ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和12年-持宝院で出征軍人祈願祭

2009年10月29日 04時49分41秒 | Weblog
 盧溝橋事件に端を発した北支事変が起きた昭和12年7月から14年2月までの軍事関係文書を綴じた社区事務所の文書綴の中に、社の寺院で出征軍人の祈願祭が行われるという内容の文書がありました。
 昭和12年(1937)といえば、72年前のことです。持宝院は加東市社にある寺院で、加東四国八十八ヶ所の八十八番霊場で、日本一木造大師で知られていますが、この寺院でも郷土から出征していった軍人の武運が祈願されたのですね。
 文書は次の通りです。写真は昭和10年代の持宝院です。


拝啓仕候時下梢ニ錦スル好季ニ御座候各位弥々御多祥ノ御条奉大賀候
扨テ左記要領ニヨリ出征軍人祈願祭執行仕条御参拝ノ上御祈念ヒ下度奉懇願候

 昭和十二年十一月十三日  加東郡北部真言寺院一同

社区長 殿

       記

一、会 所   社町 持宝院
一、日 時   昭和十二年十一月十六日午後七時
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年-軍事扶助委員

2009年10月28日 04時35分26秒 | Weblog
 「軍事関係往復文書綴」(社区事務所)の中に、軍事扶助委員に関する文書がありました。支那事変が起こり、動員された軍人の遺家属の扶助を行う役目の委員で、社区(現在の加東市社)の委員一覧が付けられています。社区を三地区に分け、それぞれ担当の委員氏名が書かれていますが、その中に父、藤本豊治の名前もありました。文書は次の通りです。


拝呈秋冷ノ候益々御清栄ノ条奉大賀候
陳者今回ノ事変ハ永続性ナル事ヲ顧慮セラレ銃後ノ護リノ益々堅キヲ要スルトキ軍事扶助ノ必要モ亦加ハルモノト思惟セラレ左記ノ諸氏ハ其ノ軍事扶助委員ヲ嘱託セラレ居リ候ニ付銃後ノ事ニ就キ種々ナル御相談又ハ質問等有之候節ハ御遠慮ナク最寄リノ委員ヘ御相談相成度此段銃後ノ御慰問旁々御通知申上候

 昭和十二年十月 日
             社区長 神田栄太郎
在営
応召 軍人遺家族各々 様


   左記

軍人扶助委員 氏名

担当区域    氏 名     氏 名

社町一円    依藤金作   末廣正夫
社区一、(下町一、二部 下中町 宮ノ前)
        阿江信太郎  岸野助十郎  衣笠三之助
社区二、(本町 上中町 東条町 西浦)
        黒石丑吉  神崎壽景  松本與七郎
社区三、(元町 老松町 田町全部)
        末永仙太郎  藤本豊治  神田ムラ  神田栄太郎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年-軍人支援について区長各種団体が協議

2009年10月26日 05時15分07秒 | Weblog
 昭和12年(1937)、郷土から出征する兵士への支援のあり方について、区長各種団体の協議が行われています。社区事務所の「軍事関係往復文書綴」に綴じられている決定事項を紹介します。
 兵士の歓送、遺族への慰問、援助、公葬、見舞等について、町、区、団体の役目が取り決められています。

昭和十二年九月一日 区長各種団体協議会決定事項

一、出征、応召軍人歓送ノ件
爾後動員下令ニヨリ応召出発ノ場合歓送ニ付一般ノ配慮ニヨリ後荒レノナイ様セラレ度

二、出征応召軍人慰問並ニ遺家族扶助ノ件
イ.出征兵ヘノ各団体ヨリセラルル慰問ハ町ニ於テ総合的ニ行フニ付団体ニ於テハナサザルコト
ロ、遺家族ノ慰問ニハ一回一円・・・五拾銭程度ノ慰問品ヲ贈呈ス(各種団体長モ共ニ慰問ス)
ハ.応召、出征軍人遺家族中生活困窮者ハ左ノ順ニヨル
 1.軍事扶助
 2.軍人講演会、其ノ他ノ扶助団体
 3.町軍事後援会(各区長ヨリ申出ラレ度、町ハ方面委員ト連繋)

三、戦病没者公葬ニ関スル件
町葬トシ経費ハ 二百円以内トシ町ハ香料ヲ出サズ
軍事後援会名義ニヨリ香料トシテ五拾円ヲ贈ル(各区、各団体ハ贈ラズ)

四.戦傷病見舞ノ件
見舞ハ戦傷病タルコトノ公電又ハ公報アリシモノノミトス
見舞金ハ 町五円  各種団体 壱円
     各区(当該区ノミ) 五円トシ各区内各種団体ハ同時ニ見舞ヲナシ金品ヲ贈ラズ
平癒祈願  町ハ一回佐保神社ニテ行フ
      各区ニテ行ハレルハ別トス

△尚 皇軍武運長久 平癒祈願  各鎮守ヘ日参スルコト(代表シテ輪番)国防婦人会ニ依頼

五.軍人講演会費ニ関スル件
各区戸数ヨリ出征応召軍人実数ヲ減ジタル戸数ニ賦課シ区毎ニ徴集ス
一戸ハ二円以内
委員ハ後刻指名依頼ス
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年-安取三叉路で遺骨凱旋

2009年10月24日 04時10分48秒 | Weblog
 私たちが歩いている道の中には、昔から人や物が行き交った古い道があります。道標が立っていたり、古い家並みが連なっていたりして、歴史を感じることも少なくありません。
 巡礼の道、米の道、学校道などその時代の中での役目を果たしてきた道ですが、今はその役目を終えて静かに余生を送っているかのように感じられる道もあります。
 戦前、戦中に郷土から出征し、あるいは凱旋する兵士を送迎した道もあります。ここに昭和12年(1937)の年末、南京陥落で国中で祝勝の提灯行列などが行われたなか、遺骨となって凱旋する郷土出身兵士を迎える道がありました。
 加東市河高の安取(あっとり)三叉路が遺骨凱旋兵の出迎え場所でした。社区事務所(現在の加東市社)の「軍事関係 往復文書綴」(自昭和十二年七月至昭和十四年二月)の中にその通知が綴じられています。


昭和十二年十二月二十一日
       社 町 長   大 橋 實 次

町会議員
区長
各種団体長及副長
軍友会役員
在郷軍人会□長
青年団支部長    殿
消防団小頭
学校長
国防婦人会支会長
女子青年支部長

  遺骨凱旋ノ件

今次事変ニ於テ戦死セラレシ福田、米田村出身勇士ノ遺骨二柱ノ凱旋時刻左記ノ通リ決定セラレ候条前例ニヨリ滝野町河高(安取)三叉路ノ上迄御出迎ヘ相成度及通牒候也
 追而、社、鳥居、貝原、各区ノ沿道ノ弔旗掲揚願度
凱旋ハ十二月二十二日午後五時頃 滝野町安取三叉路


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田町の法連寺

2009年10月23日 05時01分35秒 | Weblog
 加東市社の市街地を東西に田町(たまち)通りが走っています。田町通りは、市街地のほぼ中心にあたる加東市商工会館前の交差点からほぼ真っ直ぐ東にのびる道筋で、東は社郵便局南の道池交差点につながります。かつては商店が連なり社で最も賑わった通りだったと聞いています。このブログでも何度も紹介してきましたが、かつて、米穀取引所や牛市場、食料市場などがあり、歳の市や誓文ばらいには多くの人出があって歩くのさえ大変だったそうです。そんな田町も今はその賑わいはなく、シャッターの閉まったままの店舗や空地が目立つばかりです。

 さて、この田町通りの東の入口付近に法連寺があります。『加東郡誌』の仏堂一覧の筆頭に「妙法講顕正結社教会所」とあり、本尊は日蓮上人と記されています。狭い通りに面して門柱があり、中に入ると庭の奥に教会所の建物があります。
 「昭和十六年度以降 各種報告書綴 調査資料共 社町社区」の中に葉書大の紙にこの法連寺で行われた儀式の案内状が綴じられていました。正確には裏紙として使われた案内状が綴じられていたのです。

  御案内

来る本月二十日(土曜日)例年の通り宗祖大聖人報恩御会式を修行しますからどうぞ御参詣下さい
 一、午前十一時  粗供養呈上
 一、午後一時   御会式法要
御案内申上げます

 昭和十六年十二月
       加東郡社町田町
            法 連 寺
            世話人一同


 この案内状は書面にある通り昭和16年(1941)年の年末のことですから、ちょうど真珠湾攻撃が行われ、大東亜戦争が勃発した時のものです。
 写真はその法連寺の境内で撮影されたものですが、田町通りの家にあったものです。いつのものかは分かりませんが、戦前のものだと思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保神社秋祭り

2009年10月22日 09時25分14秒 | Weblog
 10月6日の投稿から2週間余り休んでいました。今日から復活します。
 その間、10,11日には、地元、社の佐保神社の秋祭りがありました。昔から「北播三大祭」の一つと、その盛大さで近隣によく知られた祭りですが、神輿に続いて、4台の太鼓屋台が伊勢音頭で勇壮な宮入りを披露します。屋台は、氏子である社地区の上組と下組、上中地区、新町地区の屋台で、美しく飾られた屋台が揃って巡行する光景や宮入り、練り合わせは見応えがあります。私も上組の一員として青年の頃から上組屋台に関わってきましたが、この祭りで毎年太鼓を担げることが秋最大の楽しみになっています。
 写真は宮入りをして拝殿正面に据えられた上組屋台の前で撮った写真です。上組の太鼓は姿に気品があり、美しいことで人気があります。この歴史ブログでは、戦前の上組の太鼓の写真、昭和30年代の宮入りの写真なども紹介してきましたが、地元に伝わるこの太鼓を次の世代に確実に伝えていくことが私たちの世代の大事な仕事だと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天神の一之宮神社

2009年10月06日 05時52分18秒 | Weblog
 4日(日)、加東市天神の一之宮神社の秋祭りが行われました。天神の市街を見下ろす山の中腹に一之宮があります。地元の方の話では、その歴史は古く、素盞鳴尊が地方を巡見の折りにこの地で休憩された跡を祀ったことに由来し、椅鹿寺の鎮守の社であったとも聞きました。
 境内に立って拝殿を望むと、その背後には鬱蒼たる木々に覆われた杜が衝立のように広がり、山全体が神域のような感じを受けます。また、南側を望むと、谷間に広がる棚田が美しく見渡せました。地元の方は東条でも棚田があるのはこの谷だけではないか、と話しておられました。
 氏子は天神をはじめ東条地区の椅鹿谷、岩屋、岡本や黒谷、そして隣接の米田地区の廻り淵にもあると聞きました。午後2時頃、境内に各地区の子どもが担ぐ神輿が宮入し、そのあと、中学生の女子の巫女による舞が奉納されました。境内の能舞台では余興の準備もされ、綱渡りもあるということでしたが、舞の奉納を見て神社をあとにしました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野の住吉神社-鎮守の杜で屋台練り

2009年10月05日 04時05分44秒 | Weblog
 4日午後、加東市牧野の住吉神社の境内に太鼓屋台が宮入しました。朝から村中を練ってきた屋台が午後3時頃ようやく鎮守の杜の坂道にさしかかり、宮の境内に入ります(写真)。
 56戸の牧野地区でこの秋祭りの伝統を守り伝え、見事な屋台太鼓を差し上げて宮入が行われるのです。飛び入りで法被を借りて担がせてもらいました。経験から、この少ない人数で太鼓屋台をかくことが出来るとは到底思えませんでした。しかし、掛け声とともに屋台は差し上げられ、ゆっくりとしたリズムで境内を練りました。
 汗びっしょりになりながら担ぐ屋台、上を見上げると鎮守の杜の緑とさらにその上に真っ青な空の色が広がっています。鮮やかな赤の布団張りに金糸の綱と金色の飾り物がまぶしく光り、映えています。
 拝殿正面には龍の見事な彫り物がありました。その眼は生きているかの如く鋭く光っています。区長さんに作者、姫路の長谷川義秀の名が彫られていることを教えてもらいました。
 教師時代の教え子が村の青年として立派に成長し祭りの役を立派に務めている頼もしい姿に嬉しさも倍加しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和17年-味噌漬物製造用の塩配給

2009年10月04日 05時12分56秒 | Weblog
 戦前の社町社区(現加東市社)の「各種報告書綴」の中に昭和17年(1942)の配給物資に関する資料が綴じられています。その一つに味噌や漬物製造用の塩の申込み書があります。
 当時は砂糖や塩は配給物資になっており、各家では購入希望分量を書いて隣保、組で取りまとめて区長に申込みをしていたようです。申込み書は形式が定まっているわけではなく、さまざまな大きさ、裏紙などを使って手書きされたものがそのまま綴じられ、当時の生活のようすが伝わってきます。そのいくつかを紹介ます。
写真は①のものです。


  申込書

味噌製造用白塩
  壱貫参百匁

 兵庫県加東郡社町本町七三一
      上月政雄
社区長殿



  自家用味噌製造塩請求願
    
   兵庫県加東郡社町社一三八〇番地
   善龍院        亀田隆圓

一、自家味噌製造塩 一斗五升
   寺院用並ニ世帯用(人員十二名)

社区長殿



  味噌入用之塩左記之通

八人 五升   松本與七郎
三人 五升   藤原與吉
四人 五升   石井とよ
二人 五升   藤井
形十七人    計四戸
  
 第十二組々長  泰井久治郎

社区長殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和17年-経済警察

2009年10月03日 03時57分45秒 | Weblog
 戦時中の社町社区(現加東市社)の各種報告書綴の中に、「経済警察」に関する通知が綴じられています。国家総動員法の下、統制経済における違反を取り締まるため経済警察が設けられましたが、これに関連する社町長から部落常会長に宛てて発せられた通知を紹介します。


昭和十七年一月二十二日
            社町長  合田常蔵

各部落常会長殿

 経済警察回覧板送付ノ件

本月二十日繊維製品配給消費統制規則ノ公布相成二月一日ヨリ衣料切符ニ依リ購入スル事ニ相成候就ハ別紙ノ通リ社警察署経済保安協会ヨリ経済警察回覧板ヲ作製セラレ違反ヲ行フ事ナキ様注意セラレ候条隣保回覧相成度此段御依頼申上候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛国婦人会入会申込書

2009年10月02日 04時47分30秒 | Weblog
 昨日も紹介した「昭和十六年度以降 各種報告書綴調査資料共 社町社区」の中には、各組や隣保などから提出された手書きの報告がたくさん綴じられています。用紙はまちまちで、組合や店の用箋、通知などの裏紙が数多く使われています。
 その一枚に、石炭の申込書があり、それは愛国婦人会の入会申込書の裏に書かれたものでした。愛国婦人会という名称は耳にすることはあっても、その入会申込書を見るのは初めてでした(写真)。

 記入項目を挙げると次の通りです。

入会申込書
入会   年  月  日
資格 特別維持会員  特別会員  通常会員
会費 年賦   一時出金
右入会申込候也
愛国婦人会兵庫県支部御中

これらの記入欄のほか、分会名、会員の住所、戸主名・続柄、生年月日、会費納入、紹介者などの欄があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年-隣保の人員報告から

2009年10月01日 04時39分55秒 | Weblog
 終戦の年、昭和20年(1945)の3月の日付の隣保人員報告書が「社町社区事務所 各種報告書綴」に綴じられています。
 この報告書は「第八組」のもので、今の加東市社の中田町(なかたまち)町内会にあたります。組長の藤本豊治は私の父です。当時は30代半ばだったはずです。
ところで、田町筋には西、中、東の3つの町内会がありますが、報告書によれば、第八組すなわち中田町は、当時37戸あったことがわかります。現在はずいぶん減って中田町の戸数は15戸、半分以下になってしまいました。
 報告書に書かれた字は懐かしい父の字でした。また、使われている用紙は加東郡食料品小売商業組合の用箋で、市場に勤めていた父が使ったものと思います。人員報告の続きには、「鶉野出役人名」(加西市鶉野飛行場建設奉仕作業)が書かれていました。
 この年、5ヶ月後に終戦を迎えることになります。報告書は次の通りです。

 
 昭和二〇年三月十六日
      第 八 組 長
           藤 本 豊 治

 副区長 殿

一、第八組人員異動報告ノ件

当組隣保構成人員三月十四日現在左記ノ通異動有之候条今後人口基準配給其他ノ際可燃処置相成度右異動報告段及報告候也

  記

一、世帯戸数   三七戸
一、住民人口数 一六三人
          男 七五人
          女 八八人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする