ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

タヌキ

2006年06月30日 16時27分55秒 | Weblog
朝から雨が降ったり止んだりしてうっとおしい。
池のふちを歩いていると、釣人が置いていったのか、ボートが目に入った。
ぼーっと見ていると、視界の中で一瞬何かが動いた。
目を凝らして集中する。犬か、タヌキか、それとも話題のアライグマか!?
驚かさないように静かにカメラを構える。
だが、距離がありすぎてズームをしてもよく見えない。
ごそごそ動いているが、草の葉でよく見えない。
足音をたてて気付かせた。
ボートの舳先の方に動いて、こちらのようすを見ている。
お互いに固まったように見つめ合う。
タヌキに見える。静かにシャッターを押した。
もう一枚。だが、そこで電池切れの表示が出た。
同時にタヌキはのそのそと草むらに姿を消した。

写真をよく見て、アライグマとタヌキを比べてみましたが、
やっぱりタヌキのようです。
最近、アライグマが出没して畑を荒らすなどの被害が出ています。
アライグマかと思いましたが、顔つきや色などからタヌキのように見えます。
トンボやカエル、ヘビなど自然の生き物がすぐそばにいっぱいです。
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佐保神社(2)日露戦役記念塔

2006年06月30日 09時17分40秒 | Weblog
日露戦役記念塔
佐保神社の境内の大けやきの下に「日露戦役記念塔」が立っています。
 この記念塔の台座部分には、大正2年(1912)「大阪堂島取引所有志」と彫ってあり、この塔が大阪堂島取引所有志によって建てられたことがわかります。
 なぜ大阪の堂島取引所の人たちが佐保神社にこのような記念塔を立てたのでしょうか。
 大阪の堂島といえば米相場の取引所があり天下の台所の中心として栄えたことで知られています。米相場との關係から考へると、社の田町で米相場が立てられていたからではないかと思はれます。
 堂島では「播州社」の名を知らない者はいなかったといわれるほど関係が深かったようです。
 境内西側に並んでいる小宮のうち、まん中あたりの御大神宮さんの玉垣の石柱には、「加東米穀取引所」と刻まれています。
 この小宮は、昔、田町通りにあったのですが昭和のはじめに佐保神社の境内に遷されたものです。社が米の取引と大いに関係のあったことを知ることができます。
 この記念塔のそばの大けやきの木は社町指定の記念木になっています。樹齢はどれぐらいでしょうか。数百年は経っているでしょうね。
 数年前の冬の朝、このけやきが火事になりました。誰かが皮に火をつけたものと思われますが、太い幹の北側部分が黒く焦げていました。痛ましい姿でした。心配しましたが、大けやきは今年も緑の葉をつけています。
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佐保神社(1)由緒

2006年06月29日 04時43分02秒 | Weblog
佐保神社の由緒について
社の町の起源は佐保神社であるといってまちがいはないでしょう。
 それは、社・「やしろ」という地名は、古い検地帳などに「佐保社村」、「佐保村」、「そうの社」などの名が見られることからも明らかです。
 佐保神社の由来は古く、養老6年(722)遷座説をはじめ諸説ありますが、今から1300年も昔、奈良時代以前に遡ると考えられています。
 その由緒をたずねると、はじめ佐保大明神は、加西の鎌倉峯に天降ってきたのですが、針間鴨国造(はりまのくにのかものくにのみやつこ)の子孫である阿部三郎太夫が神託によって今の場所に遷したとされています。
 佐保神社はその後、鎌倉時代に大いに栄え、鎌倉幕府の尼将軍政子(北条政子)によって社殿や八町四方に鳥居がつくられました。今も西八町のところにある鳥居地区の西の端に石の鳥居が立っています。
 明治6年、当時の飾磨県から郷社に、そして明治14年(1881)に兵庫県から県社に指定されました。明治政府は、神社に社格をつけ、官幣社、国幣社、府縣社、郷社・村社に大きく分けました。官幣社は皇室から、国幣社は国庫から例祭に神饌幣帛料が奉られる社格の高い神社とされました。府県社は府県全域から崇敬を受ける神社、郷社・村社は郷村域から崇敬される神社をいいました。
 旧加東郡(現加東市・小野市域)では、県社に指定されたのは佐保神社一社で、そのほか、郷社8社、村社45社、無格社158社となっています。(旧『加東郡誌』による)
 楼門の前に立っている石柱には「縣社佐保神社」と刻まれ、今はその字が埋められていますが、はっきりと読み取ることができます。
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田町にあった御大神宮さん

2006年06月28日 03時37分42秒 | Weblog
田町にあった御大神宮さん
 田町筋は、西から西田町、中田町、そして東田町と三つの町割があります。中田町と東田町の境を分ける路地と田町通りが交わる服部家の前に、昔、御大神宮さんの小宮がありました。写真は田町にあった昭和初期の頃のものです(中田町:服部正法氏蔵)。
 今は佐保神社境内の西側に遷されて、その跡には何もありませんが、中田町の人々は、毎年7月25日に佐保神社の境内の小宮に参って、昔のままにお祭りをしています。
 さて、この小宮について、故・服部千代子さん(中田町)はこんな言い伝えを紹介しています。
 江戸時代のはじめの頃、ある日、空から御幣がひらひらと舞い落ちてきたので、人々は「これは勿体ないことだ。おろそかにできない」と、お金を出し合って家の前に小さな祠を建てたそうです。小さいながらも玉垣で囲って立派なものだったといいます。その後、昭和のはじめになって、田町筋(県道)を清水行や三田行の定期バスが通ることになり、幅5メートルほどの道の真ん中あたりまではみ出していた祠を移転することになりました。当時の町内会長さんが佐保神社の宮司さんに相談を持ちかけたところ、佐保神社の境内に移すことになったのです。
 毎年7月25日になると、中田町の人々は、朝から小宮さんの周りの草を引き、きれいに清掃して幟を立てたり幕を張って祭の準備をします。そして、夕刻になると、町内の老若男女が集い、御大神宮さんを参拝し、家内安全と町内発展を祈ります。西の空は日が沈んでもまだ明るく、昼間の暑さもやわらいで、談笑は暗くなるまで続きます。
 服部さんの手記では、「遠い昔、江戸時代の初期だったかもしれません」と書いてあり、時期ははっきりしていません。「空から御幣がひらひらと降ってきた」から思い浮かんでくるのが、お伊勢参りとの関係です。伊勢信仰は江戸時代に絶頂を迎えます。全国各地から人々はお伊勢参りの旅にでかけました。その信仰を広めるために各地にお札を配っています。元禄時代にはお札を各地に降らしたという記録もあるそうです。中田町に降ってきた御幣もそうしたものだったかもしれません。
 お札が降ってくるといえば、幕末の西日本を中心に流行した「ええじゃないか」の騒動のきっかけになったのもお札です。北播磨地方でも、慶応3年(1867)の暮れに各地に「お札」が降り、「ええじゃないか」の騒ぎが起こっています。お札には「大神宮」(伊勢神宮)と書かれたものも多かったようです。

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神姫バス営業所あと

2006年06月27日 04時09分30秒 | Weblog
神姫バスの営業所のあと
 旧国道175号線と社環状線が交差する赤岸交差点から少し南に向って歩くと、社市街地の北の入口に入ります。
 その坂のちょうど真ん中あたり、左手(東側)に神姫バスの営業所跡があります。と言っても今は住宅が建ち、昔の面影はほとんどありません。

 日本に馬車や人力車に代わって自動車が登場したのは大正時代のことでした。社では、大正9年(1920)に社自動車運輸株式会社が営業を始めました。社から、加古川、天神、大門、相野などへの路線をもち、神戸に出かける商売人も多く営業は好調だったようです。
 しかし、火事で車庫や車が焼け、資金繰りが悪くなり、昭和3年に、神姫自動車株式会社(のちの神姫バス)に吸収合併されました。
 写真には、懐かしい昔の営業所風景やバスが写っています。
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石段と神橋

2006年06月26日 11時27分28秒 | Weblog
石段と神橋
明治館(元加東郡公会堂)の敷地にある忠魂碑の南側は、急な崖になっていて、社の市街地の高台がここで切れています。ここに石段があり、崖下の小道につながっています。
 この場所に石段があるのは少し唐突な感じがしますが、この石段は、昔は佐保神社への参道として、また、明治時代のはじめに八城学校が明治館の場所にあった頃は、通学路として多くの人々が上り下りしたようです。斜面にはどんぐりの木が生えており、石段には実が落ちています。
 石段は、今から約300年前の元禄14年(1701)に造られたとの記録があります。昔は、80段の階段を登りきると、佐保神社まで真っ直ぐにのびた参道があったようです。(『佐保神社誌』)
石段を下ると下川があり、橋がかかっています。今はコンクリート橋になっていますが、昔は石橋がかかっていて、「石の神橋」とよばれていたそうです。
 神橋がかかる下川は、社市街地の南端を東から西に流れる川幅数メートルの小さな川ですが、『佐保神社誌』には「御手洗川」、「社川」などの名が記されています。
下川の名前の由来をたずねると、「白川」とよばれ、三草山合戦で平家を討つた義経軍が社まで来て休息した際、この川で米をといだために白く濁ったので白川とよんだという言い伝えがあります。
 この下川には、山国へ通じる道に「くろう橋」(源九郎義経の名にちなんだ)や、「源ヶ坂」、「ゲンジの井堰(ゆ)」など、義経伝説にちなんだ名があり、歴史の古さを思わずにはおれません。「ゲンジ井堰」辺りは、今は両側がコンクリートブロックで固められていますが、昔は子どもたちの格好の遊び場になっていたようです。
 
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旧役場あたり

2006年06月25日 05時35分53秒 | Weblog
旧役場跡
 田町通りの西田町から北に道を折れ、社小学校に向つてしばらく歩くと、社消防会館(加東市消防団社分団詰所)と駐車場が見えてきます。関西電力社営業所から郵便局に抜ける道路と交差する地点です。
ここには、もと社町役場がありました。昭和30年の町村合併の調印式はこの役場の2階で行われたのです。それ以前は社税務署の建物だったのですが、その後町役場として使われ、昭和47年に庁舎が嬉野に新築移転したあと、解体され、駐車場になりました。
 また、消防会館の裏に消防ホースを干す鉄塔がありますが、ここには以前、古い鉄塔(火の見櫓)があり、その最上部には「鐘」が吊され、市街地の火事を知らせました。
 昭和30年代だったでしょうか。役場の南にあった銭湯の大火事の時には、半鐘が激しく打ち鳴らされました。半鐘の鐘の音に驚いて外に出てみると、空が真っ赤に染まり、火炎と火の粉が吹き上がって、風呂屋全体が大きな炎に包まれていました。写真はありし日の社町役場です。

八志路幼稚園と神田学園
 旧役場跡の北には四階建のアパートが聳えています。この地には八志路幼稚園がありました(大正7年園舎新築~昭和53年、清水寺の経営)。
 また、社小学校へ通じる道の西側に空き地があります。この地には神田学園(「私立友隣家政女学校」・昭和7年~37年)がありました。本科は高等小学校卒業程度の女子を対象にして2年間、専科は高等女学校卒業程度の女子を対象にして1、2年間、裁縫や茶道、生花など良妻賢母となるべく基礎的な実習が行われました。
 さらに小学校に向かって歩くと、十字架が目に飛び込んできます。社ルーテル教会の建物です。この辺りはもとは天理教の教会がありました。(今は嬉野に移転)
 
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社の忠魂碑

2006年06月24日 07時17分10秒 | Weblog
社の忠魂碑
社市街地の南端にある「明治館」の敷地に忠魂碑があります。周囲を石の玉垣で囲み、その中に、大きな自然石で組んだ約2・5メートルの台の上にさらに高さ約2メートルの3本の石碑が聳えています。
水平に伸びた松の枝のために正面から見ると、碑が隠れてしまっていますが、中央の忠魂碑は大正15年3月、両側の碑は昭和28年建立と刻まれています。
中央の「忠魂碑」の揮毫は陸軍大将、川村景明とあります。川村大将は薩摩出身の陸軍軍人で、日露戦争では鴨緑江軍司令官として奉天会戦などで活躍した人物です。日露戦争後は子爵となり、大正4年には元帥、その後在郷軍人会会長をつとめています。大正時代のはじめには、全国的に忠魂碑建設ブームが起こりましたが、川村大将は多くの忠魂碑の揮毫をしています。
 両側の碑には英霊のご尊名が刻まれています。明治10年の西南戦争から大東亜戦争まで、祖国のために戦って戦陣に散った英霊の数は、240柱余りにのぼっています。ちなみに、各戦役の数は以下の通りです。西南戦役(4)、日清戦争(5)、日露戦争(7)、日独戦役(第一次大戦・2)、満支事変(31)、大東亜戦争(195)。
 
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牛市場のあと

2006年06月22日 09時23分28秒 | Weblog
田町にあった牛市場
田町通りを東に抜けると、道池交差点に出ます。ここには社郵便局と駐車場がありますが、郵便局がこの地に新築移転してくる以前は、牛市場がありました。
 牛市場があった頃、市のある日には、早朝から牛の鳴き声があちこちから聞こえ、道路には、牛の糞がそこらじゅうにころがっていました。市場では、牛のせりがにぎやかに行われていました。
 牛市場は、道池に移転する前は、東田町(今の東田町公民館あたり)にありました。市場が移転したあとは、しばらくの間、映画館がありました。
 ところで、社に定期家畜市場がつくられたのは大正10年(1921)のことです。当時、農家にとって牛は農耕や肥料をつくるために欠くことのできない家畜でした。また、大正時代になると、食生活の変化を背景に牛肉や乳の需要が増え、加東郡の北部や東部では牛の飼育がさかんに行われるようになりました。
 社に定期家畜市場が開設されると、兵庫県下はもちろん、遠く近畿一円からも牛馬商が集まり、牛が売買されました。田町筋はこうした牛馬商たちが飲食をしたので大いににぎわったそうです。
 ところで、この郵便局から西南の一帯は「道池」という地名のとおり、元は池だったのです。昭和33年頃に池を埋め立てて道路や宅地が開かれました。
 人によっては「道池」(みちいけ)といわず、「みついけ」と言っています。昭和28年の社町三千分一地図(昭和の合併前の社町)には、たしかに「三池」と書いてあります。しかし、大正9年社町ノ内社町字限図には「道池」と書いてあり、さらにもっと古い江戸時代の絵図にも「道池」の名が書かれています。「三池」の呼び名は、道池の東の若ヶ谷にあった三つの池(奥ノ池、中ノ池、下ノ池)に由来するという人もいます。
 今、道池筋を南北に走る道路は、赤岸から松尾まで社の市街を取り囲むように弧状に走っており、「環状線」と呼ばれています。今は一部が国道372号線となり、京都と姫路を結ぶ幹線道として重要な役割を果たしています。この環状線は昭和30年の新社町合併後の大きな事業としてつくられたものでした。幅11メートルの道路は当時相当広く感じられたものです。
 平成7年の阪神淡路大震災の折りには、寸断された海岸部の国道2号線に代わって京都から姫路方面への迂回路としてその重要性が再認識されました。
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女学校のあと

2006年06月22日 09時00分14秒 | Weblog
裁判所は元県立社高等女学校あと
 社の環状線(国道372号線)の嬉野口交差点から西に向かって少し歩くと、裁判所があります。
 広々とした敷地の庭の一角に「県立社高等女学校跡」と刻んだ小さな石柱が立っています。元は、この地に県立社高等女学校があったのです。
 県立社高等女学校は大正11年(1922)にこの地に校舎が新築されました。その前身は、小野高等女学校(大正2年、小野村外三か村組合立で小野高等実科女学校として設置され、後加東郡立に移管、大正10年郡立小野高等女学校となる)で、加東郡内の小野に設置され、置かれていたものです。
 「郡制」の廃止にともない、県立に移管されるのを機に、小野から加東郡の北部への移転を希望する声が高まり、南部と北部の激しい引き合いが起こりました。小野には県立小野中学校があり、北部や東部(東条や米田)の人々は教育施設が南部地域に偏っていることに不満を抱いていたようでした。
 この女学校の移転問題は当時の加東郡役所が抱える大問題の一つでした。移転問題を話し合った加東郡会は北部、南部議員の対立で揺れ、加東郡公会堂(今の明治館)付近には群集が詰めかけ、警察が出動するほどの騒ぎになったようです。
 結局、社町から南部に慰謝料を支払うことで移転問題は決着しましたが、南部の町村では町村長がこの責任をとって辞任するという大混乱を残しました。
 昭和23年(1948)、県立社高等女学校は新しく県立社高等学校となり、昭和34年に、嬉野の現在地に鉄筋コンクリートの新校舎が建設され移転しました。
 女学校があった頃、社の市街地から嬉野に上がるとき、女学校の前を通るのが楽しみだったと古老は懐かしそうに話しておられました。
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裁判所と警察署のあと

2006年06月22日 05時54分27秒 | Weblog
裁判所
 社には裁判所があります。その歴史をさかのぼってみると、裁判所が置かれたのは、今からおよそ130年ほど前の明治11年のことで、姫路治安裁判所の社出張所として設置されたのでした。
 その後、明治23年に社区裁判所が設置されました。大正時代には、いったん廃庁になり、姫路区裁判所の社出張所になったりもしましたが、その後、復活しました。
 今の裁判所がある場所は元県立社高等女学校がありました。元の裁判所は、銀座通りから東に向かって中央公園にのびる道を、みなと銀行から少し東に行ったところの突き当たりにあったのです。今は法務局の庁舎がその敷地の一部に建っています。
 古老の話によれば、昔は銀座通りを裁判所に向かう人々が列をなしていたこともあるそうです。

みなと銀行は元社警察署あと
今、「みなと銀行社支店」のある場所に、兵庫県社警察署がありました。写真の通り、歴史を感じさせる立派な建物で、昭和3年(1928)に完成しました。
 ところで、社に警察が置かれたのは明治11年(1878)のことで、明石警察署の社交番所として、旧加東郡の北部を管轄しました。翌年に分署(今の警察署のようなもの)に昇格し、明治21年には、人々の拠出金で本町筋に庁舎が建てられました。そして、明治26年には社警察署に昇格しました。
 警察の仕組みは戦前、戦後を通じていろいろ変化してきましたが、戦後の一時期、国警と自治体警察が置かれ、社町には昭和23年から26年まで「社町警察」(自治体警察)が置かれました。その後、自治体警察は廃止され、29年に兵庫県社警察署となりました。
 今では、警察署も市街地を離れ、国道175号線と372号線が交差する現在地に新築移転しました。市街地には環状線から嬉野に上がる嬉野口交差点に時計台のあるしゃれた交番が設置されています。
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ふるさとの自然-とんぼ-

2006年06月21日 12時41分43秒 | Weblog
夏の早朝
市内の古い池で見つけたトンボ
なんという名のトンボか分かりませんが
太陽の光に七色に輝く翅にみとれてしまいました。
ヨシの緑、吹きわたる風、ゆっくりと翅を動かしながら
トンボはカメラにおさまってくれました。
ふるさと加東の自然のひとこまでした。
(※調べるとチョウトンボのようです)
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加東郡の郡役所

2006年06月21日 04時15分19秒 | Weblog
加東郡の郡役所
 平成の大合併によって「加東市」が誕生しました。加東市の場合、社町、滝野町、東条町の3町が合併して生まれたのですが、この3町は加東郡という区域だったので、加東郡が加東市になったような感じを受けます。しかし、加東郡という区域はあっても、市や町といった地方自治団体ではありませんでした。
 現在の地方自治制度は、県と市町村から成り立っています。この県と町村の中間に「郡」という地方自治体が置かれていた時代があったのです。
 明治12年(1879)、「郡制」が実施され、それまで兵庫県第三大区とよばれていたこの地方は「加東郡」と改められました。区域は今の加東市と小野市を合わせた区域でした。「郡」には郡長が任命され、郡役所が設置されて、町村を指導したり、問題の解決にあたったりしました。 
 加東郡の郡役所は、はじめ社村の持寶院の西の一乗院(明治初めに廃寺となる)を仮庁舎として置かれました。ここには、飾磨県時代(明治4年に置かれた県で、区域は今の播磨地方)に社出張所が置かれていました。
 明治32年(1899)に、社村の上町に庁舎が新築されました。場所は今の社一区のコミュニティセンタ-がある辺りです。そして、郡制が廃止される大正15年(1926)まで郡役所が置かれていました。写真は、コミュニティセンター周辺で、ここに郡役所があったのですね。
 古老の話では、昭和初期には、郡役所の前の道路だけが舗装されていたということです。また、郡役所が廃止されたあとも地元の要望で兵庫県の役所の出先機関が引き続き置かれ、加東郡の行政の中心となっていました。
昭和17年(1942)、地方事務所が設けられることになり、旧郡役所の建物に加東地方事務所が設置されました。昭和25年(1950)には、新しい庁舎が建てられました。しかし、県の社総合庁舎が国道175号線(バイパス)沿いに新築移転したあとは、静かな住宅地になっており、ここが明治以降ずっと旧加東郡の行政の中心だったとは気付きませんね。

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山氏神社と義経お手植えの松

2006年06月20日 10時50分33秒 | Weblog
山氏神社
前々回紹介した「さんがい」交差点から商店街をさらに北に向かって少し歩くと、時計店の角から東に参道がのびています。これが山氏神社(やまうじじんじゃ)の参道です。山氏神社は「やもりさん」(「やんもいさん」)とよばれています。
 この神社の氏子は元、広野屋と号する肥田氏一族で、肥田氏の氏神とされています。肥田氏は広野屋の屋号があるように、「広野」とよばれた社の原野を支配してきた古い豪族です。伝説によれば、多田氏の娘、八重が義経にお茶を出したことがきっかけで、義経は家来の土肥弥太郎遠平と結婚させ、土肥の肥と、多田の田をとって肥田の姓を名乗らせたといわれています。
 ちなみに「ひろの」とは、社市街地の東側に広がる原野をさし、「ゆらの」は西側一帯の呼び名だったようです。「ひろの」も「ゆらの」も社の古い地名ですが、今も地名や公共施設、あるいは屋号などに使われて歴史を伝えています。

義経お手植えの松
さて、山氏神社の境内の銀杏の木の東の奥まったところ、西向きの社殿の北側に、玉垣で囲まれた一角があります。そこには大きな松の切り株と石柱が立っています。
 石柱には、「源九郎判官義経お手植の松」と刻まれています(「社の義経伝説」の写真)。これは三草山の合戦に勝った義経が社まで軍を進め、自ら戦勝を祈願して松を植えたとの伝承をもとにしたのもです。
 今は松の大木はなく、小さな松の木が数本生えているだけですが、土地の古老の話によれば、かつては大きな松の木が生えていたとのことです。
 ところで、昭和30年代に、山氏神社の境内にサーカスがやってきて興行をしました。大きなテントが張られ、中で、オートバイが球状の金網の内側をエンジン音を唸らせながらぐるぐる回転していたことが排気ガスの匂いとともに記憶に残っています。
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社の義経伝説

2006年06月19日 10時36分40秒 | Weblog
社の「義経」伝説
社郵便局の東側の小高いところは、「百旗」(ひゃくはた)・「百旗立」(ひゃくはったい)とよばれています。
この地名の由来は、今からおよそ800年余り前の1184年、源義経が三草山に陣取る平家を急襲し、逃げる平家を追って、社まで兵を進めてきたときに、このあたりに百本の白旗を立てたという言い伝えによるものと言われています。
 源平合戦は、源氏と平氏が全国を舞台にして戦った大争乱でした。中でも、一の谷の合戦、壇ノ浦の合戦などは義経の活躍でよく知られています。一ノ谷の合戦(神戸市)では、義経軍が急な坂を一気に下って平氏の陣を襲撃し討ち破ったのですが、この合戦の前哨戦が「三草山の合戦」だったのです。
 「三草山」は加東市(旧社町)にある標高423.9メートルの山で、丹波から播磨への入口に位置しています。前年に木曽義仲の上洛によって都を捨てた平家は、西国の兵力を結集して再び京都に向かうべく、福原(神戸)に陣をはっていました。これを攻撃するために源範頼と義経兄弟に追討の命令が下ったのです。範頼は正面から、義経は背後から攻撃すべく、京都から三草山を通って一の谷に向かったのです。
 平家もぬかりなく、平資盛らが三草山に陣取り、源氏を待ちうけていました。しかし、義経が小野原(篠山市:旧今田町)に到着したとき、平家は清盛の法要を行い、鎧を脱いで油断していたのです。義経はそこへ夜襲をかけて打ち破りました。義経軍は逃げる平氏を追いながら社辺りまで来て、陣を張ったのでしょう。その後、義経は少数の家来を連れて、小野、三木から一ノ谷に向かっていますが、そのルートは謎のままです。
 義経が通ったルートにあたる加東市(社町)はもちろん、小野市、三木市にも義経、弁慶にまつわる伝承が数多く伝えられています。そのうち、社市街地には、山氏神社境内にに「義経お手植えの松」(※写真)があります。また、源氏が米を洗ったので川が真っ白になったことから「白川」というようになった(白川が訛つて下川に)とか、「字ゲンジ」という地名があったとか、社から山国に通じる坂道を「源ヶ坂(げんがさか)」というなど、約800年も前の合戦にまつわる伝承が遺物や地名となって今も残っています。
 「ゲンジ」という小字名は今はありません。しかし、下川に「ゲンジ堰」とよばれている農業用水の井堰があります。また、年輩の人は、子どもの頃、下川辺りに遊びに行くとき、「ゲンジに行こう」などと言っていたといいます。
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