『滝野つたえぐさ』(滝野町老連編、平成5年刊)には、今ではなくなってしまった貴重な昔の話が掲載されています。自分自身の小さい頃の思い出と重なるところがあったりして懐かしく読むことがあります。
「お彼岸の行事について」という題で、河高地区の大久保いと子さんが彼岸の行事であった「日迎え、日送り」について寄稿しておられます。
彼岸(春と秋)の中日には、日の出前に弁当を持参で家を出て、午前中は東の方へ向かって太陽を迎えに行き、午後は太陽を送って西の方へ向かって歩いたものと書いておられました。
途中、地区の中に地蔵堂、観音堂、薬師堂で家族の無病息災を祈り、一日中外で過ごしたということです。家の前を通っても家の中には入らなかったとも書いておられました。 昨年の11月に河高地区で歴史ウォーキングが行われ一緒に歩かせてもらいましたが、その途中に地蔵堂にも寄りました。大久保さんは、田んぼの畦でお弁当を食べたり、レンゲ畑、彼岸花などの自然の中で過ごした子供の頃の楽しい一日の事を懐かしんでおられます。そのようすを思い描くとまるで夢のような風景です。
「日迎え、日送り」の行事の由来は分かりませんが、その奥底にあるのは、縄文人以来の日本人のDNAに由来するものではないかと勝手に思い込んでしまいます。縄文人は彼岸の日の出と山の位置をストーンサークルなどで神聖なものと表現していたという話も聞いたことがあります。河高の地蔵さんはウオーキングでは印象に残る半跏像でした。
今はもうそうした行事はないようですが、実は今こそ復活したい行事だと思います。日迎え、日送り。お弁当を持って出かける日。いいですねえ。
「お彼岸の行事について」という題で、河高地区の大久保いと子さんが彼岸の行事であった「日迎え、日送り」について寄稿しておられます。
彼岸(春と秋)の中日には、日の出前に弁当を持参で家を出て、午前中は東の方へ向かって太陽を迎えに行き、午後は太陽を送って西の方へ向かって歩いたものと書いておられました。
途中、地区の中に地蔵堂、観音堂、薬師堂で家族の無病息災を祈り、一日中外で過ごしたということです。家の前を通っても家の中には入らなかったとも書いておられました。 昨年の11月に河高地区で歴史ウォーキングが行われ一緒に歩かせてもらいましたが、その途中に地蔵堂にも寄りました。大久保さんは、田んぼの畦でお弁当を食べたり、レンゲ畑、彼岸花などの自然の中で過ごした子供の頃の楽しい一日の事を懐かしんでおられます。そのようすを思い描くとまるで夢のような風景です。
「日迎え、日送り」の行事の由来は分かりませんが、その奥底にあるのは、縄文人以来の日本人のDNAに由来するものではないかと勝手に思い込んでしまいます。縄文人は彼岸の日の出と山の位置をストーンサークルなどで神聖なものと表現していたという話も聞いたことがあります。河高の地蔵さんはウオーキングでは印象に残る半跏像でした。
今はもうそうした行事はないようですが、実は今こそ復活したい行事だと思います。日迎え、日送り。お弁当を持って出かける日。いいですねえ。