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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

30年前の環境学習-「環境と人間」をテーマに中学生が一年間追究

2019年07月31日 06時19分54秒 | Weblog
 

 海洋プラゴミなど環境問題が深刻になっていますが、今から約30年前の平成元年度(1989)に兵庫教育大学附属中学校の社会科学習で、「環境と人間」をテーマにした探究学習に取り組んでいます。自分なりに問題を発見し、一年かけて探究していく学年の枠を取り払ったMY学習社会科の展開でした。その集大成が写真のレポート集です。「大気・宇宙」。「海洋・湖沼」、生活・大地」の大きく3つの分野に1~3年の42名がレポートを書いています。当時、酸性雨やオゾン層の破壊、海洋汚染、森林破壊、砂漠化など地球規模での環境問題が話題となっていました。そうした問題について、共通学習を通して自分の関心のある問題を選び、より深く追究していく学習でした。今、学校で取り組まれているアクティブ・ラーニング(主体的学習)です。この取り組みは、毎日新聞の全国版に取り上げられました。写真はその時のものです。学習は1年間でしたが、生徒の問題意識は一生続いていると信じています。
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東条川疏水と鴨川ダムの語り部-ありし日の藤原栄さん

2019年07月30日 06時18分21秒 | Weblog
 

 昭和57年頃、創立間もない兵庫教育大学附属中学校の生徒と東条ダム(鴨川ダム)を訪れ、湖畔の食堂を経営する藤原栄さんがダム建設と湖底に沈んだ土井の話を聞かせていただきました。
 実は加東市民病院で教え子のお父さんと出会い、懐かしい昔話に花が咲いたところでした。店の壁に掲げてある、在りし日の土井の写真(ダム建設前)を指しながら由来を語る藤原さんの甲高い声が今も聞こえてきそうです。
 もう一枚は、東条川疏水の曽根サイフォンです。水管の上の生徒が小さく見えます。日本最長クラスの曽根サイフォンは鴨川ダムから幹線水路で隧道や水路橋を走り、東条から嬉野台地を流れ、東条川の大きな谷をサイフォンで南の小野市の台地へと送られています。あれからもうすぐ40年。
 当時、娘は自転車であんな遠いところまでたいへんやったと言っていたとのお父さんの話が懐かしく、また、その日に当時の写真を見つけたことが不思議でした。
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昭和59年5月30日山崎断層地震-その日千ヶ峰登山だった

2019年07月29日 05時41分55秒 | Weblog
 

 南海トラフ巨大地震はいつ起きてもおかしくないと言われています。私たちの住む播磨においては、山崎断層も同様です。山崎断層は、岡山県から兵庫県播磨地方に約80キロも延びる大きな活断層で、過去に播磨大地震を引き起こしています。
 さて、35年前の昭和59年(1984)5月30日、山崎断層が動き、マグニチュード5.6、最大震度4(姫路市)の地震が発生しました。この日は、兵庫教育大学附属中学校の2年生が千ヶ峰登山に出かけた日でした。学校のある社町山国(現加東市山国)から貸切バスで、多可郡加美町(現多可郡多可町加美区)まで行き、千ヶ峰(1006メートル)麓近くの小学校の屋外トイレを借用して登山準備をしていました。女子が遅いので、トイレの入口で急がせていると、突然ガタガタガタガタと建物が音を立てて小刻みに揺れました。女子がキャーと叫びながら飛び出してきました。一体何が起きたのか。その時、一瞬、鍛冶屋線(西脇~鍛冶屋)を列車が走ったのかと思いましたが、ここは加美町。鍛冶屋線は走っていません。そのとき地震だ!とわかったのでした。
 しばらくして登山開始。登山道では、ときどきゴォーと地下深くから地鳴りのような音がし、からんころんと石が落ちる音もしました。その度に生徒は一斉にその場にしゃがみこみ落ち着くのを待ちました。今ならスマホなどで情報を得て的確な判断をするでしょうが、当時はそんな手段はありません。引率教員で相談し、登山を続行し、危険なら中止しようということになりました。
 結局無事登頂し、頂上付近で弁当。下りも気をつけながら下山しました。学校に帰ってから実力テスト中の3年生も教室で大きな揺れに驚いたということでした。
 懐かしい思い出ですが、来年は阪神淡路大震災から25年を迎えます。それは、この山崎断層地震から11年後のことでした。
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上田天神夏まつり

2019年07月28日 05時58分45秒 | Weblog


 27日(土)、加東市上田地区の天神夏まつりが行われました。上田地区の正覚院の境内に天満宮があり、菅原道真公の自画像が祀られています。石鳥居の脇の石柱には、「御自画像天満宮」と刻まれた石柱が立っており、道真公が九州太宰府に左遷されるときに書かれた自画像が数奇な運命を辿ってこの上田の正覚院の境内に宮を建て祀られていると伝えられています。天神祭りは25日に行われますが、合わせて行われていた夏まつりを土曜日に行うようになったというわけです。
 地元の若い人たちを中心とする実行委員会による夏まつりは年々盛大に行われ、地区住民の老若男女が参加し、夏の夜の一時を楽しみます。台風6号の雨が心配されましたが、始まる午後6時30分には雨も上がり、さっそく夢工房の和太鼓、滝っ呼のよさこい踊り、兵庫教育大学チアリーディング部の演技などの豪華な演し物や公民館前の夜店を楽しみました。そのあと、櫓を囲んでの総踊り、そして最後は花火を見上げて歓声が上がりました。
 伝統の天神祭りと若者が中心となって企画運営し、地区の諸組織が協力して行われる地区夏まつりが上田地区の元気を支えています。
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真夏に涼しげなホテイアオイの花

2019年07月27日 05時23分03秒 | Weblog
 梅雨が明け、真夏の青空とまぶしい日射しが到来しました。ホテイアオイの花がまた咲きました。真夏の日を浴びてまぶしく光っています。大甕で増えた株をバケツに移していたらその株に咲きました。庭にに突き出したベランダに置くと、なんとも涼しげな感じになりました。
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御大神宮さんの由来-小さな町内会が守り続ける小祠と祭

2019年07月26日 04時32分54秒 | Weblog
 

 7月25日は私たちの住まいする加東市社の田街筋の町内会、中田町(なかたまち)町内会がお祀りしている御大神宮さんのお祭り日です。先日は、御大神宮さんの祠の玉垣に刻まれた町内会の歴史をこのブログで紹介しましたが、今日は、御大神宮さんの由来を再掲します。

田町筋にあった御大神宮さん
 田町筋は、西から西田町、中田町、そして東田町と三つの町割があります。中田町と東田町の境を分ける路地と田町通りが交わる服部家の前に、昔、御大神宮さんの小宮がありました。
 さて、この小宮について、故・服部千代子さん(中田町)はこんな言い伝えを紹介しています。
 江戸時代のはじめの頃、ある日、空から御幣がひらひらと舞い落ちてきたので、人々は「これは勿体ないことだ。おろそかにできない」と、お金を出し合って家の前に小さな祠を建てたそうです。小さいながらも玉垣で囲って立派なものだったといいます。その後、昭和のはじめになって、田町筋(県道)を清水行や三田行の定期バスが通ることになり、幅5メートルほどの道の真ん中あたりまではみ出していた祠を移転することになりました。当時の町内会長さんが佐保神社の宮司さんに相談を持ちかけたところ、佐保神社の境内に遷すことになったのです。
 服部さんの手記では、「遠い昔、江戸時代の初期だったかもしれません」と書いてあり、時期ははっきりしていません。「空から御幣がひらひらと降ってきた」から思い浮かんでくるのが、お伊勢参りとの関係です。伊勢信仰は江戸時代に絶頂を迎えます。全国各地から人々はお伊勢参りの旅にでかけました。その信仰を広めるために各地に御師とよばれる人々がお札を配っています。元禄時代にはお札を各地に降らしたという記録もあるそうです。中田町に降ってきた御幣もそうしたものだったかもしれません。

 写真は田町に御大神宮さんの小宮があった昭和初期の写真と佐保神社境内での今年の御大神宮さんの祭りのものです。
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昭和57年の長崎大水害-その日の兵教大附属中1期生キャンプ

2019年07月25日 04時57分57秒 | Weblog
 昭和57年7月の末、夏休みに入ったばかりの頃ですが、長崎市が大雨に見舞われ、長崎大水害とよばれる大きな災害がありました。有名な石造りの眼鏡橋も流されたと記憶しています。
 よく憶えているのは、その日、兵庫教育大学附属中学校の1年生が敷地の未整備の場所でキャンプをし、夜半に雨がやってくるというので緊急に校舎に避難したという思い出があるからです。
 写真は、テントを張っているところですが、この場所はまだ赤土が剥き出しの未整備地で、やがて、武道場やテニス場が造られた場所です。1期生の75名しかいなかったまさに草創期です。早く荷物をまとめて校舎に避難するようにと各テントに告げて回ると、男子はすぐに避難しましたが、女子の動きが遅いので回ってみると、これはあんたのカップ、いやこれはだれそれのタオル、などと、テントの中で片付けの真最中でした。女の子らしいといえばそうなのですが、大雨などどこの話とばかりに持ち物を整理していた光景に感心してしまいました。そんなことを今もよく憶えています。
 
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御大神宮さんの掃除-刻まれた町内の歴史

2019年07月24日 05時44分39秒 | Weblog
 

 23日(火)の朝、町内会の当番隣保の2人で佐保神社境内にある御大神宮さんの祠の掃除をしました。25日がお祭りにあたり、その前に草引きや枯葉の掃除をというものでした。
 御大神宮さんはこの歴史ブログでも紹介したことがありますが、元は田町筋(たまちすじ)に鎮座していたものを道路拡張のために昭和初期に佐保神社境内に遷されました。田町筋の真ん中の町内会の中田町(なかたまち)町内会がそうした縁で、今も毎年7月25日にお祭りをしているわけです。
 この祠の玉垣には、繁栄していた頃の田町筋の歴史が刻まれています。まず、門柱には、加東米穀取引所の文字が刻まれています。かつて、田町筋で米相場が立てられていたもので、大阪堂島の米相場の情報を集めて取引が行われていたことを示すものです。玉垣には仲買人の名も刻まれています。また、昔からの田町筋の家の名も刻まれています。肥田、服部、磯貝、門脇、柏木等々。その中に日本画家として知られる三木翠山の父親である服部壽七の名もあります。一緒に作業をした服部さんもその縁につながる人でした。かつては賑わい、戸数も30を超えていた中田町町内会も今では半減しています。それでも御大神宮さんを祀り続けています。
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湖底に沈んだ土井部落を語る-東条(鴨川)ダム建設の由来

2019年07月23日 05時42分56秒 | Weblog






 昭和57年(1982)、兵庫教育大学附属中学校の生徒らと東条(鴨川)ダムの見学・調査に訪れた時、湖畔の食堂を経営し、ダム建設と湖底に沈んだ土井の立ち退きの由来を語る藤原栄さんとお出会いしました。
 藤原さんとは、その前年にお出会いし、いろいろ教えていただいていましたが、甲高いよく通る声で、湖底に沈まんとする住み慣れたふるさと土井への思いをかみしめながら話しておられる姿が心に強く残っていました。附属小から附属中に異動し、社会科の授業、郷土史研究クラブの活動でもお世話になりました。
 写真は、当時の店、壁に貼ってある由来の話、そして、藤原さんの姿です。40年近い年月を経て、今、東条川疏水ネットワーク博物館の取組が行われていますが、藤原さんの思いはその中に受け継がれています。
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昭和57年-兵庫教育大附属中1年生75名の第1回体育大会

2019年07月22日 08時47分28秒 | Weblog
 今から37年前の昭和57年(1982)の秋、その年の4月に第1期生を74名の生徒が入学した兵庫教育大学附属中学校の体育大会が行われました。
 3クラス。赤、黄、青の対抗戦も第1回からでした。テントも観客席もありません。用具の出し入れも全部自分たちでやり、1学年しかないのでプログラムも出っぱなし。今から思えば、懐かしい思い出ですが、1期生は胸を張って入場し、学校づくりへの気概を示しました。この写真に写っている当時の生徒ももう50歳になろうとしています。
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クマゼミの羽化-今年も出ました

2019年07月21日 04時43分58秒 | Weblog
 



 20日(土)夜、帰宅して玄関に入ろうとした時、門柱にクマゼミがしがみついて羽化しているのが目に飛び込んできました。近づくと、反対側でもう一匹も。毎年、定番になっている門柱羽化ですが、今年は長い梅雨ですっかり忘れてしまっていました。
 ひょっとしたらと思い、生け垣を見てみると、いました。やはり羽化中でした。まるで申し合わせたように一斉に出てきました。毎年毎年同じ光景を見続けていますが、何度見ても神秘的ですね。
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昭和50年代末-東条ダムと曽根サイフォンを巡る

2019年07月20日 06時07分05秒 | Weblog
 

 先日は県立社高校生活科学科の生徒と東条川疏水の各施設を巡りました。その様子はこのブログで紹介しましたが、今から40年近く前、創立間もない頃の兵庫教育附属中の生徒と東条ダムと曽根サイフォンなどの施設を巡ったときの写真を紹介します。社会科の地域学習の一環か、郷土史研究クラブの調査か何かで数人の生徒と現地見学に行ったときのものだと思います。
 ダム湖につき出た岩場の上に祀られている水天宮の側に立つ生徒を対岸から撮影したものです。先日の高校生とは遊覧船で岩場に行きましたが、当時は半島状になっている岩場に歩いて行ったものです。
 もう一枚は、日本最長級の曽根サイフォン(加東市松沢)の上によじ登っているところです。ダムから流れ出た水は嬉野台地を南に流れ、安政池の辺りから東条川の流れる谷を逆サイフォンの水管で渡り、小野市の台地へとかけ上がっていきます。銀色に輝く水管が緑の中にまぶしく光っています。
 この生徒達はもう50歳近くになっています。今、東条川疏水を貴重な地域の宝として見直し、次の世代に伝えていこうという取り組みが続けられていますが、懐かしい写真を見ながら、その思いは強まるばかりです。
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夢二の少年山荘

2019年07月19日 05時52分53秒 | Weblog
 

  

 18日(木)、やしろ歴史民俗研究会の移動研修で岡山県方面を訪れ、備前焼や刀剣、池田藩ゆかりの曹源寺、そして竹久夢二の生家などを見学しました。
 中でも竹久夢二の生家、少年山荘では、夢二の育った岡山県邑久の自然や家の環境、そして、東京に建てられていたアトリエを復元した少年山荘に心を惹かれました。
 江戸時代末期に建てられたという生家の低い天井や小さな部屋と机、トトロに出てくる書斎のある家の雰囲気がある少年山荘の造りや庭に懐かしさや心の安らぎを感じました。こんな山荘で本を読んだり、原稿を書いたり、物思いに耽ったり、静かな時間を過ごしてみたい、と。ベランダ、庭の木々もまさに「山荘」にふさわしい構図でした。
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甕にホテイアオイの花

2019年07月18日 05時18分32秒 | Weblog
 庭の甕に浮かんでいるホテイアオイに花が次々と咲いています。5月にホームセンターで買ってきたホテイアオイの株がメダカの水槽や鉢、甕で順調に育ち、株が増えていました。特に大甕のホテイアオイは元気がよく、花を咲かせています。茎がすうっと伸びたかと思っていると、その先に薄紫のつぼみがついて、花が開きます。ウォーターヒヤシンスというらしく、その名前がぴったりと来ます。ヒゲを付けたような根は水中に伸びて、メダカがその間にいるようです。緑のふっくらしたホテイアオイに涼しげな薄紫の花。いいものです。
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梅雨の晴れ間の神社の景色ー松沢八幡神社と佐保神社

2019年07月17日 05時23分31秒 | Weblog
 

 日照時間が少ない今年の梅雨。その晴れ間の昨日の午後、加東市松沢の県道沿いにある八幡神社前で待ち合わせをしました。待つ間に神社に参拝し、涼しい拝殿で静かな時間を過ごしました。境内はきれいに清掃されており、相撲場もありました。何年か前に子供相撲を見学したことを思い出しました。石灯籠は嘉永年間の建立。もう梅雨明けの夏の日のような感じでした。
 夕方、加東市社の佐保神社前の交差点のガソリンスタンドへ。そこから見る佐保神社はケヤキの濃い緑に覆われていました。交差点の信号表示は一文字「社」の地名が。まさに佐保神社を中心に栄えてきた社のまちを象徴する景色です。
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