ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

社の区公会堂

2011年04月29日 06時54分17秒 | Weblog
 加東市社の銀座通りのほぼ真ん中あたりに木造の古い建物があります(写真)。現在は小規模作業所として使用されていますが、この建物が「区の公会堂」として親しまれてきた社町(旧)公会堂です。そして、道路に面しては、社町消防団社分団の詰所建物がそのまま残っています。
 この公会堂の思い出は、小学生の頃、そろばん塾が開かれていて、たった数日だけ通ったこと、消防団に入団して、出初式のあと、団表彰などをこの本館で行い、あとは恒例のすき焼きで宴会、教師になってからは、地区別懇談会の会場になったことなどがあり、それぞれ懐かしい記憶とともにある建物です。

 さて、この区公会堂の新築工事の書類があります。表紙には「昭和十五年九月起 公会堂新築ニ関スル書類 社区」と書かれています。この書類の中に建築用物資需要申告書が閉じられており、その中に、建築理由が次のように書かれています。
「現在ノ町立公会堂ハ相当年数ヲ経過ナシ大修理ノ必要ヲ生ジタルニツキ今般建築面積縮小ナシ改築ナスト共ニ時局下町立警防団員ノ詰所ヲ必要トシ一棟増築ナスモノ」とあります。
 落成式は昭和十七年二月一日に行われています。
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蔵之谷に泳ぐ鯉のぼり

2011年04月28日 05時43分13秒 | Weblog
 4月27日(水)の朝、神戸に向かって県道神戸加東線を走っていると、加東市大畑地区の長く続く谷の両側の山の木々の淡い黄緑色や薄桃色の微妙な濃淡についつい見とれてしまいます。
 その谷を緩やかな勾配で上りながら走っていくと、蔵之谷地区の集落を過ぎ、やがて三木市との境の桃坂へと出ます。その手前にだんだんと幅が狭くなっていく谷を横断して一列に並んで勢いよく泳ぐ鯉のぼりが目に飛び込んできました。
 風が強かったので大きく口を開けて、その体内にいっぱい風を含んでいます。それはまるで急流を勢いよくさかのぼっていく鯉そのもののように見えました。路肩に車を止めてシャッターを押しました。
 蔵の谷には、伝統の播州鯉のぼりを作り続ける柴崎彰孝さんがおられます。東日本大震災の救援に向かった加東市の職員にも鯉のぼりが託されました。また、津波で根こそぎ流された街の中に翻る鯉のぼりの写真が新聞に紹介されていましたが、和文化教育研究交流会では、人々に勇気と元気をよび起こす鯉のぼりを掲げる活動を展開しており、私も賛同しています。
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梶原の歴史を伝える「懸け橋」創刊号

2011年04月26日 06時42分21秒 | Weblog
 加東市梶原の老人クラブ「芳寿会」編集の文集『懸け橋』をいただきました。
 「何の記録も残さず切なる思いも後生に伝えずして世を去ることは忍びません」「私たちこそ、堂々とその体験を語る資格と義務があるのではないでしょうか」という巻頭に掲げられた会長さんの言葉の中に、この文集の編集・発刊に懸ける並々ならぬ決意を感じました。

 副題に「梶原~わが心の軌跡~」とあり、会員さんの心の中にある懐かしい思い出、忘れられない記憶などが綴られています。梶原にある新宮神社の由緒、シベリア抑留体験、終戦前の思い出、戦時中の空襲のこと、終戦の頃の小学生の思い出、昭和10年代の伊勢参りのことなど、貴重な体験談が掲載されています。

 こうした体験談は戦争を知らない私たちの世代(昭和20年代後半生まれ)よりあとの世代にとっては貴重な歴史の証言です。昭和から平成へと時代が変わり、昭和時代はいつの間にか、私たちにとっての大正や明治を語るときような感覚になってしまっています。共に懐かしむ過去を持つこと、歴史を共有するということですが、それが家族や地域、世代を結びつける絆の基盤だと思います。「懸け橋」が変貌していく梶原地区の根っことなるように願っています。
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明治館の門柱

2011年04月25日 05時46分07秒 | Weblog
 加東市社の市街地の南端、明治館が建っています。この明治館は旧加東郡公会堂として明治時代末に建築されたもので、旧加東郡(現加東市、小野市域)の郡議会が開催され、その後も社町公会堂として長年の間、地域の政治経済文化の中心舞台として歴史を刻んできました。
 その正面に2本の大きな門柱が立っています。ちょうど、南に向かって下り坂になっている場所なので、道路から見上げるとさらに高く見えます。明治館が改修された際、武家屋敷のような塀がつくられたために正面の門柱の間から塀と明治館の屋根しか見えなくなりました。門柱の内側には扉の車の跡が敷石の中に緩やかなカーブを描いて残っています。この敷石がまたいいですね。
 明治館の庭には、北門の門柱が保存されています。社の歴史を今に伝える門柱をながめる度に、未来に伝えていきたい街角の歴史遺産の一つと思っています。
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関西電力社営業所の歌碑

2011年04月24日 06時13分07秒 | Weblog
 加東市社の市街地のほぼ中央に社のランドマーク、関西電力社営業所のタワーが高くそびえています。営業所は近頃増築され外装も美しくリニューアルされました。その正面玄関の脇に歌碑が置かれています。刻まれている歌は、古く播磨風土記の時代の応神天皇の御歌です。歌碑の脇に解説が立てられているので紹介します。

 この歌碑は播磨風土記(和銅六年頃)に記載された大変旧い歌です
 この風土記によりますと応神天皇が当地を巡行され小目野(現在社町野村字小部野)にお泊まりになった時お詠みになった歌です
 
 歌 愛くしき小目野の小竹葉に
   霰ふり霜ふるとも
   な枯れそね小目の小竹葉

 訳 美しい小目の笹葉に霰が降り霜が
   降っても枯れるよ小目の笹葉

 今から千二百五十年余りも昔に編さんされた風土記にこんな素晴らしい歌をもった郷土にどんなにか誇りに思い今後豊かな町づくりにこの歌碑が少しでも役立てばと記念して建立しました
 なお歌碑の揮毫は歌人藤原優先生によるものです

 「小目野」は現加東市野村の小部野のことだとされています。加古川の東岸、風土記には穂積里のところに出てきます。解説文にあるとおり、郷土の古い歴史を物語るこの歌をいつまでも伝える歌碑を大切にしたいと思います。   
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多田池の大蛇伝説

2011年04月23日 06時05分43秒 | Weblog
 前回、加東市藤田に伝わる多田池(藤田池)の伝説と掘り出された木樋を紹介しましたが、今日はこの池に伝わる「大蛇伝説」を紹介します。

 伝説の内容は、多田池に大蛇が棲んで人を食べるというので怖れられていましたが、藤田三郎太夫行安という武士がこの大蛇を退治した、というものです。この大蛇は、その百年余り前に西国巡礼の旅の人が摂津の昆陽池を通りがかったときに、一人の若い女性から播磨国の福田郷にある多田満仲が築いた大池のある村の者に届けてほしいと託された文箱の中にいた一匹の蛇が池に入っていったもので、やがて大蛇になって人を食べるようになったわけです。

 この伝説を裏付けるものとして、藤田三郎が大蛇に射た矢の先が木梨神社に宝物とされていたり、射かけられた大蛇がのたうちまわった場所は草木も生えず「蛇ころび」とよばれていたり、大蛇がいつも寝て枕にしている場所を「蛇枕」とよんでいたりしています。また、藤田三郎太夫の屋敷跡とされる広い平らな場所からはかつて矢の根も出てきたといいます。現在の藤田地区の名はこの藤田三郎太夫行安の名を付けたものです。また、木梨神社には、藤田三郎太夫行安を神と祀った三郎太夫神社が建てられています。その他にも、大蛇が堤を藪った時に一気に水が流れ出し、そのままでは下流の家や田畑が流される危険があったのですが、不思議なことに水は急に逆さまに流れてその難を逃れたと伝えられています。その流れのあとは、そのまま川となり、逆川とよばれている、といったことなども伝えられています。
 中学時代にこの逆川を下流から歩いてのぼったことがあります。両岸は高く切り立ち、竹が生い茂る薄暗い川を勇気を出してさかのぼっていきました。途中、上流から流れにのって一匹の蛇が泳ぎながら流れてきた時には心臓が止まりそうでした。大蛇伝説の逆川で蛇!今でもその時の恐怖感、光景は鮮やかによみがえってきます。
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多田池の伝説

2011年04月18日 05時24分33秒 | Weblog
 加東市藤田地区には、木梨神社、小山寺をはじめ、逆川など古い歴史や特色ある自然が残っています。また、このブログでも紹介した「大とんど」など、地域の伝統や文化が大切に継承されています。
 なかでも今日紹介する多田池伝説は謎に満ちており、興味津々の伝説です。藤田地区には昔、多田池という大きな池があり、この池に棲んでいた大蛇退治の伝説があり、その痕跡として、逆川や蛇ころびなどの地名も残っています。
 この話は小さい頃から聞いて知っていましたが、大蛇の大きさや池がどこにあったんだろうとか、謎は残ったままでした。
 今回、4月10日に三草ふれあい広場主催のわくわく探検が藤田地区で行われました。木梨神社で宮司さんのお話を聞いたとき、神社に宝物として保存されている大きな木の樋の一部が公開されました。そして、池があった場所や、堤があった位置などを教えていただくことができました。「池は本当にあったんだ。」謎の一つが解けたような新鮮な喜びがわいてきました。驚いたのは、堤が、木梨神社のあたりから、藤田地区の集落の東端をなぞり、南の台地につながる大きな谷をせき止めるものだった、ということです。今は県道、そして中国縦貫道が東西に通り、さらに千鳥川が流れているので、そうした大きな堤があったとはとても想像できませんが、竹藪や小高いところが残っているので、それらをイメージの中でつないでいくと、巨大な堤が見えてきました。しかし、そうなると、この池はとてつもなく大きな池になってしまいます。千鳥側のさらに上流、東隣の米田地区は池の底になってしまいます。そんな大きな池が本当にあったのか、という新たな疑問もわいてきした。
 また、この多田池がつくられたのはいつのことなのかということも知りたくなります。多田池の名は築造した多田満仲から付けられています。多田満仲は摂津の川西あたりを本拠とする多田源氏の源となった武将で10世紀に活躍した人物です。摂津の国の国司として土地の開発を行ったことで知られていますから、池をつくったということは考えられるのですが、この地を領地としていたのでしょうか。
 4月10日、見せていただいた木の樋の一部は、池の築造から数百年経った江戸時代に元の池の底にあたる田の土の中から掘り出されたものであるという。池が築かれた昔はこれだけの木の樋の元になる大木が周辺に生えていたのだろうということです。
 それにしても、多田池のことはもっと詳しく調べてみたくなりました。
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木梨神社境内の日支事変祈願

2011年04月15日 05時20分01秒 | Weblog
 昨日は加東市藤田の木梨神社境内にある日露戦争の記念碑を紹介しましたが、今日は同じ境内にある「日支事変祈願」碑を紹介します。
 日露戦役記念碑の西隣に一本の背の高い石柱、銅板葺の屋根が真新しい祠、そして石板がまとまってある一角があります。石柱には「日支事変祈願」と刻まれています。後ろの石碑には「日支事変祈願者」の題と木梨15人、下三草4人、藤田12人の名前が刻まれていました。建立は昭和13年1月(1938)とあり、前年の昭和12年に起こった盧溝橋事件を発端に拡大した日本と中国との戦闘、当時は日支事変の戦勝を祈願したんでしょうか。境内にはこうした近代日本の戦争の歴史を伝える記念碑がありました。
 
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木梨神社境内の日露戦役記念碑

2011年04月14日 05時52分09秒 | Weblog
 加東市藤田にある木梨神社の境内、本殿の西側の古木の隣に石碑が立っています。近づいてよく見ると、日露戦役記念碑であることがわかりました。
 碑の天辺に弾が置いてあります。地元の人の話では、昔はもっとたくさん並べてあったということです。今は境内にひっそりと立っていますが、国運を賭けた戦争だった日露戦争にこの地域からも出征されたのでしょう。
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曽我の四つ石-佐保神社の鳥居跡?

2011年04月13日 05時51分02秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市曽我の北向き観音さんの説明板に「昔、佐保神社の鳥居があった」という話がありました。
 佐保神社は加東市社にある神社で、この北向き観音さんのある字荒子は佐保神社の北の方角、約4キロの位置にあたります。昔の距離でいうと一里になり、神社の一里四方に大鳥居が立っていたといわれている話に合う場所です。
 神社の八丁四方にも鳥居が立てられ、その一つが加東市鳥居に今もあり、村の名前にもなっています。佐保神社に内外八基の鳥居が建てられたのは鎌倉時代のこと。尼将軍で知られる北条政子の寄進とされています。大社にはこうした例があると聞いていますが、鎌倉時代の初期の頃、佐保神社の八丁四方、一里四方に計八基の鳥居が建てられ、その跡がこの曽我の北向き観音さんの辺りという伝承に驚きました。
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曽我の北向き観音さん

2011年04月12日 06時22分08秒 | Weblog
2月23日以来約50日ぶりの投稿です。また投稿を続けていきますのでよろしくお願いします。

 今日は、加東市曽我の北向き観音さんを紹介します。
 曽我地区は加東市の北辺、西脇市との境に位置します。最近、この曽我地区の歴史をまとめた冊子をいただきました。その中に「北向き観音」のエピソードが掲載されています。ちょうど天気のよい日にその県道を西脇方面に走っていて、ふと、この観音さんのことを思い出し、車を止めてお参りしました。

 北向き観音さんについて、旁らに立てられている看板に手書きの説明がありました。漢字には読み仮名が丁寧にふってあります。その説明を紹介します。

観音菩薩地蔵の縁起

所在地   加東市曽我荒子(県道西脇三田線、加東市と西脇市の境を接する山麓)
建立    安永8年8月(西暦1779年)
本尊御身丈 高さ83㎝ 幅42㎝ 厚さ28㎝
施主    当村 西国同行9人
伝承    すべての難病にその霊験あらたかと謂われている。又昔は道標としても利用されていたらしく、台座に「右大ふか山 みき 左阿りま、大阪」とある。
(通称)  ・曽我北四石のお観音さん
      ・荒子のお観音さん

 古より北向きの観音様は珍しくその霊験たるや絶大なるものがあると謂われています。近年そうした風潮に便乗するかの如く諸諸に立派な北向き観音像が建立されているやに仄聞します。併しながら建立以来幾星霜の風雪に耐えた、素朴な当、北向き観音様を今尚信仰する近郷近在人らの手向けの香華が絶えることがない。
 又、その昔ここに佐保神社のおおとり御社の真北にあったとか。その為彼岸の中日に鳥居の真上を太陽が通り調度お日様が鳥居をくぐって佐保神社にお参りする様に見えたとか伝えられています。
 又毎年8月9日には4満6千と云ってこの日にお参りすると、4万6千回御参りしたのと同等の功徳をもたらされると伝えられている。
 更に8月17日は御観音さんの縁日で青年団が提灯を吊し地区挙げての盆踊りやら急拵えの舞台で浪曲大会やら万歳等も催されそれはそれは賑やかだったそうな。
 ところがこうした風習も第2次大戦半ば位までで時の戦時体制の余波で廃れてしまった。
 儚い人生せめて信仰に救いを求めるのは有意義なことと思います。商売繁盛、家内安全、病魔退散、又来世の幸せを願い敬虔な気持ちで御参りましょう。
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