ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

大正末の米田小学校の写真

2014年10月31日 04時58分06秒 | Weblog

 10月16日(木)、加東市立米田小学校でオープンスクールが行われました。校長室や学校の廊下などには学校の歴史を伝える古い写真などが掲げられていることが多いものですが、米田小学校にも古い校舎の写真がありました。

 キャプションには「大正15年の校舎」とあります。今から88年前のものということになります。木造平屋建で、よく見ると、校舎の屋根は白く光り、校門には日の丸が掲げられており、天幕や万国旗のようなものも写っています。式典の記念写真のようで、ひょっとしたら新築記念かもしれない、と思ったりしました。

 当時の家並みや風景が写っており、そうした中で、この米田小学校の校舎は一段と光っていたことでしょう。

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郷土の特産「山田錦」や偉人を学ぶ-東条西小

2014年10月30日 05時13分04秒 | Weblog

  

 10月17日(金)、加東市立東条西小学校の学校オープンが行われ、授業を参観したり、校内を見てまわる機会がありました。市内の小学校では10月頃にこうしたオープンスクールが行われ、保護者はもちろん、学校評議員や見守り隊、地域の住民に広く学校を公開するオープンスクールの機会を設けています。できるだけ足を運んで子供達の学習のようすや学校の施設、設備などの状況を見るようにしています。

 さて、東条西小学校の廊下の壁面に、子供が模造紙に書いて発表した学習成果が掲示してありました。内容は東条特産の酒米「山田錦」について調べたものでした。山田錦は酒米の王様とよばれ、兵庫県産の山田錦は最高の品質で知られています。北播磨の気候風土がその栽培に適しており、中でも東条や三木市吉川地区は特A産地になっています。

 子供達がそうした郷土の特産物に関心を持って学習していることがよく分かります。また、その隣には、兵庫版道徳副読本に取り上げられている郷土の偉人の一覧が示され、写真と名前が見やすく掲示されていました。兵庫版道徳副読本は県内のすべての小中学生に配布されており、道徳の時間をはじめ、朝の時間や家庭でも使えるようになっています。

 子供が郷土の特産物や偉人について学ぶことで、郷土への愛着や誇りを育むことにつながります。兵庫県が力を入れている「ふるさと意識の醸成」は教育の現場でもこうして行われていることを実感しました。

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加東の秋の空高く-東条おもちゃ王国

2014年10月29日 06時49分18秒 | Weblog

              

 10月18日(土)、加東市の空は雲一つない秋晴れでした。まぶしい日差しに皮膚が痛く感じるほどでした。その秋空に向かって伸びるクレーン車のアーム。これは、東条湖おもちゃ王国前の駐車場で開催された「はたらくくるま大集合inかとう」(東日本大震災復興チャリティーイベント)で、今回で13回目。消防車、パトカー、クレーン車、バス、ミサイル車(自衛隊)などさまざまな自動車が展示され、ミニ制服を身に着けての乗車体験などには長い行列ができていました。

 見上げるクレーンの2本のアームを結ぶロープには加東市特産の播州鯉の鯉のぼりが泳いでいました。地上は黄金色に色づいた稲穂、そして青一色の空、加東市の秋の一日でした。

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永福(長谷)の交差点を見守る道標

2014年10月27日 05時08分04秒 | Weblog

 中国自動車道の東条インターから東条湖へつながる道路と県道が交差する加東市永福の信号のインター側西側の斜面に赤いよだれ掛けがつけられた石柱が立っています。花が供えてあり、地蔵さんかなとも思いましたが、車を止めてよくみると、道標のようでした。文字が刻まれていないかと思い、失礼してよだれ掛けをめくってみましたが、表面は風化していて剥がれており、文字や仏像などが刻まれているのを確かめられませんでした。側面や裏面も見てみましたが、確認できません。しかし、その高さや太さ、立っている場所などから考えて道標なのだろうと思いました。

 帰宅して調べてみると、やはり道標でした。字の一部が確認されていたのです。今では地元の方から地神様として祀られているそうです。これまでよく通っていた道なのですが、気がつきませんでした。

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昭和初期の社町の地図から-神姫自動車や中国合同電気など

2014年10月26日 06時07分35秒 | Weblog

    

中国合同電気(今は関西電力社営業所)  社税務署(後に社町役場、今は消防会館)

 

神姫自動車営業所(現在は宅地など)    八志路幼稚園(今は宅地)

 昭和初期の社町(中心部)の地図から、当時の懐かしい商店の名前を紹介しています。今回は社の中心部から北の商店を紹介します。持寶院、善龍院、観音寺などの寺院をはじめ、中国合同電気(現関西電力)や涌羅野義塾(現ゆらのホール)、神姫自動車営業所、幼稚園、税務署(のち社町役場、現在は消防会館)なども記されています。現在も営業を続けておられる商店も少なくありません。地図、写真と比べ合わせて見て下さい。

〔田町通りとの三叉路から北へ(東側)〕

 石井自転車店  西角飲食店  於多福呉服店  伊藤歯科院  (路地)  料理小田店  中国合同電気   たまのや  三木徳用品店  金川菓子店  西村自転車  生頼理髪  臼井商店  神姫自動車会社営業所  赤穂義士観音寺  田村精米所  料理可笑楼

 ◇小田店から東へ入り、田町通りから北へ延びる道筋に  税務署

 ◇金川菓子店から東へ延びる道筋に  芹生御宿  内橋製麺所  幼稚園 

〔田町通りとの三叉路から北へ(西側)〕

 玉屋洋服店  大熊硝子店  料理多津之家  増田雛人形店  於多福西店  藤原電気商店  料理旅館松葉  末永商店 (持寶院への道) 門脇洋服店  山本飲食店  善龍院

 ◇持寶院 (向かいに) 涌羅野義塾     

 

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昭和初期の社町の地図-郵便局や銀行、検番も

2014年10月25日 04時45分11秒 | Weblog

 

 昭和初期の社町(中心部)の地図に見える商店を紹介してきています。今日は社商店街のほぼ中心部の店を紹介します。地図を見ると、現在、加東市商工会館になっているあたりに元は銀行と郵便局があったことが分かります。また、今年亡くなられた明治43年生まれの方が「ここに検番があったんや」とよく話されていました。料理旅館の肥田文も今はイベント広場という名の駐車場になっています。涌羅薬局も今は商工会館の駐車場に変わっています。写真は東播合同銀行と当時の社市街地を南東から撮影したものです。

 〔銀座通りの三叉路から田町入口まで東側を南から〕

 (山氏神社の参道)  上月堂印舗  原田メガネ店  合資会社岸熊商店  シナノヤ  料理旅館肥田文  宮野料理店  三紫食糧品店  藤本精肉店(田町通り)

 〔銀座通りの三叉路から田町入口まで西側を南から〕

(佐保神社への路地)  臼井鉄店  照本文具店  吉田屋菓子店  三木屋アラモノ  臼井呉服店  やよい食堂  涌羅薬局 (路地)  東播合同銀行  〒社郵便局  上月商店(路地)  

〔路地を入った所〕  社町検番    

 

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昭和初期の社町の地図より-公会堂、三階、梶原書店辺り

2014年10月24日 04時52分28秒 | Weblog

                 

 昭和初期の社町(中心部)の地図には、多くの商店と役所などが記されており、当時の繁栄ぶりを知ることができます。これまで、田町通り、警察署や裁判所辺りを地図と写真で紹介してきましたが、今日は商店街の南にあたる辺り、元加東郡公会堂、社町役場、佐保神社の周辺を紹介します。80年以上を過ぎた現在、小笠原時計店や梶原書店など、同じ場所で営業している店もあります。写真は昭和10年代のもので、南本町辺り、公会堂、佐保神社です。また、当時、社町役場は元郡公会堂の隣にありました。

 公会堂から、三階交差点までの商店は次のとおりです。

〔通りの東側を南から順に〕

 増田飲食店  岸本活版  小林陶器店  土井コマモノ  宮崎金物店  蓬莱医院 烟草元売捌  阿江洋服店  東播三郡酒造組合

〔通りの東側を南から順に〕

 公会堂  山崎飲食店  坂田楼  山本電気店  ミカサ三味線  堀本写真館

〔公会堂から佐保神社参道へ〕

 社町役場  社信用組合  料理坂田支店  丸山飲食店  吉田飲食店  吉田リハツ店

〔三階交差点から銀座通り三叉路まで通りの東側を南から順に〕

 料理旅館 三階楼  岸熊商店  社活版所  井野雑貨店  肥田呉服店  小笠原時計店 〔山氏神社参道〕  肥田商店  松本海産物  料理ときわ  小林洋服店

〔三階交差点から銀座通り三叉路まで西側を南から順に〕

 自動車待合  加司飲食店  株式会社東播合同銀行  伊勢屋ハキモノ  井上時計店  関東呉服店  日本銀行代理店  堀本国文堂  横山コマモノ  藤原洋服店  藤岡ハキモノ  梶原書店

 

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昭和初期の社町の地図よりー裁判所・警察署・佐保座辺り

2014年10月23日 04時30分52秒 | Weblog

  

 

   昭和初期の社町(現在の加東市社)の中心部の地図から、当時の商店の名前を紹介していますが、今日は裁判所辺りから銀座通りの商店や事務所などを紹介します。東条町(とうじょうまち)と呼ばれている辺りで、社区裁判所や社警察署、佐保座などがあり、また、裁判所の関係で多くの代書屋さんが事務所を構えていました。また、佐保座は当時、加東郡内の演劇などの娯楽の中心であったと聞いています。現在は裁判所は県立高等女学校跡に移転し、また警察署も郊外に移転して銀行になっています。写真は、社警察署、区裁判所、女学校(昭和10年代)です。

裁判所  小林代書所  藤井代書所  本多代書所  藤原代書所  大西飲食店  井上弁護士 

社警察署  村山文具店  石井飲食店  肥田代書所  藤本ミシン店

佐保座  寺院  上田歯科医院  栄湯  白陽写真館

県立社高等女学校

 

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昭和初期の社・田町の商店

2014年10月22日 04時16分16秒 | Weblog

                      

 昨日のブログで、昭和初期の社町(現加東市社)の商店名が記入された地図を紹介しましたが、今日はその中から、田町通りの商店名を紹介します。田町通りは社でも古くから栄えた通りで、店が軒を連ねて大いに賑わったと聞いています。現在は商店も少なくなり、住宅街に変わっています。そんな賑わいのあった昭和初期の店の名を紹介します。

 田町通りは社の商店街の中心から東の道池(現在は住宅地)まで延びる通りです。通りの東の入口には今も法蓮寺があります。まず、法蓮寺辺りから西に向かって、通りの南側の商店を挙げます。

 (道池) 田中飲食店  法連寺  松原酒店  料理みやこ  福井染物店  中島乾物店  西村食堂  高見家具商店  八志路歯科医院  トモヱヤ染物店  料理菊乃家  広野畳店  菅井コマモノ店

 次に北側の商店名を挙げます。

(道池) 臼井飲食店(法連寺前を少し入った所)  小林菓子店  大橋自転車店  加古ブリキ店  料理旅館大黒屋  上月農工具店  内橋金物店  松原金物問屋  料理やつこ  魚市場  料理笑福  肥田醸造店  日乃出屋菓子 黒石医院

 写真は市場です。

 

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昭和初期の社町の地図にみる懐かしい名前

2014年10月21日 04時17分35秒 | Weblog

 先日、近所の方から昭和初期(昭和4)発行の地図のコピーを頂きました。昔、郷土史研究会で資料として配布されたものだということでした。発行は東京交通社で、社町社(現在の加東市社)の市街地の地図で、官公庁や寺社と商店が記されており、警察署、役場などの写真も掲載されています。当時の社町は、昭和の合併前の社町で、現在の加東市立社小学校の校区にあたります。

 地図には裁判所、完成したばかりの社警察署、佐保座、県立社高等女学校、神姫自動車社営業所、税務署(のち社町役場)、中国合同電気(のち関西電力)、東播合同銀行(のち神戸銀行)涌羅野義塾(夜学校)、赤穂義士観音寺などが記されています。また、「社町検番」の名もあります。

 商店街の商店名を見ると、同じ場所に今もある店、場所は変わっているが今もある店、今はない店、古老などから話に聞いた覚えのある懐かしい店の名前がたくさんあります。また、裁判所の前や近くには弁護士、代書屋さんが集中しています。

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コスモスまつり-五峰山を望む河高地区で

2014年10月20日 04時53分38秒 | Weblog

                      

 19日(日)、雲一つない秋晴れの下、加東市河高地区でコスモスまつりが開かれtました。コスモスは加東市の市花。河高地区の集落と加古川の間に広がる田圃にコスモスの花畑が広がり、まぶしい朝日に光っていました。背景には播磨高野と呼ばれる五峰山が横たわっています。

 河高地区にあるにぎわいプラザ、交流会館前では同地区の皆さんによるラーメンやおにぎり、手作りゼリー、フライドポテト、温泉卵(ぽかぽ温泉の湯)、綿菓子などの店も並んで、多くの人が訪れて賑わいました。春は桜(加東市の市木)、秋は秋桜(コスモス)が楽しめる加東市です。

 その河高集落の一角に刈り取られた稲と案山子が立っている小さな田圃がありました。近くの河高保育園の園児が育てた稲のようです。

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旧社中学校跡-今、兵教大附属幼・小に

2014年10月19日 04時22分51秒 | Weblog

              

真っ青な秋の空、そしてまぶしい日差しの下、加東市山国の兵庫教育大学附属幼稚園では運動会が開かれました。運動場では3歳から5歳の園児たちが歓声をあげながら元気一杯に走りまわっていました。

 今から30数年前の昭和41年から44年までの3年間、私はこの地にあった加東郡社町立社中学校に在籍し、中学生時代を送りました。向かいには県立社高等学校があり、その姿は今も変わっていませんが、当時は前の道路は雨が降ると水が流れて大変だったことを覚えています。下の写真は附属幼稚園から小学校の運動場へと続く通路で撮った風景ですが、昔の社中学校の運動場はただただ広かったことが印象に残っています。野球、サッカー、そしてバレーボール、テニスコート、さらにはバスケットコート、その向こうでソフトボールが同時にやれるという考えられない広さでした。野球部の一年生の頃、ボールを後逸するとどこまでも走って追いかけていかねばならず、必死だったことを覚えています。社町の給食センターがあった辺りは住宅になっています。40年近くの歳月が経ったんだなあ、という感慨に耽ってしまいました。

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東条西小で見つけた小沢城の立体模型

2014年10月18日 04時18分40秒 | Weblog

 17日(金)、加東市立東条西小学校で行われたオープンスクールで校内を移動しているとき、英語活動のための教室の隅に見慣れないものがあるのに気づき、中に入ってよく見てみると、それは立体模型でした。さらに近寄ってみると、山城の復元模型、大日堂の位置が示されていることから小沢城の立体復元模型だとわかりました。

 小沢城は加東市の旧東条町の栄枝から小沢にかけての山に築かれていた山城で、城址には碑が建立されており、12世紀の後半に築かれたとあるそうです。県道社東条線を東に走り、台地から栄枝に下って川を渡ると左手に大きく張り出している山が城山です。私は山に入ったことはありませんが、昔はこの山に城、砦が築かれ、幟でも立っていたのかなとよく想像してしまいます。しかし、具体的な城のイメージがなかったのですが、今回その立体模型を見てよく分かりました。

 校長先生にお聞きすると、地元の郷土史研究グループの方が作成されたようで、この模型を使って郷土史を子供たちに教えて下さっているということでした。これぞ地域の歴史、宝です。

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嬉野学徒錬成場の一日

2014年10月17日 03時27分55秒 | Weblog

 県立嬉野公民研修所(現県立生涯教育センターの前身)の20周年記念誌(1963)には、大東亜戦争中に青年学徒の錬成場として設けられた嬉野学徒錬成場のようすを知る上で貴重な寄稿文が掲載されています。その中で、「錬成場の思い出」と題した多田正一(三代場長)の寄稿文の一節、「錬成の一日」には錬成場の一日のようすがよく記されていますので紹介します。

 錬成の一日 

 太鼓の音で目を覚まし、太鼓の音で食事をとり、太鼓の音で課業につく。朝起きてから寝るまですべて太鼓の合図による日常で、錬成場の太鼓は軍隊の喇叭であった。第二回目の太鼓は朝礼である。一同本館前の国旗掲揚台の下に集合、「君が代」斉唱、国旗掲揚と厳粛そのものの朝礼にその日の錬成が始まるのであった。

 日課の中心は滑空訓練で、数個の班に編成された訓練班の教育は往時の軍隊教育そのままである。場長である私は一日何回か班を巡視するのが常であたが、その都度部隊長同様の礼を受け答礼にまごついたこともあったと思う、今にして思えば滑稽の沙汰である。

 日課の中には滑空訓練の外に開墾と農作業があった。これは当時の食糧増産という国策の線にそうて物、心両面の成果を意図したもので、創立以来2年ばかりで数千坪の原野が農場となり、小麦、馬鈴薯、甘藷等がつぎつぎに栽培され、地方の食料事情に聊かなりとはいえ貢献出来たことは嬉しかった思い出である。

 さて、以上の訓練にしても、作業にしても平時と異なり苛烈な空爆下のことであったからその労苦は並大抵のことではなかった。B29の編隊が夜となく昼となく、又時には艦載機グラマンが突如燕のように飛来しては機銃掃射をするという始末で、幾度か心胆を寒からしめたものである。幸いに錬成場は難を免れたが、当時のことは今もありありと目に浮び身の毛のよだつ思いがする。

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県営嬉野学徒錬成場の草創の記録

2014年10月16日 04時29分46秒 | Weblog

 兵庫県立嬉野公民研修所「創立20周年記念誌」1963には、学徒錬成場時代の頃の貴重な記録や体験談などが記されています。かつて公民研修所があった加東市山国2020番地辺りは、今では、県立社高校や県立教育研修所、さらには加東市市役所の新庁舎も近くに建設され、教育や行政の中心になっています。公民研修所跡地は、臨時の駐車場として使用されていますが、今から70年余り前、嬉野の原野であったこの地に学徒錬成場の建設が決定されたのです。その草創の頃の記録から、まとめてみました。

  県立嬉野台生涯教育センターの前身は県立嬉野公民研修所。そして、その前身が県営嬉野学徒錬成場です。昭和16年(1945)の8月に「県営の青少年学徒に対する錬成道場建設」が決定され、知事と社町長との間で、建設用地の無償貸与契約が結ばれました。昭和17年には宮内省から小出侍従が建設状況の視察に差遣わされています。昭和18年4月に第一期工事の完成落成式が挙行されました。

 「錬成計画」では、滑空部、馬事部、機甲部、通信部、火砲部の5部が置かれ、グライダーの操縦技術や乗馬法技術、自動車運転技術、通信技術、各種砲の操作技術の習得が内容となっていました。しかし、戦争が激しくなるにつれ、軍用資材の不足など計画の実行に事欠く状況だったようです。そして、18年の夏には、食糧増産に重点が置かれ、農耕訓練部が置かれて開墾作業が行われました。開墾作業のため動員された学徒の数は6760人、約1ヶ月で7町歩の開墾を完了したと記されています。(写真は八紘寮)                   

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