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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

姫滝伝説(3) もう一つの「姫滝伝説」

2006年07月31日 05時42分40秒 | Weblog
板波の「姫滝」伝説

上の写真を見てください。姫滝伝説で、城があったとされる鳴尾山のすぐ北側を流れる野間川の岩場です。
 ちょうど渇水期で、川底がそっくり見渡せます。こんな川底見たことありますか?まるで、溶岩が流れ出し、冷えてそのまま固まったように、岩盤がむきだしになっています。
 写真のちょうど真ん中あたりには、大きな裂け目ができ、水の流れが落ちこむ小さな滝になっています。地元、板波(西脇市)の人々は、この滝を「姫滝」と呼んでいるのです。

 板波の人に姫滝の話を聞いてみました。

 そのいわれは、愛宕神社が祭ってある山の上に、昔、城があり、その城の姫様がこの滝に落ちて死んだというのです。これって、まさに姫滝伝説ではありませんか。川底を覆う巨大な岩盤は、まるで溶岩が流れ出して冷えて固まったように見えます。伝説の通りです。滝つぼも結構深そうに見えます。

 滝野の「姫滝伝説」、板波の「姫滝伝説」。二つの姫滝伝説が鳴尾山をはさんで、北の野間川と南の加古川にあるのです。

 姫滝伝説の謎は深まるばかりです。
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姫滝伝説をさぐる(2)

2006年07月30日 11時32分20秒 | Weblog
伝説を追って

滝野に伝わる「姫滝伝説」は前回に紹介した通りです。姫滝は、闘龍灘の下手にかかる滝見橋から約100メートルほど下流にある岩場で、小さな滝になっています。伝説を裏付けるものとして、岩場に、姫の小さな足跡が残っているといわれています。さっそく、さぐってみましょう。

 まず、この伝説は、何らかの史実に基づくものなのか、が気にかかります。事実としてあるものは、鳴尾山(泣尾山)と姫滝(岩場)の二つです。時代も、城も、城主である武士も特定されているわけではありません。
いったい、城主は誰だつたのでしょうか。一説に赤松氏重であったといいますが、定かではありません。
また、伝説の中に、「近くの山が火を噴いた」という話が入っています。これは火山が噴火、そして溶岩が川まで流れ出したということですが、そんな記録はありません。
 闘流灘をはじめ、この地域の加古川に露出している岩は、一見するとまるで溶岩が流れて固まったようにも見えます。しかし、岩石に詳しい人の話によれば、溶岩ではないということです。
鳴尾山から姫滝までは直線距離でもおよそ2キロはあります。姫はどうしてすぐ近くの水辺に行かず、この遠い岩場まで来たのか。これも納得が行きません。
 とにかく、この伝説には疑問となることが多過ぎるようです。ただ、伝説の裏付けとなっている姫の小さな足跡は本当にあるのか、どうかということです。

 実際に姫滝に行ってみました。水量の少ない日を選んで、姫滝の岩場に行ってみると、確かに「小さな足あと」のような穴があるのです。しかも一つや二つではありません。無数というほどではありませんが、見つけるのに苦労はいらないほどあるのです。やはり、本当だったか・・・。

 滝の近くの新町のお年寄りの方に聞いてみました。すると、こんなお話がきけました。

 この穴は、「姫の足あと」ではなく、「馬の蹄のあと」が残っているんだ。小さい頃に新町の舟着場の少し南の岩場で泳いでいたが、「蹄のあと」は姫滝の大きな岩場ではなく、その辺りの岩の上にあった。
 昔、五峰山で戦いがあり、川の東岸まで来た武士が馬に乗ったまま、西岸(上滝野)へ一気に飛び越えた時、馬が力いっぱい足を踏みしめたので岩に蹄の型がついた、と聞いている。「姫の足あと」の話については記憶がない・・・。

 「姫の足あと」ではなく、「馬の蹄のあと」だなんて。姫滝伝説が吹き飛んでしまいます。穴をもう一度よく見てみると、たしかに「馬の蹄のあと」のようにも見えるのです。これなら無数にあってもおかしくありません。
 地元の方が「姫の足あと」を知らないのに、姫滝伝説があるとは・・・。謎は深まるばかりです。
 写真は岩場の穴です。「姫の足あと」に見えますか?それとも「馬の蹄のあと」に見えますか?






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滝野の伝説(1)姫滝伝説

2006年07月29日 20時15分30秒 | Weblog
姫滝伝説(1) 

 滝野に伝わる伝説の一つに「姫滝伝説」があります。加古川の名勝「闘龍灘」は有名ですが、その下手、新町と上滝野を結ぶ「滝見橋」から少し下ったところに、岩場があります。(写真)
 闘龍灘に比べるとだいぶ小さな岩場ですが、加古川の流れはここで狭まり、小さな滝となって落ちています。人々はこの小さな滝を「姫滝」とよんでいるのです。
 「小さい」ことを「姫」と言い換える先人の言葉のつかい方には奥ゆかしさを感じます。しかし、「姫滝」には単なる小さいという意味だけではなく、「姫様の悲しい物語」があるのです。紹介しましょう。

姫滝伝説

昔、鳴尾山に城があり、その城主には可愛い姫がいて、毎日笑い声の絶えない楽しい日々を送っていました。
 しかし、ある時、戦いが起こり、城は敵に攻められ、火に包まれました。姫は「熱い、熱い」と泣きながら城を逃げ出したので、「泣尾山」と呼ばれるようになったそうです。
 姫は家来に守られて、山の岩穴に身を隠し、戦いがおさまるのを待ちました。
 そうこうしていると、近くの山が火を噴き、どろどろに溶けた溶岩が流れ出してきました。幸い、姫の隠れていた岩穴には溶岩は流れてこなかったので助かりました。
 しばらくして、姫は喉が渇いたので、岩穴を抜け出し、近くを流れる加古川のほとりまでやってきました。水辺に近づこうと岩を歩いていると、表面は冷えて固まっていましたが、まだ溶岩は完全に固まっておらず、姫の足は岩にめり込んでしまいました。姫はあまりの熱さに耐えかねて、「熱い、熱い」と叫びながら小さな滝に身を投げて死んでしまいました。
 それから人々は、その小さな滝を「姫滝」と呼ぶようになったそうです。

 以上が伝説です。伝説の舞台、城のあったのは鳴尾山(あきおやま・なきやま)だとされています。この山は滝野と西脇の境にあり、山の東側はわずかな平地をJR加古川線、旧国道175号線が走り、すぐそばを加古川が流れています。
 そして姫が身を投げて死んだのが、そこからだいぶ下流の姫滝なのです。姫滝の岩場には、姫の足あとが今も残っているといわれています。
 さて、実際に姫滝をさぐってみました。続きは次回・・・。
 
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続-昭和4年、郷土の詩人たち

2006年07月27日 11時51分38秒 | Weblog
同人の名と作品

詩文誌「東播芸術」2の内容を紹介しましょう。
表紙裏の目次は次のとおりです。


表装          T・F生

子か孫の時代      田中 正一
午前九時        石井 高史
第二の太陽       國井 重二
病床から外一篇     藤木 正城
月明頌序曲       神澤 辰司
五月の詩外一篇     岸本 輝夫
春はかえれり      中野 一夫
雨 外一篇       揚 ひろみ
あなた         光本 兼一
ともあれ外一篇     雑   草
狂女          近藤  次
神の湖         大村  栄
献詩外一篇       姿 藻都美
幸はいずこに      末永百太郎
人が猫になる話外一篇  藤本 豊治

雑・後記
同人消息        藤本 豊治

 このうち、「人が猫になる話」をここに紹介します。

人が猫になる話

或雨降りの日
與四吉は婆に裸足で歩く仕事を
たのまれたけれど
俺は嫌だと言つて断ると
猫でも裸足で歩くのに人が歩けぬ
事があるものか
と言つて叱られた
薄馬鹿の與四吉だつたけれど
人が猫の真似をせねば
いけぬのかと不思議に思つた。
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昭和4年の文芸誌-郷土の詩人たち-

2006年07月26日 12時11分40秒 | Weblog
「東播芸術」2号-1929年

 書棚の奥から一冊のうすい冊子を見つけたのはもうだいぶ前のことでした。今日はこの小冊子を紹介します。写真は、表紙と裏表紙です。 

 「東播芸術」2号は14頁の小冊子です。編集後記の下欄の奥付には次のように書いてあります。

 詩文誌 東播芸術  第一巻 第一輯
 昭和四年七月十五日印刷
 昭和四年七月二十日発行
  兵庫縣社町六五八

 編輯兼発行人  藤本豊治

 石川県石川郡比樂島村
 印刷所 欲生社印刷部

 兵庫縣社町六五八
 発行所 東播芸術聯盟

 賣□所  社町   梶原書店
      小野町  藤尾書店
      加古川町 尚古堂書店

 同人費金一圓五部呈


 この小冊子は、上記のように文芸同人誌です。同人消息、住所録の欄を見ると、社町、小野町をはじめ、加古川町、神崎郡、神戸市在住の11人の同人の名が書かれています。編輯は社町の藤本豊治氏(のちの社町長)らが中心になっていたようです。
 わずか12頁のうすい冊子です。しかし、郷土の文学を志す青年たちの表現に対する情熱は77年の歳月を経た今日も色あせていません。1929年といえば、世界恐慌が起こった年です。
 この冊子は2号ですが、創刊号は出たはず。どなたかお持ちの方はおられないでしょうか。
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嬉野上空から社を望む

2006年07月25日 05時31分13秒 | Weblog
嬉野も田圃と松林が広がっていた

 この写真は嬉野の天理教社大教会あたりの上空から、市街地を望んだものです。これまで紹介してきた空中写真と同じ昭和30年代はじめの頃のものです。
 手前に右手から池が3つ見えます。真ん中右手の白い建物の前の池が「猪ヶ谷池」、白い道を挟んで写真中央にある池が「下猪ヶ谷池」です。今も変わらないのはこの二つの池で、その周囲は現在、住宅地に変わっています。
 もう一つ、「猪ヶ谷池」から見て少し上に池が移っています。「金屋谷池」です。今は、社中央公園(ステラパーク)のところにある池です。半世紀前とはずいぶん景色が変わってしまいました。
 写真の真ん中から下半分が嬉野の台地面で、その上に帯のように市街地がヨコに連なり、さらにその上は一面の田圃が広がって、さらにその向こうには青野ヶ原台地からはなだらかな中国山地の連なりがどこまでも続いています。
 小さい写真ですが、ちょっと集中して見ると、写真中央の右手に白く光っている建物があることに気付きます。その位置から見て、新築間もない「社病院」に間違いありません。
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昔の社、鳥居を空から見る

2006年07月24日 11時59分06秒 | Weblog
昔は一面の田圃

 この写真は社の市街地のある台地を西の空から写したものです。市街地は写真上部に黒々とした部分が横に走っていますが、ちょうど雲の陰になったようです。
 その上部の真ん中あたりに白く光っているものが見えますが、これが嬉野台地に建設された県立社高等学校です。(市街地の標高がおよそ70m、社高校辺りが100m、手前の田圃45~50mで、西から東へ大きく3段に高くなっています)
 社市街地の西、すなわち写真では黒くなっている部分の手前ですが、ひろびろと田圃が広がり、その中を一本の道路が白く光って走っています。
 中央に集落が見えます。加東市鳥居です。道が大きく曲がっているところに石の鳥居があります。この鳥居は佐保神社の西の鳥居として知られています。
 写真のちょうど真ん中少し上に四角の池があるのですが、分かりますか?鳥居池です。この池の東あたり(写真では上)を今は国道175号バイパスが走っています。また、国道372号線は写真の中央より少し右、写真手前の池と道路が接近するあたりから、鳥居の集落の右手を真っ直ぐに市街地へと走ることになるのです。
 今では兵庫県の総合庁舎や警察署、ジャスコやその他の量販店が集中し、加東市のいわば中心地になっていますが、昭和30年代はじめは田園地帯そのものだったんですねえ。

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昭和30年代の社を空から見ると

2006年07月23日 11時45分22秒 | Weblog
空から見た社の街

 写真が小さくて見にくいと思いますが、昭和30年代の社の市街地を空から写したものです。
 手前左下が道池交差点あたりです。埋め立てられた道池の輪郭がつかめます。また、未舗装の環状道路が太く白く光っています。今の郵便局のところに写っている建物は牛市場です。
 環状線の内側にはまだまだ田圃があったことが分かります。写真右上も田圃が広がっていますが、今はこの辺りにジャスコがあります。
 市街地を南北に走る道路にそって家が密集しています。中央の白い建物が今の商工会館で、当時は神戸銀行社支店の建物でした。そこから左下に向かって延びる筋が田町通りです。
  

 
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明治橋

2006年07月21日 15時21分40秒 | Weblog
明治橋から社を見る

 この写真は、社市街地の北を流れる千鳥川に架かる明治橋の北詰から社方面を写したものです。昭和前期の写真だと思いますが、はっきりとした年代はわかりません。
 頑丈そうなコンクリート製の橋脚が6本ほど見えます。橋の上には自動車が一台走っています。向こう岸には、なだらかな上り坂が続いています。これが社市街地に入っていく道で、今も変わりがありません。当時は国道旧175号線がなかったので、この県道一本が南北を結ぶ主要道路だったわけです。
 赤岸には大きな松や黒々とした林が続いています。右の方は善龍院の林で、左の方は観音寺から御霊山の林でしょう。
 
  
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昭和12年の秋祭:上組太鼓と人々

2006年07月21日 06時08分41秒 | Weblog
上組の太鼓屋台

 この写真には「昭和12年10月16日祭礼上組屋台」と書き込まれています。
昭和12年(1937)といえば、中国大陸での戦争が拡大していった時代ですが、佐保神社の祭礼はこの年も行われたんですね。
 佐保神社の宮元である社の氏子は、「上組」と「下組」の二つの組を構成し、太鼓屋台を奉納しいます。上組の区域は、ほぼ現在の社一区、二区、三区になります。
 写真には、中央に上組の屋台が、そしてあと二つの屋台も写っています。上組屋台であることは、飾りの鯱(しゃち)でわかります。屋台の前に勢揃いしているのは上組の役員さんや若い衆でしょう。前列左端に若き日の藤本豊治氏(のちに社町長)の姿が見えます。
 この時代の佐保神社の秋祭では屋台の宮入とともに奉納相撲大会が盛大に行われていたようです。ある日記によれば・・・、
 昭和9年10月16日の本宮の日は、雨がしとしと降ってきて、すでに出水や下組の屋台は出ているのに上組の屋台は10時頃になっても動こうとしていなかったとあります。その後、法蓮寺で昼食、郡公会堂で休憩、午後1時前に宮入を、二時に無事終了したようです。相撲大会は河合が優勝、五時半に終了。翌17日に花を集めに行き、その日のうちに「帳破り」をし、皆で威勢よく酒を呑み、肉を食べて午後3時に解散した、とあります。昭和6年の日記にも同じようなパターンで祭礼から「帳破り」が行われていたことが記されています。昭和13年の日記では、相撲大会が近来にない大盛会だつたようで、参加も加西郡(現加西市)、加東郡(現加東市と小野市域)から13組が出場したとあります。
 私は昭和40年代に中学生時代を過ごしましたが、当時は、佐保神社境内の相撲場で加東郡中学校対抗相撲大会が開催されていました。この日に向けて校内で相撲大会をし、選手を選んで練習を重ねて出場しました。当時は知りませんでしたが、伝統の行事だったんですね。今は相撲場はありません。そして相撲大会もなくなり、剣道大会が行われています。
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義経お手植えの松?

2006年07月20日 04時42分55秒 | Weblog
この大木は・・・

 義経伝説のところで山氏神社の境内にある「義経お手植えの松」を紹介しましたが、今は伐株しか残っていません。
 古老の話によれば、「昔は大人が二抱えもするほどの太い幹の大きな松があったんや」ということでした。今の私達には伐株の大きさから想像するしかありませんでした。
 ところが・・・。見つけました、「義経お手植えの松」の大木を。それがこの写真です。どうしてそう言えるのかというと、根元に石垣のようなものが写っているのですが、山氏神社境内の「お手植えの松」のすぐ東にこの写真と同じ石垣が残っているのです。今は溝に下りてみないとよくわかりませんが、確かにそうなんです。
 その枝ぶり、周囲の木々から突き出た大松。これこそ「義経お手植えの松」の写真でしょう。
 この松を「社市街地の写真」でも見ることができます。社高女の校舎の向こうに黒々とした山氏神社の杜が見えます。そして、その左端に群を抜いて高い松の木が写っているのです。そのてっぺんあたりの枝ぶりは、まさにこの写真と同じです。
 なんだか嬉しいですね。
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社の市街地遠望(2)

2006年07月19日 04時24分46秒 | Weblog
市街地を南東から望む

 市街地の南東から北西を望んだ構図の写真です。向こうに五峰山が今も変わらぬ姿を見せています。しかし、その手前に写っている市街地の景観は今とはずいぶん違っています。
 まず、瓦屋根の住宅が密集していることが特徴です。大きな屋根を右から見ていくと、税務署(旧社町役場)、その奥に善龍院、持寶院、その左手前の三角屋根は姫路水力発電(今の関西電力社営業所)でしょうか、見ることができます。
 瓦屋根とともに寺院や右端の社小学校ではないかと思われる建物のあたりには松林が黒々と繁っています。
 想像するに位置関係から見て、女学校の二階から写したものではないでしょうか。 
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昔の社市街の写真

2006年07月18日 04時33分50秒 | Weblog
嬉野から市街地を望む

我が家に珍しい写真があります。その一枚を紹介しましょう。
 この写真は昭和初期の社の市街地を嬉野台地の西端から遠望したものです。今の中央公園の池の堤あたりから見た風景です。広い空と平坦な地形は今も変わりません。しかし、写真には昔の社の姿を伝えるものが写っています。
 まず、左の白い二階建の建物は県立社高等女学校の校舎です。現在は裁判所の敷地になっています。
 写真中央より少し右に大きな屋根の建物が見えます。これが裁判所です。その向こうに警察署の建物、さらにその奥に見える大きな屋根は佐保座でしょうか。
 写真手前には田圃が広がり、中央に白い道が一本写っています。この辺りを今は環状線(国道372号)が通っています。白い校舎の手前に家がありますが、写真手前左端あたりが、現在の嬉野口交差点(学園道路入口)になるはずです。
 
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社の小字名

2006年07月17日 04時29分27秒 | Weblog
社の小字名
 大正9年の「社町ノ内社町の字限図」(今の加東市社)から、社の小字名を拾いあげてみましょう。
社市街地を南北に貫く道路をはさんで、北から南へと順に見ていくと、坊の前、坊の東、坊の下など、慈眼寺善龍院や持寶院などの寺院に関係のある名が見えます。
 さらに、南に向かって、新池、別所、そして上町、本町、上中町、下中町、下町と続き、下川のあたりが坂ノ下になっています。
 佐保神社の北側は西浦、南は宮ノ前、西は宮ノ下と神社に関係のある字名が見えます。ちなみに、佐保神社の東側に位置する山氏神社から皿池にかけてのあたりは東浦の字名があります。
 本町から道池に向かう田町筋は、西田町、上門となっており、上門の南北に北上門、南上門の字名がついています。この「上門」の由来は何だろうといろいろ考えてみました。仮説ですが、田町筋の東にあった道池の水門に関係のある字名ではないかと考えていますが、今の東田町にある地蔵堂の石門には「定門地蔵」と刻んであります。上門と定門、読みは「じょうもん」で通じるものがあります。
 本町から東へ環状線に向かってのびる銀座通りは、東条町、東出口の字名がついています。また、山氏神社から南東あたりは、山氏浦となっています。
 市街地の東には、道池、若ヶ谷、若ヶ谷北ノ上、若ヶ谷南ノ上、沢、東条道、東野、白池、広野、広野前、横尾、一本松など道路や地形に因んだ字名が見られます。
 北には、小元、原、大林、林之元、大正子(たいしょうこ)、湯屋ヶ谷など昔の土地の姿を想像させる名や、社小学校辺りは六ケ市(むいかいち)という、昔の市に因んだ名も見られます。
市街地の西は、片上り、山本、岸本、郷之元、駒通り、水滝、柿ヶ坪、西柿、矢之元、藤堂、長藤路(ながとうろ)、大塚、梨ノ木、正子(しょうこ)、沖田の字名が見られます。
 ちなみに「大塚」の「塚」は墓をさし、柿ヶ坪、西柿の柿は「垣」を、「坪」は壺をさしているという説を唱える人もあり、この辺りに大きな墓があり、その垣として壺(土器)が並んでいたのではないかと想像できます。あるいは「垣」はやはり佐保神社との関係があるとみて、神域をさしているという人もいます。
 市街地の南には、堂山、成国(なりくに)、皿池、池之内の字名が見られます。
 写真は、字限図の一部です。
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社小学校の歴史(2)と御霊山あたり

2006年07月16日 05時33分21秒 | Weblog
「奉安殿」と「二宮金次郎像」
 社小学校の正門を入ると、左手のヒマラヤスギの大木のそばに「二宮金次郎」像が立っています。台座の裏に故・黒石素仙さん(元・社の開業医)昭和31年再建とあります。しかし、しばらく前に気がついたのですが、台座の上の金次郎像がありません!いったいどうしたのでしょうか。
 正面の築山には、「なかよしの像」が立っていますが、戦前は、「奉安殿」がありました。奉安殿には御真影が納められていて、学校の中で最も神聖な場所でした。写真はその奉安殿です。
 運動場の北側には社幼稚園があります。ここには、私が在籍していた頃(昭和30年代後半)、松の大木数本と大きな石が数個置かれた、運動場より一メートルぐらい高い一画がありました。私たちは「松林」と呼んでいました。
 この場所には、戦前、八城神社があったそうです。奉安殿や八城神社は、昭和10年代のはじめ、教育の中に、国や天皇、神、勤勉などを尊ぶ精神を涵養するためにつくられたものです。
 今は木造校舎も、松林もありません。二宮金次郎が元にもどるのを楽しみにしています。

「御霊山」と「六日市」、「市坂」
社小学校のあたりは、「御霊山」(ごりょうやま・ごろやま)とよばれています。御霊山の名の由来ははっきりしませんが、八幡さんや多くの祠が祭られていることから、古くから祖先の霊や神を祭り、怨霊や荒魂をしずめるための施設があったのではないかと考えられます。
 また、近くに「六ヶ市」という昔の字名があり、学校の北側には「市坂」とよばれる坂道もあって、昔、このあたりで市が開かれ、人々が生活に必要な物を手に入れるために集まっていたものだろうと考えられています。

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