ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

私の参考書-『加東郡の文化財』

2015年08月31日 04時18分39秒 | Weblog
 

 今日もふるさと加東の歴史の参考書を紹介します。ふるさとの歴史は寺社の建造物や踊りなどの民俗芸能、仏像、石造物や史蹟などさまざまな文化財から学ぶことができます。そういう時に役に立つのがこの一冊、『加東郡の文化財』です。

 同書は昭和44年(1969)7月に発刊されています。編集・発行者は加東郡教育委員会です。50頁にわたって、郡内の主な文化財について、写真と解説が掲載されています。写真は大きく、解説は読み易く工夫されており、楽しみながら読むことができます。
 
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私の参考書-『観音寺と赤穂義士』

2015年08月30日 05時19分49秒 | Weblog
    

 加東市社の市街地の北、家原に「赤岸」交差点があります。これまでにもこのブログで何度も紹介してきましたが、「赤岸」は「赤穂義士」が訛ったものといわれ、交差点のすぐ近くに赤穂義士ゆかりの寺、観音寺があります。同寺には赤穂四十七義士の墓碑があります。東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺は「四十七士の墓」として有名ですが、実はこの観音寺に3つ目の墓(碑)があることは全国的にあまり知られていません。
 観音寺と赤穂義士の墓(碑)について調べるとき、参考にしているのが『観音寺と赤穂義士』です。この冊子は昭和61年(1986)、観音寺の本堂の再建、落慶を記念して発刊されたもので、郷土史家の吉田省三先生の著になるものです。
 内容は、観音寺の由来、家原、墓碑建立、赤穂事件、北播磨の義士関係の遺跡、赤穂藩浅野氏、家原浅野氏など74頁にわたり詳細に記述されています。奥付は次の通りです。


 奥付

観音寺と赤穂義士
   昭和六十一年十二月十四日発行
            -非売品-

編 集  観音寺「本堂」再建を進める会

発行者  観音寺「本堂」再建を進める会
       会 長  大 西 五 一

発行所  兵庫県加東市家原
            大悲山観音寺内

印刷所  株式会社 吉 本 宝 文 堂
        
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私の参考書-「広報やしろ縮刷版」(1955-1985)

2015年08月29日 04時58分29秒 | Weblog
  

 今日は、ふるさと加東の歴史を調べるときによく参考にしている「広報やしろ縮刷版」を紹介します。この冊子は新社町制30周年記念として刊行されたもので、昭和30年(1955)の合併(社町、福田村、米田村、上福田村、鴨川村)で誕生した新社町の30年の歴史が「広報」という形で記されています。
 新聞や広報などには、その時々の社会で起きた事件や事象、行政の記録などが掲載されており、時代・社会のようすをよく表している資料だといえます。「広報やしろ」の縮刷版には新社町建設から発展期にかけての各年代の姿がよく記録されています。自分の記憶と重ねながら振り返ることも楽しいものです。また、文化財の探究コーナーもあり、参考になります。

 構成は次のとおりです。

 □歴史が語る社町-30年のあゆみ(※年表形式・写真)
 □昭和30年6月(創刊号)~昭和60年(広報の縮刷版)
 □統計資料

 全500頁
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私の参考書-『兵庫県百年史』

2015年08月28日 05時00分50秒 | Weblog
  

 これまで郷土の歴史を調べるときに参考にしている『加東郡誌』、『新修加東郡誌』、『佐保神社誌』と『東条の道標巡覧記』を紹介してきましたが、今日は『兵庫県百年史』を紹介します。
 兵庫県が誕生してから百年の節目にあたる昭和42年(1967)に記念事業の一つとして編纂されたのがこの『百年史』です。兵庫県は明治元年(1868)に設置され、初代知事に伊藤博文が就任しています。この時の兵庫県は旧幕府領などを管轄した第一次兵庫県で、その後、明治9年(1876)に豊岡県、飾磨県、名東県(淡路)を加え、新兵庫県が成立しました。
 昭和39年(1964)に県史編集委員会が設置され、資料収集、執筆が行われたようですが、戦災で県庁が焼けたこともあり、基本史料の蒐集は苦労が多かったようです。
 1240頁の分厚いものですが、構成は次のようになっています。

序説 兵庫県の地理的基盤
第一編 明治前期 10章
第二編 明治後期 12章
第三編 大正期  12章
第四編 昭和前期 11章
第五編 昭和後期  9章
兵庫県百年史年表

奥付は次の通りです。

兵庫県百年史

 昭和四十二年七月十二日第一刷発行
 昭和四十二年九月三十日第三刷発行

   編集  兵庫県史編集委員会
   発行  兵庫県
   印刷  河北印刷株式会社
        京都市南区唐橋門脇町二八番地

  
 
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私の参考書-『新修加東郡誌』

2015年08月27日 04時10分34秒 | Weblog
  

 昨日の投稿では『加東郡誌』(大正12年刊)を紹介しましたが、今日は私の大切な参考書である『新修加東郡誌』を紹介します。
 『新修加東郡誌』は昭和49年(1974)に発行されています。『加東郡誌』編纂から約50年の歳月が経っていました。また、昭和30年前後の昭和大合併から約20年が経過し、社町、滝野町、東条町の3町の新しい加東郡になっていました。
 これを遡ること4年の昭和45年に加東郡3町と加東郡教育委員会、社ライオンズクラブが主体となって新しい加東郡誌を編纂することになりました。写真の郡誌はよく使っているので、表紙部分が破れてしまっています。

目次は次のようになっています。

序説 自然的基礎(加東郡の地誌)3節 
通史編 5章(原始時代、古代、中世、近世、近代)
各説編 4章(文化財、民族、宗教、人物)
補遺  Ⅰ~Ⅲ(資料、年表)

1430頁を超える分厚いものになっていますが、『加東郡誌』編纂以降の半世紀の歴史や社会変化が記されており、大いに参考になります。

奥付は次の通りです。

 新修 加東郡誌

  昭和四十九年九月一日 発行

    編集 加東郡誌編纂委員会
    発行 加東郡教育委員会
    印刷 田中印刷出版株式会社
        神戸市灘区岩屋中町三丁目一番四号
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私の参考書-『加東郡誌』

2015年08月26日 05時36分10秒 | Weblog


 私の郷土史研究で常に参考にしている本が『加東郡誌』です。958頁の分厚いもので、大正12年(1923)に発刊されています。編纂者は加東郡教育会。当時の加東郡は現在の加東市と小野市域にあたります。加東郡の地理、歴史、政治、産業・・・などあらゆる分野にわたり詳細な記述がなされています。郷土史を学ぶものにとってはまさにバイブル的な存在です。その構成は次の通りになっています。

第一篇「地理」6章、第二篇「町村」16章、第三篇「政治」5章、第四篇「産業」9章、第五篇「教育」2章、第六篇「兵事」3章、第七篇「衛生」3章、第八篇「風俗」14章、第九篇「神社」4章、第十篇「宗教」3章、第十一篇「名勝旧蹟」74項、第十二篇「古城址、古戦場」44項、第十三篇「古墳、碑碣」28項、第十四篇「人物」37項

 巻末の編纂経過によれば、編纂が始まったのが大正4年。加東郡教育会の事業として郡誌編纂が決議され、各小学校長らが編纂委員に選ばれています。それから調査、資料蒐集、執筆と編纂委員会が続き、大正11年3月に脱稿、大正12年に発行をみています。奥付は次の通りです。

大正十二年十月十五日印刷
                 (非売品)
大正十二年十月二十日発行

   兵庫縣加東郡役所内
編集兼発行者  加東郡教育会

   兵庫縣加古郡加古川町寺家町一一ノ一
印刷者     黒田房次

   兵庫縣加古郡加古川町寺家町一一ノ一
印刷所     黒田盛文堂
    
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五峰山の涼風をうけ下滝野で地蔵盆のおどり 

2015年08月25日 05時29分49秒 | Weblog
 24日(月)、地蔵盆のまつりが加東市下滝野地区の公民館裏のグラウンドで行われました。毎年8月24日の夜に行われるこの盆踊りは、ここ2年続きで雨のために公民館の2階の広間で開催されてきました。しかし、今晩は五峰山から吹き下ろしてくる涼しい風の吹くなか、絶好のコンディションで大いに盛り上がりました。

 この盆踊りには地区住民の皆さんが各隣保每に席を設け、中学生らが焼く焼きそばや実行委員会の生ビールなどで楽しみます。中央に設けられたやぐらの上には地元太鼓グループの水龍会のメンバーが踊りの曲に合わせて軽快に太鼓や鉦をたたきます。
 開会の7時を待たずに踊りが始まり、地元の皆さんはもちろん、市内各地から駆けつけた踊り手の皆さんによる踊りの輪ができました。加東よしよし音頭に始まり、炭坑節、きよしのズンドコ節、これから音頭などに合わせて踊りが続きました。そして、恒例の馬鹿音頭。地元ののど自慢の方々の歌に合わせて伝統の踊りが行われました。

 
 
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加古川舟運のまち新町で、吉馬でも阿弥陀堂前で盆踊り  

2015年08月23日 18時30分21秒 | Weblog
        

             

 23日(日)、加東市新町、吉馬の2地区で地蔵盆の盆踊りが行われました。澄んだ空気が広がり、空には半月が光っていました。涼風が吹く心地良い夜の広場には、やぐらを囲む踊りの輪ができ、加東よしよし音頭や炭坑節、河内音頭など太鼓や鉦の音に合わせて多くの人が踊りを楽しみました。

 新町は江戸時代のはじめ、約400年余前に加古川舟運の川港の町としてつくられた町です。播磨内陸の米が加古川の港に集められ高瀬舟で河口の高砂まで運ばれたのです。新町には今も大正時代のはじめまで使われた舟着場の跡が残っています。踊り会場は集落の中心にある交流会館前の広場。そこから少し北に歩いたところに旧加茂村の役場の建物があり、その裏に地蔵堂があります。地蔵堂の境内には、わが子の健やかな成長を祈って名前の入った多くの提灯が下げられていました。、

 吉馬の踊りは阿弥陀堂前の小さな広場が会場でした。お堂は加東四国八十八ヶ所の第七番霊場であり、吉馬開発の祖、高瀬吉兵衛翁の記念碑があります。境内には北向き地蔵が祀られており、毎月21日には地区の人がお参りし、9月の彼岸には念仏講の高齢者と子供たちによる大数珠繰りが行われています。地域の歴史、信仰、心の拠り所となっている阿弥陀堂の前で三世代がそろい、今年も賑やかに盆踊りが行われました。
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地蔵堂で供養、横谷の盆踊り

2015年08月23日 05時23分23秒 | Weblog
 

 22日(土)、加東市横谷地区の盆踊りが行われました。日が沈む頃には地区の地蔵堂、グラウンドに役員さんや子供の姿が見られ、澄んだ空気のなか、涼しい風が吹きわたる心地良い夜になりました。
 横谷の地蔵盆の供養は毎年24日に行われていたのですが、現在ではその前の土曜日に行うようになったということです。午後7時30分、地蔵堂に地区の皆さんが集まり、般若心経をあげます。そこには先祖供養と横谷の繁栄を祈願する大切な伝統行事を守り伝えている横谷の皆さんの姿がありました。
 8時から下のグラウンドでやぐらを囲んでの盆踊りが始まりました。太鼓は地元東条を拠点に活動する夢工房の2人。先週の黒谷若宮八幡宮の盆踊りでも太鼓をたたいて盛り上げておられました。グラウンドには消防団員がたこ焼きやボールすくい、婦人会がアイスクリームなどの店を出し賑わいを盛り上げました。
 まだグラウンドがなかった頃は地蔵堂前の狭い広場で踊りをしていたそうで、多くの人出で混み合ったそうです。また、踊りを盛り上げようとかつての消防団員らが中心となってこうした夜店も出すようになった、とのことでした。そうした地区住民のまつりを大切にしたふるさとのにぎわいづくりの歴史があったことを知りました。その横谷地区も人口減少、少子高齢化が進み、今では小学生が5人、保育園児はいないという状況に「なっています。
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私の参考書-『佐保神社誌』

2015年08月22日 05時24分12秒 | Weblog
 

 郷土の歴史を繙こうとするとき、『佐保神社誌』をよく参考にしてきました。大正12年(1923)に佐保神社社司の神崎氏によって編纂されたものですが、地図や写真、神社の由緒来歴、宝物、建造物、氏子、末社など佐保神社に関することが17章232頁にわたり詳しく記されており、大いに参考になります。
 その奥付を紹介します。

 奥付

大正十二年十月五日印刷
大正十二年十月十日発行               《非売品》

     兵庫縣加東郡社町社弐百壱拾弐番屋敷
 編纂兼
                神 崎 壽 景
 発行者

     兵庫縣加東郡社町社六百五拾壱番地
 印刷者            梶 原 伊 太 郎    
 
     兵庫縣加東郡社町社六百五拾壱番地
 印刷所            東播印刷株式会社

 ---------------------------
     兵庫縣加東郡社町社七百七拾七番地
 発行所            縣社佐保神社社務所
 
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なんばんぎせる-事務所に季節感

2015年08月21日 05時15分41秒 | Weblog
 

 私の事務所のテーブルには、四季折々の植物、盆栽が置かれ、来所の皆さんを楽しませてくれます。実は後援会長さんが届けて下さるのです。
 今、テーブルで花を咲かせているのは「なんばんぎせる」です。調べてみると、南蛮人のパイプの形に似ていることからその名が付いたそうです。また、万葉集には「思草(おもいぐさ)」という名で出ているとのことでした。門外漢の私にはよく分かりませんでしたが、来所される方の中には詳しい方も居られ、話題にのぼります。
 夏から秋にかけて、すすきなどに寄生して茎を伸ばし、花を咲かせるそうです。事務所に季節感を漂わせてくれるこの「なんばんぎせる」を紹介します。
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私の参考書-『東条の道標巡覧記』

2015年08月20日 04時49分03秒 | Weblog
 

 道標に関心をもち、この歴史ブログでもよく紹介してきました。中学の社会科教師をしていた時、郷土学習で地元の郷土史家であり私の中学時代の恩師でもある先生をお招きし、社町内の道標についての講話をしていただいたことがあります。また、やしろ歴史民俗研究会でも東条地区や社町内の道標についてのレポート発表を聞かせていただいたことなどがきっかけで、市内を回っている時には道ばたの石造物に注意を払うようになりました。
 車を止め、近寄ってよく観察し、写真を撮ったり、手帳に刻まれた文字をメモします。そして、帰宅してからもう一度調べ直します。そんな時、いつも手元にあって参考にさせてもらっているのが、『東条の道標巡覧記』です。「道標に街道のロマンをたずねる」「道標かいわいの史蹟・伝承も併記」と表紙に書かれています。
 この冊子は「東条の歴史を掘り起こそう会」(代表飯尾衛、邦近従宏)によって、平成20年2月11日に発刊されたものです。A4判205頁の分厚い冊子で、加東市東条地区の道標などが地区每に網羅されています。道標の他、史蹟や伝統行事なども古文書などによる詳しい解説が掲載されています。
 
 
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山国伝統の初盆供養盆踊り-観音堂前で

2015年08月19日 05時27分26秒 | Weblog


 18日(火)、加東市山国の観音堂前の広場で盆踊り、花火大会が行われました。

 山国地区では、毎年8月18日に初盆供養の盆踊りが行われてきましたが、年々盛大に開催されるようになり、今年も地区住民の皆さんをはじめ、近隣の地域から踊りと空高く上がる花火を楽しもうと多くの人が来られました。会場の観音堂前広場には涼しい風が吹き、櫓を囲んで幾重にも踊りの輪ができました。
 企画進行役の地区役員さんはじめ、フライドポテトを揚げる老人会、おでん接待の女性会、太鼓をたたく子ども会、警備の消防団など地区の各団体で構成される実行委員会の皆さんが総出で運営され、まさに住民手作りの盆踊り、ふるさとの夏まつりとなっています。

 加東市のほぼ中央に位置する山国地区は、標高100メートル余りの見晴らしのよい高台になっており、そこで打ち上げられる花火は遠くからもよく見えるとあって楽しみにしている人が増えています。9時前に会場の明かりが消され、観音堂の上空には大輪の花火が咲きました。間近かに上がる花火は迫力満点で、歓声があがりました。
 今年も「山国ふれあい音頭」で踊りが始まりました。山国地区の自然や歴史、産業、そして人々の願いが表現されています。毎年紹介していますが、今回も「山国ふれあい音頭」の歌詞を紹介します。

山国ふれあい音頭
  作詞 石井貴代子  作曲 岸本眞知子  歌手 友原幹雄・宮野浩子

ア、ソレ

一、水の恵みは 王子ケ池に
  昇る朝日を 水面にうつし
  山田錦の穂はそだつ
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

二、信州諏訪の 蔵元と
  まごころこめて さなえうえ
  実りゆたかな 山国の
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

三、無病息災 願いをこめて
  観音さんに 手を合わせ
  老いもわかきも 輪になれば
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ

四、緑ゆたかな 権現さんに
  今年も豊作 願いつつ
  力あわせて のぼりたて
 ア、ヨイショ
  ふれあい音頭で よい よい よいよ
 ア、ソレ
  山国よいとこ よい よい よいよ
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日露戦役記念塔-佐保神社境内

2015年08月18日 09時44分27秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の広い境内の中に一本の欅の大樹が枝を伸ばしています。その太い幹の根元、木陰に日露戦役記念塔が立っています。台座の上に円柱形の石塔が立てられ、南向きの正面には「日露戦役記念」と刻まれています。西側には「玉木愛石 敬書」と揮毫の人名が刻まれていました。調べてみると、玉木愛石は播磨の生まれで、明治から大正時代にかけて活躍した書道家だということがわかりました。

 平成18年(2006)6月にも佐保神社の紹介記事の中でこの記念塔を取り上げましたが、この記念塔を寄附したのが「大阪堂島有志」であり、石塔の下部にその名が刻まれています。これは、加東米穀取引所のあった社の町と大阪の米取引で知られる堂島との結び付きを示しているものです。

 石塔の東側には「大正癸丑年六月建立」と刻まれています。大正時代の癸丑の年は大正2年(1913)ですから、今から102年前ということになります。
 石塔の北側(裏面)には「戦利品奉納之記」が刻まれていますが、早朝、曇りに加えて刻まれた文字が浅く、読み取りにくくなっています。記の後に、明治四十年三月 陸軍大臣 寺内正毅 と刻まれていました。寺内正毅は日露戦争当時、陸軍大臣として活躍し、その後、総理大臣や朝鮮総督にもなっています。

 8月15日の終戦記念日の朝の佐保神社の境内は静寂そのものでした。ふと、この社前で多くの郷土兵が入営入団、凱旋の奉告を行っていたことが頭に浮かびました。といっても古い地区の文書などで知っているだけですが。

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若宮八幡神社の伝統の柱祭り-東条黒谷の若宮八幡神社

2015年08月17日 05時22分35秒 | Weblog


 16日(日)の夜、加東市の旧東条町の黒谷地区の若宮八幡神社の境内で恒例の夏祭りが開かれました。 8時過ぎに会場に着くと、すでに境内には、浴衣姿の多くの人で賑わっていました。この祭りには、黒谷地区の皆さんはもちろん、他地区からの踊り手さんや今年で13年目となる交流で大阪(今は東京に移住)の若者ら家族も参加して、盆踊りやビンゴゲームなどの余興、消防団や地区役員さんらが焼き鳥やたこ焼きを焼き、かき氷の夜店を開いて大いに盛り上がります。
 
 9時頃、突然激しい雨が降りはじめ、踊りが中断されました。役員さんらが協議の結果、10時から行われる予定だった「柱祭り」の神事が繰り上げて行われることになりました。「柱祭り」とは、この黒谷地区で、8月16日に行われ、「ヤマ」とよばれる松の木を軸にしてつくられた大きな木の柱を燃やす伝統行事のことです。夏祭りはその柱祭りの前に行われているものです。

まだ雨が降る中、神主さんと黒谷地区の役員さんらが若宮八幡宮の本殿で神事を行い、松明に火がつけられました。その火を先頭に神主さん、役員さんが傘をさしながら八幡神社を少し東に下ったところにある広場につくられた「ヤマ」まで歩いて運びました。去年までこの場所には民家があり、その前の庭に「ヤマ」がつくられていたのですが、今年は家がなくなり、遠くからでも見えるようになっていました。

 「ヤマ」は8月7日に当番の組(黒谷地区には上、下の2組がある)の人々が伐り出して、16日まで乾燥させておいたものを組んてつくったものです。高さは家の屋根ほどあり、山に見立てたものだと言われています。軸となる松の木のてっぺんには御幣がつけられています。雨が降っても風が吹いても7日に伐りだし、16日に組むということが決まっているということです。近頃は適当な松が少なくなり木を選ぶのに苦労しているということでした。今年の「ヤマ」は軸木の根元が高いようにも思いました。

 役員さんの手によって「ヤマ」の軸木の下から松明の火が点火されました。雨で濡れているのか、なかなか火が付きません。この頃になると雨が止みました。よく乾いていれば、炎は一気に「ヤマ」を立ちのぼり、夜空に火の粉を舞い上げます。見守る役員、住民の祈るような気持ちが通じたのか、やがて火が付き、炎が上がりはじめました。火を見上げながら、役員さんらの安堵した会話が聞こえてきました。今年は雨のおかげでじっくりと長い時間「ヤマ」が燃え上がるようすを見ることができました。また、初めて少し離れた神社の鳥居あたりから「ヤマ」が燃える景色を見ることもできました。

 「柱祭り」は、今年2年前の3月に加東市教育委員会によって市の無形民俗文化財に指定されました。この珍しい祭りについては、これまでにもこの歴史ブログで紹介してきましたが、地元の方から教えていただいたことを今年も再掲します。

 この「柱まつり」について、地元の方からいろいろ教えていただきました。全国に黒谷という名の村が四ヶ所ほどあり、このような火まつりをしているということです。京都の大文字の送り火に関わりのある地域に黒谷というところがあるらしく、東条の黒谷も鴨川の清水寺に近く、西門(さいもん)という字名があるように清水寺に関係も深く、16日の火まつりという共通点がある、といった話でした。この「柱まつり」の歴史的な由緒などはよく分からないということでしたが、お盆の精霊送りの行事の一つだろうということです。また、「柱松」とよばれる行事が各地にあるらしく、お盆の精霊送り、豊作祈願、疫病退散など人々の願いが込められた伝統行事であることに間違いがないでしょう。「小さい頃からこのヤマの火を見て育ってきたんや」というお年寄りの言葉にあるように地域の伝統行事を大切に継承していこうという熱い思いが伝わってきました。




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