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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

正覚坊こども園のじぞう祭り

2016年07月31日 05時27分39秒 | Weblog
 

 30日(土)、午後6時頃、五峰山の方角の空には大きな積乱雲が立ち、沈まんとする夕日の赤みを帯びた光がその雲を照らしていました。
 昼間の猛暑が少しやわらぎ、田圃の稲の緑がその濃さを増す、真夏の夕暮れの何とも懐かしい景色を眺めながら加東市上田の正覚坊こども園へ車を走らせました。

 園には、浴衣姿の親子や家族が集い、じぞう祭りの行事が行われました。片山園長先生が子供たちにお祭りの意味をやさしく語りかけられました。お地蔵さんはお釈迦様のお弟子さんだったことや、いつも子供を見守って下さっていることに感謝し、みんなでお礼をささげ、楽しく過ごす祭りですよ、と。
 園児の代表が、お地蔵さまに灯を献げ、お花を献げ、お水を献げる儀式を行い、みんなでお祈りの言葉を献げて、歌や踊りを披露しました。
 じぞう祭の度に思うことは、幼い頃にこのような宗教的情操を育む機会があるということは本当によいことだと思います。お地蔵さまへの感謝の気持ちは生涯忘れることなくその祈りの言葉や所作とともに生き続けることでしょう。そして、その姿を見つめる親やおじいちゃんおばあちゃんの表情にも何ともいえない笑顔がありました。
 会場には園児がつくった飾りが地蔵祭の提灯とともに飾られていました。お寺の屋根のはるか上には夕日に照らされる入道雲が立っていました。
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涼-緑のカーテンができました

2016年07月30日 05時09分45秒 | Weblog
 

 真夏の強い日射しが照りつける今日この頃ですが、今年もゴーヤの緑のカーテンができました。部屋の中からは、すだれとゴーヤの緑の葉でやわらげられた光が涼しさを感じさせてくれます。
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必死にかきついて-クマゼミの抜け殻

2016年07月29日 05時48分02秒 | Weblog
  

 今年の夏も、朝の6時頃になるとクマゼミが一斉に鳴き始めます。
 毎年次々と地中からはい出して羽化していた玄関横の庭に変化がみえます。今年は少ないのです。門柱や生垣の枝、家の壁や軒によじ登って羽化し、その抜け殻がそこらじゅうにくっついているのが夏の景色だったのですが、今年の夏は少ないのです。ただ、裏の庭にはいつもと同じようにように出ています。
 数年前に何か気象の原因で少なかったのか、今年の天気がおかしいのか、よく分かりません。それでも頑張って羽化したクマゼミに声をかけたくなります。
 そのがんばりのあとを大事にそのままとっておいて、自分の励みとします。
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加東市の文化財特別展

2016年07月25日 05時01分41秒 | Weblog
 

 24日(日)、加東市上三草のやしろ国際学習塾で開催されている「市制10周年記加東市の文化財特別展」に行ってきました。

 1階の展示室には、市内の国宝、重文、県、市指定の文化財の実物や写真、解説が展示されていました。そう広くないスペースですが、中身の濃い展示に圧倒されました。
 加東市厚利の山王神社所蔵の木造獅子・狛犬や中古瀬に伝わる県下でも3番目に古い鉦鼓(かね)なども展示されています。

 この特別展は、8月7日までやしろ国際学習塾で、8月13日から28日までは東条公民館2階で、9月3日から10月2日までは加古川流域滝野歴史民俗資料館で開催されます。会場では30頁の解説冊子が配布されています。ぜひ、ご覧下さい。
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昭和17年-大政翼賛選挙の回覧

2016年07月24日 05時02分16秒 | Weblog
 昭和17年(1942)当時の社町社区(現加東市社)の配給関係文書綴には、さまざまな物資の配給に関する通知書類が綴じられています。それらをこのブログで紹介してきていますが、8月分の精肉購入券送付の通知は、兵庫県の出した翼賛選挙回覧ビラの裏紙が使用されていました。紙も不足していたのです。

 上欄には、国旗をはさんで、大政翼賛、臣道実践の文字が、そして、左右には、翼賛選挙に輝く郷土、後日町村に於て危険の理由を調査する場合がありますから決して無意味な危険はしないで下さい、の文が印刷されています。
 ビラの内容は次の通りです。

 隣保有権者に告ぐ

愈々町村会議員の総選挙が迫りました。有権者各位は其の使命を自覚せられ、何を差し措いても必ず投票して銃後国民の重大責務を果して下さい。

 投票は五月三十日です。

 ※回覧の確認印の欄

此の回覧は必ず御主人が呼んで右に捺印して下さい。
隣保代表者は全部回覧したら直ちに庁内会長に送付して下さい。
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懐かしの旧社中学校の木造校舎と運動場

2016年07月23日 05時51分11秒 | Weblog
        

         

          

 片付け中に出てきた写真の中に、加東郡社町立社中学校(現加東市立社中学校)の懐かしい木造校舎の写真が出てきました。
 私は昭和41年入学44年卒です。現在、社中学校跡地には兵庫教育大学附属幼稚園、小学校、そして官舎などが建っています。そのことを示す標柱が県道に面した店の一角に建てられています。
 当時は、加東郡社町内に社中学校をはじめ、福田、三草、米田の4中学校があり、郡内の滝野、東条中と合わせて6中学校がありました。野球部の練習試合などで、自転車で各中学校へ行っていました。
 さて、写真はその校舎と運動場です。この写真は昭和40年代末か、50年代はじめの頃のものだと思います。運動場はただただ広かったという印象が強く、ボールを後逸すると、悲しくなるほど遠くまで拾いにいかなければなりませんでした。
 校舎は木造平屋建てで、南向きにテラスがありました。学年4クラス。1年生の時、カーテンを少しずつ縦に引き裂いてのれんのようにして遊び、運動場での朝会で教頭先生からひどく叱られたことがありましたが、懐かしい思い出です。
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ボーイスカウト加東第2団の機関紙『いやさか』-昭和42年

2016年07月22日 04時17分37秒 | Weblog
 片付けをしていると、いろいろ懐かしいものが出てくるものです。
段ボール箱の底辺りから、4つ折りになったB4判の紙が出てきました。開いてみると、ボーイスカウトの手書きの機関紙、新聞でした。
 題名は『いやさか』。1967.12 日本ボーイスカウト兵庫連盟加東2団 発行、発行者は平川、となっていました。
 昭和42年、加東2団は社(現加東市社)の隊です。当時、私は社中学校の2年生。ボーイスカウトに入団したのが小学5年生の時ですから、ボーイスカウトの隊員として活動していた頃です。
 新聞の見出しは「カブ隊発足-年少隊発隊式盛大におこなわれるー」です。昭和42年11月23日、社小学校講堂で盛大な発隊式が行われ、その後、市街を鼓隊を先頭にパレードしています。
 指導者紹介の中には、隊長 酒井隆昌、副長 森本正勝、デンマザー 藤原静子といったよくお世話になった方々の名前もあります。
 お知らせ欄には、12月16,17日と団初の冬期宿営訓練のことが書いてありました。場所は嬉野公民研修所となっています。持ち物には、米4合、スカウトブック、歌集、毛糸のセーターなどが書いてありました。
 当時、ボーイスカウトの活動は新鮮でした。野営技術や歌などもたくさん覚えました。今、ライオンズクラブやボーイスカウト振興議員連盟など組織を通してボーイスカウト活動を応援していますが、青少年期にスカウト活動で学んだことは生涯の生きる力となっています。
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社の半鐘-ホース干しの風景

2016年07月19日 05時15分50秒 | Weblog
 自宅で古い資料を整理していると、懐かしい写真も出てきました。その一枚が旧社町役場の一角にあった古い半鐘で消防団員がホース干しをしている風景でした。

 加東市社の市街地に旧社町役場がありました。その南西の一角に半鐘があり、火事の度にサイレンが鳴り響いたことを憶えています。また、天辺の鐘が激しく打ち鳴らされた風呂屋の火事のことも音とともによみがえってきます。

 役場は嬉野に新築移転したあとも半鐘はありました。昭和50年代半ば、消防団員だった頃には、ホースを干すためにこの半鐘に登ることもありました。市街の家並みがよく見渡せました。しかし、微妙な揺れに怖さも感じました。そうしたホース干しの写真です。

 今は半鐘も撤去され、ホース干しも機械化され、高いところに人が登ることもありません。懐かしい社の半鐘のホース干しの風景でした。
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昭和52年-赤穂義士275周年中央義士会の案内はがき

2016年07月18日 06時00分44秒 | Weblog
 

 17日(日)、自宅で片付けをしていると、一枚のはがきが出てきました。
 昭和52年(1977)12月11日豊島の消印があり、当時、東京都板橋区弥生町の醍醐荘に下宿していた私宛てのものでした。差出人は財団法人中央義士会と印刷されていますが、裏書きを読むと、相原良一先生(憲法学者)からのものでした。
 東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺は赤穂義士の菩提寺で義士の墓があることで知られていますが、私の郷里、播州加東郡社町の観音寺にも四十七義士の墓があるということで、早稲田大学の先輩を通じて、義士追悼の集いに連れていってもらったことがあります。
 このはがきがその時のものだったかはよく覚えていませんが、相原良一先生には憲法学会への入会にお世話になりました。私は、当時、早稲田大学法学部に在学中(5年目)で、仲間と帝国憲法の勉強会を続けていました。


 はがき表の下段には、次の文が印刷されています。

 本年は赤穂義士の快挙二百七十五年に当たります。
 十二月十四日義士追悼の集いを泉岳寺で開催いたします。
 生憎く土・日曜日ではありませんが何卒皆々様お揃いでご参集の程心から御待ち申し上げます。
                      役員一同


 裏には「義士追悼の集い」の次第が印刷されています。

 赤穂義士快挙
 二百七十五周年  義士追悼の集い

 日時 昭和五十二年十二月十四日(水)午後二時半開場
 会場 港区高輪 泉 岳 寺 本 堂

 第一部 法 要
          司会 中央義士会理事 酒 井 重 記
一、読経・焼香・墓参(代表)
          導師 泉岳寺住職   小 坂 機 融
一、詩吟奉歌    中朝吟道会々長    西 田 南 岳

 第二部 講 演
          司会 中央義士会理事 酒 井 重 記
一、挨拶        中央義士会理事長 亀 岡 幸 知
一、〃          中央義士会理事 豊 田 悌 助
一、講演 大石一族の興亡
           中央義士会常任理事 佐佐木 杜太郎
一、〃  世界各国の憲法と日本国憲法
          東京水産大学名誉教授
            大東文化大学教授 相 原 良 一
一、報告 判明せる義士後裔について
           中央義士会常任理事 斉 藤   茂

 第三部 清 興

一、浪曲 不破の赤心           東 家 菊 燕

会費 一、五〇〇円(お弁当、清酒)

   主催 財団法人 中央義士会
      万松山  泉 岳 寺


 

                     
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平池まつり-躍動

2016年07月17日 05時32分14秒 | Weblog


 

 16日(土)、加東市東古瀬にある平池公園で平池夏のフェスティバルが行われました。34回を数え、福田地域づくり協議会を中心として住民手作りの夏まつりとなっています。
 地域の園児の歌や合奏、コーラスグループの歌、兵庫教育大学の留学生の歌と太極拳、銭太鼓グループ、兵庫教育大学のよさこいグループ鬼灯の踊りなど、ステージでの演し物、広場では総踊り、公園内の夜店、夜空には花火の大輪が開き、心躍る夏の夜になりました。
 躍動の場面を写真で紹介します。
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昭和16年-家庭用小麦粉配給通知

2016年07月16日 04時36分40秒 | Weblog
 今日は、昭和16年(1941)の4月に社町長から各区長に出された家庭用小麦の配給に関する通知を紹介します。この8ヶ月後の12月8日には真珠湾攻撃が行われ、大東亜戦争が開戦します。
 この通知のあとには、4月30日に各組長に配給された購入券の一覧表が綴じられています。私の住まいする中田町は当時、第八組で、組長は松原信次さん。17枚が配給されています。当時八組は34戸でした。戸数の半分です。そこで、通知では、これを全戸にいきわたらせるために、1口券を2分して工夫するよう指示しています。


 昭和十六年四月十二日

               社 町 長

各区長殿

   家庭用小麦粉配給ニ関スル件

首題ノ件ニ関シ縣経済部長並警察部長ヨリ下記ノ通リ通牒有之候就テハ購入券着後ハ萬遺憾ナキ様配給相成度候
各地小麦粉商組合員をシテ左記標準ニ據リ家庭向小麦粉ヲ配給セシムル事ト相成候ニ付各町内会(及隣保)ノ協力方ニ関シ指示相成様致度此段得貴候也

   記

一、一口 一〇〇匁宛世帯数ノ半数

備考 各地小麦粉商組合ニ於テ購入券ヲ発行スル趣ナルニ於テハ購入券ハ部落会長ニ一括交付シ家庭ニ対シ一口券ノ配布ハ部落会長ヨリ隣保ヲ通シ適当ノ措置ヲ依頼スル趣ニ付御諒知相成度

参考 
一口、一〇〇匁券ハ世帯数ノ半数ヲ交附セラルルニ付キ之ヲ二分シ一口 五〇匁券ニシテ全戸ニ毎月配給セラルヲ可トスル様思考仕リ候其ノ場合ハ販売店ト充分交渉相成度候
 
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昭和17年-中入綿の配給、乳児や高齢者優先

2016年07月15日 06時07分08秒 | Weblog
 昭和17年(1942)、さまざまな物資が不足し配給が行われていましたが、当時の関係書類を綴じた社町社区(現加東市社)の文書綴の中に、丹前などの中に入れる綿の配給に関する通知がありました。
 数量が少なく、乳児や高齢者を優先した配給とするよう念押しがしてあります。



 昭和十七年九月二十五日
               社 町 長  合 田 常 蔵

各区長 殿

 中入綿配給割当購入券送附ノ件

今回加東郡繊維製品小売商業組合ニ中入綿入荷仕リ候モ非常ニ数量少ク縣ノ指示ニ依レバ満一才未満及六十才以上ノ老令者ニ先取権ヲ与ヘ是非共必要トスルモノニ交付スルモ一戸ニ対シ百匁以上配給スルコトヲ得ズトアルニ付キ貴部洛取リマトメ購入ノ上右ノ旨充分考慮ノ上配給セシメラレ度購入店ハ指定店ニ於テ購入セシメラレ度

    記

貴割当量    九貫六百 匁

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昭和18年-海苔、北海いか、かなぎちりめんの配給

2016年07月14日 10時14分49秒 | Weblog
 昭和15年12月から同18年3月までの社町社区事務所の「購入券配給書類綴」の中に、「海苔、北海いか、かなぎちりめんの配給」に関する文書が綴じられています。
 こうした海産物もそれぞれ人口割り、戸数割で配給されていたんですね。今の豊かな食糧事情からは想像もつきませんが、わずか70年余り前のことなんですね。
 


 
 昭和十八年三月二十九日

                社 町 長  合 田 常 蔵

各部落会長殿

 海苔並北海いか並かなぎちりめん配給ノ件

今回加東地方事務所ヨリ海苔一万三千百五十枚北海いか五十貫かなぎちりめん八十貫配給割当有之候就ハ隣保配給致ス可ク候条指定期日場所ヨリ一纏メ購入ノ上左記配給基本ニ依り配給相成度候

割当基本
(1)海苔、一人当リ二枚ノ割
(2)北海いか、一戸当リ三十七匁
(3)かなぎちりめん一戸当リ六十匁
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昭和18年-家庭用食用油の配給

2016年07月13日 05時45分54秒 | Weblog
 今日は、昭和18年(1943)の夏、家庭用の食用油の配給に関する通知を紹介します。この通知は、社町社区(現在の加東市社)の昭和18~19年の配給に関する通知文書を綴じた「購入券配給書類綴」に綴じられていたものです。
 当時、長引く戦争の下、物資不足が続き、配給制度が行われていました。この歴史ブログではその実例を数多く紹介してきましたが、今日は食用油の配給を紹介します。農家には食糧増産を奨励するために特別に配当されていたことも分かります。


 昭和十八年八月二十二日
                   社 町 役 場

社 区長 殿

  家庭用食用油及食糧増産用奨励食用油配当ノ件

標記ノ件 左記ノ通リ割当タルニ付通告配当相成度

   記

一、一般家庭用食用油

 1.割当量 三人券 五一九枚  一五五七分
       一人券 三〇一枚   三〇一分

 2.基礎  人口割       一八五八

二、農家用特配食用油(大豆油)

 1.割当量(一枚券)  七斗六合

 2.単価  一合 十六銭

 3.期日  八月二十八日限

 4.基礎  農家戸数
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空の大きな大きなペケ

2016年07月12日 05時26分15秒 | Weblog
 7日、七夕の夕方。まだ明るい空に大きなペケ(ばってん)が描かれていました。

 もちろん飛行機の航跡ですが、あまりに見事なペケだったので、思わずニタリとしながら写真に収めました。
 教師時代には「○は大きく、×は小さく」と心得てテストの採点をしていましたが、こんなに大きなペケだったら、マルじゃなくてもかえって爽快な気分になるだろうな、などと思いながらしばらく見上げていました。
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