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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和16年-入営応召(帰還)者ノ歓送(迎)等ニ関スル要領① 

2009年01月31日 06時31分14秒 | Weblog
 昭和16年(1941)12月、社町役場から「入営応召(帰還)者ノ歓送(迎)等ニ関スル要領」が出されています。この文書は「自昭和十七年一月至昭和十九年拾月 常会協議事項綴 社部落常会長」に閉じられています。出征兵士の歓送、帰還兵の歓迎についてその要領が示されています。


入営応召(帰還)者ノ歓送(迎)等ニ関スル要領
                      昭和十六年十二月
                         社 町 役 場
 
 方 針

出征将兵ノ銃後国民ニ依ル志気ノ振作昂揚ヲ図リ是ヲ戦場ノ行動ニ反映セシムルト共ニ帰還者ニ対シ其ノ労ヲ犒ヒ奉公ノ念ヲ強化スルコト、而シテ其ノ限度ハ時局ニ鑑ミ軍機密保護及国策即応ノ範囲ヲ超脱セザルコト

 要 領

一、入営、応召兵ノ郷土出発或ハ帰還者ノ郷土帰省ニ方リテハ勉メテ厳粛盛大ニ歓送(迎)ヲ行ヒ以テ其ノ矜恃ト感激トヲ銘胆セシム、然レ共金銭、物資、時間ヲ浪費シ或ハ交通量ヲ増大セシムルガ如キ行動ハ之ヲ制止スルコト
(イ)社町ハ出発者ニ対シテハ社県社佐保神社前ニ於テ厳粛盛大ニ奉告祭ヲ行ヒ歓送ス
 停車場又ハ停留所ヘハ親戚、団体代表ニ制限シ他ハ其ノ場ニテ解散ス
(ロ)社町ニ於ケル帰還者ノ歓迎ハ(日時不明ニテ町ニ於テ之ヲ統一スルコト出来ザルタメ)各々毎ニ神社、其ノ他適宜ノ場所ニ於テ歓迎ノ式ヲ厳粛盛大ニ行フ
 但シ 停車(留)場ノ出迎ヘハ親戚又ハ団体代表ノミトシ他ハ各区ノ入口ニテ出迎フル
(ハ)歓送(迎)場ニ於テ小旗ヲ打振リ万歳ヲ唱ヘ国歌、軍歌ヲ合唱スルハ可ナルモ大旗、幟旗ヲ樹ツルハ不可ナリ
(ニ)送迎当日()区ハ全戸国旗ヲ掲揚スルコト
                          次回につづく
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山国源ヶ坂の道標

2009年01月29日 06時17分30秒 | Weblog
 加東市社と山国を結ぶ旧道は圃場整備等でずいぶん変わってしまったそうですが、市街地から下川を渡って、山国の熊野神社に至る坂道は源ヶ坂と呼ばれています。字名も源ヶ坂だそうです。
 源ヶ坂の由来は、源平合戦で有名な一の谷の合戦の前哨戦であった三草山合戦で源義経が平家を急襲し、逃げる平氏を追ってそのまま社辺りまで来て、さらに一の谷に向かった道であるという伝承にあるといわれています。下川という名も「白川」がなまったもので、陣を張った源氏がこの川の水で米をといで川が白く濁ったのでその名がついたという伝承もあります。
 さて、その源ヶ坂を熊野神社から少し下った道の脇に道標が立っています。「左上 小田大深山 右下 小田浄土寺」と彫ってあります。「文政」の文字が見えますので、今から約180~190年ほど前の古いものです。元は今の位置ではなく、もっと下にあったという話も聞きました。
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加東四国第二十六番霊場-藤田

2009年01月13日 05時36分24秒 | Weblog
 加東市藤田の県道西脇三田線沿を東に向かって走っていると、木梨神社の鳥居を過ぎ、しばらくして左手に小高い丘がせり出しているところがあります。春には桜がまぶしく、夏にはグランドでゲートボールや盆踊りが開かれます。この辺り一帯に岩が露出しているところが見られ、この丘そのものが大きな岩盤なのかもしれません。
 この丘の上は小山寺(小山庵『加東郡誌』)があり、加東四国八十八ヶ所霊場の第二十六番霊場になっています。お寺というよりは集会所のようなたたずまいの建物です。
 コンクリートの階段をのぼったところに墓石のように立てられている石柱がありました。正面に「加東四国 二十六番霊(その下には場という字が彫られているのでしょうが見えません)」と彫られた石柱が二本。一本には大正八年秋吉日 施主當村念仏講中」、もう一本は大正九年建立のものです(写真)。
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明治三十三年建立の忠魂碑

2009年01月12日 06時35分25秒 | Weblog
 1月9日、加東市東実から東古瀬へと車を走らせていると、知人が田に出て作業をしていました。立ち話をしているうち、すぐそばのグラウンド(社第一グラウンド)の北東の隅に聳えている石造物に気がひかれました。
 どこかで見たこの石造物。上部に鏡のような円形の板、その下には雲のような彫り物、そして下部はちょうど蒲鉾板のような板上の構造になっています。『加東郡誌』に掲載されていた「忠魂碑」ではなかったかと思いながら、碑文を読んでみました。円形の表面に太く、深く「忠魂」と彫ってあり、下部には彫りが浅く読み取りにくい部分もありますが、「播州加東郡々長山田君・・・」と碑文が彫られています。知人の話によれば、元はこの地より西にあったということでした。建立は明治三十三年と彫ってありましたので、忠魂碑としては古いものだな思いました。
 『加東郡誌』で調べてみると、この忠魂碑の由来は次の通りです。

 在郷軍人並に有志者相謀り我郡明治二十七八年戦死病没者の為めに忠魂碑建設の議を定め時の郡長山田齋之を賛し地を福田村字南坊に卜し工を起し明治三十三年十月功成り盛大なる招魂祭を行ふ。然るに郡制廃止せらるるの結果大正十一年八月郡より福田村へ譲渡せり。

 この忠魂碑は明治二七八役、すなわち日清戦争の戦死病没者の忠魂碑として建てられたもので、後に郡の廃止に伴って福田村(主に現在の加東市福田地区)に移管されたものであることがわかりました。
 大正時代には全国的に忠魂碑建立ブームが起こり、各町村等に忠魂碑が建てられていますから、この明治33年の建立はその前で、古いものだといえるのではないでしょうか。 
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西古瀬の大日堂-加東四国四十六番霊場

2009年01月11日 06時08分50秒 | Weblog
 加東四国霊場のうち、加東市福田地区の古瀬(東、中、西)の霊場を紹介してきましたが、もう一つ西古瀬の大日堂を紹介しましょう。
 西古瀬の集落の西端辺りに大日堂があります。加東四国第四十六番霊場で、同じ西古瀬の毘沙門堂(第四十五番)から、この大日堂を経て中古瀬の薬師堂へと巡礼の道は続きます。写真は四十六番霊場の石柱とお堂です。
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東古瀬の地蔵堂-加東四国四十八番霊場

2009年01月10日 05時54分49秒 | Weblog
 加東市東古瀬の集落の東端に近いところに八坂神社と地蔵堂があります。
 1月3日、その地蔵堂の隣の公民館では東古瀬の新年初総会が開かれていました。一方、地蔵堂では当番の引き継ぎが行われているところで、堂内に安置されている地蔵菩薩像を拝することができました。この木造地蔵菩薩立像は平安時代の中期頃に造られたものと考えられており、昭和56年に社町指定文化財に指定されています(今は加東市指定文化財)。
 境内の入口には「加東四国四十八番霊場」と彫られた石柱が立っています。そして、側面には「大正十年十一月 施主 内藤善太郎」と彫られていました。昨日紹介した中古瀬の四十七番の薬師堂、その前の西古瀬の四十六番大日堂、同じく四十五番毘沙門堂から続く霊場巡りの道は古瀬を西から東へと向かっていますので、順番からいくと次は屋度(加東市屋度)かなと思うのですが、四十九番は東古瀬から東条川を渡って久保木(小野市久保木)へと続いていくのです。
 写真は地蔵堂と石柱で、奥の水色の建物は公民館です。
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中古瀬の薬師堂-加東四国四十七番霊場

2009年01月09日 05時51分15秒 | Weblog
 加東四国八十八ヶ所霊場の四十七番は中古瀬(加東市中古瀬)の薬師堂です。国道175号のすぐ西側、旧道沿いに堂があります。説明板が立てられていたので読んでみると、加東市指定文化財(昭和56年5月22日指定)、木造増長天立像と仏像群と記してありました。木造増長天立像は平安時代後期のものと考えられるとあり、昭和44年3月31日に社町指定文化財に指定されています。
 お堂を外から眺めるだけでしたが、昭和44年に発刊された加東郡教育委員会『加東郡の文化財』で調べてみると、木造増長天立像の写真と解説文がありました。また、お堂の入口には、四十七番霊場の石柱が立てられていました。加東四国八十八ヶ所霊場巡りの四十七番霊場になっており、前回紹介した西古瀬の毘沙門堂から大日堂を経て、その次の霊場ということです。
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西古瀬の毘沙門堂-加東四国霊場

2009年01月08日 05時48分49秒 | Weblog
 加東市西古瀬の大歳神社の北に毘沙門堂があります。その入口左手に4本の石柱が立てられており、そこに彫られた文字を読んでみると、加東四国霊場の道標であることが分かりました。
 1本には「右 第四拾五番 左 第四拾六番 霊場貳丁」「大正拾参年三月建立 當村 友藤又吉」と彫られています。短い1本には、「第四十五番霊」(下部は土中)と太く大きな文字が彫られていました。もう1本には「右 志ん」「左 やど」(その下は表面が剥がれている)と彫られており、新町と屋度への分かれ道に立てられていた道標だろうということが分かります。
 加東四国八十八ヶ所霊場の四十五番は福田村西古瀬の毘沙門堂、四十六番は同じ西古瀬の大日堂になっています(『加東郡誌』)。
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伊勢神宮と佐保神社遙拝所-西古瀬

2009年01月07日 05時10分53秒 | Weblog
 加東市西古瀬のほぼ中心に大歳神社があります。石の鳥居には文化14年(1817)の年号が彫られていました。今から190年余り前に建てられた古いものです。境内には愛宕宮や川下宮、地主宮、秋葉宮などの小宮さんが祀られています。その中に、伊勢神宮と佐保神社の遙拝所がありました(写真)。
 この位置に立って遙か伊勢の大神、佐保神社を拝するところです。伊勢神宮遙拝所にはさざれ石が置かれていました。国歌「君が代」の歌詞にあるさざれ石です。小さな石が長い年月を経て巌になって、苔がつくまでという歌のとおり、石の表面には小さな石がたくさん固まっていました。また、佐保神社は東実(加東市東実)の佐保神社のことだと聞きました。
  
 
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佐保神社の石垣と明神講

2009年01月04日 05時59分05秒 | Weblog
 1月2日、氏神様である佐保神社(加東市社)に家族揃って初詣に行きました。元旦の賑わいとはちがい、境内は数組の家族連れがお参りをしているだけで、穏やかな雰囲気に包まれていました。
 まず本殿に、そして境内にある小宮の御大神宮さんに参拝しました。御大神宮さんは田町(加東市社の田町筋)にあった祠ですが、昭和のはじめに境内に遷されたものです。今でも田町筋のうちの中田町町内会が夏にお祭りをしています。
 境内の東側には高さ1.5mほどの石垣があります。その石垣の上は平らになって木も植わっていて、まだ小さかった頃はこの上から境内の地面に飛び降りるのに勇気がいったことや秋祭りの屋台練りをここから見た記憶があります。
 その石垣の真ん中ほどの文字が彫りこまれた一枚の石が目にとまりました(写真)。


大正元年九月修復

 玉垣寄附者中
  周旋人
 明神講中
  社商業組合

 石工 上中村石工
     松原磯吉

と彫ってありました。この石垣は大正元年(1912)に明神講の寄附によって修復されたことが分かりました。今から96年前のことです。
 佐保神社誌によれば、明神講とは佐保神社附属の講社で「明神を祭り、神職と氏子総代を補佐して、神社発展の方途を画策し、修復再建等の事業には専ら周旋の労に当たる」ことを目的とする敬神結社であると記されています。
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日本一の木造大師-年越し

2009年01月03日 05時19分32秒 | Weblog
 平成20年の大晦日、そして新年21年への年越しは社(加東市社)の持寶院から佐保神社へという順路でお参りをしました。
 持寶院の山門で除夜の鐘を撞き、本堂でぜんざいの御接待を受けます。そして大師堂にまわり、日本一の木造大師様に一年間のお礼をして新年の無病息災をお願いします。
 大師堂ではご住職がお勤めをされていました(写真)。朝のウォーキングでお参りするときは真っ暗なお堂の中で静かにお大師様に手を合わせるのですが、今日は明るいお堂の中で大師像が明かりに浮かびあがってみえます。
 この日本一の木造大師像にまつわる話はこの歴史ブログでこれまでも紹介してきましたが、不思議なご縁でここにおわします大師様が私は大好きなのです。その何ともいえないご表情。元気や勇気をいただくことも、優しいまなざしに癒されることも、時には叱咤激励されることもあります。
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田中の遍路道の道標

2009年01月02日 06時17分00秒 | Weblog
 旧国道175号の加東市松尾の信号から西へ、田中地区へ向かう道を走っていると集落に入るすこし前に分かれ道があります。そこには電柱が立っているのですが水路との間に、電柱にもたれ掛かるように一本の道標がありました(写真)。
 車をおりて表面を見てみると、浅い彫りで「加東郡四国」「へんろみち」「次第八十五番」と彫ってありました。これは加東四国八十八ヶ所霊場巡りの道を示す道標であることがわかりました。八十五番は田中の薬師堂で、八十八番の社の持寶院まであと少しという所です。
 今は建物や国道175号などの構造物で見通しが悪くなっていますが、私が小さかった頃、昭和30年代には広々として一面の田圃が続き、その中に点々と集落がある、そんな風景だったように記憶しています。次は家原赤岸の観音寺、北の方向に見渡せたのではないかと思います。
 役目を終えて静かに休んでいるようにも見えるこの道標。今は登下校する小学生や中学生を朝晩見守っているのかもしれません。
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加東の新年は福吉から

2009年01月01日 16時26分53秒 | Weblog
 新年明けましておめでとうございます。
 天気予報では雪が降るかもしれないということでしたが、初日もまぶしい、輝かしい平成21年の幕開けとなりました。今年が元旦の今朝の天気のように明るく見通しのよい年であってほしいと願いながら、朝から車を走らせていました。
 ところで、加東市内には約100の地区がありますが、そのほとんどの地区の初総会(集会)が、この1月から2月はじめにかけて開催されます。そのトップをきって元旦の9時から行われる地区が福吉(ふくよし)地区です。なんとめでたく、幸福感のある名ではありませんか。加東市の新年は福吉から幕が開く。新年の挨拶のはじめがこの福吉であることは運がよい。各戸から参集され開会を待っておられる公民館の2階の広間に明るい初日が差し込んでいます。
 この福吉という名前は江戸時代(元禄の頃)に村の人々が相談して縁起の良い名前をつけられたとものと聞いています。もとは違う名前だったそうですが、村に凶事が続いたことから村の名が災いしているということで相談となったようです。
 「加東の新年は福吉から」。数年前までは3日に初総会が開かれていたということですが、1日の午前中の方が皆さんが集まりやすいということで元旦の初総会になったと伺いました。
 写真は福吉の大歳神社です。一人の高齢のご婦人が参拝に来られたのでいろいろお話を聞かせていただきました。
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