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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

配給の時代-菓子

2006年12月30日 08時19分30秒 | Weblog
昭和17年5月-お菓子も配給

 さまざまな物資が配給となったこの時代に、家庭用の菓子も配給になっていました。
 昭和17年5月29日付の社町長から各部落会長宛の通知「家庭用五月分菓子購入券送付ノ件」から菓子の配給についてみると、次のようになっています。

○購入券の割当
 各家庭に対して     30銭券1枚
 0~4歳1人に対して  30銭券1枚
 5~13歳 〃     キャラメル2人当たり1個
             金10銭に付4人合に1枚
             を適当に組み合わせて配布

○販売
 5月29日より31日までに指定商店で購入券の記載通りに購入する。

 このような内容になっており、各への購入券配布数の一覧表が付けられています。購入券の割当は、必ずしも一定ではなく、6月分だと、0歳から13歳まで2人に対して20銭券1枚(1人キャラメル1個宛)となっています。
 どんなお菓子が買えたのか、当時を知る人に是非聞いてみたいものです。
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昭和18年-年頭の誓

2006年12月29日 07時32分20秒 | Weblog
大東亜戦争二年目-必勝の誓

 昭和18年(1943)の年頭にあたり、大東亜戦争必勝の誓いを呼び掛けたビラがあります。遠い昔のことのようですが、わずか60年余り前のわが国の姿を見ることができます。

 小学校に勤務していた昨年、老人クラブの方から戦時中の生活について体験談を聞く会を開きましたが、子ども達にとって、戦争、兵隊、配給といったことは普段の生活の中に、あるいは情報としてもほとんど入っていないために、まるで遠い昔の別世界のことのように受け止められていたように思います。

 こうした戦争の時代のことを直接聞く機会はこれから年々少なくなっていきます。今の間に戦争の時代を生きて体験されたお年寄りの体験談を子ども達が聞く機会を設けておく必要があると思います。体験を世代間でつないでおくことが歴史の連続性にとって大切なことだと思うのです。

 ビラの内容は次の通りです。

承詔必謹
◎さあ二年目も勝ち抜くぞ
◎今日も決戦 明日も決戦

昭和18年 年頭 必勝の誓

大東亜戦争第二年目の新年です
勝負は まさに これからです
戦ふ皇軍にことかかせぬやう
あくまで 生産を増強し
勝って 勝って 勝ち抜いて
敵を降参させませう
国内も戦場です
すべてが戦争生活です
誓って すめらみたみの限りなき
戦力を発揮いたします

  帝国在郷軍人会社町分会
  社  町  役  場

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配給の時代-肉

2006年12月28日 06時29分20秒 | Weblog
昭和17年-精肉の配給

 昭和17年9月の社町長から各区長充ての「九月分一般家庭用精肉購入券送付ノ件」通知があります。要約しますと次のようになっています。

○9月分第1回の精肉配給
・購入券は以下の割合で送付する。
 社区 5人以下1戸に対して50匁券1枚
    6人以上1戸に対して100匁券1枚
 その他の
    3戸に対し50匁券1枚
・指定販売所にて購入すること
 藤本精肉店の販売区域
  社本町より上の町、山国、田中、窪田、家原、上中、梶原、喜田
 藤野精肉店の販売区域
  社東条町より下の町、松尾、泉、鳥居、貝原、野村、西垂水
・販売日時
    9月6日午前10時~午後5時まで

以上のようになっています。
ちなみに50匁は約190グラムです。また、購入券の配布割合は必ずしも一定していませんでしたが、概ね上記のような割合で行われていたようです。



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配給の時代-石鹸

2006年12月27日 06時22分27秒 | Weblog
昭和17年-月に1個の石鹸で

 昭和17年(1942)7月分の家庭用石鹸割当に関する社町長から各区長宛ての通知があります。
 配給については、昨日のブログでさまざまな物資が配給になっていたことを紹介しましたが、そのうち、石鹸の配給についてみてみましょう。

 7月分の家庭用浴用並洗濯用石鹸の割当は、各家庭に各1個、計2個が配給されることになったので、各でまとめて購入するように、という内容の通知になっています。

 例えば、社は世帯数559,浴用石鹸割当567,洗濯用石鹸割当552となっており、ほぼ計画通りになっています。その他のはきっちり世帯数と割当数があっています。
 社では、1組から21組までの各組長さんが組に割り当てられた石鹸を購入しています。例えば、八組(中田町)は浴用石鹸割当34,洗濯用石鹸割当32、計66個を社信用購買組合で購入、組長内橋思太郎さんの署名捺印、というふうに一覧表が作成されています(写真)。



 
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こんなものが配給になっていた

2006年12月26日 06時38分08秒 | Weblog
昭和15年から18年-こんなものが配給になっていた

 「購入券配給書類」第一号(社町社区)から、当時、配給になっていたものをあげてみると、つぎのようになります。モノが溢れる現在の生活からみると、えっ、こんなものも配給になっていたのか、とびっくりすることも。
 書類には「第○回○○○購入券配布ノ件」と題した通知と、配給量(数)がきっちり書かれています。受取には各組長さんの署名捺印もあります。
 昭和15年12月から18年3月までの間、どんなものが配給になっていったのか、順番に挙げてみました。

綿製品
地下足袋
家庭用タオル
軍手
作業ズボン
日本手拭い
食糧油
綿縫針
家庭用植物油
小麦粉
氷砂糖(慰問用)
家庭用砂糖

正月用清酒
家庭用乾麺(うどん・そうめん)
清酒
アルミ・アルマイト
精肉

焼酎
家庭用金物
澱粉
新巻サケ
菓子
結婚及葬式用醤油
石鹸
家庭用ビール
家庭用応急米
生姜
高野及海苔、干瓢
チリ紙
家庭用(漬物味噌用)

新穀感謝行事用「キャラメル」
新年用各種物品(カズノコ、カツオブシ、スボシ、精肉)
正月用物資(イリコ、鮭、牛蒡、卵)
削節

以上です。
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貝原に弥生時代の住居跡

2006年12月24日 15時42分07秒 | Weblog
2世紀頃の竪穴住居

 国道372号線の工事現場で、弥生時代の後期、今から1800年余り前に貝原地区に人が住んでいた証拠である住居跡が見つかりました。偶然その発掘現場で説明会が行われているところを通りがかり、当時の生活地面に下り立ち見学させてもらいました。

 住居跡は一辺が3メートル余りのほぼ正方形の竪穴でした。少し狭いかなという印象をうけました。真ん中にはかまどの跡のような穴があり、黒ずんだ色をしていました。四隅には柱を立てた穴があり、深さはほぼ腕の長さほどもありました。
 遠い昔、さして広くもないこの場所に竪穴住居があり、人が火を燃やし、土器を使って煮炊きをしたのかと思うとやはり考古学はロマンがあるなあと思ってしまいました。また、発掘によって出土した土器片の中にはスタンプ模様のあるものもあり、非常に珍しいということでした。

 貝原の人は、この地は昔加古川の川底だったと聞かされてきた、そこに人が住んでいたとは驚いた、と話していました。発掘現場の方によれば、確かに加古川は社市街地の西から現在の流れの位置まで、時代によって流路を変えてきたので、川が流れたあとはある。しかし、時代や場所によって自然堤防ができ、そこに人は住居をつくり、それが集落となってきたので、ここに住居跡があってもおかしくない、ということでした。現在の貝原地区の集落のあるところは確かに少し高くなっている場所だそうです。

 弥生時代の住居跡のすぐ東に人の手によって掘られたとみられる低い池のような一画がありました。戦国時代のものらしいのです。それが何なのかは不明ということでした。

  

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豆腐の配給

2006年12月24日 07時16分55秒 | Weblog
昭和18年4月、豆腐の配給が始まる
 
 ここに昭和18年4月から19年3月までの社町社区の「購入券配給書類」第二号と表紙に書かれた書類綴じがあります。
 その中に豆腐の配給実施について、社町長から各区長に宛てた通知がありますのでみてみましょう。

昭和18年4月21日

一般家庭用豆腐配給ノ件

地方事務所ノ指示ニ依リ今後豆腐販売ニ対シ切符配給制ヲ実施スル事ニ相成候
就ハ販売所並ニ販売指定日時ニ購入スル様指示相成度
万一日時ニ購入セザル時ハ無効ニ付キ了知セシメラレ度
割当基本
社区一ケ月ニ一戸当リ約二個
各一ケ月ニ一戸当リ約一個
             
そして、四月分の豆腐配給割当表が書いてあり、大字名、戸数、割当数、購入店名が示されています。
例えば、
社、  戸数560、割当979、購入店社
山国、 戸数159、割当160、購入店山国
西垂水、戸数25、 割当25、 購入店家原
といったように。

 戦時中には統制経済のもと、さまざまなものが配給制になっていたことは知っていましたが、豆腐も一ヶ月に一、二個しか割当がなかったんですね。
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昭和12年-社、加茂、滝野三ヶ町合併参考書

2006年12月22日 05時43分14秒 | Weblog
合併後の通学区変更案

 昭和8年(1933)に社町と加茂村の合併協議が進んでいたことは以前にこのブログで紹介しましたが、ここに昭和12年7月の日付の「社、加茂、滝野三ヶ町合併参考書」と題した印刷物があります。「予算ノ部(抜粋)」と「学級編成其ノ他ノ部」の二冊ありますが、学級編成の方をみてみましょう。

 合併後の学級編成案考察

尋常科ノ部
◎第一案(社校を現在の儘となし加茂滝野に二校を設くる案)
 ※東(社校)、北(加茂に滝野町北部を加える)、西(河高、高岡のみ)

◎第二案(社校より上中を除き北校に編入する案)
 ※東(社校より上中を除く)、北(加茂校に滝野北部及び社町上中を加える)

◎第三案(社校より上中を除き北校へ、貝原、野村、西垂水を西校へ編入する)
 
◎第四案(社校より上中を北校へ、貝原、野村、西垂水、鳥居を西校へ編入する)

高等科ノ部
◎第一案(全町を一校に通学せしむる案)

 以上のようになっています。社町、加茂村、滝野町の三ヶ町村の合併が行われていたとすれば、その後どうなっていたのか興味深いですね。
 学校も北、東、西の3校に編成され、ひょっとしたら上中の子どもは北校へ、貝原、野村、西垂水、鳥居などの子どもは西校へ通うことになっていたかもしれません。
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疎開

2006年12月21日 05時31分11秒 | Weblog
昭和19年-疎開者の受け入れ

 ここに「防空対策疎開ニ関スル件」と題した印刷物があります。当時、疎開者をどのように受け入れていたのかを知る参考になります。

一、一般疎開者のための住宅斡旋
 1疎開は家族制度を破壊せず一家族を揃えて実施然れば住宅の不足を生ず
 2疎開者のため極力住宅の供出を切望す
 3各区に於て左記に該当する家屋は本月二十八日迄に取纏めて申告願いたし
  イ 一戸を構え得るもの
  ロ 一部改造に依り一戸を構え得るもの
  ハ 間貸しの出来得るもの
 4疎開者受入のため一部改造を要するものは県補助金あり
  二千円以下に限る 六割
 5以上一戸を差すは一家庭の離座敷又は一世帯の住居出来得る如きものを云う

二、疎開該当者とは(一般及縁故者を有するものを含む)
 1一定の仕送りを受けて生活を営むもの
 2職業と名の附く仕事なく生活を成すもの
3出征家族の婦女子のみ生活するもの
 4老幼病者
 5其の他防空活動に立働く事の出来ぬもの

◎此の際疎開該当者は速やかに実施せらる様県方針は七月中なり

三、其の他
 1疎開者に対する配給物資の斡旋及指導を特に依頼

四、縁故者関係
 1疎開該当者を有する縁故関係者は勧状を持って引取方の促進を計られたし

五、参考
 1老幼病者とは
  イ 老者  六十五歳以上のもの
  ロ 幼者  初等科六年以下のもの
  ハ 病者  永病人 ブラブラモノ

六、罹災避難者収容に要する寝具の供出に関する件
 1都市(神戸市、尼崎市)空襲のため罹災者収容に備えて布団の供出を願う
 2一戸当り二枚以上準備されたし 掛一枚、敷二枚
 3各区に於て何時でも供出出来得る如く用意願度
 4供出数量及個所は近日中に具体的に通知する筈
 5空襲時罹災者 社町割当人員を参考に記入
   割当人員 五千八百九十六人


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大東亜戦争一周年記念の日

2006年12月20日 06時17分00秒 | Weblog
昭和17年12月-開戦記念日を迎えて

 昭和16年(1941)12月8日、米英に対して宣戦布告をしてから一年後の17年12月、社町役場、社町銃後奉公会、大政翼賛会社町支部、社町翼賛壮年団名で「大東亜戦争一周年記念日を迎えて」と題した行事実施に関する1枚の印刷物が発行されています。
 読んでみると、開戦から一周年を迎えるにあたり、護国の英霊、その遺族、出征軍人の報国の赤心、労苦に感謝するとともに、国民各々がこの一年を「どんな事をしてきたか」「どんな風にして大詔にお応えしてきたか」「銃後の国民としてこれでよいのか」ということを反省して、一年前のあの日の感激を思い出し、新しく二年目の向かう決心を強く固めようとよびかけています。
 そして、「戦は今からだ」勝って勝って敵米英を撃破るまで「何がなんでもやり抜くぞ」の意気を昂めるために開戦一周年記念日の前後一週間を記念行事の日と定めて次のような行事の実施をあげています。

○前三日間(12月5、6、7日)
 経済道義を昂めることにつとめる
 ・商業者は闇を絶滅し、配給の円滑公正を図る
 ・生産者は増産につとめ、統制通り供出又は需給する
 ・消費者は物を粗末にせず感謝の心持で暮らし戦時の暮らし方をよく考える
○当日(8日)
 ・国旗掲揚(起床から午後5時)
 ・大詔奉読式、祈願祭を午前9時から佐保神社で行う(各戸1名参列)
 ・戦没者慰霊祭を忠魂碑前で行う
 ・戦没者墓地の清掃、墓参
 ・銃後奉公会記念式
 ・軍人遺家族慰安会、銃後慰安会
○後三日(9,10,11日)
 戦争2年目に向かう決心をする
 ・貯蓄の一層の励行、230億貯蓄達成
 ・農産物工業品の増産
 ・「空襲は必ずあるもの」という気持ちで防空準備を進める
○全期間を通じて
 各隣保、各戸、個人等で慰問に努める

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昭和18年-隣組回覧

2006年12月19日 06時22分08秒 | Weblog
通信の防諜

 昭和18年(1943)4月、大阪逓信局と兵庫県警察部が作成した隣組回覧ビラがあります。
 「通信で敵の反撃にスキを与えるな」「通信の防諜 その心がけ一つ二つ」と題したもので、郵便や電信・電話などの通信が敵のスパイに利用されないよう、内容に注意するようにというものです。
 ビラのなかで、「通信してはならないもの」として、次のことが挙げられています。

・召集、徴発、輸送、艦船部隊の行動、戦況その他軍機に渉ること
・船舶の発着日時
・生産状況や職場の秘密
・物資の配給模様や国内経済状況
・不平不満其の他戦争の妨げになる事柄
 (こう云ふことを通信すると処罰されることがあります)

 戦争が長期化し、敵の反撃が行われるようになって、国民生活も苦しくなるなか、軍事に関することや戦争への批判、不満などが出ないようにするための対策だったと考えられます。

 ビラの最後のところにこう書いてあります。
※当局でもスパイに利用されそうな通信は検閲して取締まって居りますが此の上とも皆さんのご協力をお願ひします。

 


  
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軍用飛行機の献納

2006年12月18日 06時32分52秒 | Weblog


 昭和7年(1932)といえば、満州国ができ、五・一五事件が起きた年です。ここに「軍用飛行機献納醵金募集に関する趣意書」と題した一枚のビラがあります。
 これは、航空機の発達によって、偵察や爆撃、連絡などに威力を発揮するようになった軍用機を充実させようという趣旨で、兵庫県の各種団体が県民に醵金を募集したものです。

一、目的
 事局ノ重大性ニ鑑ミ軍用飛行機ヲ献納シテ愛国ノ至情ニ燃ユル県民ノ意気ヲ表明セントス
二、計画内容
 軍用飛行機 壱機(予定価格約拾萬圓)
三、募集範囲 県下一般
四、醵金標準額
 県下各中学校 一生徒当 金三十銭以上
 同 各小学校 一児童当 金二銭以上
 青年団    一人当  金十銭以上
 女子青年団  同    金五銭以上
 婦人会    同    金五銭以上
 軍人会    同    金五十銭以上
 赤十字社
 愛国婦人会  同    金二十銭以上
 其他各団体       別に定めず
 学校教職員官公吏ハ月収二百分ノ一ヲ標準トス但金三十銭ヲ下ラザル事

今も赤い羽根やユニセフなどの募金がありますが、当時はこのような軍用機献納募金があったのですね。

 
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昭和26年の佐保神社秋祭

2006年12月17日 07時00分27秒 | Weblog
この写真は昭和26年(1951)の佐保神社秋祭のものです。
境内拝殿前には2台の太鼓屋台が練っています。上組と下組でしょうか。
境内の奥(西)にももう1台屋台が見えます。
屋台を担いでいる人の服装をみると、法被は着ていません。
境内は大勢の見物客で溢れています。
まだ占領下にあった時代ですが、こうして伝統行事はまもられ続けられてきたのですね。
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昭和2年-時の記念日

2006年12月16日 07時46分36秒 | Weblog
時の記念日に煙火

 6月10日は「時の記念日」ですが、昭和2年(1927)、社町では煙火を打ち上げるなどの取り組みが行われています。「時ノ記念日六月十日ニ関スル件」(社町長から各区長宛ての通知)から、どんなことが行われたかみてみましょう。

○午前6時、正午の2回元加東郡公会堂の広場から煙火を打ち上げて正確な時を知らせる。
○同時に各社寺の鐘、消防の警鐘を一斉に2分間鳴らす。
○各家庭にあってはこれをもとに時計を正確に合わせるなど、時を大切にする意識をもつ。

 また、兵庫県としての次のような取り組みもありました。
○6月7日から12日まで、大丸呉服店で県主催の時計歴史展覧会を開催
○神戸市及び明石市で時に関する講演会を開催
○10日正午一斉に汽笛、サイレンを鳴らす
○「守れ時、惜め時」の小判形宣伝ビラを印刷、配布
○明治天皇御製入りの時間割絵葉書を印刷配布
○各学校で時に関する教材を加え学生に訓話する

 それにしても積極的な取り組みだと思いませんか。 
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赤岸の観音寺で義士祭

2006年12月15日 05時31分09秒 | Weblog
加東市になって初めての義士祭

 12月14日(木)、加東市家原の赤岸にある観音寺で義士祭が開かれました。これまで社町赤穂義士祭として行われてきましたが、今回は加東市赤穂義士祭と名を改め、法要や市内中学駅伝大会、剣道大会などが行われました。また、境内では地元家原地区の女性らによる甘酒の接待や、奉賛会のくじなども行われました。
 
 観音寺の境内に赤穂義士四十七士の墓標がつくられたのは、元禄15年の討ち入りから約150年後の弘化4年(1847)のことでした。また、義士祭が行われるようになったのは昭和のはじめ頃といわれています。加東市になってもこうして義士祭が継承されていくことになり、よかったと思います。

 赤穂義士と当地との歴史的関係について、詳しいことは、この郷土史ブログの7月4日、5日投稿の欄に書いていますので、興味のある方はのぞいてみて下さい。
写真は境内の墓所で手を合わせる園児たちの姿です。

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