昨年の6月27日(水)にこのブログで紹介した、加東市窪田地区の竹藪の中に道標の続報です。窪田地区内の旧道の分かれ道の竹藪の中にあった道標の根元をさらに掘り下げてみた、という報せがあったのは昨年の11月の頃だったと思います。その後、その時の写真をいただきました。
最初に見たときには、地上に出ている部分の字しか読めませんでしたが、掘利下げられた写真を見ると、相当深くまで埋まっていたことがわかります。正面には「右 をの□□・・ たかさご□□・・・」しか読めなかったのですが、埋まっていた部分には、「きたざいけ」「あかし」の文字がきざまれていました。右側面の「すぐ 志んま□□・・・」の下に「たか□□」と刻まれていました。
この道標は、加古川下流の小野、高砂方面と社、大阪方面への分かれ道だったということが分かります。昔のことをご存知の地区の方によれば、この道は旧道で、堤防ができる前は北側を流れる千鳥側の対岸の穂積地区に通じる板橋があり、さらに北野、新町へと通じていたということでした。また、幕末に起こった加古川筋一揆もこの道を下ったのではないか、とのことでした。建立年はわかりませんが、「当村」の文字がきざまれていることから、建立者は窪田地区の人ではないかと思われます。この写真は掘り出した友人からいただいたものですが、貴重な歴史遺産を大切にし、次の世代にしっかり伝えていきたいと思います。
最初に見たときには、地上に出ている部分の字しか読めませんでしたが、掘利下げられた写真を見ると、相当深くまで埋まっていたことがわかります。正面には「右 をの□□・・ たかさご□□・・・」しか読めなかったのですが、埋まっていた部分には、「きたざいけ」「あかし」の文字がきざまれていました。右側面の「すぐ 志んま□□・・・」の下に「たか□□」と刻まれていました。
この道標は、加古川下流の小野、高砂方面と社、大阪方面への分かれ道だったということが分かります。昔のことをご存知の地区の方によれば、この道は旧道で、堤防ができる前は北側を流れる千鳥側の対岸の穂積地区に通じる板橋があり、さらに北野、新町へと通じていたということでした。また、幕末に起こった加古川筋一揆もこの道を下ったのではないか、とのことでした。建立年はわかりませんが、「当村」の文字がきざまれていることから、建立者は窪田地区の人ではないかと思われます。この写真は掘り出した友人からいただいたものですが、貴重な歴史遺産を大切にし、次の世代にしっかり伝えていきたいと思います。