ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

もうすぐ義士祭 6

2010年12月13日 04時54分09秒 | Weblog
 早朝、観音寺を訪れました。14日の義士祭を前に境内はきれいに掃除され、赤穂義士の菩提所も法要を待つばかりとなっていました。
 一昨日この歴史ブログで紹介した昭和10年代の写真と同じアングルで写真を撮りました。塀の内側は変わりませんが、塀の向こう側の御霊山の風景は松林から住宅へと大きく変化していました。
 静まりかえった菩提所に立っていると、浅野内匠頭、大石父子、そして取り巻く義士の配置が、映画の一シーンのように感じられました。義士の忠誠、それを称える民の心は今も変わりません。ぜひ一度お越しください。
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もうすぐ義士祭 5

2010年12月11日 19時07分51秒 | Weblog
 加東市義士祭は、赤穂義士ゆかりの地、加東市において行われる伝統行事です。そもそも加東市と赤穂義士との関わりは、播州赤穂藩の領地がこの加東市にあったということに始まります。旧加東郡(現加東市、小野市域)内に24か村、8200石余が赤穂藩領だったのです。観音寺のある家原をはじめ、鳥居、田中、窪田などの村々がそうでした。加東郡には、加西郡内の領地と合わせて57か村を管轄する加東郡代が置かれ、加東郡穂積((現加東市穂積)に陣屋がありました。義士の一人、吉田忠左衛門は加東郡代でもあったのです。
 寛文11年(1671)、赤穂藩浅野家の相続で、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の11か村(3500石)が分知されて、家原浅野氏が創立されました。この家原浅野家は
その後7代200年続いて明治維新の廃藩まで続いています。家原には陣屋が置かれました。また、家原浅野家の祈願所として観音寺がつくられたのではないかと伝えられています。
 元禄15年(1701)の討入りから150回忌が近くなった弘化4年(1847)に善龍院(加東市社の寺院、家原浅野家の菩提所)の住職明範が観音寺境内に四十七義士石碑を建立して回向をし、義士の忠誠を称えていこうと勧進(寄付)を行ないました。これには旧赤穂藩領の村々や有志が進んで寄付に応じ、墓碑が建立されたのです。まさに義士の忠義の志、精神を伝えていこうとする多くの人々の願いが実現したということです。
 その後、昭和のはじめに地元の青年団員によって義士祭が行われ、義士行列、早籠に因んだ駅伝や剣道大会など時代とともに形は変わりながらも今の時代に受け継がれています。そんな義士祭にぜひお越しください。
 
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もうすぐ義士祭 4

2010年12月11日 05時17分06秒 | Weblog
 この写真は観音寺にある赤穂義士の墓所ですが、おそらく昭和10年代のものだと思われます。浅野内匠頭長矩の墓碑と大石父子の墓碑を囲むように義士の墓碑が並んでいます。その風景は今も変わらないのですが、塀の向こうに見える風景が今とはずいぶん違っています。
 写真には松林が写っており、当時の御霊山一帯が松林だったことが分かります。現在はこの塀の向こうは道路になっており、松林はありません。現在の観音寺辺りは社環状線(昭和の合併でつくられた市街地を取り巻く環状道路)と旧国道175号線の交わる赤岸(あかぎし)交叉点があり、多くの車や人が行き交ひ混雑しています。
 
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もうすぐ義士祭3

2010年12月09日 12時41分39秒 | Weblog
 昨日は義士祭の始まりを紹介しましたが、昭和50年代半ば頃、観音寺住職の尼僧から聞かせてもらった話を紹介します。

 この観音寺は江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩が最後に建立した寺で長矩の思いが強かったといいます。また、夫人の瑶泉院の持仏十一面観世音菩薩を観音堂本尊としていたとも伝えられ、瑶泉院はこの観音寺によくお参りをしたということです。尼僧は、長矩の魂が境内の南の大木の上によく戻ってきていたという話もして下さいました。
 この話をビデオに撮れと言われたのですが、準備ができていなかったので実現せず、今となっては惜しいことをしたと思っています。また、父親ら青年団員が義士祭を熱心にやってくれていた、といった話も懐かしそうに話しておられたことを今もよく覚えています。

 この歴史ブログで、昭和30年の社町合併記念での義士に扮した父の写真も紹介したように、赤穂義士ゆかりの地であるということが郷土の誇りだったのです。私自身も社保育園に通っていた時には、義士の墓にお参りをして甘酒をいただいたこと、社中学の生徒だった頃には加東郡中学校駅伝大会に出場したこと、社連合区の役員だったころは義士奉賛会として福引きなどの接待をしたことなど、幼児の頃からこの義士祭に何らかの形で参加してきています。時代とともに少しずつ形を変えながらも世代を超えて義士祭が続けられていることに誇りを感じます。

 境内には、赤穂四十七義士の墓碑の配置図が掲げられています。その配置は、浅野内匠頭長矩を中心に、大石内蔵助、主税父子が脇に、それを取り囲むように義士の墓碑が並んでいます。300余りの時を超えて、今も主人にひかえているような忠義の心が感じられます。ぜひ、一つ一つの墓碑に刻まれた義士の名を見て、口に呼んでみていただきたいと思います。
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もうすぐ義士祭2

2010年12月09日 05時23分42秒 | Weblog
 加東市赤岸(家原)の観音寺に赤穂四十七義士の墓(墓碑)があり、毎年12月14日には、観音寺を中心に加東市赤穂義士祭が開催されます。
 忠臣蔵は日本人の魂に深く刻まれた国民的歴史物語といってもよいと思いますが、播州赤穂はその舞台として有名ですし、義士祭も盛大に行われ、メディアにもよく紹介されます。
 播州北播磨の加東市の義士祭は旧社町はじめ加東市周辺で地域的には知られていますが、やはり本場に比べると知名度が低いのは仕方ないのかも知れません。
 社町で義士祭が始まったのは、昭和の初め頃、昭和2年(1927)だったようです。本場赤穂では明治36年(1903)こ始まったとされています。この歴史ブログでも紹介したことがありますが、義士祭が始まった頃、青年団員が四十七士に扮装して祭を盛り上げたようです。写真は、その勢揃いしたところを撮影したものです。大高源吾に扮した若き藤本豊治(父)の姿も見え、当時の青年の気概が伝わってきます。
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もうすぐ義士祭

2010年12月08日 04時43分55秒 | Weblog
 社の商店街に「義士祭」と染められた幟が立てられています。加東市では12月14日、赤穂義士討ち入りの日にちなんで、加東市家原赤岸の観音寺(写真)での法要をはじめまざまな義士祭の行事が行われます。
 義士祭のスケジュールを紹介します。

 8:30~ 甘酒の接待(観音寺境内)
       福引き(観音寺境内)
10:30~ 追善法要(観音寺本堂)
13:40~ 加東市中学校駅伝大会(観音寺、加東市民病院前)
14:00~ 少年剣道大会(家原薬師堂境内:観音寺南隣)
15:30~ 佐保亭落語会(明治館:加東市社商店街南端)

 ところで、義士祭を間近にした観音寺にちょっと立ち寄ってみました。人気のない、きれいに掃き清められた境内を歩き、本堂の脇を抜けて奥まで行くと、少し高くなった所に塀で囲まれた墓所があります。階段を上ると、正面真ん中に大きな墓石、その脇に侍るように2つの少し小さな墓石、そして壁にそって周囲を取り囲むように小さな墓石が並んでいます。中央が浅野内匠頭、その脇向かって右が大石内蔵助、左が大石主税。義士墓碑は右手から吉田忠左衛門から始まっています。
 東京高輪の泉岳寺、赤穂の花岳寺は四十七市の墓があることでよく知られていますが、播州加東郡家原の赤岸観音寺に四十七士の墓碑があることはあまり知られていません。学生時代、中央義士会でこのことを話して義士の子孫の方々が初めて知った、と驚いていたことを思い出します。
 この墓碑は赤穂義士の150回忌を期して、浅野家ゆかりの観音寺に建立されたものです。いわゆる墓ではありませんが、義士の忠義を顕彰しようという地域の人の寄付によってつくられたものです。
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三草山遠望

2010年12月07日 04時24分55秒 | Weblog
 昨日紹介したのは、加東市立社保育園から北東の五峰山を遠望した風景でした。今日は同じ場所から三草山(423メートル)を遠望した写真を紹介します。
 左手前の丸屋根は社保育園の園舎、その向こうの建物が市立武道館、その遙か向こうに見えるのが三草山です。連なる峰のその中央部が家並の間に望めます。
 今から826年前の1184年、一ノ谷に向かう義経軍が平資盛ら平家が陣を張っていた三草山を夜襲し破った三草山合戦があったところです。昨日のブログで紹介したように、敗走する平氏を追って写真を撮っているこの地まで来た義経軍は源氏の白旗を百本立てたことから百旗立(ひゃくはったい、ひゃくはた)の地名がついたといわれ、今も地名が残っています。当時は家もなく、野原か林が広がっていたのでしょう。きっと三草山ももっとすっきり見えたのではないでしょうか。
 加東市のシンボルの五峰山と三草山。源平合戦と太平記の歴史舞台となった二つの山が望める場所の一つがこの辺りです。
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五峰山遠望

2010年12月06日 06時00分28秒 | Weblog
 加東市立社保育園は嬉野台地の西端の社市街地を見下ろす高台にあります。国道372号がすぐ下を走っており、市立武道館やJAみのり、市体育館などが隣接しています。
 この辺りは、源平合戦の頃、一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦に敗れて敗走する平氏を追ってきた源氏の軍が百本の白旗を立てた所とされています。その地名が百旗立(ひゃくはったい、ひゃくはた)として残っています。保育園の正門は372号(旧京街道)に面していますが、そこには社と木梨の村境の石柱が立っていましたが、今はありません。
 さて、写真は保育園の南側の百旗墓地の脇道から北の方角、中国自動車道滝野社インター方向を望んだ景色で、正面に五峰山が遠望できます。五峰山は太平記の古戦場として知られており、足利尊氏、直義兄弟が戦った観応の擾乱で、直義軍の石塔頼房らが光明寺にたてこもり、尊氏、高師直らがこれを攻めた光明寺合戦の舞台となったところです。
 三草山合戦は800年余り前、光明寺合戦は750年余り前のことです。そんな古い歴史がこの風景の中にあるんですね。今は保育園の日の丸がはためいていました。
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昭和28年春-社祭

2010年12月04日 04時39分26秒 | Weblog
 昭和28年(1953)、私が生まれた年です。この年の4月5日は日曜日。社(現加東市社)では、社祭が行われました。写真は昭和26年の社祭の一こまです。
 記録によれば、当日は晴れ。各町(社の各区)毎の催し物をしていたようですが、一区は演芸会、二区はだんじり、三区は演芸会、四区はだんじり、五区は演芸会です。午後一時からのど自慢大会が郡公会堂(現明治館)で開催され、四時半に終わったとあります。翌6日の二日にわたって賑やかに行われたようです。
 4月6日には、加東郡仏心協会による郡内戦没者慰霊祭が営まれ、厚生大臣、県民生部長が臨席したとの記録があります。また、専売公社の新築式も執り行われています。
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昭和30年前半-煙突のある風景3

2010年12月03日 06時18分31秒 | Weblog
 この写真には、かつて社(加東市社)にあった風呂屋の煙突が写っている一枚です。庭の向こうに煙突が、その右の屋根が風呂屋、左は民家です。手前の庭に移っているのはシャツ姿の父です。
 煙突のある風景にこだわるのは、わが家の裏の風景にはこの煙突が必ずあった、ということとこの煙突の下の路地が遊び場だったこと、そして避雷針に落ちる雷の記憶が今も懐かしくよみがえってくるからです。人誰しもそうした懐かしい風景が心の中にあると思います。
 
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昭和30年頃-煙突の見える風景2

2010年12月02日 05時12分45秒 | Weblog
 この写真は昭和30年頃の写真だと思います。今から55年前、昭和の合併で新社町が誕生した年ですが、その当時の社(現加東市社)の風景が写っています。
 それは二人の老人の後ろ遠くに立っている煙突です。社の田町通りから学校道に入って役場の南隣りにあった風呂屋さんの煙突です。煉瓦積みの高い煙突でした。
 現在、風呂屋さんはなく、駐車場になっています。当時の塀の一部が残っているだけです。写真の場所は田町通から学校道に入って少し行ったところです。この場所も今は倉庫になっています。
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昭和32年頃-スクーターと幼稚園のある風景

2010年12月01日 05時14分10秒 | Weblog
 この写真は昭和32年頃のものだと思います。スクーターと二人の子ども。そして後ろには八志路幼稚園の園舎が見えています。
 場所は旧社町役場の東隣で、現在の加東市社の市街地にある関西電力社営業所の東辺りです。当時は田圃がありましたが、今では環状線に至るまで周辺には田圃は一枚もありません。役場が嬉野に新築移転(現加東市社庁舎)するまで、役場がこのすぐ西隣にありました。
 このスクーターは父の愛車でした。三菱製のスクーターだと思うのですが、詳しいことは分かりません。今から約半世紀前の風景です。
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