの湯」の温泉たまごをいただいて、身も心も温まったお祭りでした。 
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孝女ふさの碑

2009年02月11日 08時16分17秒 | Weblog
孝女ふさの碑

 加東市上三草の旧街道沿いに「孝女ふさ」の碑があります。この歴史ブログでも紹介しましたが、先日もこの道を通った時に車を降りて、ふささんの生きた時代のことを想像したりしてしばし時を過ごしました。

 「ふさ」は、幼い頃からよく働いて親に孝行をつくしましたが、その生き方が戦前の修身教科書に「孝行」の模範として取り上げられていました(小学校修身書巻四の第八孝行)。この「彰孝碑」(写真)は、大正11年(1922)に建立されたものですが、題額は戦前の大ジャーナリスト徳富猪一郎(蘇峰)の筆になるもので、この地方の名勝の一つであったようです(『新修加東郡誌』)

 修身書の内容は次のような文でした。
「昔、播磨におふさという孝行な女がありました。家が貧しいため、八歳の時から、子もりなどにやとわれて、暮らしをたすけました。又父がざうりやわらぢをつくるそばで、わらを打って手つだひました。十一歳の時から、ほうこうにでましたが、主人からいただいた物は父母におくりました。又ひまがあれば主人のゆるしを受けて家にかへり、ねんごろに両親に仕へました」(『新修加東郡誌』)

 ふさは、18世紀半ばに社村(現加東市社)に生まれ、6歳のときに上三草村(加東市上三草)に養女に行きましたが、貧しい家だったので、子守りをしたり、奉公に出て一生懸命働きました。また、奉公のひまを見ては両親の世話をしていたのです。親への孝行ぶり、仕えた家への忠節に人々が感心し、庄屋さんを通じて殿様の耳にまで届き、異例の褒賞が下されたということです。
 
 親への孝行、奉公で仕えた家への忠節が模範とされたわけですが、ふさの生き方を今風に考えれば、親(家族)を大切にしたということ、そして高齢となった親に対して、やさしい思いやりをもって世話をしたということ、もちろん仕事をもってきっちり働きながらのこと。幼くして養女にやられ、その境遇を恨むことなく、養家の親を助け、身を粉にして働きながらひたむきに親に尽くして生きたふさの生き方から考えさせられることが多いと思います。息子や孫をかたって金をだまし取るオレオレ振り込め詐欺、高齢者虐待などはふさの生き方の対極といえます。単に古い社会での道徳ととらえず、今の私たちの社会や生活に照らしてみることも大切だとおもうところでした。 
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昭和7年ー知事来郡

2009年02月10日 05時22分58秒 | Weblog
 昭和7年(1932)2月4日、兵庫県知事の白根竹介が来郡(加東郡)するというので、各町村で歓迎が行われ、社町でも社警察署(現みなと銀行社支店の地)前にて歓迎を行うという町会議員、区長宛に対する案内が「雑書綴」に綴じられています。また、肥田文(現社市街地のイベント広場にあった旅館)で開催予定の歓迎会の案内もしてあります。


 拝啓 陳ハ本日白根本県知事来郡ニ付御繁用ノ折柄ニハ候得共御繰合セノ上同日午後二時四十分社警察署前ニ於テ御歓迎被下成度此段後依頼申上候也
 追テ各町村共自村ニ於テ歓迎可致事ニ相成居候間可成多数御参集相成度願上候尚同日午後五時肥田文ニ於テ歓迎会相開キ候間御参加ヲ歓迎仕候会費金弐円位ニ候間此段申添候

 二月四日
       社町長  石井市太郎

 町会議員 殿
 区  長 殿
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昭和7年-青年団が開く敬老会の案内

2009年02月09日 06時48分33秒 | Weblog
 昭和7年(1932)、社青年団による敬老会の案内状が出されています。招待券には第三回敬老会とありますので、昭和5年から始まったものとみてよいのでしょうか。「御達者で御座いますか」という書き出しの一言に青年の敬老への温かい精神がよく表れているように感じます。


御達者で御座いますか
 梅の蕾もふくらみまして白い雪の姿も見ずに新しい年が参りました、遅れ馳せ乍ら例年の通り敬老会を開きまして敬老をねぎらはしたく存じますので甚だお寒い折柄でありますが私等若い者の意を汲まれまして是非共御越し下さいます様僭越ながら御通知申上げます。

 尚附添の方一名必ずお越し下さる様御願ひます

 一月十日

               社 青 年 団
                 岸野助十郎

期日 昭和七年一月十三日 正午
場所 社元郡公会堂

  第三回敬老会
   招待券
  昭和七年一月十三日正午
  元郡公会堂

       様


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