不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和12年の司法記念日

2006年11月30日 06時12分19秒 | Weblog
遵法週間で裁判所を公開

 昭和12年(1937)10月1日~5日にかけて、社区裁判所で司法記念日の行事が行われています。その内容は以下の通りです。


1日 10時から裁判所で式典、午餐会及び懇談会の開催
2日 午前8時から午後4時まで庁舎の一般開放
3日        〃
4日 午後1時から講演会の開催
    場所 社町元郡公会堂
    講師 「民衆ト裁判」  社区裁判所判事 吹譯健吉氏
                〃 検事局検事 瀧石政治郎氏
                弁護士     井上俊次氏
5日 午前8時から午後4時まで法律相談会の開催

   主催者  社区裁判所 社区裁判所検事局 社町役場

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奉公袋

2006年11月29日 06時59分15秒 | Weblog
用意はよいか-

 昨日は戦地の兵隊さんに送る慰問袋について紹介しましたが、今日は奉公袋を紹介しましょう。
 奉公袋とは、在郷軍人がいつでも戦地に行けるよう必需品を入れておく袋です。ここに社町役場と帝国在郷軍人会社町分会の名で印刷された奉公袋についての説明があります(昭和12年)。


●携行品を取揃へよ

奉公袋
 奉公袋ハ武士ノ鎧櫃ト同様ニ平素カラ戦時必要ナモノヲ容レテ置カネバナラヌ。コレガ在郷軍人ノ嗜デアル。其ノ内容品ハ次ノ通リデアルカラ手落ノナイ様ニ揃ヘルコトガ必要デアル。

1.軍隊手帳(補充兵ニアリテハ補充兵証書)
2.軍人手帳(姫路連隊区司令部出版ノモノ)
3.青年学校手帳(青年訓練手帳)
4.印章
5.勲記、記章
6.被服還送用梱包材料
  (召集ノアツタ場合自分ノ着ヲ行ツタ被服ヲ自宅等ヘ送還スルニ使用スル梱包材料)
 イ、風呂敷及梱包用紙又ハ油紙
 ロ、梱包用糸縄
 ハ、荷札二枚
   表面 兵庫県加東郡社町社  加東一郎様行 受取人ノ住所氏名ヲ記入
   裏面 加東三郎出  本人ノ氏名ヲ記入左ノ方ニ自分ノ召集セラレタ部隊ヲ記入出来ル様残ス
7.日用品(手拭、ハミガキ、楊子、石鹸、風呂敷、チリ紙、鉛筆、ハガキ、手帳等)
8.貯金通帳(郵便貯金、規約貯金、奉公貯金又ハ応召準備ノ為メナシタル貯金)
9.典範令(下士官適任証書ヲ所持スル者以上ハ努メテ携行スルコト)
10.操典、要務令(要スレバ兵科部ニ応ジ戦場勤務遂行上必要ト認ムルモノ)
11.其ノ他磁石又ハ小国旗(下士官ハ成ルベク用意スルヲ要ス)
 尚簡閲点呼等ノ場合ハ特ニ軍隊手帳又ハ補充兵証書ハ点呼参会済ノ捺印ヲ受ケルノデアルカラ忘レヌ様ニセネバナラヌ。若シ紛失又ハ焼失シタ者ハ速ニ役場ニ申出下サイ。

                     加東郡社町役場
                     帝国在郷軍人会社町分会

●用意はよいか。落度のない様に



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慰問袋-戦地と銃後を結ぶ

2006年11月28日 06時00分05秒 | Weblog
昭和18年-慰問袋の中

 大東亜戦争中、戦地の兵隊に慰問袋が送られました。袋の中には銃後(国内)の人々の気持ちがこめられた品物や手紙、写真などが入っていました。
 昭和18年(1943)10月の社町銃後奉公会から区長、婦人会長宛てに出された文書の中に「慰問袋・内容品ノ参考」を書いたものがあります。


手拭い ハンカテーフォ 歯ブラシ 塵紙 児童作品(習字、作文、図書、手工品其ノ他) 雑誌 新聞 歯磨粉 石鹸 文房具(手帳、鉛筆、スケッチブック、クレオン其ノ他) 薬品類(仁丹、宝丹、メンタム外傷薬其ノ他) 便箋 封筒 缶詰類 干芋 干柿 茶 コーヒ 紅茶 干魚類(長期間腐敗セザルモノ) 碁貝(小型) 将棋(小型) 卓球具 私製葉書 絵葉書 娯楽具 娯楽雑誌 御守
千人針 剃刀 理髪具 扇子 団扇 耳掻 妻楊子 マスク 手袋 靴下 腹巻
褌 チョッキ 種子(花野菜等) 蠅取粉 蚤取粉 蚊取線香 針糸 靴底 ブラシ 履物類 釣具 煙草(空缶ニ入レル事)

 慰問袋は郷土色豊かな物で半年ぐらいは腐らないものを入れるようにとの一文もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社小学校奉安殿の落成

2006年11月27日 06時34分06秒 | Weblog
 昭和10年(1935)2月8日付で社町役場から各区長宛てに「奉安殿落成式余興」の通知が出されています。

 通知によれば、2月11日(紀元節、現在は建国記念の日)、社小学校奉安殿の落成式と余興が行われることになっています。会場は社小学校の校庭、時間は午前11時から午後3時。余興は神戸千代野座の橘家ボラ一行の満歳と喜劇などとなっています。

 写真は奉安殿の正面写真です。校門を入った正面に奉安殿があり、天皇皇后両陛下の写真がおさめてあり、児童は登校すると、奉安殿に向かって最敬礼をして学校での一日を始めることになっていました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和4年-社町各種団体協議事項

2006年11月26日 06時45分00秒 | Weblog
年賀状の廃止や冠婚葬祭の簡素化など

 昭和4年(1929)12月21日、社町(旧、現在の社小学校区域)役場に区長、青年団長、消防組頭、在郷軍人分会長、老兵会長、婦人会長、女子青年団長ら各種団体が話し合い、虚礼廃止などについての申し合わせをしています。
 年賀状の廃止が申し合わせられていますが、実行されたのでしょうか。

一、 祝祭日には国旗の掲揚を怠らざること
二、 国産品を愛用すること
三、 集会に時間を励行すること
四、 入退営に際しては金品の贈答を廃し精神的に送迎すること。
   但し餞別としてより少額の心付をなすことは妨なし
五、 中元歳末の贈物は近親に止め虚礼を廃すること
六、 年賀状を廃止すること
七、 結婚には冗費を省き分度を守ること
八、 婚礼其の他の祝物は近親に止め宴会は長時間に亘らぬこと
九、 葬式には酒を廃し食事を簡素にすること
   質し己むを得ず酒を用ふる場合は仕上げの時一回に限ること
十、 町内より会葬する消防組み軍人会其他勇姿には茶菓の饗応をも廃すること
十一、仏事法要はすべて精進料理となすこと
十二、葬式用の服装は漸次黒紋付に改むる方針を執り今後白無垢の新調を為さざる   こと
十三、葬式の場合に於ては地位の上下を問はず寺院の駕は之れを辞退すること
十四、婚礼の費用を節し小学校基本財産に応分の寄付をなすこと
十五、服装は質素清潔を旨とし諸会合諸儀式に於ても成るべく綿服を用ふること
十六、他町村の寄付は之れを謝絶し他町村へ寄付を申し出ることは遠慮すること
   
   以上

昭和四年十二月

                               社町役場
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正14年の盆踊り

2006年11月25日 06時51分32秒 | Weblog
9月のはじめに開催

 ここに盆踊りの開催届けがあります。日付と宛先は、大正14年(1925)8月30日付で社警察署長宛になっています。
 この文書によれば、9月2,3日の2日間、午後7時から11時まで、佐保神社境内で「例年の通り盆の供養として音頭・手踊りを行う」ことになっています。

 私の小さい頃は、8月15、16日に佐保神社境内で盆踊りが行われていました。現在は8月24日にステラパークで夏の踊りが開かれていますが、80年ほど前には、9月のはじめに開かれていたんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半分埋まった道しるべ

2006年11月24日 05時38分00秒 | Weblog
「ど根性道標」

 写真を見て下さい。これはアスファルトの道路から上部が少しだけ出ている道標です。気を付けていないと見過ごしてしまうでしょう。
 刻まれた字から加東四国遍路道の道標だと思われます。手で指をさした目印が独特です。この道標は上滝野で見つけました。
 この道標に限らず、かつて旅人にとって大切な案内標識だった道標が道路整備や圃場整理などによって位置や向きが変わったり、ひどい場合は紛失したりすることもあるようです。
 相生でアスファルト道路に生えた大根が「ど根性大根」として有名になりましたが、この道標も道路がアスファルトになり、コンクリート電柱が隣りにやってきてもしっかり立って指をさし続ける「ど根性道標」のように見えます。まちかどの歴史遺産として大切にしたいですね。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和8年-社町と加茂村の合併協議②

2006年11月23日 07時29分26秒 | Weblog
社町(旧)と加茂村の合併協議案

昭和8年(1933)2月、社町(旧)と加茂村の合併が両委員会で協議され、まとめられた合併協議案は以下の通りです。当時の社町の区域は現在の社小学校区、加茂村は現在の滝野東小学校区の範囲にあたります。


一、 加茂村役場ヲ廃シ社町役場ニ事務ヲ合併スルコト
二、 加茂小学校ヲ廃シ分教場ヲ設置スルコト
三、 加茂小学校高等科児童ハ社小学校ニ通学セシムルコト
四、 分教場ハ尋常四年迄四学級ヲ編成スルコト
五、 尋常五、六年ハ社校ヘ通学スルコト
六、 分教場ノ裁縫専科教員ハ社校ヨリ兼務セシムルコト
七、 加茂公民学校ヲ廃シ社補習学校ニ入学セシムルコト
八、 青年訓練所ヲ合併シ一訓練所ヲ設立スルコト
九、 各種団体ハ昭和八年度中ニ各団体ニ於テ合同ヲ行ハシムルコト
十、 基本財産ハ合併委員会ニ於テ評価算定シ之レヲ合一スルコト
十一、分教場ハ昭和八年度中ニ新築スルコト
備考 四、五、十一ノ条項ハ未了其他ハ結了

 この合併協議案によれば、社町と加茂村との合併は分教場の編成、新築以外は了解できているようです。しかし、実際には両町村の合併は実を結んでいません。その後の動きを調べてみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和8年-社町と加茂村の合併協議

2006年11月22日 06時30分37秒 | Weblog
昭和8年-社町と加茂村の合併協議

 今年3月20日、社町、滝野町、東条町が合併し、新しく加東市が誕生しました(「平成の大合併」)。昭和30年の「昭和の大合併」から約半世紀を経て旧加東郡(現加東市・小野市域)の北部、東部地域が一つになったわけです。
 歴史をふりかえってみると、大正時代末にも旧加東郡北部町村の合併の動きがあったことが町史にも記されています。しかし、このときは実を結んでいません。
 ここに昭和8年(1932)の社町(昭和の合併前の旧社町で現在の社小学校区域)と加茂村(滝野町のうち加古川東岸の穂積、北野、新町、多井田、稲尾、曽我地域)の町村合併に関する資料があります。大正時代末の合併の動きは消えたのではなく、その後も動きがあったということなのでしょうか。資料をみてみましょう。

 社町長から各区長等へ宛てた通知2通と別紙「町村合併案」1通です。
 まず、区長、町会議員、各団体町宛ての通知ですが、「町村合併の件に付御意見承り申度明十四日午後一時社町公会堂倶楽部に於て区長議員各団体町協議会相開き」とあり、出席を要請しています。

 次に5日後の2月18日付の区長宛通知では、「町村合併に関し16日両町村委員会に於て別紙の如く協議結了し未了の点は更に加茂村に於て協議可致事に相成候・・」と、社町と加茂村の両町村で合併協議が行われたことを報告しています。

 さて、協議事項は次回に紹介します。 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和7年の音楽会

2006年11月21日 06時33分36秒 | Weblog
社尋常高等小学校の納涼音楽会プログラム

 ここに納涼音楽会のプログラムがあります。今から70年余り前、社尋常高等小学校で開催されたものです。案内には「例によって来る二十三日午後六時半より納涼音楽会を開催いたします。お暑い折からではございますがお繰合わせの上御来聴下さいますやう御案内申上げます」と書かれています。
 プログラムの内容を紹介しましょう。

第 一 部

一、 開会ノ辞
二、 斉唱     健康の歌       尋三松組
三、 唱歌遊戯  蝉          尋二梅組
四、 唱歌遊戯  カラスがカアカア
           サルカニ合戦     尋一竹組
五、 斉唱     村の鍛冶屋      尋四松組
六、 唱歌遊戯  コンコン小山     尋二竹組
七、 斉唱     希望         尋五、六男女組ノ男
八、 唱歌遊戯  日の丸、カクレンボ  尋一梅組
九、 斉唱     故郷四季の雨     尋六女組
一〇、唱歌遊戯  エヂプト懐古     尋三竹組
一一、独唱     お山の大将      尋四竹組
一二、唱歌遊戯  オモチャのマーチ
           キューピーサン    尋一松組
一三、斉唱     伝書鳩        尋五男組

    ◇ 休憩

第 二 部

一、 挨拶               校長
二、 斉唱     織田信長
           蛍          尋六男組
三、 劇       蝉と蟻        尋四梅組
四、 唱歌遊戯  お月夜 外一曲    尋二松組
五、 斉唱     箱根八里       高一男組
六、 斉唱     朧月夜
   合唱     山居の美       尋五、六男女組ノ女
七、 斉唱     背くらべ       
   唱歌遊戯  チューリップ兵隊   尋三梅組
八、 斉唱     朝風
   独唱     玩具の船       尋五女組
九、 二部合唱  里の小川       高一、二女組
一〇、ハーモニカ 荒城の月       高二男
   独奏     平忠度 外数曲    川崎 外数名
一一、合唱     全校職員
一二、閉会ノ辞    

 
 プログラムに出てくる歌はほとんど知らないものばかりですが、「荒城の月」や「箱根八里」、「村の鍛冶屋」は私でも知っています。今でも学校の音楽会では先生の合唱がありますが、昭和7年、どんな歌が歌われたのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷を渡るダムの水

2006年11月20日 07時16分05秒 | Weblog
サイフォン

 昭和池から三草野を通り、藤田の谷を渡って嬉野台地に水を送っていたサイフォンの呑口、吐口の遺構を紹介しましたが、東条ダムの水もトンネルを通り、谷を越え、野を走って遠くの田まで旅を続けます。

 写真は嬉野台地の安政池の近くから東条川の谷を渡って小野市の万勝寺の台地までを結ぶ長大な曽根サイフォンです。長さ約1000メートル余りで川をまたぎ、地中にもぐり、池を越え、密閉された管の中を水が勢いよく流れます。落差は40メートル余り、管の直径は約90センチあります。土地の人は、小さい頃このサイフォンの上を歩いて遊んだと話していました。

 東条ダムからの水路は地形に応じてトンネル、サイフォン、水路橋、分水口など実にさまざまな姿を見せてくれます。まさに「田の血」、「いのちの水」といわれた水を運んでくれる「血管」なのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷を越える昭和池の用水

2006年11月19日 07時25分01秒 | Weblog
嬉野台地へふきだす水

 昭和池が造られた経緯についてはすでに紹介しましたが、昭和のはじめ、三草山の麓に人力で築かれたこの大堰堤は今でも私たちを圧倒します。
 昭和池に貯められた水は、堰堤の底から水路へと放出され、長い旅が始まります。その水は夏でも手がしびれるほど冷たく、中高生の頃にキャンプで西瓜やお茶を冷やしたことを思い出します。池面の水は深さ1メートルほどまではぬるくても、それ以上の深さになると一気に冷たくなります。飛び込みなどしようものなら、心臓マヒを起こしてしまったり、足の方が冷やされてけいれんを起こして溺れてしまいます。当時、耳にたこができるほどそんな注意をされたことが今でも頭にしっかり残っています。
 
 さて、昭和池の幹線水路は三草をぬけ、藤田から嬉野へ、そして社、東実へとのばされました。藤田から嬉野台地へ。そこには久米川の流れる広い谷があります。この谷を水はどのようにして渡っていったのでしょうか。谷を渡す方法としてサイフォンが造られたのです。呑口と吐出口は地表に造られていますが、サイフォンの管は地下に埋められています。

 サイフォンの呑口と吐出口を探しました。嬉野の方は水路をさかのぼって行き、台地の北の谷が見渡せるところまで来た時に見つけました。コンクリートで造られた四角い構造物の壁に「第参号サイフォン吐口」と白字で名が書かれていました(写真)。そこから真っ直ぐに幅広い谷の向こうに目をやるとほぼ同じ高さの台地が見えます。この谷を管をつないでサイフォンが造られ水が上がってくるのです。壮大な工事です。呑口にも行ってみました。そこからは谷の南の嬉野台地が見渡せます。

 東条ダムの水が導かれ、やがて昭和池からの水はその役目を終えていきました。サイフォンの補修に費用がかかりすぎることもありました。しかし、このサイフォンはいつまでも残して台地の開発の苦労を未来に伝えていきたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもが道で遊べなくなった・・・

2006年11月18日 05時57分35秒 | Weblog
昭和7年(1932)の社町長通知より

 ここに社町長石井市太郎名で各区長に宛てた通知があります。当時の社町は昭和の合併前のことですから、現在の社小学校区の地域です。

 さて、表題は「路上遊戯阻止方ノ件通知」となっており、この件について、社警察署長から通知があったので伝達したものです。
 内容は、交通機関の発達によって交通事故が増加し、「交通思想」(交通安全の意味)の普及が急務であるとの認識をしめしています。そして、事故原因として運転手の操縦の不慣れや不注意を挙げるとともに、路上での児童の遊び、家の前に物を置くことなどが事故原因になっていると強調してあります。
 その実例として、加茂村新町(現在の加東市新町)で貨物自動車とリヤカーの事故を報告しています。それによると、リヤカーが貨物自動車を避けようとしてひっくり返り、道路で遊んでいた子ども3人が重軽傷を負ったとしています。この事故では保護者の側にも多少の責任があるとし、将来、路上で遊ぶ子どもがこのような事故にあうことが増えるとの予測を示し、地域や家庭で注意をしていくようにとの通知となっています。

 時は過ぎて70年余り、現在では交通安全はもちろんですが、犯罪から子どもの安全を守らなければならなくなっています。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉野開墾の話

2006年11月17日 06時11分03秒 | Weblog
西瓜畑とキツネ

 昭和56年(1981)頃、昭和池からの用水と嬉野台地の開拓について調べましたが、そのときに聞いた開拓時代の苦労話を紹介しましょう。

 嬉野台地は松の生い茂る赤土の不毛の台地といわれていました。その台地に開拓農家として入植して開墾をされた方の話だと、毎日毎日松の木を伐り倒し根を掘り出す作業が続いたそうです。松の根元近くの幹を切り、上の方にロープをかけて傾斜の低い方に引き倒すのです。残った切り株は根を切って掘り出します。

 こうして不毛の台地は耕され畑に生まれ変わりました。畑では西瓜が栽培されました。ところが、そろそろ収穫だという頃になると、キツネが出てきてツルをかみ切って器用に西瓜をころがして巣にもって帰るのでした。キツネはかしこくて、はじめに偵察係が一匹出てきて人がいないことを確かめ、そのあとに一族数匹が出てくるそうです。困った農家の人々はすいか畑に罠をしかけてまちうけました。すると、ある日小ぎつねがかかったのです。そこで、見せしめに畑に死んだ小ぎつねを置いておいたそうです。これでキツネは姿をあらわさないはずでした。

 ところが、ある朝、畑に出た農家の人はびっくりしました。収穫直前のすべての西瓜のツルがかみきられているではありませんか。もう出荷できません。これはきっと小ぎつねを殺されたキツネの仕返しだと思った、ということでした。

 この話を聞いた当時、夜になると嬉野ではキツネがギャーギャーと鳴く声がよく聞こえました。狐谷という地名の通り、キツネがたくさんいたのです。
 キツネは人をだますといわれます。こんな話を聞きました。キツネと出会ったとき、自分よりキツネが高い場所に居て目が合うと、そのときに人はだまされてしまう、ということでした。そんな時は目を合わせないことです。

写真は嬉野開墾記念碑です。県立教育研修所の南、人家が途切れた田圃の中、用水路の側に立っています。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨大な溜池-昭和池の築造

2006年11月16日 06時03分19秒 | Weblog
 大正13年の大干ばつをきっかけに

 加東市の北部、三草山の麓に昭和池があります。昭和池は人造池なのですが、ここにこんな巨大な池が造られた経緯を紹介しましょう。
 大正13年(1924)、この地方は大かんばつに見舞われました。これをきっかけに農業用水の水源を確立する必要性があるとの声が高まり、県営事業として巨大溜池を三草山渓谷に造ることになったのです。そして、昭和3年に工事が始まり、9年に完成、昭和池と命名されたのです。
 国道372号線から昭和池に通じる細い道を入っていくと、やがて目の前に巨大な堰堤が姿を現します。高さ30メートル、幅(長さ)約200メートルの巨大な土堰堤です。
 昭和池から伸びる幹線水路によって運ばれる水は、上福田村、社町、福田村、加茂村の水田をうるおしました。昭和池から社町への水路は、久米川の流れる藤田の谷を渡って嬉野台地に運ばれるます。どのようにして広い谷を渡ったのでしょうか。サイフォンです。今では使われていませんが、その呑口、吐口が残っています。
 今、昭和池は水上バイクを楽しむ人や三草山登山、ハイキングなどのレジャーで親しまれています。写真は昭和池と三草山です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする