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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

社区の「組」

2006年10月30日 15時07分19秒 | Weblog
昭和20年7月-社区内の組(町名と戸数)一覧

私が町内会長になったときのこと、年輩の方からよく「組長さん」と呼ばれました。ヤクザや小学校の組代表でもあるまいし、なんで「組長」かなと思っていました。
 この組長という呼び名は、このブログでも紹介したように戦前に隣保協同組織の編成を強化するためにと隣保の中間に設けられた「組」の代表者のことでした。それが、そのまま使われていたのです。
 私の住む中田町は、社第八組でした。今は中田町町内会、そして代表は町内会長と呼んでいます。
 さて、社には何組あったのか、と調べてみると、次の通りでした。古い町名と組、戸数が示されています。中田町は昭和20年(1945)には44戸もあったのですね。今はその3分の1に減ってしまいました。
 上田南町、上田北町という町名があります。これが今のどこにあたるのかが分かりません。こうした古い町名(地名)はその土地の由緒や地形などを示していることもあり、残したいですね。復活してもいいと思うのですが。


一組   老松町  43戸
二組   老松町  47戸
三組   老松町  45戸
四組   元町町  33戸
五組   本町町  24戸
六組   若宮町  49戸
七組   西田町  37戸
八組   中田町  44戸
九組   東田町  62戸
十組   上田南町 20戸
十一組  上田北町 35戸
十二組  東条町  30戸
十三組  東条町  36戸
十四組  東条町  30戸
十五組  上中町  23戸
十六組  下中町  45戸
十七組  下一町  27戸
十八組  下二町  41戸
十九組  宮前町  14戸


 
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昭和20年7月-敗戦直前の社区常会

2006年10月29日 08時45分07秒 | Weblog
7月の常会徹底事項

 昭和20年(1945)7月、敗戦の直前に開かれた社区の常会の議案があります。そこで伝えられた「徹底事項」を見ると、服装や食事はもちろん、空襲への対策、さらに敵機の宣伝ビラへの対応など当時の切迫した雰囲気が伝わってきます。
約60年前のことですから、現在70代以上の方は記憶にある事柄でしょう。



一、決戦服装決戦食の励行
  隣保協同炊事等に依り当月一回は握り飯一回は粥食を励行のこと。
二、待避壕の修築
  敵襲下に於ては完全なる待避を行い迅速勇敢なる活動に転移し得るよう堅固なる待避壕を修築し完璧を期すること。
三、防火救護等の訓練
  防火救護等の諸活動に関し隣保団結に依り総力の発揮に努むるよう予め対策を樹立し訓練を実施すること。
四、家財の整理整頓
  家財家具を整理整頓し重要物件は穴倉を構築し之を埋没する等に依り焼失を避くること。
五、戦友受の発揮
  戦時罹災者及び疎開者等に対しては物心両面に亘り戦友愛の実を発揮するこ と。
六、其の他の事項
  流言非語に惑うな。
  敵機の落とした宣伝ビラ等はすぐ警察に届ける文房具玩具食物等に手を触れる  な。
  開田開畑耕作物を転換す。
  野菜供出を月何回と行い戦災及び疎開者に配給す。
  隣保で月何回決戦食を励行す。
  共同作業で横穴を構築す。
  隣保で防火責任者を定め交代で在宅す。
  待避所の分散設置地形地物の利用をする。
  衣服は機銃掃射の目標となる。白黄赤等目立つ色を避け黒紺緑等を用いる。
  筵其の他を以て牛馬の偽装をなすよう常に用意する。
  建物の壁が白黄、赤色は泥土を以て偽装する。
  燈火管制は特に注意し漏光を防ぐ為隣保交代で巡視する。
七、戸籍簿謄写の件
八、空襲対策に関する件

 
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昭和13年-隣保組織の強化②

2006年10月28日 05時53分07秒 | Weblog
-つづき-

さて、「隣保」にはどのような役割があったのでしょうか。

○隣保組織の職能と運営

・隣保には世話係を置く。
・共同で実践すること
 吉凶慶事の援助
 生活改善
 教育並びに教化
 経済更正
 自治行政の幇助
 衛生
 選挙粛正
 国民精神総動員
 納税

○組

 組は地域を基礎とする数隣保で組織し、との中間的機関とする。

・組には、組長、副組長を置く。
・組には、定期及び必要に応じて世話係会を開催する。
・組には、必要に応じて規約を定めて運営に当たること。



 は町長の統制下に町役場其の他上級団体から発せられた諸般の事項について、部、組み、隣保を通してこれを普及、徹底に努めるとともに連絡統制を図るものとする、とされている。

・隣保組織の連絡統制は区長が当たる。
・必要に応じて組長会、世話係会を開き、諸般の事項の実行を図る。
・部落常会を開き、に共通する事項について協議し、実行を図る。
・部落常会の開催事例
 月一回以上の常会の開催
 各戸一名以上、諸団体の役員の出席
 主催者は区長
 列席者は町長、学校長、各種団体長など
 町は指導者を派遣し、適宜巡回指導をする
 出席簿、協議簿、常会日誌等を備える
 行事(開会の辞、遙拝、国歌合唱、主催者挨拶、各種団体通達、協議懇談(意見 発表、閉会の辞、勅語声唱、解散)

以上のことがらを備えた隣保協同組織を昭和13年7月30日までに組織、完成させることになっています。

 今日でも地域生活に於いては、もっとも身近な集団の単位として「隣保」が生きています。また、年輩の方は「組長さん」などという呼び方も使っておられます。その地域組織が約70年前にこうした形でつくられていたということだったんですね。


  
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昭和13年-隣保組織の強化①

2006年10月26日 08時51分15秒 | Weblog
国民精神総動員の徹底のために隣保組織の強化を図る

 私達は地域生活を営むなかで、「隣保」(りんぽ)という身近な隣近所の集団による協同生活のあり方になじんでいます。
 この「隣保」について、戦前の昭和13年(1938)の社区の区長会で協議されていることを示す資料があります。この前年12年には支那事変(日中戦争)が起こっており、これが長期化の様相を見せるなか、国民精神総動員の徹底を図る目的があったと考えられます。
 「隣保」は今も地域社会生活の中で大きな役割を果たしています。当時の資料を見ながら、考えてみたいと思います。


 まず、「隣保」とは何か、ということについて、次のようにいってます。
 
○隣保組織の本旨
 「隣保は、向う三軒両隣の如き社会生活極めて密接なる関係を有する近隣の自然的結合にして、我が国民生活上自然に発達せる親睦偕和の自主的組織」であり、「時代に適順して更に其の組織を整備強化」することにより「我が国古来の美風たる隣保団結の精神を一層涵養発揚し互助相助け郷土生活を振興し自治体の健全なる発展を期す」と説いています。

○次にその組織は、おおむね次のような体系になるように示されています。

町--組-隣保(およそ5~10戸)

・向こう三軒両隣のような普段から密接な関係のある数戸で組織する。
・数隣保をもって「組」とする。
・大きなでは、組との中間組織として「部」を設けてもよい。
・第○○○組○隣保という呼び方を通例とする。

  
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国民義勇戦闘隊

2006年10月26日 05時19分44秒 | Weblog
昭和20年8月の社区常会で協議

 昭和20年8月といえば終戦である。その直前に開かれた常会での協議事項の一つに「国民義勇戦闘隊の編成」の件があった。7月26日にはポツダム宣言が発表されたが、政府はこれを黙殺している。8月6日には広島に、9日にはソ連が対日宣戦布告をして満州になだれこんだ。さらに長崎にも原爆が落とされた。御前会議においてポツダム宣言受諾の御聖断が下ったのは10日のことであった。
 その頃、社すなわち地方の末端では、常会が開かれ、戦争継続に関するさまざまなことが協議されていた。そして、「国民義勇戦闘隊の編成」は来るべき本土決戦に備えたものだったのだろうか。その要項は次の通りである。

○適格者
男子15才~60才、女子17才~40才を原則とする。但し、病弱や妊産婦など出動できない場合は除外されている。

○機構
聯合義勇戦闘隊  郡聯合(聯隊)
義勇戦闘隊    町村(大隊)
義勇戦闘戦隊   (中隊)
義勇戦闘区隊   乃至を数区に分けて(小隊)
義勇戦闘分隊   (分隊)

○幹部の選任
大隊、中隊、小隊には副体調を置く
女子隊の幹部は女子を以て充て凡て副隊長とす。

○標章

 計画はこれだけ。要するに残った男も女も武器を持って戦える者はすべて戦闘員となって決戦をする、というものである。60年前の日本、社ではこうして本土決戦への態勢がつくられつつあった。


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昭和20年8月の社区常会②

2006年10月24日 07時28分48秒 | Weblog
-続き-

○乳幼児の体力検査
 7日、11日に実施の予定のようです。「幼児国家管理」という文言がメモしてあります。
○闇取引取調べ
 郡界等で特に警備を行う。
○野荒らし
「厳戒。密告するもよし。必ず自白させること」とあります。
○無電灯家屋報告
 至急。
○供出薪
 本年社町一般薪供出 18700束
○鶉野出役賃金
 米は全部支給ずみ。
○魚介配給補給金徴集に関する件
○勝札の件
 抽籤-8月25日
 売出-7月15日より8月15日まで
 一等 10万円1本、2等1万円9本、3等千円90本、4等50円900本、5等10円1万9千本、計2万本
○国民義勇戦闘隊編成の件

以上です。

 終戦が近づいているなか、といっても当時、人々はそれを知るよしもないのですが、さまざまな協議が行われています。その中には、「闇取引」や「野荒らし」といつた物資不足のきびしさがうかがえるものがあったり、「国民義勇戦闘隊の編成」といった、本土決戦が迫っている状況を伝えるものもあります。
 これが60年前の日本の、そして社の姿だったんですね。
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昭和20年8月の社区常会-①

2006年10月24日 05時56分25秒 | Weblog
敗戦直前の社でどんなことが話し合われていたか

 昭和20年8月15日、大東亜戦争は終わりました。その8月の社区の常会ではどのようなことがらが協議されたのでしょうか。当時の地方のようすを知るうえで貴重な資料だといえます。
 会議メモをもとに主な項目をあげてみました。

八月常会

○翼賛会解散のために「徹底事項」の配布はない。
○食糧事情について
 「端境期、爆撃などのために相当の逼迫、不足である」として配給がきびしくなるなどの状況が話し合われています。さらにソ連を通じて日本海岸の港に食糧を送ってくる計画の話も出ています。しかし、9日は中立条約を破棄して満州、千島・樺太に侵攻してくるなどとは思いもしなかったのでしょう。
○松根油
 油がないので松脂を採取して使っていたのです。社町に10トンの供出割当が来ていることが話し合われています。
○旅行者外食券制度について
 食糧事情が悪くなっていたので、旅行者は役場で証明書を発行してもらい、米穀通帳を持っていって外食券を発行してもらうというしくみのようです。
○醤油
 塩水で薄めて使うようにということです。
○梅干
 高岡駐屯部隊に供出するため一戸につき4個位出すこと。
○馬鈴薯
 戦地向けに供出。
○甘藷
 13日に調べに行くので、立札を立てておくように。

 明日に続く
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占領-武器の提出

2006年10月23日 07時01分23秒 | Weblog
進駐軍の命により・・・

 昭和20年(1945)、敗戦の年の末、進駐軍(占領軍)から民間人の所持する武器を提出せよとの指令が出され、社に於いても社区区長から各組長に伝えられた。
 約60年前、敗戦そして占領という時代、私達のふるさとではどんなことがあったのだろうか。その一つの資料として、この文書を紹介しましょう。

 武器提出ノ件

進駐軍司令部ヨリノ命ニ依リ民間ニ所有スル武器ハ小刀、短刀、海軍ナイフノ類ニ至ル迄悉ク提出ス可キ事ト相成候間、右所有者ハ本日中ニ現品ヲ社警察署迄御持参相成候様御部内ニ洩レ無ク御伝達被下度御依頼申上候也

 昭和二十年十二月二十九日     社区長

各組長殿


 わずか60年前の文書ですが、候調であったのには驚きました。
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御嶽山清水寺全焼

2006年10月22日 06時01分41秒 | Weblog

 今から93年前の大正2年(1913)8月2日、御嶽山に起こった山火事のために清水寺の諸堂伽藍が全焼しました。煙は数十里離れたところからも見えたと伝えられています。

 さて、8月5日付の神戸又新日報に「損害92万円全焼せる霊場清水寺」と題した記事が掲載されています。

 記事によれば、その損害を列記すると、本堂(嘉永2年建立)、鐘楼、接待所、籠堂、大講堂(文明15年再建)、阿弥陀堂(建久元年建立)、薬師堂(永禄2年再建)、慈門院、常茶屋、護法堂、護摩堂、湯屋堂、開山堂、同廊下、同拝所、大師堂、釈迦堂、大黒堂、地蔵堂の19棟と報じられています。
 
 ところで、この山火事の原因は参詣者のタバコの火だつたと聞いています。折しも長く雨が降らず乾燥していた中でのことだったようです。

 写真は、炎上前に根本中堂です。堂を取り囲むような大木が往時の姿を伝えています。
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社の電気事業のはじまり

2006年10月21日 05時46分44秒 | Weblog
明治45年の新聞記事から

 明治45年(1912)4月4日、社の佐保座(社劇場)に於いて、東播電気株式会社の開業式が盛大に挙行されたことが報じられています。(「神戸新聞」4月6日付)
 この東播電気株式会社の開業によって、社に電灯が灯ったのです。実に94年前のことでした。佐保座には、数百人の人が招待され、姫路や社の芸妓の踊りで、祝宴は盛り上がったようです。
 東播電気株式会社は翌5日には多可郡西脇で、6日には小野で同様に開業式を開催する予定になっており、北播磨地域に電灯がいっせいに灯っていくことになりました。
 東播電気株式会社ははじめ田町筋に開業し、のちに上町の現在の関西電力社営業所のある場所に移転しています。やがて姫路水力発電、中国合同電気、関西配電、関西電力と電気事業の会社は変わっていきます。
 
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警報-鐘で危険を知らせる

2006年10月19日 05時16分16秒 | Weblog
昭和12年の「消防打鐘信号」

 火事や洪水などの危険をどのようにして地域住民に知らせるか。今はサイレンや放送などで緊急事態を伝えていますが、それ以前は鐘を打ち鳴らして知らせていました。
 旧社町役場の一画には、火の見櫓(半鐘とよんでいました)があってサイレンと鐘の両方で火事の発生を知らせてくれました。昭和30年代後半だったと思いますが、役場の南隣りにあった風呂屋が大火事になったことがありました。激しく打ち鳴らされる鐘に驚いて外に飛び出すと真っ赤な炎に包まれていました。
 
 ここに昭和12年(1937)、加東郡消防協会、社警察署が作成し、各戸に配布した「消防打鐘信号」のチラシがあります。災害の種類、火事場の遠近、鎮火などによって打ち方が決められ、人々はそれを聞いて判断する、というようになっています。

 半鐘とよばれる火の見櫓が少なくなりました。消防団員だった頃、ホースを干すために時々はしごを登りましたが、最上部に近づくと揺れるし下を見ると恐怖心がわいてきて余り好きではありませんでした。しかし、結構高くて見晴らしもよかった憶えががあります。
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昭和12年の「学芸会」

2006年10月18日 06時24分56秒 | Weblog
社尋常高等小学校の学芸会

 昭和12年(1937)3月12日、社尋常高等小学校の講堂で学芸会が開かれました。「学芸会」という名は今ではもう聞かなくなりましたね。○○学習発表会、○○フェスティバル、文化祭などの名に変わっているようです。
 ここに約70年前の社小学校の学芸会のプログラムがあります。午前9時から午後3時半までの一日がかりです。きっと講堂は参観の人であふれたんでしょうね。出し物も時代性を感じさせるものばかりです。


 第一部(午前之部)

 1 開会の辞
 2 唱歌     広瀬中佐          高三男
 3 劇      海の幸           尋四竹
 4 唱歌     荒城の月          高二男 藤本馨
 5 劇      浦島太郎          尋二梅
 6 唱歌     雪の月夜          高二女
 7 劇      頓智村           尋六男
 8 唱歌     月待草・目のない鳩さん   青女
 9 劇      お爺さんの智恵       尋五女
10 〃      桃太郎           尋一松
11 〃      浦島太郎          尋二竹
12 〃      花咲爺           尋一竹
13 連続舞踊   軍国日本          尋四五女
14 劇      月見子兎          尋二松

 第二部(午後之部)

 1 挨拶                   校長
 2 唱歌     早春賦           高一女
 3 劇      兎の餅つき         尋二松
 4 〃      弟桃次           尋三竹
 5 〃      北風日記          尋四梅
 6 〃      こぶとり          尋一梅
 7 〃      冬より春へ         尋三梅
 8 〃      チューチュー小風      尋四松
 9 〃      安宅の関          尋五男
10 連続舞踊   狐の学校
          シャックリ殿様
          南京町のひる
          熊のお散歩
          狸の酒買ひ
          おかめひよつとこ
11 劇      水師営の冬         高一男
12 閉会の辞

 
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昭和12年末、「無言の凱旋」

2006年10月17日 05時21分34秒 | Weblog
無言の凱旋

 昭和12年(1937)の末、中国戦線で戦死した社町山国出身の兵隊さんの町葬が執り行われました。その町葬の執行についての資料がありますのでみてみたいと思います。
 私達戦後世代の人間は、歴史教科書などで戦時中の国民生活について、出征兵士の見送り、統制経済下の生活、空襲の被害などを学びます。しかし、兵士の葬儀についてはほとんど学習した憶えがありません。話として、小学校の校庭で葬儀が行われたことを聞かされたことがある程度です。この資料には、遺骨の出迎え、小学校での葬式などの執行計画が詳細に書かれています。
 

1.当初、鉄道で遺骨が帰ってくる予定で、次のような計画が立てられています。

 12月2日 遺骨出迎え 社駅
       ・出迎え場の整理  社青年学校生徒20名
       ・在郷軍人会4名  遺骨儀仗
       ・各戸に弔旗

2.その後、「遺骨凱旋」の詳細が通知されています。

 12月2日 午前10時  姫路より自動車で「凱旋」
              福田橋西詰着

 ○遺骨出迎え

  ・福田橋西詰下車 徒歩で橋を渡る
           東詰めから野村、貝原村のはずれまで出迎え
  ・出迎え沿道の整列
  北側(西より)
   官衙・町会議員・区長・各団体長、一般戸主、国防婦人会員、女子青年団
員、小学校男児童
  南側(西より)
   社在郷軍人会、消防組員、青年団員、青年学校男子生徒、涌羅野義塾生徒、 社高等女学校生徒、有隣家政女学校生徒、小学校女児童

 ○山国区民出迎え
  ・山国区民各位ハ町出迎ヘ場ヘ集合サレルコトナク社三階道路四辻ヨリ東ヘ
   一列横隊ニ整列ス
  ・遺骨通過後ハ遺家迄オ送リ下サイ

   三階四辻の手前で自動車を下車、徒歩で山国区民の出迎えをうけるように
なっています。その並ぶ順番は下の通りです。
 
  北側(西より)
   山国一般戸主・山国小学生(男)
  南側(西より)
   在郷軍人会・消防組・青年団・国防婦人会・女子青年団、山国小学校(女)

 ○遺骨行進順序
   先頭から順に下のように並び、行進します。
  町長←分会長←分会旗←写真←位牌←在郷軍人儀仗者4名・遺骨←遺家族
  ←官衙・町議・区長・各種団体長←在郷軍人会

3.通夜参拝について
 
  通夜参拝の日割り
   12月2日 町会議員全部
      3日 区長全部
      4日 町内各種団体長全部

4.町葬について

 ・葬儀委員長 町長
 ・委 員   町会議員、区長、小学校長、分会長、軍友会長、消防組別組頭、        国防婦人会長、女子青年団長、助役、農会長、商工会長、
方面委員、青年団長、役場吏員、農会職員、

 ・日 程   12月10日午後1時(雨天の場合は公会堂)
        葬家開式  午前10時
        葬列出発  午前11時15分
        葬列式場着 正午
        公葬儀開式 午後1時
        閉式    午後2時40分

 ・会 場   社小学校校庭

 ・町葬式順

  一  一同着席(午後一時号砲合図)
      ラッパ(気ヲ付ケ)吹奏
     一同最敬礼
  一  挙式ノ辞
  一  黙祷(一同起立 一分間)
  一  管長回向文
  一  副導師作法
  一  導師作法(一同起立)
  一  葬儀委員長祭文(町内一般起立)
  一  参列者焼香並弔辞
  一  読経(此間焼香)
  一  弔辞
  一  遺族謝辞
  一  閉式ノ辞
       町外参列者退場
       遺骨退場
       職衆退場
       一同退場

 
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佐保神社-本宮

2006年10月16日 05時53分38秒 | Weblog
 10月15日(日)、澄み渡った秋の高い空にすじ雲が浮かぶ。午後一時、町内巡行をおえて門前に集結した屋台の宮入りが始まった。
 神輿に続いて、新町、上中、東古瀬、上組、下組の順に屋台が境内を練る。その勇壮な姿に人々は心躍らせ拍手を送る。祭りは最高潮を迎えた。
 上組の屋台は新調なった担ぎ棒のお披露目の舞台ということもあって、例年以上に威勢の良い宮入を披露した。写真はその勇姿である。
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佐保神社-宵宮

2006年10月15日 05時35分15秒 | Weblog
電飾の上組屋台

 佐保神社の宵宮。境内では芸能大会が開かれ、身動きできないほどの人出。門前には、社の上組、下組の二基の屋台が繰り出した。写真は電飾の上組太鼓屋台。
 
 今日は本宮。朝から市街地に太鼓屋台が繰り出し、巡行します。例年の上組、下組、上中、新町の四基に、今年は東古瀬の屋台も加わって五基の屋台が勢揃いの予定だ。

 
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