加東市社の佐保神社から若宮神社を過ぎ、持寶院大師殿へと続く道を歩いていると、新池の手前で足元にカタツムリを発見し足を止めました。よく見ると、アスファルトの道を横断中のようでした。早朝の人通りのない時間を選んでの横断なのでしょうか。踏まれないよう、鳥に見つからないよう、横断成功を祈ってシャッターを押しました。
富士山が世界文化遺産に登録されました。富士山の美しい姿、信仰のようすなどが映像で紹介され、あらためて富士山のすばらしさに感動しました。日本遺産の創設についての新聞報道もありました。世界遺産の国内候補などを日本遺産として登録し日本の自然や文化を世界に向けて発信しようという趣旨だそうです。これもいいことだと思います。
ところで、加東市では平成19年に「加東遺産」を創設し、市内の歴史、文化遺産が10ヶ所選ばれました。市内の小学生は加東遺産を訪れて学習もしています。このブログでも加東遺産を紹介してきました、よく紹介する佐保神社もその一つです。
写真は「加東遺産」と刻んだ銘板です。修復成った瑞神門の傍らに設置されていますが、遠い将来、この銘板そのものが貴重な歴史遺産になるのでしょうか。
ところで、加東市では平成19年に「加東遺産」を創設し、市内の歴史、文化遺産が10ヶ所選ばれました。市内の小学生は加東遺産を訪れて学習もしています。このブログでも加東遺産を紹介してきました、よく紹介する佐保神社もその一つです。
写真は「加東遺産」と刻んだ銘板です。修復成った瑞神門の傍らに設置されていますが、遠い将来、この銘板そのものが貴重な歴史遺産になるのでしょうか。
加東市上滝野の闘龍灘を見下ろす広場に水神様を祀る社があります。かつて加古川舟運で栄えたこの地で多くの人が安全を祈ったことでしょう。玉垣の傍らにどっしりとした石灯籠がたっています。台座には深々と「龍神水神」「奉献夜燈」と刻まれています。建立年は「宝暦十二壬午十二月吉日」とあり、今から約250年も前にあたります。願主は「上瀧野邑中」「播州丹州筏連中」と刻まれていました。丹波地方や多可郡の木材は筏で運ばれていたのですが、この闘龍灘の上手で筏を解いて陸地を運び、再び下手で筏を組んだことから筏に携わる人々が願主となったのでしょう。台座には「世話」「上瀧野邑」「忠右衛門 四郎太夫 忠五郎」と刻まれています。
闘龍灘、加古川舟運を物語る貴重な石灯籠です。
闘龍灘、加古川舟運を物語る貴重な石灯籠です。
今から83年前の昭和5年(1930)3月、社小学校の学芸会にあわせて社町婦人会が主催して敬老会が開催されることになり、その準備が行われています。各の出席人数の報告が既になされていたようですが、社区のみ報告が届いておらず、至急知らせてほしいとの依頼が、当時の社町社の雑書綴の中に綴じられています。用紙は社尋常高等小学校の用箋で手書きされています。また、用紙の余白には各の出席人数が書き込まれています。
冠省
来る二十一日午前九時から小学校で学芸会が開催されます 就いてはこの機会に社町婦人会事業として社町敬老会を開催する事になりまして それぞれ準備に着手し当日出席下さるおとしよりの人員も既に報告済になつてゐます 独りおだけがまだ報告ありませんです
当日誠に粗末ですが敬老会員の方に粗菓を呈する事になつてゐますので おだけが漏れるのは遺憾に存じますので至急人員の御報告をお願ひ致します
右要事のみ
三月十八日 社町婦人会長 田中正一
社区長 肥田仙治 殿
冠省
来る二十一日午前九時から小学校で学芸会が開催されます 就いてはこの機会に社町婦人会事業として社町敬老会を開催する事になりまして それぞれ準備に着手し当日出席下さるおとしよりの人員も既に報告済になつてゐます 独りおだけがまだ報告ありませんです
当日誠に粗末ですが敬老会員の方に粗菓を呈する事になつてゐますので おだけが漏れるのは遺憾に存じますので至急人員の御報告をお願ひ致します
右要事のみ
三月十八日 社町婦人会長 田中正一
社区長 肥田仙治 殿
今から70年前の昭和18年(1943)、加東郡社町社(現加東市社)の佐保座で軍人遺家族の慰安会が新聞社主催で行われています。その入場券等の配布依頼が当時の文書綴に綴じられていました。銃後奉公会から各区の軍事援護委員に宛てたもので、私の父も地元町内会の軍事援護委員をしていました。佐保座は今はなく、跡地には銀行などがあります。
昭和十八年九月三十日
社町銃後奉公会長
各区軍事援護委員殿
慰安会入場券配布依頼ノ件
十月弐日左記ニ於テ新聞社主催加東郡北部五ヶ町村共同ノ下ニ遺家族慰安会ヲ開催致シマスカラ御来場下サイ
御多忙中甚ダ恐入マスガ入営応召戦病歿遺家族ヘ入場券並ニ粗菓料ノ御配布ヲ御願ヒ致シマス
記
十月弐日 昼夜弐回 (社町ハ夜間)
社町社 佐保座
入営応召兵員数 六三 戦病歿遺族 九 粗菓券 七二 招待券 二
入場券ハ夜ノ分ハ昼ハ無効デス
招待券ハ昼夜共通デス
備考 不足分ガ出来マスレバ至急申出下サイ
昭和十八年九月三十日
社町銃後奉公会長
各区軍事援護委員殿
慰安会入場券配布依頼ノ件
十月弐日左記ニ於テ新聞社主催加東郡北部五ヶ町村共同ノ下ニ遺家族慰安会ヲ開催致シマスカラ御来場下サイ
御多忙中甚ダ恐入マスガ入営応召戦病歿遺家族ヘ入場券並ニ粗菓料ノ御配布ヲ御願ヒ致シマス
記
十月弐日 昼夜弐回 (社町ハ夜間)
社町社 佐保座
入営応召兵員数 六三 戦病歿遺族 九 粗菓券 七二 招待券 二
入場券ハ夜ノ分ハ昼ハ無効デス
招待券ハ昼夜共通デス
備考 不足分ガ出来マスレバ至急申出下サイ
昭和18年(1943)、社町銃後奉公会長名で各区長宛てに軍人遺家族や傷痍軍人の慰安と軍人精神昂揚の映写会開催の案内が出されています。毎日新聞社主催で兵庫県後援の映画会で、一般国民の観覧促進を依頼しています。また、出征軍人への慰問文(手紙)も依頼しています。元郡公会堂は今の明治館。戦時中はこうした軍事関係の催しが多く開催されていました。通知は次の通りです。
昭和十八年四月二十日
社町銃後奉公会長
各区長殿
軍人援護精神昂揚運動「巡回映写会」開施の件通知
軍人援護精神昂揚運動ノ一環トシテ標記映写会ヲ左記ノ通リ開催相成様縣ヨリ指示有之候条貴一般ノ方ニ御伝達相成度此段及通知候也
開催要項
一、趣旨
軍人遺族、家族、傷痍軍人等ノ慰安並一般国民ノ軍人援護精神昂揚ニ資スル為
二、名称
軍人援護精神昂揚運動巡回映写会
三、主催
社団法人 映画配給社 毎日新聞社
四、支援
軍事保護院 兵庫県
五、開催月日
四月二十二日(昼夜各壱回)(昼間ハ午後壱時ヨリ)
六、開催場所
社町 (元郡公会堂)
備考
(イ)趣旨ノ徹底ニ努メ可成多数観覧セラルル様御伝ヘ被下度
(ロ)無料入城ナルモ入場者ニ対シテハ必ズ出征軍人宛ノ慰問文(葉書又ハ封書)ヲ作製ノ上之ヲ携行シ受付ニ申出デラレ度、之ヲ知人縁故者タル出征軍人ニ送付相成度
同慰問文ハ後日縣社寺兵事課ニ発送数量報告スル事ト相成候条特ニ御依頼申上候
昭和十八年四月二十日
社町銃後奉公会長
各区長殿
軍人援護精神昂揚運動「巡回映写会」開施の件通知
軍人援護精神昂揚運動ノ一環トシテ標記映写会ヲ左記ノ通リ開催相成様縣ヨリ指示有之候条貴一般ノ方ニ御伝達相成度此段及通知候也
開催要項
一、趣旨
軍人遺族、家族、傷痍軍人等ノ慰安並一般国民ノ軍人援護精神昂揚ニ資スル為
二、名称
軍人援護精神昂揚運動巡回映写会
三、主催
社団法人 映画配給社 毎日新聞社
四、支援
軍事保護院 兵庫県
五、開催月日
四月二十二日(昼夜各壱回)(昼間ハ午後壱時ヨリ)
六、開催場所
社町 (元郡公会堂)
備考
(イ)趣旨ノ徹底ニ努メ可成多数観覧セラルル様御伝ヘ被下度
(ロ)無料入城ナルモ入場者ニ対シテハ必ズ出征軍人宛ノ慰問文(葉書又ハ封書)ヲ作製ノ上之ヲ携行シ受付ニ申出デラレ度、之ヲ知人縁故者タル出征軍人ニ送付相成度
同慰問文ハ後日縣社寺兵事課ニ発送数量報告スル事ト相成候条特ニ御依頼申上候
昭和7年(1932)、天理教社分教会が主催して、「皇軍戦捷在満支出征軍人の健康と献功並に在留同胞安全祈願祭」が行われています。その案内が当時の社区長雑書綴に綴じられています。天理教の社の教会は、明治25年(1892)に社に設けられ、昭和15年(1940)社大教会となっています。当時は社の市街地(社一区)にありましたが、昭和35年(1960)に嬉野の現在地に移転しています。旧神殿も移築されています。案内文は次の通りです。
昭和七年二月十日
社町長
社町会議員
殿
各 区 長
皇軍戦捷在満支出征軍人の健康と献功並に在留同胞安全祈願祭案内ノ件
首題ノ件左記ノ通リ挙行致サレ候間繰合セ御参列相煩シ度ク此段御案内方々御願申上候也
左記
期日時 二月十一日(紀元節)式終了後
場所 社教会教堂内ニ於テ
主催者 天理教社分教会長 市枝定雄
昭和七年二月十日
社町長
社町会議員
殿
各 区 長
皇軍戦捷在満支出征軍人の健康と献功並に在留同胞安全祈願祭案内ノ件
首題ノ件左記ノ通リ挙行致サレ候間繰合セ御参列相煩シ度ク此段御案内方々御願申上候也
左記
期日時 二月十一日(紀元節)式終了後
場所 社教会教堂内ニ於テ
主催者 天理教社分教会長 市枝定雄
昭和9年(1934)3月21日に発生した函館市の大火災は2000戸、1万人を超える被災者を出しています。この函館大火の義捐金支出に関する社町長から区長への依頼文が当時の区長雑書綴に綴じられています。地震や台風に加えてこうした大火災に対する義捐金に関する文書は当時の文書綴に多く見られますが、函館大火に関しても次のような通知が出されています。
昭和九年四月十三日
社 町 長
各 区 長
函館大火義捐金ノ件
過般ノ函館大火ニ対シ当局ヨリ罹災民ノ救護方ニ関シ交渉有之候處去ル十四日の加東郡町村長会ニ於テ協議ノ結果本部ハ戸当五銭宛ノ義捐金ヲ送付スルコトト相成候ニ就イテハ之レガ支出ノ方法ハ義捐金ナルガ為ニ町費ヲ以テ支弁スルコト不可能ニ御座候条協議費ヲ以テ支出スルコトニ御快諾賜ハリ度一度区長会開催ノ上御協議申上グルガ本意ニ御座候ヘ共御多用ノ中ヲ恐縮ニ存ジ候間乍勝手書面ヲ以テ御賛成願上候
尚右義捐金ハ早々送付ノ必要ニ迫ラレ居候条当方ニテ一時立替送金可致事ニ御承認願上候
昭和九年四月十三日
社 町 長
各 区 長
函館大火義捐金ノ件
過般ノ函館大火ニ対シ当局ヨリ罹災民ノ救護方ニ関シ交渉有之候處去ル十四日の加東郡町村長会ニ於テ協議ノ結果本部ハ戸当五銭宛ノ義捐金ヲ送付スルコトト相成候ニ就イテハ之レガ支出ノ方法ハ義捐金ナルガ為ニ町費ヲ以テ支弁スルコト不可能ニ御座候条協議費ヲ以テ支出スルコトニ御快諾賜ハリ度一度区長会開催ノ上御協議申上グルガ本意ニ御座候ヘ共御多用ノ中ヲ恐縮ニ存ジ候間乍勝手書面ヲ以テ御賛成願上候
尚右義捐金ハ早々送付ノ必要ニ迫ラレ居候条当方ニテ一時立替送金可致事ニ御承認願上候
昭和8年(1933)、前年7月に勃発した北支事変で郷土から出動した兵士の家族を慰安する活動写真会が2月11日の紀元節の日に開催されています。会場の佐保座は今はもうありませんが、加東市社の銀座通にあった劇場です。その案内文が当時の雑書綴に綴じられていますので紹介します。
拝啓
時下厳寒之候貴家益々御清栄ノ条奉賀候
扨テ時局重大ノ折リ出動軍人家族慰安会及軍事思想普及ヲ兼ネ満蒙大激戦及肉弾ノ大活動写真会ヲ二月十一日午後六時ヨリ社佐保座ニ於テ開催致ス可ク候間寒気ノ折柄申兼ネ候ヘ共モ此ノ催ヲ盛大ナラシムル意味ヲ以テ御参観相煩度此段御案内申上候也
昭和八年二月八日
社町分会長 石井梅太郎
殿
拝啓
時下厳寒之候貴家益々御清栄ノ条奉賀候
扨テ時局重大ノ折リ出動軍人家族慰安会及軍事思想普及ヲ兼ネ満蒙大激戦及肉弾ノ大活動写真会ヲ二月十一日午後六時ヨリ社佐保座ニ於テ開催致ス可ク候間寒気ノ折柄申兼ネ候ヘ共モ此ノ催ヲ盛大ナラシムル意味ヲ以テ御参観相煩度此段御案内申上候也
昭和八年二月八日
社町分会長 石井梅太郎
殿
昭和12年(1937)、7月に勃発した日支事変によって郷土から多くの兵士が出動していきましたが、十一月に社町(現在の加東市社)の持宝院で出征軍人の祈願祭が行われています。その案内文が当時の文書綴に綴じられていますので紹介します。
毎朝のウォーキングで持宝院の大師殿に参拝していますが、76年前にこうした祈願が行われていたんですな。
拝啓仕候時下梢ニ錦スル好季ニ御座候各位弥々御多祥ノ御条奉大賀候
扨テ左記要領ニヨリ出征軍人祈願祭執行仕条御参拝ノ上祈念ヒ成下度奉懇願候
昭和十二年十一月十三日 加東郡北部真言寺院一同
社区長 殿
記
一、会所 社町 持宝院
一、日時 昭和十二年十一月十六日午後七時
毎朝のウォーキングで持宝院の大師殿に参拝していますが、76年前にこうした祈願が行われていたんですな。
拝啓仕候時下梢ニ錦スル好季ニ御座候各位弥々御多祥ノ御条奉大賀候
扨テ左記要領ニヨリ出征軍人祈願祭執行仕条御参拝ノ上祈念ヒ成下度奉懇願候
昭和十二年十一月十三日 加東郡北部真言寺院一同
社区長 殿
記
一、会所 社町 持宝院
一、日時 昭和十二年十一月十六日午後七時
社区事務所の昭和12年7月から14年2月までの軍事関係往復文書綴には、7月に北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し始まった支那事変以降の軍事関係文書が綴られています。その中に郷土から出征していった兵士の家族の慰安会の案内が綴じられていました。勃発から2ヶ月、軍事後援会から社区長への案内です。写真は当時の公会堂です。
拝啓 初秋ノ候御高堂愈々御清適ノ条奉賀上候
陳者九月十八日午前八時ヨリ社町軍事後援会主催ノ下ニ本町内出征軍人家族慰安会ヲ元郡公会堂ニ於テ開催可致候条御多用中ノ御事トハ存候ヘ共御賁殿ノ栄ヲ賜リ度此段御案内申上候
昭和十二年九月十六日
社町軍事後援会長
大 橋 實 次
神田栄太郎 殿
慰安会順序
一、皇軍武運長久祈願 午前八時佐保神社
二、慰安会 元郡公会堂
1、開会ノ辞
2,軍事映画
3,挨拶
4,閉会ノ辞
拝啓 初秋ノ候御高堂愈々御清適ノ条奉賀上候
陳者九月十八日午前八時ヨリ社町軍事後援会主催ノ下ニ本町内出征軍人家族慰安会ヲ元郡公会堂ニ於テ開催可致候条御多用中ノ御事トハ存候ヘ共御賁殿ノ栄ヲ賜リ度此段御案内申上候
昭和十二年九月十六日
社町軍事後援会長
大 橋 實 次
神田栄太郎 殿
慰安会順序
一、皇軍武運長久祈願 午前八時佐保神社
二、慰安会 元郡公会堂
1、開会ノ辞
2,軍事映画
3,挨拶
4,閉会ノ辞
大正12年(1923)6月17日の日付で、町有建物建築に関する議案が町長から提出されています。当時の社区長の綴に綴じられているものですが、町費で税務署を新築し、大阪税務署監督局に有料貸付をしようとする提案です。
税務署の新庁舎は社の田町通りから小学校へ通じる学校道の途中に建設されることになており、その後社町役場としても使用されました。写真の建物です。翌13年には新築を祝って田町で花火が打ち上げられています。今はこの建物もなくなり、消防会館と駐車場に変わっていますが、わが家の隣であり、小さい頃から見慣れた建物でした。90年前に新築提案されたんですね。議案は次の通りです。
第二十二号議案
町有建物建築ノ件
大正十二年度町費ヲ以テ社税務署庁舎ヲ新築シ有料ニテ大阪税務署監督局ニ貸付セントス
理由
社税務署ノ庁舎ハ腐朽荒廃シ採光通風モ宜シカラズ執務上甚ダ不便ナルト一方郡制廃止ノ結果行政区割変更ノ実現モ想像スルニ難カラズ依テ庁舎ヲ新築シテ之レニ対応シ且ツ執務ニ便ナラシメントス
大正十二年六月十七日
社 町 長 松 本 兼 蔵
税務署の新庁舎は社の田町通りから小学校へ通じる学校道の途中に建設されることになており、その後社町役場としても使用されました。写真の建物です。翌13年には新築を祝って田町で花火が打ち上げられています。今はこの建物もなくなり、消防会館と駐車場に変わっていますが、わが家の隣であり、小さい頃から見慣れた建物でした。90年前に新築提案されたんですね。議案は次の通りです。
第二十二号議案
町有建物建築ノ件
大正十二年度町費ヲ以テ社税務署庁舎ヲ新築シ有料ニテ大阪税務署監督局ニ貸付セントス
理由
社税務署ノ庁舎ハ腐朽荒廃シ採光通風モ宜シカラズ執務上甚ダ不便ナルト一方郡制廃止ノ結果行政区割変更ノ実現モ想像スルニ難カラズ依テ庁舎ヲ新築シテ之レニ対応シ且ツ執務ニ便ナラシメントス
大正十二年六月十七日
社 町 長 松 本 兼 蔵
大正12年(1923)といえば、今から90年前にあたります。当時の社区長の雑書綴にはさまざまな文書類が綴じられていますが、その中に農事奨励委員会の協議事項があります。
農事奨励委員会協議事項
大正十二年十月十二日
一、小作問題ニ関スル件
近年小作問題ニ付地主及小作者ノ間ニ紛擾ノ起ル地方少カラス本町ハ幸ニ平穏ナリシモ本年ハ害虫ノ被害ニヨリ小作料軽減ノ問題起ルヤモ計ラレス依テ其レガ協調ニ付テ各位ノ御配意ヲ望ム
二、麦奴予防ニ関スル件
麦及班葉病ノ予防トシテ冷水温湯浸法及硫酸銅駅浸法ハ其効果顕著ニシテ益々予防ノ増加ヲ見ツツアルモ未ダ一般ニ普及セサルハ遺憾トスル處ナリ各位ハ麦作ノ播種期前ニ於テ一層之レヲ督励実行セラレムコトヲ望ム
三、農事視察ニ関スル件
目下農事視察ノ最好期ナルヲ以テ適当ナル場所ヲ選択シテ視察員ヲ派遣シテハ如何
雑件
一、民力涵養ニ関スル件
一、震災地救援ニ関スル件
(口頭説明)
以上
農事奨励委員会協議事項
大正十二年十月十二日
一、小作問題ニ関スル件
近年小作問題ニ付地主及小作者ノ間ニ紛擾ノ起ル地方少カラス本町ハ幸ニ平穏ナリシモ本年ハ害虫ノ被害ニヨリ小作料軽減ノ問題起ルヤモ計ラレス依テ其レガ協調ニ付テ各位ノ御配意ヲ望ム
二、麦奴予防ニ関スル件
麦及班葉病ノ予防トシテ冷水温湯浸法及硫酸銅駅浸法ハ其効果顕著ニシテ益々予防ノ増加ヲ見ツツアルモ未ダ一般ニ普及セサルハ遺憾トスル處ナリ各位ハ麦作ノ播種期前ニ於テ一層之レヲ督励実行セラレムコトヲ望ム
三、農事視察ニ関スル件
目下農事視察ノ最好期ナルヲ以テ適当ナル場所ヲ選択シテ視察員ヲ派遣シテハ如何
雑件
一、民力涵養ニ関スル件
一、震災地救援ニ関スル件
(口頭説明)
以上
つづき
大正12年(1923)の社町の区長会の協議の内容を紹介してきていますが、今日はその3回目、残りの分に関する事項です。お産、節句、年賀、棟上げ、講、軍隊への入退営等、村の生活の全般にわたって饗応や贈答などの慣習を廃止あるいは質素にすることを申し合わせ、実行するようにしています。逆に当時はこうした慣習が行われていたんだなということも分かり、ハレの祝い事も大変だったんだなと思います。
チ.産屋立披露及相互贈答ニ関スルコト
産屋立ノ披露ハ各男女出生最初ノモノ一人ニ止メ饗応ハ勿論相互ノ贈答モ可成質素ヲ旨トスルコト
リ.五節句ノ贈答ニ付テモ前項ニ準ジ各最初ノモノ一人ニ止メ可成質素ヲ旨トスルコト
ヌ.年賀等ノ場合ニ於テ饗応ハ勿論相互ノ贈答ハ可成質素ヲ旨トスルコト
ル.建築祝(棟上ケ)ノ場合ニ於テノ饗応ハ可成節約ノ方針ヲ取リ相互ノ贈答ハ之ヲ全廃スルコト
ヲ.諸講等ノ節約ヲ図ルコト
各ニ於ケル諸講等ニ付テモ今後申合セノ上可成節約ノ方針ヲ取ルコト
ワ.壮丁入退営ノ場合ハ可成質素ヲ旨トシ殊ニ退営ノ場合ニ於ケル土産物等ハ今后絶対ニ之ヲ廃スルコト
以上大綱ヲ定ムト雖モ其ノ他ノ事項ハ各ニ於テ適宜協定ノ上現下ノ実情ニ鑑ミ出来得ル限リ消費ヲ諬ヘ節約ヲ図ルノ方針ヲ取ルコト
大正12年(1923)の社町の区長会の協議の内容を紹介してきていますが、今日はその3回目、残りの分に関する事項です。お産、節句、年賀、棟上げ、講、軍隊への入退営等、村の生活の全般にわたって饗応や贈答などの慣習を廃止あるいは質素にすることを申し合わせ、実行するようにしています。逆に当時はこうした慣習が行われていたんだなということも分かり、ハレの祝い事も大変だったんだなと思います。
チ.産屋立披露及相互贈答ニ関スルコト
産屋立ノ披露ハ各男女出生最初ノモノ一人ニ止メ饗応ハ勿論相互ノ贈答モ可成質素ヲ旨トスルコト
リ.五節句ノ贈答ニ付テモ前項ニ準ジ各最初ノモノ一人ニ止メ可成質素ヲ旨トスルコト
ヌ.年賀等ノ場合ニ於テ饗応ハ勿論相互ノ贈答ハ可成質素ヲ旨トスルコト
ル.建築祝(棟上ケ)ノ場合ニ於テノ饗応ハ可成節約ノ方針ヲ取リ相互ノ贈答ハ之ヲ全廃スルコト
ヲ.諸講等ノ節約ヲ図ルコト
各ニ於ケル諸講等ニ付テモ今後申合セノ上可成節約ノ方針ヲ取ルコト
ワ.壮丁入退営ノ場合ハ可成質素ヲ旨トシ殊ニ退営ノ場合ニ於ケル土産物等ハ今后絶対ニ之ヲ廃スルコト
以上大綱ヲ定ムト雖モ其ノ他ノ事項ハ各ニ於テ適宜協定ノ上現下ノ実情ニ鑑ミ出来得ル限リ消費ヲ諬ヘ節約ヲ図ルノ方針ヲ取ルコト
つづき-
昨日に続いて、大正12年(1923)の社町の区長会の協議の内容を紹介しますが、今日は婚姻に関する事項です。
ニ、婚姻ノ場合ニ於ケル冗費節約ヲ図ルコト
嫁入リ婿入リノ場合ニ於ケル衣裳其他持物ハ現今尤モ奢侈ニ流レ弊害ヲ助長スル嫌アルヲ以テ今後ハ其陋習ヲ改メ各分限ニ応シ節約改善ヲ図ルヘキコト
婚姻ノ場合ニハ儀式ヲ厳粛ニ行フコトハ最モ必要ナルモ之カ饗応等ニ関シ往々奢侈ニ流ルル傾向アルヲ以テ今後ハ出来得ル限リ質素節約ニ努ムルコト
ホ.婚姻其ノ他ノ場合組盃使用ノ方法ヲ簡易ニスルコト
婚姻其他ノ場合ニ於テ取盃ト称シ客人ニ対シ一々組盃(五ツ重ネ若くハ七ツ重)ヲ使用スルノ習慣アルモ節約及衛生上ノ関係モアリ今后ハ之ヲ廃スルコト若シ之ヲ使用スル場合ニハ盃ノ数ヲ三ツ重ニ止ムルコト
ヘ.婚姻ノ披露方及相互ノ贈答ニ関スルコト
婚姻ノ披露ハ嫁取リノ時ハ主婦婿取リノ時ハ戸主ヲ招待スルヲ本位トシ饗応勿論相互ノ贈答モ可成質素ヲ旨トスルコト
ト.結納披露及荷飾リ等ノ虚礼ヲ廃スルコト
婚姻ノ場合ニ於て結納披露及荷飾リ等ハ多少虚礼ニ渉リ奢侈ノ習慣ヲ助長スルノ嫌アルヲ以テ今后ハ之ヲ全廃スルコト
昨日に続いて、大正12年(1923)の社町の区長会の協議の内容を紹介しますが、今日は婚姻に関する事項です。
ニ、婚姻ノ場合ニ於ケル冗費節約ヲ図ルコト
嫁入リ婿入リノ場合ニ於ケル衣裳其他持物ハ現今尤モ奢侈ニ流レ弊害ヲ助長スル嫌アルヲ以テ今後ハ其陋習ヲ改メ各分限ニ応シ節約改善ヲ図ルヘキコト
婚姻ノ場合ニハ儀式ヲ厳粛ニ行フコトハ最モ必要ナルモ之カ饗応等ニ関シ往々奢侈ニ流ルル傾向アルヲ以テ今後ハ出来得ル限リ質素節約ニ努ムルコト
ホ.婚姻其ノ他ノ場合組盃使用ノ方法ヲ簡易ニスルコト
婚姻其他ノ場合ニ於テ取盃ト称シ客人ニ対シ一々組盃(五ツ重ネ若くハ七ツ重)ヲ使用スルノ習慣アルモ節約及衛生上ノ関係モアリ今后ハ之ヲ廃スルコト若シ之ヲ使用スル場合ニハ盃ノ数ヲ三ツ重ニ止ムルコト
ヘ.婚姻ノ披露方及相互ノ贈答ニ関スルコト
婚姻ノ披露ハ嫁取リノ時ハ主婦婿取リノ時ハ戸主ヲ招待スルヲ本位トシ饗応勿論相互ノ贈答モ可成質素ヲ旨トスルコト
ト.結納披露及荷飾リ等ノ虚礼ヲ廃スルコト
婚姻ノ場合ニ於て結納披露及荷飾リ等ハ多少虚礼ニ渉リ奢侈ノ習慣ヲ助長スルノ嫌アルヲ以テ今后ハ之ヲ全廃スルコト